32.恋黒子(こいくろこ)
どうしたことだー……
―あれ、身体が、身体がうごかない。
清掃員の腕が、不意に動いて、紀彦の肩先に手を伸ばしてきた。
手が、ゆっくりと、彼の肩に近づく。清掃員が、口の端で笑いながら
「津田さん、肩に、なにかついてますよ……」
と、いった。
紀彦は、清掃員に完全に魅入られた。
―これは、『たまとり』のこうげきー
と、すらも考えなれない。
紀彦は自分の目を、清掃員の目から、離すことができなくなった。
もう少しで、彼女の手が、彼の肩に触れようとした瞬間ー。
清掃員の手はあらぬ方向へ、びよ~んと、跳ね上がった。
―と、もう一方の手も、ピーンと真上に伸びた。
清掃員の顔が、驚きでひん曲がった。その顔のままで、
彼女は、くるくると回転をはじめた。とたんー
紀彦の、身体の拘束が解けた。彼は、全部の糸が一気に切られてた操り人形のように、タイルにへたり込んだ。
「な、なに? ど、どうしたの?」
思考力がもどってきた。
―と、とにかく逃げなければー
紀彦は、くるくる回る清掃員をみながらー。手をついて尻を擦りながら、後ずさりした。清掃員の回転は速くなり、身体の輪郭だけをのこして、黒い靄状になりー
そうなって、回転は止まった。
「隠形がー、この私の隠形がやぶられた?」
人の形をした黒い靄は、女性の低い声でうなった。
紀彦は、何とか出口にたどりついた。
「あわ、あわ、あわわわわー」
彼は、震える手で、引き戸を開けようとするが、ロックされていて動かない。
「無駄よ。津田さん」
人型の黒い靄が近づいてきた。紀彦は、目を閉じて、手を合せる。
「な、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。般若波羅蜜多―」
「バキ、バキ、バキ、バキー」
念仏をとなえる紀彦の目の前で、引き戸が砕けて、通路側へ吹き飛んだ。
同時に、カナウがトイレに飛び込んでくる。彼女の膝頭が、紀彦の横面に炸裂ー。 彼は、斜めに倒れて、床タイルに側頭部をしたたかにぶつけた。
カナウが、叫ぶ。
「間に合ったー。あら、ごめんなさい」
黒い靄が、転倒した彦向かって、ハチの大群のように殺到する。
カナウは、うでを手前にビュツと、薙ぎはらい。黒い群れにむかって、裂ぱくの気合をとばした。カナウの「喝」をあび、黒い靄は連携を崩して飛散し、トイレの天井いっぱいに広がった。
カナウは素早く、紀彦の胸倉をつかむと、彼を通路へ向けて放り投げた。紀彦は身体ごと、壁にあたって、うげーっと、うめいた。
「ご、ごめんなさーい。紀彦ー」
カナウは、雨雲のように垂れこめた黒い靄をにらみながら、紀彦に声をかける。
そのときー
(そいつは、こいくろこだ!し、し……)
叫び声が、彼女の頭の中にひびいた。
カナウは、その『たまとり』の対処方法を思い起こした。
「こいつー、たしか、こうすれば…?」
彼女は、頬をすぼめて、大きく息を吸い込む。
広がった靄が、カナウの口に向かって漏斗状(円錐形)になり引き寄せられる。そして、先の狭くなった部分から、カナウの口に呑み込まれていく。
黒い靄はどんどん吸い込まれて、最後の部分がカナウの口に吸い込まれる刹那―、それは清掃員の顔に変貌した。吸引され引っ張られた顔は、なんとか逃れようと抵抗して、叫びながら飲み込まれていく。
不気味な光景だった。靄がうなり声をあげる。
「おお~ん、おお~ん」
通路の紀彦は、思わず両耳を塞いだ。―耐えられない声、ふ、不協和音よりひどい。
ーが、その声を聞き、カナウも、はたと思いだした。
「こ、こいつ、『恋黒子』だー」
x x x x
恋黒子の靄を完全に飲み込んだカナウは、紀彦のもとにかけよった。彼は目を閉じ、両手で耳をふさいで、座り込んでいた。
「紀彦、だいじょうぶ?」
―さっき、変な声だしてたけどー。ほ、骨、折れてないよねー
カナウは、冷や汗をかきながらー。紀彦の身体の各部分を手で触って、異常がないか確かめた。彼が『たまとり』に襲われた後、何度かやったことがあるカナウ流の触診。
―よかった、幸い、打ち身だけみたい
紀彦は、うううと呻きながら、薄目を開けた。彼は、立ち上がろうと体を動かす。
「いててて。オ、オレ。ど、どうなったんだ?」
―あれ、頭もうったみたい? カナウは、腕を紀彦の背中に回して、支えてやった。
「ご、ごめんねー、顔面ひざげりしちゃった。それから、前にいるとジャマになるしー。恋黒子から、攻撃されるからー、思わず放り投げちゃった」
―ひざげり? こいくろこ? ほうりなげる……??
