30.迎えに行くから
紀彦は、……少しイラっとしたが、顔にはださない。
トイレから出るとー、
紗英が、口を真一文字に結び、上目遣いに紀彦をみた。彼が、もう一度「どうしたの」と聞く前に、紗英は、紀彦のYシャツの肘を引っ張り、彼を給湯室に連れて行った。紀彦は、されるままになっていた。
紗英は、ときどき、こういう態度をとる。紀彦は
―仕事のことで、何か不満があるのだろう
と、推測した。給湯室にはいると、紗英は、紀彦の耳に口を近づけてー
「津田さんが、仕事中に清掃員の女性に会いにいってるって、噂になってますよ」
困りますと、小言をいった。紀彦は、(そっちのほうか)と思ったが、あえて
「そ、そうなの?」
と、一旦はとぼけた。がー、
―まあ、ここは素直にあやまっておこう。 紀彦は、真摯に頭を下げた。
「わ、わるかったよ。今後……気をつけるから。ごめん」
「この話ー、わたし、安田さんからもききましたよ。…ごまかしましたけどー」
「そうなんだ……」
そこで、紗英は下に視線をおとして、一呼吸開けた。
「わたしね。安田さんからー『自分のアシスタントにならないか』って、さそわれました…」
「うん? そ、そうか……」
「…それだけですか?」
紀彦は、少し驚いて紗英の顔を見た。それだけも、なにもー
「君は、どうおもっているんだい? アシスタントのこと…」
困った紀彦は、逆に訊ねてみた。
紗英は、上目遣いに、紀彦をみた。頬が少し赤い。
「わ、わたしは、津田さんアシスタントです。津田さんからの指示にしたがうだけです。それじゃあ…ダメですか?」
ーと、言われても。紀彦は、正直言って何とこたえてよいか、わからない。
数秒間の気まずい沈黙ー。
フロア側のドアが開く音が聞こえて、だれかが通路に出てきた。
足音がこちらに向かってくる。すぐに、
「あら、ふたりともここにいたんですか」
と、いいながら、好美が給湯室に入ってきた。
紗英は、声のトーンを急に高くした。
「もおー、津田さん。こんなところでさぼらないでくださいよ」
彼女は、紀彦にわかるように目配せをした。
「ご、ごめん。ちょっと、休憩してただけだよー」
と、紀彦はあわせた。好美は、笑いながらー
「あら、おジャマしちゃった?」
と、皮肉っぽくいった。
紀彦は、俯いて頭をかいた。
「いやあ、ここで『眠気覚まし』してただけなんだけどなー」
「なに言ってるんですか。早く席にもどってください」
と、紗英が、紀彦の肩をおす。
好美は、笑いをこらえながらー、紀彦に用件を伝えた。
「そうそう、はやく早く、津田さん。うちから電話ですよ」
「えっ、うちからー、電話ですか?」
紀彦は、同じ言葉で聞き返した。好美が、点頭する。
彼は、紗英をちらっと見てから、いそぎ足で給湯室を出た。
x x x x
―うちといえば、カナウからだ。一体何の用だろう。紀彦は頭を巡らせた。
―学校で……じこ、けが、びょうき それとも、清掃員さんのことがばれた
まあ、それはないなと、思いながら、彼は机の受話器をとり上げた。
「紀彦、ごめんね。会社の電話にかけてー」
カナウの声は、あせっていた。
個人のスマホは、休憩時間にしか使えないことになっている。
「どうしたの、何かあった」
「あのね、今日ね。会社へむかえにいくからね。出口のところで待っててー」
―えっ、迎えに来るって……。紀彦の頭に、昨夜の出来事が横切った。
「いったい、どうしたの」
「いいから、いいから。学校からかえったら、すぐに行くからー」
―よくないだろう。学校と会社は、全く逆方向だ。
「かならず、まっててよ。ひとりで帰ったら、ダメだよ」
そのとき、カナウのうしろで、チャイムがなった。そういえば、生徒たちのざわめきも聞こえている。学校の中から、電話をしてきているのだろう。
「ごめん、休み時間終わるからー、また、昼休みに電話する」
カナウが早口で告げると、電話はきれた。
