第68話 娘を起こさないで
「走れ!」
ガレスの声と同時に、8人が奥の扉へ駆けた。
閉まり始めた石扉。
先頭のガレスが滑り込む。
続いて騎士。
テオ。
レイ。
「急げ!」
最後尾のリディアが振り返る。
寝台。
少女。
ミレアと書かれた木札。
少女は起き上がらない。
ただ、こちらを見ていた。
「お母さん」
小さな声。
「帰ろうよ」
『やめて!』
ノクスの叫びが地下へ響く。
『その子に触れないで!』
石扉がさらに閉じる。
「副隊長!」
リディアが飛び込んだ。
直後。
ガンッ、と鈍い音。
扉が閉じる寸前で止まった。
「何だ?」
ガレスが見る。
帰還ロープ。
8人を地上へつないでいる主ロープが、扉の間に挟まっていた。
「まずい」
リディアが扉へ手をかける。
「閉まれば切れる」
「押し返せ!」
騎士たちが石扉を押す。
重い。
少しも動かない。
テオが腰から鉄杭を抜いた。
「これを!」
隙間へ差し込む。
石と石の間。
鉄杭が食い込む。
「離れろ!」
ガレスの合図。
石扉がさらに閉じる。
ギィッ。
鉄がきしむ。
だが。
止まった。
隙間は、わずか。
それでもロープは潰されていない。
「持つか?」
「長時間は無理です」
テオが鉄杭を見る。
少しずつ曲がっている。
「戻るなら今です」
ガレスがリディアを見る。
リディアは即座に答えなかった。
奥。
新しい通路。
青白い光。
そして。
ここまで来た目的。
「状態確認」
全員が答える。
意識あり。
負傷なし。
眠気。
少し強くなっている。
「レイ」
「進める」
「判断は?」
「できる」
「ガレス」
「鉄杭が持つ間なら」
リディアは奥を見る。
「次の区画を確認する」
「何分」
「5分」
「超えたら」
「撤退」
ガレスがうなずいた。
「了解」
誰も。
今しかないからと。
時間を無視して進まない。
5分。
最初に決める。
その範囲で見る。
リディアは主ロープを1度、強く引いた。
長く1回。
全員無事。
地上。
「来た」
一夜がロープの動きを確認する。
「長く1回」
「全員無事だな」
ダリウスが返す。
一夜は説明書を見る。
【地下班:8人】
【接続状態:維持】
【帰還経路:圧迫あり】
「圧迫?」
【物理接続地点に強い荷重を検出】
「扉に挟まったかもしれません」
一夜がロープを触る。
張りはある。
だが。
いつもより重い。
「引くか?」
「今は駄目です」
「なぜ」
「向こうが進んでいるなら、引いた方が擦れます」
一夜はロープの根元へ布を巻く。
「荷重を分散します」
さらに。
予備ロープを主ロープへ結ぶ。
石柱へ回す。
「これで切れた時の完全喪失は防げる?」
【補助接続を確認】
【主接続切断時、帰還標識補助として利用可能】
「帰還そのものには弱いけど、方向は失わない」
ダリウスがうなずく。
「やれ」
一夜は結び目を締めた。
「これで」
少し安心したところで。
説明書へ新しい表示。
【地下側感情反応:急上昇】
「感情?」
【現行夜側維持役】
【恐怖反応】
一夜の手が止まった。
「ノクスが怖がってる」
「地下班を?」
「違うかもしれません」
説明書は続く。
【恐怖対象】
【固定記憶の変化】
一夜は中庭の地面を見る。
「何かを守ってる」
地下。
リディアたちは通路を進んだ。
左右の壁には。
扉。
また扉。
それぞれに、小さな札がついている。
「何の部屋だ」
テオが尋ねる。
レイが最初の扉へ近づく。
触らない。
見るだけ。
「名前がある」
「読める?」
「一部だけ」
札には。
エド。
別の扉。
レオン。
さらに。
知らない名前。
「歴代ノクス?」
ガレスが低く言う。
「可能性がある」
レイは扉の向こうへ耳を近づける。
かすかな声。
『もう少し休ませて』
『私が見ている』
『朝は危険だ』
「記憶の部屋」
レイが言う。
「たぶん」
リディアは触れない。
「時間は」
「残り3分」
進む。
通路の最奥。
小さな部屋。
扉はない。
中には。
椅子が1脚。
古い机。
そして。
机の上に。
黒い鍵が置かれていた。
