第57話 帰る道の鍵を、預ける
「現実世界へ戻る前に、接続経路の保護が必要です」
一夜は説明書に浮かんだ文字を読み上げた。
緑色のテントの中。
ダリウス。
リディア。
ガレス。
そして、寝袋から起き上がったレイが説明書を見ている。
「保護する方法は?」
リディアが尋ねる。
「今、表示が増えました」
【往還経路への追跡を確認した場合、出発地点側から経路を閉鎖できます】
【必要条件】
【設営者とは異なる自己識別を持つ者】
【往還経路の認識経験を持つ者】
【現在の設営者へ置換する意思を持たない者】
【対象者本人の同意】
一夜は最後まで読み、レイを見た。
レイも、自分が見られている理由を理解したらしい。
「私だけか」
【条件適合者:1人】
【仮登録名:レイ】
「そうみたいです」
リディアの表情が険しくなる。
「待て」
「はい」
「帰る道の鍵を、その者へ渡すのか?」
「まだ、渡すと決めたわけではありません」
「ほかの方法は?」
一夜は説明書へ尋ねる。
「設営者だけで経路を閉じられませんか?」
【設営者は往還中、経路内部に存在します】
【内部からの完全閉鎖はできません】
「無理みたいです」
「地上側から誰かが閉じる必要があるのか」
ダリウスが言った。
「はい」
「その役目を担えるのが、レイだけ」
「今のところは」
レイは自分の両手を見た。
「地下へ戻らないために、この中へ入った」
「そうですね」
「今度は、地下から来るものを止めろと言う」
「嫌なら断ってください」
レイが顔を上げる。
「断ってもいいのか」
「もちろんです」
「私しかできないのに?」
「それでもです」
一夜は迷わず答えた。
「役割が必要だから、あなたを作ったわけではありません」
「私を作ったのは地下だ」
「ここへ入ることを選んだのは、レイです」
レイは黙った。
「断ったら、あなたはどうする」
「別の方法を探します」
「見つからなかったら?」
「今日は帰りません」
リディアが一夜を見る。
「現実世界の仕事は?」
「連絡できませんけど、帰るために道を渡す方が危険です」
「ずっと戻らないのか」
「そこまでは決めてません」
一夜は自分のスマートフォンを見る。
現代側と時間は同じ速さで進んでいる。
明日。
明後日。
仕事へ行かなければ、会社から連絡が来る。
キャンプ場の管理者も、一夜が予定日に撤収しなければ様子を見に来る。
「向こうにも、俺を待つ時間があります」
「ならば、なおさら――」
「だからといって、レイへ押しつけません」
一夜は説明書を閉じた。
「待つ側にも時間がある。でも、誰かの時間を勝手に使っていい理由にはならないので」
レイの目が、わずかに細くなる。
「泊一夜の記憶では」
「その名前を使わなくても大丈夫ですよ」
「あなたの記憶では」
レイは言い直した。
「頼まれれば、断れなかった」
「はい」
「今のあなたは、私に断っていいと言う」
「最近、練習しています」
「記憶と違う」
「俺も変わっていますから」
「なら」
レイは自分の胸へ手を置いた。
「あなたの記憶を持っていても、今のあなたと同じにはなれない」
「そうですね」
「少し安心した」
「鍵を渡した場合、何が起きる」
ダリウスが尋ねる。
一夜は再び説明書を開いた。
【出発地点側経路鍵】
【往還開始後、設営者以外の追跡接続を検出します】
【鍵保持者は追加接続を許可、または拒否できます】
【拒否された接続は出発地点側へ排出されます】
【経路閉鎖まで:10秒】
「俺が現実世界へ移動し始めてから、道が閉じるまで10秒あります」
「その間に何かが追えば、鍵を持つ者が拒否する」
「はい」
「拒否しなければ?」
【追跡対象が往還経路へ侵入する可能性があります】
「一緒に現代へ来るかもしれません」
リディアはレイを見る。
「信用できない」
「正しい」
レイはあっさり答えた。
リディアの眉が動く。
「反論しないのか」
「私は少し前まで、その男へ置き換わろうとしていた」
「覚えているなら話が早い」
「だから、自分を信用しろとは言えない」
レイは一夜へ向き直る。
「あなたも、信用するべきではない」
「完全には信用していません」
「正直だな」
「ダリウスさんに学びました」
「私か」
団長がわずかに眉を上げる。
「でも、信用できないから何も任せない、とは思いません」
一夜は説明書を指す。
「鍵には制限がありますか?」
【経路鍵は追跡接続への判断権限のみを付与します】
【設営権限・往還権限・接続先情報は付与されません】
「レイに渡るのは、追ってくるものを止める権限だけです」
「通す権限もある」
リディアが言う。
「はい」
「裏切れば終わりだ」
「だから、レイ1人に判断させません」
「何?」
一夜はダリウスとリディアを見る。
「安全地帯の中で鍵を使ってもらいます」
「保護領域が、敵意を確認する?」
