第59話 ノクスは、名前ではない
「ノクス・レイン」
一夜は、古い記録へ書かれた名前をもう1度読んでもらった。
「間違いないんですか?」
「文字自体はな」
ローレンが紙を机へ置く。
「27年前、第0貯水槽から戻った10人目。その後、地下水路管理責任者になった人物の名として残っている」
「その前の記録は?」
「ない」
「生まれた場所とか、家族とか」
「ない」
「騎士団へ雇われた記録は?」
「それもない」
「急に現れた?」
「ああ」
一夜はレイを見る。
レイも古い紙を見つめていた。
「私と似ている」
「地下から出てきて、あとから名前を持ったところは」
「違う」
レイが首を横へ振る。
「私は、自分で選んだ」
「そうですね」
「こいつは」
レイが記録を指す。
「選んだように見えない」
「どういうことです?」
「ノクスという音を聞くと、落ち着かない」
レイは胸へ手を当てた。
「記憶ではない。もっと深いところが反応する」
リディアが尋ねる。
「地下にいた時、その言葉を聞いたのか?」
「直接は覚えていない」
「なら、なぜ分かる」
「分からない」
一夜が少し笑う。
「便利でしょう、その言葉」
「今は笑うところではない」
「すみません」
レイはしばらく目を閉じた。
「ノクス」
自分で口にする。
肩がわずかに強張った。
「人の名前を聞いた感じがしない」
「では?」
「呼ばれた時に、何かをしなければならないような感じがする」
一夜の表情が変わる。
「役職みたいな?」
「もっと強い」
「命令?」
「近い」
ダリウスが腕を組む。
「言葉そのものが役割を持っている可能性があるか」
説明書が開いた。
【既知名称:ノクス】
【照合精度を更新します】
【固有名詞としての一致率:低】
【役割識別子としての一致率:高】
「役割識別子」
一夜が読み上げる。
「やっぱり、名前じゃない」
「具体的には何をする役割だ」
ガレスが尋ねた。
【解析情報不足】
「そこは教えてくれません」
「重要なところだろう」
「俺もそう思います」
「では、記録から探すしかないな」
ローレンは新しい紙束を机へ広げた。
「ノクス・レインが地下水路管理責任者になった後の記録がある」
「どれくらい?」
「約2年分」
「生きていたんですか」
「少なくとも、記録上は」
ローレンが最初の1枚を読む。
「就任から12日後。封鎖されていた第0貯水槽への進入を禁止」
「普通ですね」
「次」
紙をめくる。
「就任から31日後。夜間の地下作業を全面禁止」
「これも」
「63日後」
ローレンの指が止まる。
「第0貯水槽周辺で聞こえる声について、作業員へ新しい規則を通達」
「名前を呼ばれても答えるな?」
「それもある」
「ほかに?」
ローレンが読む。
「声が自分と同じでも、話を続けるな」
一夜とリディアが目を合わせた。
「模倣体を知ってる」
「ああ」
「本人も遭遇したんでしょうか」
「可能性は高い」
さらに次の記録。
「81日後。第0貯水槽から黒い液体が流出。封鎖壁を追加」
「まだ守ろうとしているように見えますね」
一夜が言う。
「続きがある」
ローレンは数枚飛ばした。
「174日後」
声が少し低くなる。
「封鎖壁を、本人の命令で撤去」
「え?」
「理由は?」
リディアが尋ねる。
「夜を閉じ込める必要はない、とある」
「急に変わった?」
「さらに」
ローレンが続ける。
「地下作業を再開。作業員へ、第0貯水槽から聞こえる声には可能な限り返答するよう命じた」
「真逆じゃないですか」
「ああ」
「同じ人なんですか?」
「記録上は」
「筆跡は?」
ローレンが一夜を見る。
「いいところに気づいたな」
「違う?」
「いや」
ローレンは2枚の書類を並べた。
「同じだ」
「それじゃ本人が書いた?」
「少なくとも、筆跡は」
一夜は顔をしかめる。
「模倣体なら、筆跡まで真似できるかもしれません」
「その可能性は否定できない」
レイが紙へ近づく。
「174日」
「何かあります?」
「この前に、地下へ入った記録は?」
ローレンが紙束を探す。
しばらくして、1枚を抜いた。
「ある」
「いつ?」
「172日後」
一夜の背中に寒気が走る。
「2日前」
「ああ」
「誰と入ったんです?」
ローレンは答えない。
「記録には」
紙を机へ置く。
「ノクス・レイン、1人」
「帰ってきた?」
「翌朝、地上で確認されている」
「ロープは?」
「記録なし」
「経路確認は?」
「ない」
「本人確認は?」
「されていない」
リディアの声が低くなる。
「入った者と、戻った者が同じだと誰も確かめていない」
「そうなります」
一夜は自分たちが決めた手順を思い出す。
顔では確認しない。
声でも。
記憶でも。
約束の言葉でもない。
つながった経路を確認する。
27年前には、その方法がなかった。
「最初のノクス・レインは」
一夜が言う。
「地下を封鎖しようとしていた?」
「そう見える」
「じゃあ、敵じゃなかったかもしれない」
ダリウスが静かに続けた。
「問題は、172日目に地下へ入った後だな」
「戻ったものが、本人ではなかった可能性がある」
リディアが言う。
「あるいは」
レイが口を開く。
「本人のまま、ノクスになった」
一夜が振り向く。
「どういうこと?」
「私も最初は、あなたになろうとした」
「はい」
「もし、あの時」
レイは安全地帯を見た。
「私はレイではなく、泊一夜として自分を固定していたら?」
「模倣体のままだった?」
「違うと思う」
レイの顔が険しくなる。
