↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/32

31.残業

津田 紀彦がつとめるよろず商事は、親会社よろず産業のビルの中にあります。

Ep.30 の続きです。同じ日の夕刻のはなしです。


 ー5時半、

 

 海外事業管理部のフロアに、定時終了のベルが鳴った。

社員たちは、ガタガタと机の上を片付けて、そそくさとロッカールームへ向かう。紀彦は、パソコンの電源を切ると立ち上がり、そのまま大きく伸びをした。


昼休みに、カナウから電話があった。

―今日、迎えに行くから、一緒に帰ろう と、内容は、午前中の電話とほぼ同じであった。 もうそろそろ、下のロビーにつくころだ。


 よろず産業の本社ビルは、一階フロアの一部を一般市民に開放して、自社製品の展示などを行っている。また、カフェなどの貸店舗、地域住民と交流のための共有ラウンジもある。 カナウには、そこで待つように伝えてあった。


 さて、ぼちぼち行くかー、紀彦は、背もたれにかけた背広を取り上げた。

「あれー、津田さん。紗英ちゃんは?」

安田が、キョロキョロしながら、やってきた。


「ああ、ちょっと用事があってね。今日は早く上がったよ」

「あっ、そうですかー。……残業手伝ってもらおうと思ったのにー」

―それは、気の毒したな。でもー


「どうしたんだい?」

「ほら、明日の、社内打ち合わせのプレゼンの資料、まだできてないんですよ」

「ああ、ベトナム工場向けの一連のやつだろう。そんなの、前回のコピペでよくないか?」


安田が、片山を横目で見ながらー

「前のとき、それやって失敗しちゃってー。しかも、明日は、部長も打ち合わせにでてくるんですよー。…こなきゃ、いいのにー」

と、吐き捨てるように言った。


紀彦は、苦笑いするしかない。

「それは、ご愁傷様だな」

すると安田が、紀彦に向かって、いきなり手を合わせた。


「津田さん、申し訳ない。資料作り伝ってもらえませんか? 今度、必ず埋め合わせしますからー、この通りです」

「ええーっ?」


―オレが手伝うのか とんだとばっちりだ。紀彦は、唇をひん曲げた。

安田は、目をつぶって、合わせた手を額まで上げた。

「今度、かわいいおばさん紹介しますからー。お願いします」


―しかたないな 紀彦は、しぶしぶ了承した。ギブアンドテイクの世界である。

紀彦は、カナウに少し遅れるとつたえるため、スマホのおいてあるロッカールームへ向かった。


     x   x   x   x 


 よろず産業本社ビルー 各フロアは、定時を過ぎるとー。照明がいったん落とされ、手動に切り替わる。使うものが必要に応じて、点灯することになっている。それは、通路やトイレの照明も同じことだった。


必要とする者が、必要に応じて、オン・オフする。ビル全体が省エネモードに入るのである。 海外事業管理部の社員がひとり、通路の照明をつけて、男子トイレへ向かった。


 彼は、入り口の前で驚いた。


 なんと、入り口には『清掃中』のサインボードが立ててあった。

明かりがついた中からは、水の流れる音がする。

明らかに、清掃員がトイレ掃除をしているではないか。


「なんで今頃、掃除をやってんだよ。昼間の間にやっておけよな」

用を足しに来た男性社員は、ボードをにらみつけると、ブツブツ言いながら立ち去った。


     x   x   x   x

 

 海外事業管理部のフロア、所々灯された照明の下で、数名の社員が、残業をしている。 その中で、紀彦はおでこにしわを寄せて パソコンのキーボードを叩いていた。 休憩から帰ってきた安田が、鼻歌をうたいながら、津田の机の上にコーヒー缶を、トンとおいた。


