第70話 代わりには、守らない
『エリスを』
地面の奥から。
ミレアの声が震える。
『朝へ連れていく方法を、教えてください』
一夜はすぐには答えなかった。
ダリウス。
リディア。
レイ。
その場にいる全員の顔を見る。
1人で決めない。
昨日決めたばかりのことだ。
「質問してもいいですか」
『……はい』
「あなたにとって」
一夜は言葉を選ぶ。
「エリスさんを朝へ連れていくって、どういうことです?」
長い沈黙。
『分かりません』
「分からない?」
『223年間』
ミレアの声が小さくなる。
『あの子を寝かせておくことしか、考えませんでした』
一夜は黙って聞く。
『眠っていれば』
「はい」
『寒くない』
『痛くない』
『怖くない』
『私が、見ていられる』
最後の言葉だけ。
母親の声だった。
「だから起こせなかった」
『はい』
「でも今は?」
また沈黙。
『あの子が』
声が掠れる。
『帰ろうと言った』
一夜はリディアを見る。
地下班から聞いた。
少女の姿をした固定記憶。
エリス。
「それは、本物のエリスさんの言葉ではないかもしれません」
『分かっています』
一夜は少し驚いた。
「分かってるんですか」
『223年あれば』
ミレアが微かに笑った。
ひどく疲れた笑いだった。
『嫌でも分かります』
『あれは、私が作った』
『私が』
『娘が避難所まで来られたことにしたかった』
一夜は何も言えなかった。
『見つけた時』
声が止まる。
『朝でした』
リディアの指が、カップを握る。
『外は明るかった』
『あの子だけが』
そこで。
ミレアは言葉を失った。
一夜は急かさない。
数秒。
十数秒。
やがて。
『だから』
ミレアは続けた。
『夜に戻した』
一夜の胸が重くなる。
『避難所へ来られたことにして』
『暖かい寝台へ寝かせて』
『次こそ』
『私が守れるようにした』
「でも」
一夜が静かに言う。
「その朝は来なかった」
『……はい』
「来ないようにした?」
返事はない。
それが答えだった。
説明書が開く。
【現行夜側維持役】
【朝到達意思:微弱】
一夜の目が動いた。
昨日までは。
そんな表示はなかった。
「少し」
リディアが尋ねる。
「何だ」
「ミレアさんにも」
一夜は説明書を見る。
「朝へ行きたい気持ちが出てる」
地下から。
小さな声。
『私も?』
「はい」
『……そうですか』
その言葉に。
喜びはなかった。
むしろ。
怖がっているように聞こえた。
「怖いですか?」
『はい』
「何が」
『朝になれば』
ミレアは答えた。
『あの子が死んでいる』
一夜は息を止めた。
『夜の中なら』
『まだ寝ているだけです』
誰も。
その言葉を否定できなかった。
正しい現実を突きつければいい。
そんな簡単な話ではない。
「ミレアさん」
『はい』
「俺には」
一夜はテントを見る。
「死んだ人を生き返らせることはできません」
『……はい』
「エリスさんの本物の気持ちも分かりません」
『はい』
「だから」
一夜はゆっくり言う。
「エリスさんの代わりに、許すとも言えないです」
リディアが一夜を見る。
ミレアは。
しばらく黙っていた。
『では』
「はい」
『あなたが』
一夜の説明書が。
突然。
赤く光った。
【警告】
【保護責任移譲要求を検出】
一夜の背筋が冷たくなる。
『あなたが、あの子を守ってください』
説明書の文字が増える。
【役割継承条件に接近】
【応諾非推奨】
「一夜」
リディアが即座に呼ぶ。
「分かってます」
一夜は地下へ向かって答える。
「それはできません」
ミレアの声が止まった。
『なぜ』
「俺が代わりに守るって約束したら」
一夜は説明書を見ながら言う。
「あなたの役目を、俺が引き受けることになるかもしれない」
『……』
「それに」
一夜は続ける。
「エリスさんを、また誰かの保護対象に固定することになります」
『でも』
「はい」
『誰かが守らなければ』
声が震える。
『あの子は』
「もう」
一夜は言葉を止めかけた。
だが。
逃げなかった。
「もう、守り続ける相手ではないんだと思います」
リディアが目を伏せる。
地下から。
長い沈黙。
一夜は続ける。
「忘れろって言ってるんじゃないです」
『……』
「大事に思うのをやめろとも」
『……』
「ただ」
自分の胸へ手を置く。
「223年間、寝台から出さないことだけが」
「守ることではないと思います」
ミレアの声は。
返ってこない。
しばらくして。
レイが口を開いた。
「ミレア」
全員が彼を見る。
「名前を呼んでいいのか?」
一夜が尋ねる。
「呼ばれたのは私ではない」
「そうだけど」
レイは地面へ向かう。
「私は」
少し考える。
「泊一夜になろうとした」
地下は静かだ。
「誰かの名前を借りれば」
「自分ができると思った」
「でも」
レイは自分の胸へ触れる。
「借りた名前では」
「その人にはなれなかった」
