第7話 休むのも、役目だと思います
森の奥から響いた遠吠えは、少しずつ遠ざかっていった。
宵喰い狼の群れが、どこかへ移動している。
リディアは安全地帯の境界に立ったまま、東の森を見つめていた。
「村へ向かっている」
一夜には、そう聞こえた。
「分かるんですか?」
「あの方向には獣道がある。森を抜ければ、ハルト村の北側へ出る」
「村まで、どれくらいです?」
「通常なら2時間ほどだ」
「通常なら?」
「宵喰い狼は、人間より速い」
リディアは剣の柄を握り直した。
「今から追えば、村へ到達する前に止められる」
「その体でですか?」
「食事のおかげで動ける」
「傷が治ったわけじゃありません」
「十分だ」
「十分じゃないです」
一夜はリディアの前へ回り込んだ。
彼女が安全地帯の外へ出れば、言葉が通じなくなる。
止めるなら今しかない。
「どけ」
「嫌です」
「あなたに、私を止める権利はない」
「権利はないですけど、見送る義務もありません」
「何?」
「死にそうな人が歩いていくのを、黙って見ている必要もないでしょう」
リディアの目が細くなる。
「私は死なない」
「さっきから、そればかりですね」
「事実だ」
「じゃあ、手を離してください」
一夜はリディアが握っている剣を指した。
「何?」
「柄から手を離して、10秒立っていられたら、止めません」
「そのようなことをする意味が――」
「できないんですか?」
リディアの表情が険しくなる。
「私を試しているのか」
「はい」
一夜は即答した。
「本当に戦える状態なのか、確認したいです」
「あなたに騎士の状態が判断できるとは思えない」
「騎士のことは分かりません。でも、倒れそうな人なら分かります」
リディアは一夜をにらみながら、剣の柄から手を離した。
「これでいいか」
「10秒です」
「子供扱いするな」
「1」
「本当に数えるのか」
「2」
リディアは背筋を伸ばして立っている。
「3」
問題はないように見えた。
「4」
左足がわずかに揺れた。
「5」
リディアの顔がゆがむ。
「6」
包帯の下から、赤い染みが広がり始めた。
「もういいです」
「まだ10秒経っていない」
「十分です」
一夜が手を伸ばす。
「触れるな」
「倒れますよ」
「倒れない」
リディアが1歩踏み出した。
膝が崩れる。
一夜は慌てて彼女の体を支えた。
鎧の重さが両腕へかかる。
「ほら!」
「……足を滑らせただけだ」
「地面は平らです!」
「苔がある」
「テントの中です!」
言い訳が苦しくなっている。
リディアは一夜の肩を借りたまま、立ち上がろうとした。
しかし、足に力が入っていない。
「放せ。時間がない」
「放したら倒れます」
「構わない」
「俺が構います」
「村の人間が危険にさらされている」
「あなたが今ここで倒れたら、誰が村へ知らせるんです?」
「だから、行くと言っている」
「行ける状態じゃないでしょう!」
一夜の声が大きくなった。
リディアが動きを止める。
外では宵喰い狼が安全地帯の周囲を歩き回っている。
透明な壁を挟んでいるとはいえ、大声を出すべき状況ではない。
それでも、一夜は言葉を抑えられなかった。
「あなたが村を守りたいのは分かります」
「ならば、どけ」
「でも、今のあなたが行っても、途中で倒れるだけです」
「倒れない」
「さっき倒れました!」
「あれは――」
「足を滑らせたんですよね。テントの中の苔で」
リディアが口を閉じた。
一夜は彼女を保温シートの上へ座らせる。
今度は、リディアも強く抵抗しなかった。
「どれくらい休めば、動けるようになります?」
「休んでいる時間はない」
「質問に答えてください」
「分からない」
リディアの声が小さくなった。
「治癒術を使える者がいれば、別だ。だが、この傷では――」
「眠った場合は?」
「何?」
「この安全地帯には、疲労を軽減する効果があります。スープを飲んだだけでも、少し楽になったんですよね」
「だからといって、眠れば傷が治るとは限らない」