「鍵」
ガレスが剣へ手を伸ばす。
「触るな」
リディアが止める。
部屋の奥。
壁一面に。
黒い糸が張り巡らされている。
数百。
いや。
数千。
すべて。
どこかへ続いている。
「これが」
レイの呼吸が乱れる。
「どうした」
「知っている」
レイは頭を押さえる。
「私が作られた時」
膝をつく。
「ここから、情報が来た」
「レイ!」
リディアが近づこうとする。
「待って」
レイ自身が手を出して止めた。
「今は、触らないで」
「分かった」
リディアは止まる。
「状態を言え」
「記憶が」
レイが歯を食いしばる。
「増えている」
「何が見える」
「誰かが泣いてる」
声が震える。
「違う」
「何が」
「たくさん」
黒い糸が。
微かに脈打つ。
「朝へ行きたくないと思った人たち」
レイの額に汗。
「全部じゃない」
「全部見るな」
リディアが強く言う。
「戻れ」
「でも」
「目的を忘れるな」
レイの呼吸が止まる。
「あなたが知りたいと言ったことは」
「……ああ」
「ここで壊れることではない」
レイは目を閉じる。
数秒。
深く息を吐く。
「戻る」
「判断できる?」
「できる」
「本当に?」
「今は」
「なら、鍵だけ確認する」
触れない。
見る。
黒い鍵の横。
古い文字。
テオが写しと照らす。
「読めない」
ガレスが時間を見る。
「残り1分」
「撤退準備」
リディアが言った。
その時。
椅子へ。
誰かが座っていた。
さっきまで。
誰もいなかったはずなのに。
女性。
黒い長髪。
ひどく痩せている。
年齢は分からない。
若くも。
老いても見える。
目だけが。
疲れ切っていた。
「帰るのですか」
同じ声。
ノクス。
女性は、黒い鍵へ手を置く。
「まだ」
リディアが答えた。
「今日は確認だけだ」
「私と話さずに?」
「話す」
「なら」
女性が微笑む。
「ここへ残って」
リディアの手が剣へ近づく。
「それは断る」
「どうして」
「話すことと、残ることは別だ」
女性は少し驚いた顔をした。
「……そうでしたね」
「何が」
「昔は」
ノクスが鍵を見る。
「私も、そう言っていました」
リディアの表情が変わる。
「あなたは」
「ノクスです」
「それは役割名だ」
「それだけで十分」
「本当に?」
女性の笑顔が消える。
「名前は」
「必要ありません」
「娘の名前は覚えているのに?」
空気が凍った。
女性の指が。
鍵へ強く食い込む。
「触れないで」
「ミレア」
リディアは続ける。
「寝台にいた少女」
「その名を呼ばないで!」
黒い糸が一斉に揺れる。
ガレスが叫ぶ。
「時間だ!」
「撤退!」
全員が反転する。
ノクスは追ってこない。
ただ。
椅子へ座ったまま。
震えている。
「起こさないで」
声が小さい。
「お願いします」
リディアが足を止めかける。
だが。
進む。
約束した。
その場では決めない。
「今日は帰る」
振り返らずに言う。
「また来る」
ノクスの声。
「来なくていい」
リディアは答えない。
8人は通路を走った。
石扉。
鉄杭は。
限界だった。
「急げ!」
テオが先に隙間を抜ける。
レイ。
騎士。
続く。
最後。
リディアが抜けた瞬間。
鉄杭が折れた。
石扉が閉じる。
帰還ロープが。
強く挟まる。
ブツッ。
嫌な音。
「切れた!」
主ロープが切断された。
一瞬。
全員の足元にある帰還標識が。
弱くなる。
「止まるな!」
ガレスが叫ぶ。
「補助標識は生きてる!」
レイが前を見る。
「分かる!」
地上。
緑色の安全地帯。
方向だけは。
残っている。
8人は階段を駆け上がった。
地上。
一夜の手から。
ロープの力が消えた。
「切れた!」
ダリウスが立つ。
「帰還標識は!」
一夜は説明書を見る。
【主物理接続:切断】
【補助接続:維持】
【地下班帰還標識:有効】
「生きてます!」
「引けるか」
「牽引は無理!」
だが。
方向はある。
「入口を開けたままにしてください!」
騎士たちが点検口へ走る。
数十秒。
長い。
一夜は説明書を見つめる。