「追跡対象を通そうとする理由が、俺との置換や危害なら反応するかもしれません」
「また、たぶんか」
「初めてなので」
説明書へ文字が追加された。
【鍵使用中の意図変化は、保護領域の入域判定へ反映されます】
「反映されるそうです」
「先に書け」
ガレスが低くつぶやいた。
「仲間が増えましたね」
一夜はテントの道具袋から、予備のカラビナを取り出した。
銀色の小さな金具。
「これを使います」
「それが鍵か?」
レイが受け取る前に眺める。
「今は、ただの金具です」
一夜はカラビナを説明書の上へ置いた。
【経路鍵の媒体を確認】
【登録しますか】
「登録します」
銀色だった金具の表面へ、細い緑色の線が浮かんだ。
線は円を描き、中央に小さな点を作る。
【出発地点側経路鍵を作成しました】
【有効回数:1回】
【使用後、媒体は通常状態へ戻ります】
「1回しか使えません」
「次に帰る時は?」
「また作る必要があります」
「毎回、私が必要なのか」
レイが尋ねる。
「次までに別の方法が解放されるかもしれません」
「解放されなければ?」
一夜は少し考えた。
「また頼んでもいいですか」
「今、まだ1回目を引き受けていない」
「そうでした」
一夜はカラビナを持ち上げた。
「レイ」
「何だ」
「帰る道の鍵を、預かってもらえますか?」
「地下から来るものを止めるために?」
「はい」
「あなたを現実世界へ帰すために?」
「はい」
「私が断れば、あなたは帰らない」
「別の方法が見つかるまでは」
「責任が重い」
「そうですね」
「軽く言うな」
「軽くは考えてません」
一夜はカラビナを差し出したまま待った。
受け取れとは言わない。
時間を決めない。
レイが答えるまで、手を動かさなかった。
「これを引き受けたら」
レイが言う。
「私は、帰る道を守る者になる」
「今回だけです」
「役割ではないのか」
「頼まれたことを引き受けるのと、それだけの存在になるのは違います」
「終わった後は?」
「スープを食べて、休んでください」
「干し肉は多めか」
「多めです」
「コーヒーは?」
「入れません」
「なら」
レイがカラビナへ手を伸ばした。
「今回は引き受ける」
【対象者の同意を確認】
【経路鍵保持者:レイ】
【自己識別状態:安定】
【設営者との置換意思:なし】
「登録されました」
レイは緑色の線が入った金具を握る。
「何をすればいい」
「俺が眠った後、説明書の文字がレイにも見えるようになるそうです」
【鍵保持中に限り、経路接続情報を共有します】
「追跡がなければ、10秒待つだけです」
「追跡があれば?」
「許可か拒否を選ぶ」
「拒否する」
「相手を確認してからにしてください」
「地下から追うものだろう」
「俺が忘れ物を送る可能性も」
リディアが一夜を見る。
「往還中に何を送る気だ」
「例えです」
「靴は送れなかった」
「持って帰ろうとはしてませんよ」
往還の準備を始める前に、一夜は現代側の情報を確認した。
【現実世界側接続地点:キャンプ場】
【現実世界側テント状態:設営維持】
【周辺異常:未検出】
【外部探索反応:継続中】
「現代側には、まだ何も来ていません」
「なら、今のうちだな」
ダリウスが言う。
「戻った後は?」
「テントを畳みます」
一夜は答えた。
「設営したままだと、接続地点として探されやすいかもしれません」
【現実世界側設営解除により、接続地点の固定を解除できます】
「帰ったら、すぐ撤収します」
「足は?」
リディアが尋ねる。
「現代側の靴があります」
「歩けるかではない」
「痛みは、かなり引いてます」
「医者へ行け」
「帰った時間によります」
「時間は関係ない」
「夜なら、明日の朝に」
「約束しろ」
「痛みが残っていたら受診します」
「残っていなくても、痕を確認してもらえ」
「夜の手につかまれたとは言えませんよ」
「転んだと言えばいい」
「前にも使った説明ですね」
「事実の一部だ」
「リディアさんまで、言い方を覚えてきたな」
リディアは右手の小指を出した。
「受診する」
「絶対ですか?」
「現実世界の傷を、こちらでは確認できない」
一夜は小指を絡める。
「分かりました。帰ったら診てもらいます」
「それから」
「まだあります?」
「次に来る日を決めろ」
「今回の問題が終わってからでしょう」
「来ない可能性があるのか」
一夜は少し迷った。
現実世界の道が狙われている。
戻った後、再び異世界へ来られる保証はない。
「分かりません」
リディアの表情が固くなる。
「でも」
一夜は続ける。
「帰る道を守れたら、また来ます」
「いつだ」
「体調と接続を確認してから」
「日付は」
「今は決められません」
リディアは不満そうだった。
だが、無理に約束させようとはしなかった。
「待たない」
「はい」
「騎士団の仕事を進める」
「そうしてください」
