29.東野 紗英
海外営業管理部フロアーのようすです。
海外営業管理部のフロアは、雑音に満ちていた。
話し声、電話の応答、キーボードをたたく音、プリンターやコピー機の動作音など、種々雑多な音が飛び交っている。窓ガラスは防音なので、外からの騒音はない。
紀彦は、パソコンのディスプレイを見ながら、メールの送信ボタンをクリックした。 ―これで、今朝の議事録の配信かんりょうーっ、と。
そう言って、彼は椅子の背もたれに反り身になった。
隣席の東野 紗英は、パソコンの画面とにらめっこしている。
紀彦は、立ち上がって背伸びをすると
「東野君、ちょっとトイレ、いってくるから…」
と、声をかけた。
紗英は画面から目を離さずにー
「あっ、はい。お気をつけてー」
と、いった。彼は、苦笑しながら、フロア後方の出入り口に向かった。
紗英とー背向かい席の好美が、目線で津田の背中を追いかけながら、紗英の肩をつついた。
「ねえ、紗英。津田さんって、この頃ー、決まってこの時間にトイレいくよねー」
周りに聞こえないように、声をひそめている。
「あら、そうなの…」
紗英は興味なさそうに、返した。
紀彦のトイレ行く時刻などー、実際、興味がない。
「なんでこの時間なのか、知ってる?」
好美は、重ねて訊ねてきた。紗英は、画面をのぞき込んだままー
「なんでかってー。そりゃあ、トイレにいきたいからでしょう……」
と、至極当然のことをいった。
あのね、仕事のジャマをしないでくれると、つづけた。向かい席にいる桃子が、ふたりのやり取りきいて、パソコンの横から顔をのぞかせた。
紗英と桃子は同期入社で、好美は一年先輩だった。
桃子は、前かがみになってー
「うっそぉー。紗英、知らないんだー。のうてんきー」
と、茶化してきた。同期の気軽さである。
―なによ。その思わせぶりな言い方は 紗英は、顔を上げて、眉をひそめた。
桃子と好美は、ねっーと、目と目で頷き合う。
(何なの、このふたり、うっとおしい)
「決まった時間にトイレにいったからってー、津田さんの勝手でしょ」
紗英は、画面から顔を上げて、そっけなくいった。
ーが、ふたりのニヤニヤは、とまらない。
「紗英、マジで気がついてないんだー」
「いま、超ワダイに、なってるのにー」
紗英は、思いっきり、イヤな顔をしてみせた。
「どうせー、あんたたちの間だけでしょ? ばかばかしいー」
―あぶない、あぶない。バカ話につられるところだった…
紗英は、画面に目を戻す。
ーが、好美と桃子は、さらにかぶせてくる。
「あら、あら。そんなこと言っていいのかなー?」
「そう、そう。だいじな大事な津田さん、とられちゃうよー」
紗英は、頬が熱くなるのを感じた。
―ほ、ほんとにしつこい。 彼女の声が、自然大きくなる。
「そ、それと、トイレにいくのとー、なんの関係があるのよ」
好美がうしろから、紗英の耳に口を近づけて
「あのね、津田さんね。毎日この時間、掃除のおばさんに会いにトイレにいってんだよ」
と、ささやいた。
紗英は、今度は、頭に血が上るのを感じた。
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海外事業管理部のフロア後方から出ると、通路を挟んで、給湯室、トレイ、書庫などが並んでいる。今、男子トイレの入れ口には『清掃中』の黄色いサインボードが立っている。
紀彦は、思わず「よし」と、ガッツポーズをした。
中から、水が流れる音が聞こえていた。 紀彦は、左右を素早く確認して、清掃中のトイレに滑り込んだ。ちらりと、カナウのことが頭をかすめるが、こればかりはどうしようもない。
中では、女性の清掃員が、ブラシで便器をこすりながら、ホースで水をかけていた。年のころなら30代後半だろうか 紀彦は、彼女の背後から、声をかけた。
「あのう…、清掃中すいません」
清掃員は、手を止めて後ろを振り向くと
「ああ、掃除がすんだところは、使ってもらっていいですよー」
と、慣れた口調でいった。
マスクとキャップで顔が隠れているが、切れ長で涼しげな目が、紀彦をみる。
―ああ、今日も会えた。弾む心をおさえつつ、彼は元気よく返した。
「あ、ありがとうございます」
紀彦は、ドギマギしながら、便器の前にたった。清掃員は、気を利かして、個室の方の掃除を始めた。(これって、もしかしたらセクハラ)無防備な姿でー、紀彦はそう思わないこともない。
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「―だから、津田さんね。トイレで逢引きしてるの。…わかる?」
好美が、じれったそうにいう。
―なんで、わかんないのよ
紗英は、口をあけ、鼻から息を出した。
「…はあ? なにいってんのよ」
―そっちこそ、わけがわかんない。なんで、好美にそんなことが分かるのよ
桃子が、真面目な顔をして
「あのねぇ、紗英。津田さん、ものすごい『熟女好き』でしょ」
と、いった。海外事業管理部では周知の事実だ。
「それは、そうだけど…」
―それは、みとめる が、いくら津田さんでも、そこまでするか。トイレでー
「あまい、あまい。さえー、津田さんのことわかってないよ」
確かに、好美は、紗英よりも1年先輩だから、津田との付き合いが長い。
「気を付けないと、ダメだよ、さえ。津田さん、熟女清掃員さんにいっちゃうよ……」
―だから、なんで、あんたがきめつけるのよ。
ただ、紗英も強く反論できない。
「そう、そう」
桃子の相槌は、どっちについているのかわからない。
紗英は、爪をかみ、机の一点をみつめた。
―ラチが明かない。―し、このままだと、仕事に集中できない……
「私、ちょっとトイレ見てくる」
彼女は、立ち上がり、靴音をたてて、フロアの後方へと向かった。
―あの子……、本当に、男性用トイレに見に行くつもりなんだ
「ちょっと、あおりすぎちゃったかなぁ」
紗英の後ろ姿を見ながらー、桃子がつぶやいた。
「やっぱり、気になるんだ……」
気が抜けたように、好美は独り言をいった。
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「さてー」
と、用を足しおわった紀彦は、手洗い場の鏡の前で、ベルトを閉めなおし、服装全体を整えた。 ―問題はここからだ。まずー
「ありがとうございました。お掃除中に、しつれいしましたー」
と、清掃員さんにお礼をいって、このあと、どう話を続けるか……。彼としては、二言でも、三言でもいいから、この女性と会話したかった。
ーが、当の清掃員は、紀彦の心の動きなど、全く知る由もない。ふつうに
「いえ、いえ。どういたしましてー」
と、掃除を続けながらこたえた。顔すら向けてくれない。
そのとき、引き戸のすりガラスに人影がうつり、トントンとノックした。つづけて、遠慮がちな声が
「すいません。津田さん、いますか?」
と、呼びかけてきた。
明らかに紗英の声だ。―間が悪い
紀彦は、手洗い場の蛇口をひねり、音を立てて手を洗った。
もう一度ノックの音がした。
紀彦は入り口に顔を向けて
「東野君かいー いるよ。どうかした?」
と、声高に返事した。
紗英は、戸をはさんで、わたしですと、いうとー
「…ちょっと、いいですか?」
と、訊ねてきた。
紀彦は、ハンカチで手を拭きながら、引き戸を開けた。
(こんなところまで来て、何の用だ)
と、少しイラっとしたが、顔にはださない。
お付き合いいただきありがとうございます。




