第58話 帰ってきた日は、帰ってきただけでいい
午前5時56分。
一夜はテントの中で、説明書を開いたまま座っていた。
【往還完了】
【現在地:現実世界】
【追跡接続:1件】
【出発地点側経路鍵により拒否】
【往還経路:閉鎖済み】
何度見ても、表示は変わらない。
「ちゃんと止めてくれたんだな」
レイが。
自分で選んで。
拒否した。
一夜は説明書を閉じる。
「ありがとう」
もう1度だけ口にしてから、寝袋をたたんだ。
テントの外へ出る。
空は薄い青色。
キャンプ場はまだ静かだった。
ほかの利用者のテントからも、人が動く気配はほとんどない。
一夜は右足を地面へつけた。
「……痛っ」
歩けないほどではない。
だが、足首へ体重がかかると鈍い痛みが走る。
異世界で巻かれた布は、そのまま残っていた。
「約束しましたからね」
誰もいない場所でつぶやく。
まず撤収。
その後、病院。
異世界へ戻るのは、それからだ。
4本のペグを順番に抜く。
最後の1本へ手をかける前に、一夜は説明書を確認した。
【現実世界側設営地点】
【接続固定状態:維持】
【設営解除により固定を解除できます】
「解除します」
最後のペグを抜いた。
テントが普通の緑色の布へ戻る。
説明書の文字が変わった。
【設営解除を確認】
【現実世界側接続地点:非固定】
【往還経路:閉鎖】
【外部探索効率:大幅低下】
【現在、現実世界への接続経路は存在しません】
一夜は大きく息を吐いた。
「これでいい」
テントを畳む。
いつもなら10分程度で終わる作業に、今日は倍近くかかった。
右足へ体重をかけないようにするせいで、何をするにも遅い。
途中で何度か、
「これくらいなら」
と立ち上がろうとして。
そのたびに座り直した。
「言われたばっかりだしな……」
無理をしない。
誰かに言うだけでは意味がない。
自分にも適用する。
全部の荷物をまとめ終えた頃には、空がかなり明るくなっていた。
◇
管理棟が開くのを待ち、一夜はスタッフへ事情を話した。
「ちょっと足を痛めまして」
「大丈夫ですか?」
「歩けるんですけど、一応診てもらおうかと」
口にした瞬間。
異世界の何人かから怒られそうな言い方だと思った。
「いや」
一夜は言い直す。
「歩けますけど、痛いので診てもらいます」
スタッフが少し不思議そうな顔をした。
「……はい。その方がいいと思います」
「ですよね」
タクシーを呼んでもらい、荷物は一度管理棟で預かってもらうことになった。
一夜は近くの休日診療を行っている医療機関へ向かった。
「骨には異常ありませんね」
診察室。
医師が画像を確認しながら言った。
「打撲と、軽い擦過傷です」
「よかった」
「何をしたんです?」
一夜は少し考える。
夜の中で、巨大な黒い手につかまれた。
とは言えない。
「キャンプ中に足を取られて、転びました」
「何かに挟みました?」
「ロープに……近いです」
「近い?」
「説明しにくい転び方で」
医師はそれ以上追及しなかった。
「腫れは強くありません。ただ、数日は無理に歩かない方がいいでしょう」
「数日ですか」
「仕事は立ち仕事ですか?」
「動く仕事です」
「痛みが増えるようなら休んでください」
一夜は一瞬だけ黙った。
以前なら。
歩ける。
骨折していない。
なら仕事へ行ける。
そう考えていた。
「分かりました」
今は、そう答えられた。
「あと、痣が少し変わった形をしていますね」
「そうですね」
「何かにつかまれました?」
一夜は右足を見る。
5本の指のような痕。
「……そんな感じです」
「まあ、悪化しなければ問題ないでしょう。冷やして、今日はなるべく安静に」
「はい」
診察室を出る。
一夜はスマートフォンを取り出した。
「受診しましたよ」
誰にも届かない報告をしてから、少し笑った。
荷物を回収して家へ戻る。
シャワー。
着替え。
簡単な朝食。
薬。
そこまで済ませると、一夜はベッドへ倒れ込んだ。
テントは収納袋に入れたまま、部屋の隅に置いてある。
説明書も、その上。
広げなければ。
つながらない。
「今日は、行かない」