ミレアから。
小さく。
『……はい』
「あなたも」
レイは言う。
「エリスが生きている夜を作った」
『はい』
「でも」
「そこにいるものは」
「エリス本人ではない」
ひどく残酷な言葉だった。
けれど。
レイだから言える。
誰かの記憶から作られ。
本人になれなかった存在だから。
『分かっています』
「それでも手放せない?」
『はい』
「なら」
レイは少し考えた。
「今すぐ手放さなくていい」
一夜がレイを見る。
「でも」
レイは続けた。
「手放さないと決めるのも」
「今は、しなくていい」
一夜は。
小さく笑った。
「それ、覚えましたね」
「重要なことは持ち帰る」
「はい」
『持ち帰る』
地下で。
ミレアが繰り返す。
「はい」
一夜が答える。
「今ここで」
「エリスさんを朝へ出すか」
「永遠に夜へ残すか」
「決めなくていいです」
『でも』
「次に」
一夜は言う。
「俺たちが地下へ行った時」
「1つだけやってほしいことがあります」
『何を』
「エリスさんの寝台まで」
一夜は説明書を確認する。
「あなた自身で来てください」
『……私が?』
「はい」
『私は、あそこへ行けません』
「なぜ」
『起きてしまうから』
一夜は眉を寄せる。
「誰が?」
『私が』
全員の表情が変わる。
リディアが尋ねた。
「どういう意味だ」
ミレアは。
答えるまでに時間がかかった。
『私は』
『あの子を眠らせているのではありません』
一夜の胸がざわつく。
『あの子が眠っている間だけ』
地下から。
小さな声。
『私も』
『夜の中で眠っていられるのです』
説明書が光った。
【固定構造を再解析】
【保護対象:エリス模倣記憶】
【役割保持者:ミレア・サーン】
【相互固定を確認】
「相互固定?」
一夜が読み上げる。
新しい文字。
【役割保持者は保護対象を夜へ固定】
【保護対象は役割保持者を過去へ固定】
「……そういうことか」
リディアがつぶやく。
娘を寝かせているから。
母親も。
娘を失った朝へ進まずに済む。
どちらか片方だけを。
無理に起こしてはいけない。
「だから」
一夜は言った。
「2人とも」
『2人?』
「ミレアさんと」
「あなたの中にいるエリスさん」
一夜は続ける。
「一緒に朝へ向かう必要がある」
『どうやって』
「まだ分かりません」
『……』
「だから探します」
一夜は即答しなかった。
「でも」
「俺が代わりに連れていくんじゃない」
『はい』
「俺たちが起こすんでもない」
『はい』
「あなた自身が」
一夜は静かに言う。
「エリスさんのそばまで行く」
ミレアの呼吸が。
地下から聞こえた。
『怖い』
「はい」
『できないかもしれません』
「はい」
『途中で戻るかも』
「それでもいいです」
一夜は答える。
「次の日に」
「また選べますから」
リディアが。
小さく笑った。
昨日。
自分たちで決めた言葉。
今日は駄目でも。
明日、もう1度決められる。
『……明日』
「はい」
『私にも』
ミレアの声が。
ほんの少し変わった。
『明日がありますか』
一夜は説明書を見る。
【現行夜側維持役】
【朝到達意思:上昇】
そして。
自分の言葉で答えた。
「あるようにするんじゃなくて」
「一緒に」
「あるかどうか確かめに行きましょう」
ミレアは。
長い間。
何も言わなかった。
やがて。
『分かりました』
接触が。
ゆっくりと弱くなる。
『次に来た時』
「はい」
『私は』
かすかな声。
『エリスの寝台まで行きます』
【接触終了】
中庭が静かになる。
一夜は。
大きく息を吐いた。
「危なかった」
リディアが言う。
「何が」
「『俺が守ります』と言いそうだった」
「……ちょっとだけ」
「禁止だ」
「分かってます」
「その言い方も禁止にしたい」
「何でですか」
「反省しているように聞こえない」
一夜は苦笑した。
「ちゃんと反省してます」
レイが横から言う。
「危険度は?」
「あ」
一夜は説明書を見る。
【設営者役割固定危険度】
【現在:低】
一夜が目を見開く。
「下がった」
「なぜ」
【保護責任の代行拒否】
【本人意思による役割終了支援を選択】
【責任分散を確認】
リディアが満足そうにうなずく。
「よし」
「健康診断に合格したみたいですね」
「まだ低だ」
「十分でしょう」
「ゼロになるまで油断するな」
「厳しい」
「コーヒー」
「急ですね」
「今の話で冷めた」
一夜がカップを見る。
本当に冷めていた。
「淹れ直します」
「濃いのを」
「はい」
レイが即座に言う。
「私はいらない」
「知ってますよ」
「干し肉は」
「夕食まで待ってください」
「分かった」
一夜は湯を沸かしながら。
地下を見る。
次は。
ミレアを。
娘の寝台まで連れていく。
救うために引っ張るのではなく。
朝へ押し出すのでもない。
自分の足で。
歩けるところまで。
隣にいる。
それだけだった。




