31.残業
津田 紀彦がつとめるよろず商事は、親会社よろず産業のビルの中にあります。
Ep.30 の続きです。同じ日の夕刻のはなしです。
ー5時半、
海外事業管理部のフロアに、定時終了のベルが鳴った。
社員たちは、ガタガタと机の上を片付けて、そそくさとロッカールームへ向かう。紀彦は、パソコンの電源を切ると立ち上がり、そのまま大きく伸びをした。
昼休みに、カナウから電話があった。
―今日、迎えに行くから、一緒に帰ろう と、内容は、午前中の電話とほぼ同じであった。 もうそろそろ、下のロビーにつくころだ。
よろず産業の本社ビルは、一階フロアの一部を一般市民に開放して、自社製品の展示などを行っている。また、カフェなどの貸店舗、地域住民と交流のための共有ラウンジもある。 カナウには、そこで待つように伝えてあった。
さて、ぼちぼち行くかー、紀彦は、背もたれにかけた背広を取り上げた。
「あれー、津田さん。紗英ちゃんは?」
安田が、キョロキョロしながら、やってきた。
「ああ、ちょっと用事があってね。今日は早く上がったよ」
「あっ、そうですかー。……残業手伝ってもらおうと思ったのにー」
―それは、気の毒したな。でもー
「どうしたんだい?」
「ほら、明日の、社内打ち合わせのプレゼンの資料、まだできてないんですよ」
「ああ、ベトナム工場向けの一連のやつだろう。そんなの、前回のコピペでよくないか?」
安田が、片山を横目で見ながらー
「前のとき、それやって失敗しちゃってー。しかも、明日は、部長も打ち合わせにでてくるんですよー。…こなきゃ、いいのにー」
と、吐き捨てるように言った。
紀彦は、苦笑いするしかない。
「それは、ご愁傷様だな」
すると安田が、紀彦に向かって、いきなり手を合わせた。
「津田さん、申し訳ない。資料作り伝ってもらえませんか? 今度、必ず埋め合わせしますからー、この通りです」
「ええーっ?」
―オレが手伝うのか とんだとばっちりだ。紀彦は、唇をひん曲げた。
安田は、目をつぶって、合わせた手を額まで上げた。
「今度、かわいいおばさん紹介しますからー。お願いします」
―しかたないな 紀彦は、しぶしぶ了承した。ギブアンドテイクの世界である。
紀彦は、カナウに少し遅れるとつたえるため、スマホのおいてあるロッカールームへ向かった。
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よろず産業本社ビルー 各フロアは、定時を過ぎるとー。照明がいったん落とされ、手動に切り替わる。使うものが必要に応じて、点灯することになっている。それは、通路やトイレの照明も同じことだった。
必要とする者が、必要に応じて、オン・オフする。ビル全体が省エネモードに入るのである。 海外事業管理部の社員がひとり、通路の照明をつけて、男子トイレへ向かった。
彼は、入り口の前で驚いた。
なんと、入り口には『清掃中』のサインボードが立ててあった。
明かりがついた中からは、水の流れる音がする。
明らかに、清掃員がトイレ掃除をしているではないか。
「なんで今頃、掃除をやってんだよ。昼間の間にやっておけよな」
用を足しに来た男性社員は、ボードをにらみつけると、ブツブツ言いながら立ち去った。
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海外事業管理部のフロア、所々灯された照明の下で、数名の社員が、残業をしている。 その中で、紀彦はおでこにしわを寄せて パソコンのキーボードを叩いていた。 休憩から帰ってきた安田が、鼻歌をうたいながら、津田の机の上にコーヒー缶を、トンとおいた。
「津田さん、これでも飲みながら、少し休憩してくださいよ」
「サンキュー、安田君。……もう少しで、このチャプターの資料出来るからー」
紀彦は、コーヒー缶をチラッと見て、進捗状況を告げた。
安田は、「すいませんねー」といいながら、「あっ、そういえばー」と、ポンと手をたたいた。