【地下班:8人】
変わらない。
次。
【帰還者:1人】
「来た!」
テオ。
点検口から飛び出す。
【帰還者:2人】
レイ。
【3人】
【4人】
【5人】
ガレス。
【6人】
【7人】
一夜は息を止める。
最後。
階段から。
リディアが現れた。
【帰還者:8人】
【地下班全員帰還】
「全員!」
ダリウスが叫ぶ。
「安全地帯へ!」
8人が。
順番に。
境界へ入る。
一夜はまず人数を見る。
「8人」
次に。
「負傷は?」
「なし」
「呼吸」
「全員できる」
「意識」
「問題ない」
レイが地面へ座り込む。
「眠い」
「今は寝ないでください」
一夜が水を渡す。
「状態確認してから」
「分かった」
リディアも椅子へ座る。
一夜が見る。
「無理しました?」
「していない」
「本当に?」
「撤退時間を守った」
「それは確認しました」
「ロイドにも返事をしていない」
「今日は出ませんでした?」
「出た」
一夜の手が止まる。
「でも」
リディアが続ける。
「決めなかった」
「何を?」
「何も」
一夜は少し安心する。
「それでいいです」
「そして」
リディアはノクスのことを話した。
女性。
椅子。
鍵。
ミレア。
娘。
一夜は黙って聞く。
「娘を起こすな、と」
「はい」
「寝台にいるものは本人ではない」
「たぶん」
レイが水を飲みながら言う。
「でも」
「何?」
「あれは」
レイの表情が苦しそうになる。
「ミレアが最後に見た娘の記憶だと思う」
一夜が聞く。
「最後に?」
「娘が死ぬ前」
レイは目を閉じる。
「避難所へ来られなかった」
223年前。
ミレア・サーンの娘は。
夜間避難所へたどり着けなかった。
「でも、寝台には」
「届いたことにしている」
レイが答える。
一夜の胸が重くなる。
「地下が?」
「ミレアが」
全員が静かになる。
「自分で作った?」
「たぶん」
レイは言う。
「娘がちゃんと避難所へ着いて」
「眠れて」
「朝を待ってる」
「そういう記憶を」
リディアがつぶやく。
「223年間」
レイがうなずいた。
「起こせない」
「起こしたら」
一夜が言う。
「娘がもういないことを認めないといけない」
説明書が開いた。
【固定記憶を解析】
【対象:ミレア】
【分類:喪失否認型記憶固定】
【役割維持との結合を確認】
「これです」
一夜が読み上げる。
「ノクスを続けてる理由の1つ」
娘を休ませている。
そう思っている限り。
夜は終われない。
「じゃあ」
テオが尋ねる。
「少女を起こせば、終わる?」
一夜はすぐに首を横へ振った。
「そんな簡単じゃないと思います」
【警告】
【固定記憶の外部強制解除は、役割保持者の自己識別崩壊を招く可能性があります】
「やっぱり」
「無理に起こせない?」
リディアが聞く。
「はい」
「本人が」
「ミレアさん自身が」
一夜は言った。
「娘を起こすと決めないと」
リディアが深く息を吐く。
「223年できなかったことを」
「そうなります」
「どうする」
一夜は。
すぐには答えなかった。
誰かの大事な記憶。
そこへ。
正しいからと。
外から手を突っ込む。
それは。
今までのノクスと同じかもしれない。
「まず」
一夜は鍋を取り出した。
「食べましょう」
ガレスが呆れる。
「今、その話の後で?」
「その話の後だからです」
一夜は答える。
「全員帰ってきました」
「そうだな」
「確認もしました」
「ああ」
「次は食事です」
リディアが少し笑った。
「決めた手順通りだ」
「はい」
一夜は火をつける。
「答えは」
鍋へ水を入れる。
「食べて」
乾燥スープ。
麦。
干し肉。
「休んでから考えます」
レイが顔を上げる。
「干し肉」
「約束しましたね」
一夜は。
レイの器だけ。
少し多めに入れた。
「帰ってきたので」
レイは。
ほんの少し。
笑った。
「うん」
223年間終わらなかった夜を。
今すぐ終わらせる必要はない。
終わらせるために。
急がない。
それが。
一夜たちが、ノクスと違うところだった。




