↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/31

29.東野 紗英

海外営業管理部フロアーのようすです。

 海外営業管理部のフロアは、雑音に満ちていた。


話し声、電話の応答、キーボードをたたく音、プリンターやコピー機の動作音など、種々雑多な音が飛び交っている。窓ガラスは防音なので、外からの騒音はない。


 紀彦は、パソコンのディスプレイを見ながら、メールの送信ボタンをクリックした。 ―これで、今朝の議事録の配信かんりょうーっ、と。

そう言って、彼は椅子の背もたれに反り身になった。


 隣席の東野 紗英は、パソコンの画面とにらめっこしている。


 紀彦は、立ち上がって背伸びをすると

「東野君、ちょっとトイレ、いってくるから…」

と、声をかけた。


紗英は画面から目を離さずにー

「あっ、はい。お気をつけてー」

と、いった。彼は、苦笑しながら、フロア後方の出入り口に向かった。


 紗英とー背向かい席の好美が、目線で津田の背中を追いかけながら、紗英の肩をつついた。

「ねえ、紗英。津田さんって、この頃ー、決まってこの時間にトイレいくよねー」

周りに聞こえないように、声をひそめている。


「あら、そうなの…」

紗英は興味なさそうに、返した。

紀彦のトイレ行く時刻などー、実際、興味がない。


「なんでこの時間なのか、知ってる?」

好美は、重ねて訊ねてきた。紗英は、画面をのぞき込んだままー

「なんでかってー。そりゃあ、トイレにいきたいからでしょう……」

と、至極当然のことをいった。


あのね、仕事のジャマをしないでくれると、つづけた。向かい席にいる桃子が、ふたりのやり取りきいて、パソコンの横から顔をのぞかせた。

紗英と桃子は同期入社で、好美は一年先輩だった。


桃子は、前かがみになってー

「うっそぉー。紗英、知らないんだー。のうてんきー」

と、茶化してきた。同期の気軽さである。


―なによ。その思わせぶりな言い方は 紗英は、顔を上げて、眉をひそめた。

桃子と好美は、ねっーと、目と目で頷き合う。

(何なの、このふたり、うっとおしい)


「決まった時間にトイレにいったからってー、津田さんの勝手でしょ」

紗英は、画面から顔を上げて、そっけなくいった。

ーが、ふたりのニヤニヤは、とまらない。


「紗英、マジで気がついてないんだー」

「いま、超ワダイに、なってるのにー」

紗英は、思いっきり、イヤな顔をしてみせた。


「どうせー、あんたたちの間だけでしょ? ばかばかしいー」

―あぶない、あぶない。バカ話につられるところだった…

 紗英は、画面に目を戻す。


ーが、好美と桃子は、さらにかぶせてくる。

「あら、あら。そんなこと言っていいのかなー?」

「そう、そう。だいじな大事な津田さん、とられちゃうよー」


紗英は、頬が熱くなるのを感じた。

―ほ、ほんとにしつこい。 彼女の声が、自然大きくなる。

「そ、それと、トイレにいくのとー、なんの関係があるのよ」


好美がうしろから、紗英の耳に口を近づけて

「あのね、津田さんね。毎日この時間、掃除のおばさんに会いにトイレにいってんだよ」

と、ささやいた。


 紗英は、今度は、頭に血が上るのを感じた。


     x   x   x   x

 

 海外事業管理部のフロア後方から出ると、通路を挟んで、給湯室、トレイ、書庫などが並んでいる。今、男子トイレの入れ口には『清掃中』の黄色いサインボードが立っている。 


 紀彦は、思わず「よし」と、ガッツポーズをした。


 中から、水が流れる音が聞こえていた。 紀彦は、左右を素早く確認して、清掃中のトイレに滑り込んだ。ちらりと、カナウのことが頭をかすめるが、こればかりはどうしようもない。


 中では、女性の清掃員が、ブラシで便器をこすりながら、ホースで水をかけていた。年のころなら30代後半だろうか 紀彦は、彼女の背後から、声をかけた。

「あのう…、清掃中すいません」


清掃員は、手を止めて後ろを振り向くと

「ああ、掃除がすんだところは、使ってもらっていいですよー」

と、慣れた口調でいった。


マスクとキャップで顔が隠れているが、切れ長で涼しげな目が、紀彦をみる。

―ああ、今日も会えた。弾む心をおさえつつ、彼は元気よく返した。

「あ、ありがとうございます」


紀彦は、ドギマギしながら、便器の前にたった。清掃員は、気を利かして、個室の方の掃除を始めた。(これって、もしかしたらセクハラ)無防備な姿でー、紀彦はそう思わないこともない。


     x   x   x   x


「―だから、津田さんね。トイレで逢引きしてるの。…わかる?」

好美が、じれったそうにいう。

―なんで、わかんないのよ


 紗英は、口をあけ、鼻から息を出した。

「…はあ? なにいってんのよ」

―そっちこそ、わけがわかんない。なんで、好美にそんなことが分かるのよ


桃子が、真面目な顔をして

「あのねぇ、紗英。津田さん、ものすごい『熟女好き』でしょ」   

と、いった。海外事業管理部では周知の事実だ。


「それは、そうだけど…」

―それは、みとめる が、いくら津田さんでも、そこまでするか。トイレでー

「あまい、あまい。さえー、津田さんのことわかってないよ」


確かに、好美は、紗英よりも1年先輩だから、津田との付き合いが長い。

「気を付けないと、ダメだよ、さえ。津田さん、熟女清掃員さんにいっちゃうよ……」

―だから、なんで、あんたがきめつけるのよ。


ただ、紗英も強く反論できない。

「そう、そう」

桃子の相槌は、どっちについているのかわからない。


紗英は、爪をかみ、机の一点をみつめた。

―ラチが明かない。―し、このままだと、仕事に集中できない……

「私、ちょっとトイレ見てくる」


彼女は、立ち上がり、靴音をたてて、フロアの後方へと向かった。

―あの子……、本当に、男性用トイレに見に行くつもりなんだ

「ちょっと、あおりすぎちゃったかなぁ」


紗英の後ろ姿を見ながらー、桃子がつぶやいた。

「やっぱり、気になるんだ……」

気が抜けたように、好美は独り言をいった。


     x   x   x   x


「さてー」

と、用を足しおわった紀彦は、手洗い場の鏡の前で、ベルトを閉めなおし、服装全体を整えた。 ―問題はここからだ。まずー


「ありがとうございました。お掃除中に、しつれいしましたー」

と、清掃員さんにお礼をいって、このあと、どう話を続けるか……。彼としては、二言でも、三言でもいいから、この女性と会話したかった。


ーが、当の清掃員は、紀彦の心の動きなど、全く知る由もない。ふつうに

「いえ、いえ。どういたしましてー」

と、掃除を続けながらこたえた。顔すら向けてくれない。


 そのとき、引き戸のすりガラスに人影がうつり、トントンとノックした。つづけて、遠慮がちな声が

「すいません。津田さん、いますか?」   

と、呼びかけてきた。


 明らかに紗英の声だ。―間が悪い

紀彦は、手洗い場の蛇口をひねり、音を立てて手を洗った。

もう一度ノックの音がした。


紀彦は入り口に顔を向けて

「東野君かいー いるよ。どうかした?」

と、声高に返事した。


紗英は、戸をはさんで、わたしですと、いうとー

「…ちょっと、いいですか?」

と、訊ねてきた。


 紀彦は、ハンカチで手を拭きながら、引き戸を開けた。

(こんなところまで来て、何の用だ)

と、少しイラっとしたが、顔にはださない。

お付き合いいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。