「治るとは言ってません。今より動けるようになるかもしれない」
「その間に、群れは村へ近づく」
「今のまま追いかけるよりは、可能性があります」
「可能性だけで、村人の命を危険にさらせというのか」
一夜は言葉に詰まった。
リディアの言うことも間違ってはいない。
彼女が休んでいる間にも、宵喰い狼は移動する。
村へ着けば、被害が出るかもしれない。
だが、ここから飛び出しても、今のリディアでは群れに追いつく前に倒れる可能性が高い。
「他に道はないんですか?」
「何?」
「村へ行く道です。宵喰い狼が使っている獣道以外に」
「南側へ回る街道がある。だが、遠回りになる」
「どれくらい?」
「歩けば4時間以上だ」
「魔物が少ない道ですか?」
「街道周辺は巡回がある。森の中よりは安全だ」
一夜は考えた。
今すぐ獣道を進む。
リディアは途中で倒れる。
一夜だけでは彼女を運べない。
宵喰い狼に追いつかれれば、2人とも終わる。
ならば、少しでも休ませてから街道を目指す方がいい。
「日が暮れるまで、あと何時間くらいです?」
「4時間ほどだ」
「1時間だけ休みましょう」
「長すぎる」
「では、30分」
「駄目だ」
「15分」
「交渉の問題ではない」
「じゃあ、何分なら納得します?」
「休むつもりはない」
「話が戻ったな……」
一夜は額を押さえた。
会社で納期を調整する時より難しい。
取引先なら、予定表や数字を見せれば話が進む。
目の前の女騎士には、自分の命を予定へ入れる習慣がない。
「リディアさん」
「何だ」
「あなたの任務は、宵喰い狼を全部倒すことですか?」
「村を守ることだ」
「なら、あなたが生きて村へ情報を届けることも、任務ですよね」
リディアが黙る。
「途中で倒れれば、群れの数も、進んだ方向も、村へ伝わりません」
「……それは」
「1人で戦って死ぬより、生きて知らせる方が村を守れるんじゃないですか?」
「私が死ぬと決めつけるな」
「決めつけていません。死ぬかもしれない状態だと言ってるんです」
一夜は彼女の包帯を指した。
赤い染みは、少しずつ大きくなっている。
「その傷を見て、大丈夫だと思える人はいません」
「騎士は、多少の負傷で任務を投げ出さない」
「休むことは、投げ出すことじゃありません」
リディアの顔が強張った。
一夜は言葉を続けた。
「休んで、もう1度立つための時間です」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってます」
「何が分かる」
低い声だった。
「休んでいる間に、誰かが死ぬかもしれない。目を閉じている間に、助けを求める者がいるかもしれない。それでも横になれと言うのか」
「はい」
一夜は答えた。
「今は、横になってください」
リディアの目に怒りが浮かぶ。
それでも、一夜は目をそらさなかった。
「あなたが眠っている間は、俺が見ています」
「あなたが?」
「戦えませんけど、魔物がどちらへ動いたかは見られます。説明書に変化があれば、すぐ起こします」
「危険が迫った場合はどうする」
「安全地帯の中にいます」
「結界が破られたら?」
「その時は、俺も一緒に逃げます」
「私を置いてか」
「背負えるか試します」
「無理だ」
「即答しないでください」
「先ほど、私を支えるだけで腕が震えていた」
「見てたんですね」
「周囲の把握は騎士の基本だ」
「自分が倒れたことも把握してください」
リディアが一夜をにらむ。
だが、その力も先ほどより弱かった。
体力が尽きかけている。
「30分です」
一夜は寝袋をテントの外へ引っ張り出した。
「眠れなくても、横になるだけでいいです」
「断る」
「では、座ったまま目を閉じてください」
「それも休息だろう」
「そうですよ」
「ならば断る」
「筋金入りですね……」
一夜は寝袋を広げ、保温シートの上へ置いた。
「俺はここで見張ります」
「魔物の動きを判断できるのか?」