「なに? どうしたの」
紀彦は、画面をのぞき込みながら訊ねた。
安田は、紀彦の肩口に顔を近づけるとー
「今、トイレ前、通ったんですけどー。清掃中でー、例の彼女…いましたよ」
と、ささやいた。紀彦は、手を止めて、目を輝かせた。
「えっ。本当に? この時間にー、掃除してる? 掃除のおねえさん、今、トイレにいるのー?」
「ええ、いますよ。チャンスですよ」
紀彦は、そわそわして立ち上がった。
彼はすり手をしながら、安田君―
「ち、ちょっと、休憩がてら、トイレにいってくるね。すぐ戻るから―」
というや、いそいそとフロアの後方へ向かった。
―東野君がいなくて、よかった
紀彦の頭の中で、今朝の約束は消去された。
安田は手をくの字にして、口の横にあてると
「どうぞ、ごゆっくりー」
と、紀彦の背中にささやきかけた。
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もう少し、あと一時間ぐらいかかりそうー。カナウはそういわれたので、仕方なくフロア内をぶらぶら始めた。最初は、ラウンジのソファに座ってスマホをみていたのだが、飽きてしまった。
隅の方に、地域交流のコーナーがあった。
近くの小学生だろう、このビルの全景を描いた水彩画が数枚、展示されていた。カナウは、一枚一枚を丁寧に見て回った。
―へえ、じょうずねぇ
なんて、感心していると、いきなり、頭の中に声が響いた。
あいつだー。カナウは目を閉じて、胸を押さえて、交信した。
「えっ、『たまとり』の気配が濃く? んン。紀彦が……、うん、わかった。すぐ行く」
はたから見るとー、ひとりごとを言っているようで、かなり怪しい。
「うん、そこなら、ここから跳べると思う」
と、言いおわるやー。カナウの体が、一階のフロアから、かき消すようにきえた。
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紀彦は通路に出た。見ると、トイレから明かりが漏れている。水音も聞こえる。
―おっ、いる、いる 彼は滑るように通路をはしり、男子トイレの前にたつと、息を大きく吸い込んだ。「すいません、失礼します」と、引き戸をスライドさせる。
デッキブラシで床を擦っていた清掃員が顔を上げて、紀彦をみた。彼女は、マスクとキャップを付けていなかった。彼好みの顔が、そこにあった。紀彦は、感激した。
―ああ、一日2回も、あえるなんて、ラッキー
なぜ、一日に2回も、しかも時間外にトイレ掃除をやっているのかー、そこには思い至らない。
清掃員は、いつものように―終わっているところは、使っていいですよと、ほほ笑みながらいった。
それだけで、紀彦は舞い上がってしまった。彼は、彼女の前へすすむとー
「こんなに遅く大変ですね」
と、会話モードに入ろうとした。
清掃員は、紀彦をじっと見て
「いえ、いえ。津田さんもー、今日は残業ですか? お疲れ様です」
と、ねぎらった。紀彦は、おどろいた。
「えっ、私の名前―?」
―を、知っているんですか。ど、どうして
「今朝、女性の社員さんが、お名前を呼ばれていたのでー」
「ああ…、東野君か。…そうでしたね」
―こ、これは、連絡先交換のパターンか 紀彦の中で、期待がふくらむ。
清掃員は、手を止めて背筋を伸ばして、まっすぐに彼を見つめた。表情がなかった。
「な、なにかー?」
紀彦は、彼女の急な変化に戸惑った。清掃員は食い入るように彼をみつめている。彼も憑かれたように、彼女を見つめかえした。頭の中が、ボーっとして真っ白になった。
紀彦の背後で「ガチャン」と、金属音がした。
(あれえ、入り口の戸がロックされた)彼は、ぼんやりとそう思った。
振り返ってみようとしたがー。
―あれ、おかしい。
紀彦は、ものすごい違和感を感じた。
身体に、力がはいらないのだ。
―ど、どうゆうこと。身体が、身体がうごかない。
お付き合いいただきありがとうございます。