声に出して決めた。
地下では、何かが動いている。
レイも。
リディアも。
ダリウスもいる。
自分がいなければ、何もできないわけではない。
むしろ。
一夜が現代へ戻った時点で、異世界側にはテントそのものが存在しない。
今できることは、自分の体を戻すこと。
「帰ってきた日は、帰ってきただけでいいか」
目を閉じる。
眠りにつくまで、ほとんど時間はかからなかった。
次に目を覚ましたのは、午後2時を過ぎてからだった。
一夜は右足を確認する。
まだ痛む。
「今日は本当に駄目だな」
ベッドの上で説明書を開く。
【現在地:現実世界】
【設営状態:未設営】
【往還経路:なし】
【外部探索反応:検出不能】
「検出不能?」
嫌な言葉だった。
【往還経路が存在しないため、外部からの探索は到達できません】
「それならいい」
続いて、異世界側の状態。
【異世界側接続予定地点】
【アルノ辺境騎士団本部中庭】
【接続地点情報:保持】
【次回設営まで実接続は形成されません】
「向こうから、こっちへ来ることもできない」
少なくとも。
今は。
一夜は説明書を閉じた。
1日目。
休んだ。
2日目。
右足の腫れは、かなり引いた。
仕事についても無理をしないよう調整し、帰宅後は異世界へ行かなかった。
3日目。
一夜は普通に歩いても、ほとんど痛みを感じなくなっていた。
ただし。
失った右足のアウトドアシューズは戻ってこない。
「片方だけじゃ、どうしようもないよな」
同じ靴をもう1足買うことも考えたが。
結局、新しい靴を用意した。
以前より、少しだけ足首を守れるタイプ。
履いてみる。
「悪くない」
異世界へ持っていく荷物も確認する。
ロープ。
予備ペグ。
カラビナ。
救急用品。
食料。
水。
コーヒー。
そして。
干し肉。
「レイの分」
一夜は少し多めに入れた。
「コーヒーはいらない、と」
自分でも笑う。
泊一夜の記憶を持って生まれたのに。
コーヒーが嫌い。
それだけでも、十分別人だった。
その日の夕方。
一夜は再びテントを設営した。
4本のペグ。
ポール。
ロープ。
完全に張り終える。
【設営を確認】
【Lv3】
【安全地帯:半径4メートル】
【異世界側接続予定地点】
【アルノ辺境騎士団本部中庭】
説明書を確認する。
「今から異世界へ行った場合、追跡されますか?」
しばらく白紙。
やがて文字が浮かぶ。
【現在確認されている追跡源は、異世界側に存在します】
【現実世界から異世界への往還時、追跡源が出発経路へ侵入することはできません】
【到着後は速やかに安全地帯を確立してください】
「今回は、そのまま戻っていいんですね」
【推奨】
【次回、異世界から現実世界へ帰還する前に再度経路保護を行ってください】
「了解」
一夜は寝袋へ入る。
少し緊張する。
3日前。
異世界から帰る時には、レイが道を守ってくれた。
今回は1人。
それでも。
「戻ります」
目を閉じた。
風の匂いが変わった。
土。
石。
焚き火。
金属。
一夜は目を開ける。
緑色のテント。
外から騒がしい声が聞こえている。
「来たぞ!」
「天幕だ!」
「団長へ知らせろ!」
一夜は寝袋から起き上がった。
【往還完了】
【現在地:異世界】
【安全地帯:正常】
【朝到達記録:80】
数字は変わっていない。
レベルもLv3のまま。
「ただいま、でいいのかな」
一夜はテントの入口を開けた。
アルノ辺境騎士団本部の中庭。
3日前と同じ場所。
地面には、前回ペグが刺さっていた位置へ白い印が描かれている。
騎士たちが遠巻きに集まっていた。
「設営者!」
ガレスが駆けてくる。
「戻ったか!」
「戻りました」
「足は?」
「病院へ行きました」
「ビョウイン?」
「現代側の治療施設です」
「問題は?」
「骨に異常なし。打撲でした」
「なら、よし」
「ガレスさんまで確認するんですね」
「副隊長から厳命されている」
「想像できます」
その時。
本部棟の扉が勢いよく開いた。
リディアが出てくる。
走りかけ。
途中で速度を落とす。
一夜は、新しく買った靴を見せた。