「ただし、戻ったら最初に報告しろ」
「コーヒーではなく?」
「報告の後だ」
「成長しましたね」
「上から言うな」
一夜は寝袋へ入った。
テントの中には、リディアとレイが残る。
ダリウスたちは境界の外側を警戒していた。
「俺が眠り始めたら、テントはどう見えるんでしょう」
「消えるのか?」
リディアが尋ねる。
「これまで、誰かが外から見たことはありませんでした」
「今回は私が見る」
「お願いします」
「戻らなければ?」
「現実世界へ着くまでは、何もできません」
「分かっている」
レイがカラビナを握る。
「道は、もう見えている」
「どんな感じです?」
「暗い場所に、細い線がある」
「現代側は?」
「光がある。だが、形までは見えない」
「地下からの気配は?」
「今はない」
一夜は目を閉じる。
「では、帰ります」
「設営者」
レイが呼ぶ。
一夜は目を開けた。
「何です?」
「鍵を渡したことを、後悔するかもしれない」
「するかもしれません」
「それでも渡した?」
「レイが断れる状態で、引き受けると決めたので」
「失敗したら?」
「次に考えます」
「その次がなくても?」
一夜は少し考えた。
「それでも、今の選択まで間違いになるとは思いません」
レイはカラビナを見つめた。
「分からない」
「俺もです」
「また、それか」
「便利でしょう」
「少しだけ」
一夜は笑い、もう1度目を閉じた。
「おやすみなさい」
「オヤスミ」
リディアが返す。
少し遅れて。
「……おやすみ」
レイも続いた。
一夜の呼吸が、少しずつ深くなる。
テントの内側へ、白い霧が広がった。
寝袋。
一夜の体。
緑色の布。
すべての輪郭が薄くなっていく。
「消える」
リディアが、一夜の手へ触れようとした。
指が白い霧を通り抜ける。
「もう、ここにはいない」
レイの手にあるカラビナが光った。
【往還開始】
【経路閉鎖まで:10】
数字が減る。
【9】
【8】
レイの目には、細い道が見えていた。
暗闇を貫き、遠くの朝へ続く緑色の線。
【7】
その後ろ。
黒い何かが、道へ手を伸ばす。
「来た」
リディアには見えない。
「何がだ」
「地下のもの」
【追跡接続:1】
【対象識別】
【設営者の自己識別情報を使用しています】
暗闇から、一夜の姿が現れる。
同じ顔。
同じ服。
同じ右足の簡易履き。
『レイ』
道の中から、一夜の声が聞こえた。
『私も通せ』
レイはカラビナを強く握る。
『俺です』
「違う」
『どうして分かる』
「設営者は、私に判断を預けた」
『だから、正しく判断しろ』
「今、私から判断を奪おうとしている」
一夜の姿をしたものが手を伸ばす。
『通せ』
【許可】
【拒否】
2つの文字が、レイの前へ浮かんだ。
【経路閉鎖まで:4】
『泊一夜を見捨てるのか』
「その名前を使うな」
【3】
「私はレイだ」
カラビナの緑色の線が強く光る。
「あなたを通さないと、自分で決める」
【拒否を確認】
緑色の道が閉じ始める。
一夜の姿をしたものが、黒い手へ変わった。
『次は、お前の名前を使う』
「その時は」
レイは一夜から借りた記憶ではなく、自分で選んだ言葉を返した。
「また自分で決める」
【経路閉鎖:完了】
【追跡接続を排出しました】
黒い手が暗闇へ弾き飛ばされる。
白い霧が消えた。
テントも。
寝袋も。
一夜の姿も消えている。
中庭には、ペグが打たれていた小さな穴だけが残った。
レイの手にあったカラビナから、緑色の線が消える。
通常の銀色へ戻っていた。
「行ったのか」
リディアが尋ねる。
「ああ」
「追跡は?」
「止めた」
「確実か?」
「説明書は、閉鎖完了と表示した」
レイは空になった中庭を見る。
「これで、私の役目は終わりだ」
「どうだ」
「何が」
「自分で選んだ役目を終えた気分は」
レイは、しばらく考えた。
「腹が減った」
リディアが小さく笑う。
「干し肉は多めだったな」
「ああ」
「用意させよう」
「コーヒーはいらない」
「1度は試せ」
「嫌だ」
その返事は、泊一夜の記憶ではなく。
レイ自身が選んだものだった。
一夜は、現代のキャンプ場で目を覚ました。
緑色のテント。
寝袋。
外から聞こえる車の音。
スマートフォンを確認する。
「午前5時56分」
日曜日の朝。
予定していた撤収日には間に合っている。
説明書を開く。
【往還完了】
【現在地:現実世界】
【追跡接続:1件】
【出発地点側経路鍵により拒否】
【往還経路:閉鎖済み】
「やってくれた」
一夜は息を吐いた。
「ありがとう、レイ」
言葉は届かない。
それでも、今はそれでよかった。
テントの外は、普通の朝だった。
異常な暗さも。
黒い扉も。
自分と同じ声も聞こえない。
一夜は立ち上がる。
約束通り病院へ行く前に。
まず、このテントを畳まなければならない。
現実世界へ続く道を、今度はこちら側から閉じるために。