「東へ行ったか、こっちへ戻ってきたかくらいなら」
「群れの鳴き方には意味がある」
「教えてください」
「何?」
「危険な鳴き方や、群れが移動する時の声。寝る前に教えてくれれば、聞き分けます」
「短時間で覚えられるものではない」
「何も知らないよりはましです」
リディアは一夜を見つめた。
疑うような目。
値踏みするような目。
やがて、深く息を吐く。
「高く、短い鳴き声を3回続けた場合は、獲物を見つけた合図だ」
「3回ですね」
「低い声が連続した場合は、群れを集めている。長く1度だけ鳴く場合は、縄張りを主張しているだけだ」
「分かりました」
「東から3回の鳴き声が聞こえたら、すぐに起こせ」
「はい」
「魔物が1匹でも離れた場合もだ」
「分かりました」
「何か異変があれば――」
「全部起こします」
一夜は寝袋を軽くたたいた。
「だから、休んでください」
「……30分だ」
「はい」
「それ以上は認めない」
「分かりました」
「眠るつもりはない。目を閉じるだけだ」
「それでもいいです」
リディアは剣を抱えたまま、寝袋の上へ横になった。
鎧を着たままでは休みにくそうだったが、外すつもりはないらしい。
「剣は置いた方が楽ですよ」
「断る」
「寝ている間に取りません」
「あなたを疑っているわけではない」
「では、何で?」
「目を覚ました時、武器が手元にないと困る」
「分かりました」
一夜はそれ以上何も言わなかった。
リディアが目を閉じる。
呼吸は浅い。
眉間には力が入ったままだ。
「眠れそうですか?」
「話しかけるな」
「はい」
「30分後に起こせ」
「分かりました」
「必ずだ」
「はい」
数分が過ぎた。
リディアの呼吸が少しずつ深くなる。
眉間の力も抜けていった。
一夜はスマートフォンの時刻を確認した。
圏外だが、時計は動いている。
「眠らないって言ってたのに」
小声でつぶやく。
返事はなかった。
完全に眠っている。
一夜はリディアの顔を見た。
眠ってしまえば、25歳の女性にしか見えない。
険しい表情も、騎士としての威圧感もない。
ただ、ひどく疲れた人間が横になっている。
「俺も、こんな顔で寝てたのかな」
休日。
昼まで眠り、食事をして、また眠る。
休んでいるはずなのに、罪悪感があった。
何もしていない。
時間を無駄にした。
そう考えながら、次の仕事へ備えていた。
一夜は外へ目を向ける。
宵喰い狼が2匹、安全地帯の周囲を歩いている。
ほかの個体は東へ移動した。
遠吠えは聞こえない。
「休むのも、役目か」
自分で言っておきながら、一夜自身もまだ理解できていない。
それでも、休まなければ動けない時がある。
動けないのに立ち続けても、守れるものはない。
一夜は懐中電灯を膝の上へ置き、森へ耳を澄ませた。
10分。
20分。
森に変化はない。
リディアの呼吸だけが、静かに続いている。
30分が近づいた。
一夜は彼女を起こすため、肩へ手を伸ばした。
その時だった。
説明書から、紙の擦れる音がした。
一夜は手を止める。
テントの中に置いていた説明書が、ひとりでに開いている。
白紙だったページへ、ゆっくりと黒い文字が浮かび始めた。
【宿泊者の休息を確認しました】
【負傷悪化抑制効果を継続中】
【朝到達判定――未完了】
「朝到達……?」
一夜は文字を見つめた。
まだ朝ではない。
リディアも、この場所で夜を越えてはいない。
説明書が何を数えようとしているのかは分からない。
ただ、その下に新しい1行が現れた。
【安全な睡眠を妨げないことを推奨します】
一夜はスマートフォンを見る。
約束した30分まで、あと1分。
リディアは深く眠っている。
今起こせば、彼女はまた立ち上がるだろう。
傷が治っていなくても、村へ向かうと言う。
一夜は伸ばした手を引っ込めた。
「怒られるだろうな」
眠っているリディアへ小さく言う。
「でも、もう少しだけ休んでください」
一夜は再び森へ向き直った。
約束の30分は、静かに過ぎていった。