「受診しました」
「本当に?」
「骨に異常なし。数日は無理をしないように、と」
「数日休んだか」
「3日」
「仕事は?」
「調整しました」
「痛みは?」
「今はほぼありません」
リディアは一夜の右足を見る。
それから顔。
「約束を守ったな」
「はい」
リディアが右手の親指を立てる。
一夜も返す。
「オカエリ」
一夜の手が止まった。
「覚えたんですか」
「帰ってきた者へ言う言葉だろう」
「はい」
一夜は少しだけ笑った。
「ただいま」
「タダイマ」
「それは帰った側が言います」
「そうなのか」
「今度、教えます」
「今教えろ」
「あとで」
「干し肉は?」
聞き覚えのない低い声。
一夜が振り向く。
本部棟の入口に、レイが立っていた。
簡素な灰色の服。
黒い髪。
一夜とはまったく違う顔。
腰には武器もない。
両手首にも拘束具はついていなかった。
ただし、その左右には騎士が1人ずついる。
「いきなりそこですか」
「3日待った」
「待ってたんです?」
「干し肉を」
「俺じゃなく?」
「両方だ」
一夜はバックパックを開く。
「多めに持ってきました」
袋を見せる。
レイの表情が少し緩む。
「覚えていた」
「約束ではありませんけどね」
「私にとっては、初めて他人が覚えていた好みだ」
一夜は袋を持つ手を止めた。
「……そうですね」
「だから、少しうれしい」
「では、あとで食べましょう」
「今では駄目か」
「団長への報告が先です」
リディアが言った。
「コーヒーもだ」
「それは後です」
「3日待った」
「レイと同じこと言わないでください」
「私は約束していた」
「してません」
ダリウスが中庭へ現れた。
「戻ったな」
「はい」
「現実世界への追跡は?」
「レイが止めてくれました」
レイを見る。
「経路は完全に閉じました」
「確認した」
「こちらでは?」
ダリウスの表情が変わる。
「3日間、大きな動きはない」
「大きな?」
「地下接続は形成されていない」
「では、小さい動きが?」
ローレンが古い紙の束を持ってやってきた。
「2日目の夜に、中庭の地面から3回音がしました」
「また3回」
「ああ」
「声は?」
「なかった」
一夜は説明書を見る。
【地下接続:休止】
【外部接触:未検出】
【地下方向から微弱な観測反応あり】
「観測されています」
「こちらを見ているだけか」
ダリウスが言う。
「それと、27年前の記録について新しいものが見つかった」
「何です?」
ローレンが1枚の古い紙を取り出した。
「第0貯水槽から戻った作業員は、当初9人と記録されていました」
「はい」
「違った」
「何人だったんです?」
「地下へ入ったのが9人」
ローレンが紙を開く。
「戻ってきたのは10人だ」
一夜は動きを止めた。
「1人、多い?」
「ああ」
「その人は誰です?」
「分からない」
「名前は?」
「記録されていない」
レイが、一夜の隣へ来た。
「私と同じか」
「模倣体?」
「可能性はある」
ローレンが続ける。
「問題は、その10人目がその後どこへ行ったかだ」
「記録がない?」
「いや」
ローレンは、もう1枚の紙を出した。
「ある」
「どこに?」
「27年前、第0貯水槽を封鎖する判断を下した人物」
一夜は嫌な予感がした。
「その人が?」
「地下へ入った9人の中にはいなかった」
ローレンが一夜を見る。
「だが、帰還した10人の中に混ざり」
紙へ書かれた役職を指す。
「その後、アルノの地下水路管理責任者になっている」
「名前は?」
ローレンは答えた。
「ノクス・レイン」
中庭が静まり返る。
一夜は説明書を開く。
ページが勝手にめくられていく。
【既知名称との照合を開始】
【照合中】
数秒後。
【一致判定:保留】
【警告】
【「ノクス」は固有名であるとは限りません】
一夜は文字を見つめる。
「ノクスって」
これまで敵そのものの名前だと思っていた。
「名前じゃない可能性がある」
レイが低い声で続けた。
「なら」
一夜は、27年前の記録を見る。
「俺たちがノクスだと思っていたものは、いったい何なんだ」




