第69話 起こすのではなく、呼びかける
食事が終わった後。
一夜は、すぐに地下の話を始めなかった。
器を洗う。
湯を沸かす。
リディアの肩を確認する。
地下班8人の状態を、もう1度確かめる。
「眠気は?」
一夜が尋ねる。
「ほぼ消えた」
ガレスが答える。
「私もです」
テオも続く。
レイは寝袋へ座り、壁にもたれていた。
「私は少し残っている」
「頭痛は?」
「ない」
「増えた記憶は?」
レイが目を閉じる。
「まだある」
「今も流れ込んできます?」
「いや」
「なら、今日はそれ以上見ないでください」
「見ようとしなくても思い出す」
「そうですよね」
一夜は少し考える。
「では、何か別のことをしましょう」
「何を」
「干し肉でも食べます?」
「さっき食べた」
「じゃあ、今は休んでください」
「結局それか」
「今はそれです」
レイは反論せず、寝袋へ体を預けた。
一夜は説明書を開く。
【地下班】
【身体状態:安定】
【自己識別状態:安定】
【役割固定反応:低】
【再進入推奨時間:12時間後以降】
「今日はもう入りません」
ダリウスがうなずく。
「当然だ」
「反対される前に言ったのに」
「以前の君なら、もう1度入る方法を考えていた」
「否定できないな……」
リディアがコーヒーのカップを持ち上げる。
「成長した」
「それ、褒めてます?」
「かなり」
「エマさんみたいな言い方になってきましたね」
そこへ。
ローレンが記録を抱えて安全地帯へ入ってきた。
「地下班から聞いた少女の件だ」
「何か分かりました?」
「223年前の避難者名簿を調べた」
一夜が椅子を空ける。
「座ってください」
「今は報告が」
「座りながらできます」
「……最近、全員から言われる」
「いい傾向です」
ローレンは渋々腰を下ろし。
古い紙を机へ広げた。
「ミレア・サーンには娘が1人いた」
「名前は?」
「エリス・サーン」
一夜の表情が変わる。
「ミレアじゃない?」
「違う。8歳」
リディアが尋ねる。
「では、寝台にあった木札は?」
「避難所では、子供へ保護者名を書いた札を持たせていた」
「保護者名?」
「ああ」
ローレンは当時の避難規則を示す。
「親とはぐれた場合、誰へ引き渡すか分かるようにな」
一夜は腑に落ちた。
「だから札にはミレアと書いてあった」
「そういうことだ」
「あの子は」
レイが寝袋から体を起こす。
「エリス」
「ああ」
ローレンが記録を読む。
「避難所へ到着した記録はない」
「やっぱり」
一夜が息を吐く。
「亡くなった記録は?」
「翌朝、避難所から約1キロ離れた街道脇で発見された」
誰も言葉を発しなかった。
「死因は?」
「低体温と負傷」
ミレアは。
夜を預かる者だった。
避難してくる人々を受け入れ。
朝まで守る。
その夜。
自分の娘だけが、そこへたどり着けなかった。
「きついですね」
一夜がつぶやく。
「ああ」
リディアの声も低い。
「娘を探しに行けなかった可能性もある」
ローレンが別の記録を出した。
「当時の避難者は43人」
「43人」
「ノクスが持ち場を離れれば、入口管理者がいなくなる」
「残った?」
「記録では」
一夜は目を閉じた。
娘を探したい。
でも。
43人を置いていけない。
夜を預かる役割。
その間に。
娘は死んだ。
「自分が残ったから、娘を失ったと思ったのかもしれない」
リディアが言う。
「それで」
一夜も続ける。
「次からは誰も出さない」
守るために。
もう。
外へ誰も行かせない。
「役割が壊れた理由としては」
ローレンが言う。
「十分すぎる」
レイが静かに尋ねる。
「エリスは、母親を責めていた?」
「分からない」
「最後に何を言ったかは?」
「記録はない」
レイは少し考える。
「なら、地下のエリスが何を話しても」
「本物の言葉ではない可能性が高い」
一夜が答えた。
「ミレアさんが、言ってほしいことかもしれない」
「あるいは」
リディアが続ける。
「最も言われたくないこと」
一夜はうなずいた。
どちらにせよ。
本人ではない。
「では」
ガレスが腕を組む。
「どうする」
「少女を起こすのは危険」
「放置すれば、ノクスは終わらない」
「そうですね」
一夜は説明書を見る。
【固定記憶】
【対象:エリス・サーンの模倣記憶】
【役割保持者による保護対象認定:継続】
「保護対象」
一夜が繰り返す。
「ミレアさんは、まだ娘を守ってるつもりなんだ」
「223年」
テオが小さく言う。
「ずっと眠らせて?」
「たぶん」
一夜は説明書へ問いかける。
「固定記憶を壊さずに、ノクスの役割だけ解除できますか?」
しばらく反応はない。
やがて。
【可能性:あり】
全員の視線が集まる。
「ある」
「方法は?」
【役割保持者本人による】
【保護対象の朝到達許可】