「津田さん、これでも飲みながら、少し休憩してくださいよ」

「サンキュー、安田君。……もう少しで、このチャプターの資料出来るからー」

紀彦は、コーヒー缶をチラッと見て、進捗状況を告げた。


安田は、「すいませんねー」といいながら、「あっ、そういえばー」と、ポンと手をたたいた。

「なに? どうしたの」

紀彦は、画面をのぞき込みながら訊ねた。


安田は、紀彦の肩口に顔を近づけるとー

「今、トイレ前、通ったんですけどー。清掃中でー、例の彼女…いましたよ」

と、ささやいた。紀彦は、手を止めて、目を輝かせた。


「えっ。本当に? この時間にー、掃除してる? 掃除のおねえさん、今、トイレにいるのー?」

「ええ、いますよ。チャンスですよ」

紀彦は、そわそわして立ち上がった。


彼はすり手をしながら、安田君―

「ち、ちょっと、休憩がてら、トイレにいってくるね。すぐ戻るから―」

というや、いそいそとフロアの後方へ向かった。


―東野君がいなくて、よかった

紀彦の頭の中で、今朝の約束は消去された。


安田は手をくの字にして、口の横にあてると

「どうぞ、ごゆっくりー」  

と、紀彦の背中にささやきかけた。


     x   x   x   x


 もう少し、あと一時間ぐらいかかりそうー。カナウはそういわれたので、仕方なくフロア内をぶらぶら始めた。最初は、ラウンジのソファに座ってスマホをみていたのだが、飽きてしまった。


 隅の方に、地域交流のコーナーがあった。

近くの小学生だろう、このビルの全景を描いた水彩画が数枚、展示されていた。カナウは、一枚一枚を丁寧に見て回った。


―へえ、じょうずねぇ

なんて、感心していると、いきなり、頭の中に声が響いた。

あいつだー。カナウは目を閉じて、胸を押さえて、交信した。


「えっ、『たまとり』の気配が濃く? んン。紀彦が……、うん、わかった。すぐ行く」

はたから見るとー、ひとりごとを言っているようで、かなり怪しい。

「うん、そこなら、ここから跳べると思う」

と、言いおわるやー。カナウの体が、一階のフロアから、かき消すようにきえた。


     x   x   x   x

   

 紀彦は通路に出た。見ると、トイレから明かりが漏れている。水音も聞こえる。

―おっ、いる、いる 彼は滑るように通路をはしり、男子トイレの前にたつと、息を大きく吸い込んだ。「すいません、失礼します」と、引き戸をスライドさせる。   


デッキブラシで床を擦っていた清掃員が顔を上げて、紀彦をみた。彼女は、マスクとキャップを付けていなかった。彼好みの顔が、そこにあった。紀彦は、感激した。


―ああ、一日2回も、あえるなんて、ラッキー

なぜ、一日に2回も、しかも時間外にトイレ掃除をやっているのかー、そこには思い至らない。


 清掃員は、いつものように―終わっているところは、使っていいですよと、ほほ笑みながらいった。


それだけで、紀彦は舞い上がってしまった。彼は、彼女の前へすすむとー

「こんなに遅く大変ですね」

と、会話モードに入ろうとした。


清掃員は、紀彦をじっと見て

「いえ、いえ。津田さんもー、今日は残業ですか? お疲れ様です」

と、ねぎらった。紀彦は、おどろいた。


「えっ、私の名前―?」

―を、知っているんですか。ど、どうして

「今朝、女性の社員さんが、お名前を呼ばれていたのでー」


「ああ…、東野君か。…そうでしたね」

―こ、これは、連絡先交換のパターンか 紀彦の中で、期待がふくらむ。

清掃員は、手を止めて背筋を伸ばして、まっすぐに彼を見つめた。表情がなかった。


「な、なにかー?」

紀彦は、彼女の急な変化に戸惑った。清掃員は食い入るように彼をみつめている。彼も憑かれたように、彼女を見つめかえした。頭の中が、ボーっとして真っ白になった。


紀彦の背後で「ガチャン」と、金属音がした。

(あれえ、入り口の戸がロックされた)彼は、ぼんやりとそう思った。

振り返ってみようとしたがー。


―あれ、おかしい。

紀彦は、ものすごい違和感を感じた。

身体に、力がはいらないのだ。


―ど、どうゆうこと。身体が、身体がうごかない。

お付き合いいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。