―また、昼休みってー、まだ続きがあるのか……
(まあいい、何か事情があるのだろう。昼休みの電話で確認しよう)
紀彦は、そう思い、受話器をおいた。
x x x x
「ふう」
カナウは、スマホをスカートの間にさしこみながら、少し安堵した。
(なんとか、つたえられた)
―でも、昨日の今日で、もう……という気持ちが強い。なんにせよ、昨夜、おばあちゃんたちと話したことが、もう現実に起こってしまった。
―それに、あいつが間違えるはずがない
(いっそ、早退しようかしら)と、思ったがー。まさか、人がたくさんいるところでは、『たまとり』も襲ってこないだろうと、高を括った。やつらも、一応ひとの社会になじんで暮らしている。
襲うなら、これまでのように、人気のないところ……だろう。それに、これからも同じようなことが起こるだろうし、そのたびに早退するわけにもいかない。
―はやく、学校を卒業したい。そしたらー、いつも、紀彦のそばに……
下から、ギュッギュッと上履きシューズの音がして、教師が階段を上がってきた。教師は、カナウたちの新しい担任で、名前を吉永久美子といった。
カナウは、3階の踊り場から、電話をしていた。3年生の教室は、この階にある。
もともとは、久美子はクラスの副担任だったが、工藤の代わりに昇格した。
2階から3階に向かう踊り場で、彼女はカナウに気が付いた。
―津田さん。と、下から声をかけた。
―もう、チャイムはなっているでしょ?
カナウは、「すいません」というと、教室に向かって、駆け出した。
「津田さん」久美子は、声を大きくして、もう一度カナウを呼んだ。
カナウは、廊下の真ん中で、立ち止まった。
久美子が近づいてくると、彼女はわずかだが、引き返して、新しい担任を待った。
「なんですか、先生」
久美子は教材の間から、メモを取り出して、ハイと、カナウに差し出した。
「村上さんが入院している、病院。まだ、面会はできないようだけどー」
先日、久美子に頼んだー真奈美の入院先が書かれたメモだった。
カナウの無機質な表情が、和らいだ。彼女は、素直に感謝の意を示した。
「せんせい、ありがとうございます」
と、丁寧に頭を下げ、メモを両手で受け取った。久美子も表情を緩めた。
「村上さんのおかあさんに、ご了解いただいたから、お渡しするわね」
「すいません、先生」
カナウはもう一度頭を下げた。
「もしも、あなたがお見舞いいくつもりだったらー。事前に、連絡してくださいってー」
メモには、携帯電話の番号も書かれていた。
「わかりました。かならず、そうします」
カナウは、久美子の目を見て約束した。久美子はおおきくうなずくと、
―じゃあ、いきましょうか。
と、カナウをうながし、先に立って廊下を歩きだした。カナウはそのあとにつづいた。
―なんとか、真奈美に会いたい。彼女の意識を取り戻したい
と、カナウは考えている。
でも、どうしたらいいのか、皆目見当がつかない。
最初、真奈美の状態を、おばあちゃんに伝えた時ー、
おばあちゃんは、悲しそうに首を振っただけだった。カナウは、絶望した。
おばあちゃん、まなみは、真奈美は、―ほんとうに、どうしようもないの
おばあちゃんは、目を伏せてうなずいた。
―たぶん、意識ごと、おいで魔汗にもっていかれてるよ。
それでも、カナウはあきらめきれなかった。
おばあちゃんに、直接 真奈美を診てもらおう、と考えた。
おばあちゃんなら、もしかしたらー、真奈美を見て、なにか良い方法をおもいつくかもしれない。(そうだ、そうしよう!)と、カナウは決心した。
―紀彦のことがおちついたら、一度、真奈美の病院に行ってみよう。
面会はかなわなくても、近くで、真奈美に呼び掛けてみよう。
もしかしたら、真奈美が応えてくれるかもしれない。
カナウは、未来に希望をみていた。
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