「もっと深く、役割に飲まれていた」
「役割」
「ノクスは」
レイは、言葉を探す。
「誰かの名前を奪って、その人になるものではないのかもしれない」
「では?」
「誰かに、ノクスという役割を着せる」
中庭が静かになる。
一夜は説明書を見る。
まだ何も表示されない。
「人間がノクスになる?」
テオが尋ねた。
「可能性の話だ」
レイが答える。
「私の中にある感覚だけなら」
「どんな役割なんです?」
一夜が聞く。
「朝を不要だと思う人を集める」
「それだけ?」
「集めて」
レイは目を閉じた。
「残す」
「どこに?」
「夜へ」
一夜は監視塔を思い出す。
ハルト村の朝を止めた黒い結晶。
西宿場の夜門。
役割へ閉じ込められた6人。
そして、地下で作られた模倣体。
「ノクスは、人の朝を奪ってるんじゃなくて」
一夜がゆっくり言う。
「朝を捨てたくなった人を、夜へ固定してる?」
説明書が開く。
【概念照合を開始】
「反応した」
【推定】
【ノクス】
【夜側維持役】
【機能:朝到達意思の低下した対象を夜側へ固定】
【機能:固定対象から得られる情報・記憶・役割の再利用】
【詳細不明】
「夜側維持役……」
ローレンが聞き返す。
「つまり、ノクスが1人いるのではない?」
「分かりません」
一夜は表示を読む。
「でも、役割なら」
リディアが続ける。
「別の者が引き継げる」
「はい」
「27年前のノクス・レインも、その前に誰かがいた可能性がある」
「あると思います」
ダリウスがローレンを見る。
「もっと古い記録を探せ」
「地下水路建設以前まで?」
「アルノに残っている最古の記録までだ」
「数百年分になります」
「やれ」
「簡単に言いますね」
「必要だ」
「分かりました」
ローレンは紙束を抱え直した。
一夜が声をかける。
「1人でやらないでくださいね」
「何?」
「記録官だから全部自分で、とやると大変です」
「あなたに言われるとは思わなかった」
「最近、学びました」
「補助を3人つけてもらう」
「いいと思います」
ダリウスも頷いた。
「5人つける」
「多すぎます」
「早く終わる」
「記録の扱いを知らない者が増えると、逆に遅くなります」
「では3人だ」
一夜は小さく笑った。
「ちゃんと話し合えてる」
「何がおかしい」
「いえ」
リディアが一夜の背中を軽く叩いた。
「あなたも座れ」
「今来たばかりですよ」
「3日休んだと言っていた」
「はい」
「なら、今は報告が終わった」
「次は地下の確認を」
「今日はしない」
一夜がリディアを見る。
「どうして?」
「あなたが戻るまでに、決めた」
「何を?」
ダリウスが答えた。
「地下へ入るのは明朝だ」
「今日じゃない?」
「ああ」
「接続が開くかもしれませんよ」
「現在は休止している」
「でも」
「設営者が戻ったからといって、即座に進める必要はない」
一夜は口を閉じた。
「その顔は何だ」
リディアが尋ねる。
「いや」
一夜は少し困って笑う。
「俺がいない間に、みんな同じことを覚えてるなと思って」
「必要なことだからだ」
「俺だけ遅れてる?」
「かなり」
「ひどい」
レイが口を挟む。
「干し肉は?」
「まだ覚えてたんですか」
「3日待った」
「分かりました」
一夜はバックパックを開ける。
保存袋を取り出した。
レイの分は、最初から少し多い。
「はい」
レイが受け取る。
中を見る。
「多い」
「希望通りでしょう」
「ああ」
「どうです?」
レイは1切れ口へ入れる。
ゆっくり噛む。
「うまい」
「それはよかった」
「コーヒーは?」
「いらない」
即答だった。
リディアが不満そうな顔をする。
「まだ言ってるんですか」
「1度飲めば変わるかもしれない」
「俺は淹れませんよ」
「なぜだ」
「本人が嫌だと言ってるので」
レイが一夜を見る。
「あなたは、本当に記憶と違う」
「3日でそんなに変わってませんよ」
「違う」
レイは干し肉をもう1切れ取る。
「記憶の中のあなたなら、頼まれたら折れていた」
一夜は少し考える。
「そうかもしれません」
「今は?」
「嫌だと言う人には出しません」
「それなら」
レイは干し肉を食べながら言う。
「私も、ノクスにはならない」
一夜の手が止まる。
「急ですね」
「同じだと思った」
「何が?」
「誰かに決められた役割を、そのまま自分にしない」
レイは自分の胸へ手を置いた。
「地下が私を作った理由が、何であっても」
静かに続ける。
「私は、それになる必要はない」
一夜はうなずいた。
「はい」
「泊一夜にも」
「ならなくていいです」
「ノクスにも」
「ならなくていい」
「レイでいい」
「それは自分で決めてください」
レイは少し笑った。
「今は、レイがいい」
一夜も笑う。
「では、それで」
説明書の端に、小さな文字が浮かんだ。
【宿泊者:レイ】
【自己識別:安定】
【朝到達意思:形成中】
一夜は、その最後の1行を見つめた。
まだ、レイは「朝へ行く」と決めていない。
それでも。
誰かになることを拒み。
自分で名前を選び。
好きなものを決め。
嫌なものを断った。
それはきっと。
朝へ向かう途中にある。
そして地下には、その正反対のものがいる。
人へ役割を与え。
そこから動けなくする存在。
ノクス。
名前ではない。
役割。
ならば。
倒すべき相手は、1人ではないのかもしれない。
もっと厄介なのは。
誰かがその役割を引き受け続ける限り。
ノクスという存在そのものが、終わらない可能性だった。