一夜は、その文章をゆっくり読む。
「ミレアさん自身が」
リディアが理解する。
「エリスを朝へ行かせる?」
「はい」
「起こすのではなく?」
「出てもいいと認める」
一夜は説明書を見る。
「それなら、記憶そのものを無理に壊さなくていい」
ローレンが尋ねる。
「だが、死者の記憶に朝などあるのか?」
「本物のエリスさんではありません」
一夜が答える。
「だからこそ」
少し考える。
「ミレアさんの中にいるエリスさんを、ずっと眠らせ続けなくてもいいと思えるかどうか」
リディアが目を伏せる。
「忘れるのとは違う?」
「違います」
一夜は即答した。
「俺は、そう思います」
亡くなった人を。
朝へ行かせる。
その言い方が正しいかは分からない。
でも。
「寝かせ続けることだけが、覚えていることじゃない」
リディアが、一夜を見る。
「ロイドと同じか」
一夜は答えに迷った。
「少し似ているかもしれません」
「私はロイドを忘れない」
「はい」
「でも」
リディアはカップを見る。
「一緒に夜へ残る必要はない」
「はい」
「ミレアにも、それを言う?」
一夜は少し考える。
「言いません」
「なぜ」
「同じ痛みだと決めたくないので」
リディアの目が少し見開かれる。
「似ていても」
一夜は続ける。
「ミレアさんはミレアさんです」
娘を失った母親。
部下を失った副隊長。
同じではない。
「だから」
一夜は言う。
「俺たちの答えを渡すんじゃなくて」
「本人に聞く」
レイが続けた。
「どうしたいか」
「はい」
しばらく。
誰も話さなかった。
その沈黙の中。
一夜は、自分用のメモへ書き始める。
次回の目的。
黒い鍵の確認。
現行ノクスとの対話。
エリスへ直接触れない。
固定記憶を壊さない。
ミレア自身の意思を確認する。
「質問があります」
テオが手を上げる。
「どうぞ」
「ミレアが」
少し言葉を選ぶ。
「娘を朝へ行かせたくない、と自分で選んだら?」
一夜の手が止まる。
難しい。
本人の選択を尊重する。
それだけなら。
残りたいと言えば。
残せばいい。
でも。
ノクスは。
自分だけではなく。
ほかの人まで夜へ固定している。
「ミレアさん自身が夜に残ることと」
一夜は答える。
「ほかの人を残すことは、別です」
「本人だけなら?」
「……考えます」
「すぐ答えない?」
「はい」
一夜はテオを見る。
「重要なので」
レイが小さく笑った。
「持ち帰ってから考える」
「そういうことです」
「便利だ」
「だから覚えなくていいところばかり」
空気が少しだけ和らぐ。
夕方。
地下へ続く反応は静かなままだった。
【地下接続:休止】
【現行夜側維持役:活動低下】
【固定記憶:維持】
一夜はテントの入口に座る。
横にはリディア。
少し離れてレイ。
3人とも。
何をするでもなく。
中庭を眺めている。
「これ」
レイが言った。
「何です?」
「散歩と同じ?」
「全然歩いてませんけど」
「目的がない」
「休憩ですね」
「何もしない時間」
「そうです」
レイは少し考える。
「悪くない」
「でしょう」
リディアが言う。
「コーヒーがあれば、もっといい」
「またそこですか」
「今は飲みたい」
「では淹れます」
「私はいらない」
レイが即答する。
「知ってます」
一夜が立ち上がる。
リディアがカップを差し出した。
「濃いのを」
「はいはい」
「返事が軽い」
「休憩なので」
一夜は湯を沸かす。
急がない。
今すぐ答えを出さない。
223年間続いた夜だからこそ。
こちらまで夜の速度に合わせる必要はない。
その時。
説明書が静かに開いた。
【現行夜側維持役より】
【接触要求】
一夜の手が止まる。
「来ました」
「地下が?」
リディアが立ち上がろうとする。
「待って」
一夜は表示を読む。
【接触方式】
【音声のみ】
【地上側安全地帯への侵入要求:なし】
「話すだけみたいです」
ダリウスも近づく。
「受けるか」
一夜はすぐに答えなかった。
「皆で聞きます」
「1人では?」
「やめておきます」
説明書へ触れる。
「接触を受けます」
【接触開始】
中庭の地面から。
女性の声。
『泊一夜』
一夜は返事をしない。
名を呼ばれている。
リディアが一夜を見る。
『答えなくて構いません』
女性の声は。
地下で聞いた時より。
ずっと弱かった。
『お願いがあります』
一夜はダリウスを見る。
団長がうなずく。
「内容だけ聞け」
一夜は名前を使わずに答える。
「聞いています」
一瞬。
地下が静かになる。
『あの子を』
ミレアの声が震えた。
『エリスを』
一夜の手に力が入る。
『朝へ連れていく方法を』
長い沈黙。
『教えてください』
223年間。
娘を眠らせ続けた母親が。
初めて。
自分から。
朝という言葉を口にした。