そこで初めて、紀彦は、カナウがいることに気が付いた。
「あ、あれー、カナウちゃん? ど、どうしてここに……いるの」
―待ちきれずに、一階からあがってきたのか
「ええとね。紀彦が、危ないって報せがあったの。だからー、1階からとんできた」
「オ、オレが、危ない……。し、報せがあったの? だれから?」
「んんとねー。こいつだよ」
カナウは、紀彦の背中をするりと撫でた。すると、彼の背中から、少年がひとりあらわれた。彼は、カナウにうやうやしく頭をさげるとー。紀彦に向き直って、おい、おっさんー
「俺様だよ。ああ、師匠が一足遅かったら、俺様もやばかったぞー」
と、わめいた。紀彦は少年の顔を見て、のけぞった。
「ええーっ。こいつ、きのうのー竹ぼうき!」
―あは。やっぱり、紀彦、覚えてたんだ。……うん。昨日の夜、街灯の下にいた
「袋孤児だよ。こいつ、使えそうだったから、わたしの下僕にしたよ」
と、カナウが紹介した。それを聞いて、袋孤児は身もだえした。
「し、師匠ー。せめて、弟子と呼んでやってくださいよー」
紀彦からしたら、呼び名なんかどうでもいい、それよりー
「な、なんで、オレの背中からでてくるんだよ?」
「エへ。最近『たまとり』の襲撃がやたら多いからー。おばあちゃんと相談して、こいつを、こっそり背中に潜ませておいたの」
―紀彦が、狙われた時の連絡係ー、役に立ったでしょ
カナウが、得意げに言った。
「ええーっ? オレ、襲われたのー、会社でー」
―それもトイレでー。 そこで彼女は、自分が壊した引き戸を、チラッと見た。
―ヤバイ
「あのね。くわしいことは、帰ってから話すよ」
―ねえ、それより、立てる?
カナウは、腕を紀彦の腰に回して、上向きに力を入れた。よいしょと、紀彦は立ち上がった。どうやら、歩けそうだ。それを見た袋孤児が、胸をそらした。
「おい、おっさん。師匠の暖かい心配りに感謝しな」
―こ、こいつ、なんだか、うるさい
いちいち、何か言わないと、気が済まない質らしい。
「ちょっとー、下僕は黙っててー」
カナウは、がぶっと、袋孤児を呑み込んだ。
彼は、し、師匠待ってーと、叫びながら消えた。
「カナウちゃん。オレも、ちょっと待ってー」
紀彦は、そういうとー。カナウに肩を借りたまま、トイレに戻り、中をのぞいた。
「あの、清掃員のおねえさんは、どうしたんだろう? だいじょうぶかな?」
それから、彼は、いたたたと、首を回しながら、通路全体を見渡した。
―おねえさん、どこへいったのかな?
「はあー?」
カナウは、もう一度紀彦に、膝蹴りをくらわしたくなった。
―かえったら、とっちめてやる
そうしている間にも、周りが徐々に騒がしくなってきた。
このゴタゴタを聞きつけて、通路に社員らがあつまってきた。
中には、壊された引き戸みて、『総務に連絡しろ』と、声をあげている。
(師匠、まずいです。ここは、早く退散しましょう)
お付き合いいただきありがとうございます。
ご連絡
ep.27 27.「便利屋」万年係長の一か所を訂正しました
紀彦のセリフです。
(誤)…夜更かししたたかな… ⇒ (訂正)…夜更かししたかな…
失礼しました。




