第56話 名前は、これから選べる
名のない男が眠りについた後も、騎士たちは武器を下ろさなかった。
緑色のテントの中。
一夜と同じ姿を失った男は、寝袋の上で静かに呼吸している。
黒い髪。
青白い肌。
特徴の少ない顔。
今の姿だけを見れば、地下から現れた怪物には見えなかった。
「拘束する」
ダリウス団長が告げる。
「安全地帯から出した後だ」
「今すぐではないんですね」
一夜が尋ねる。
「保護領域が救助対象として認めている」
団長は男から目を離さない。
「敵ではないと決めたわけではないが、今ここで鎖をかける理由もない」
「ありがとうございます」
「君が礼を言うことではない」
「それでもです」
説明書を開く。
【新規宿泊者候補:1人】
【自己識別:未成立】
【外部接続:切断】
【精神状態:極度の混乱】
【推奨】
【自己識別が安定するまで、保護領域内で休息させてください】
「しばらく、ここから出さない方がいいみたいです」
「どれくらいだ」
【安定予測時間:6時間】
「6時間です」
「地上接続が再び開く可能性は?」
【地下接続:休止】
【再形成予測:不明】
「今のところ、地下は休止状態です」
「不明という言葉は信用できないな」
ガレスが言った。
「説明書が悪いんです」
「あなたの道具だろう」
「通販の説明ページには書いてませんでした」
「まだ、そのツウハンを信用しているのか?」
「普通のテントを買う分には便利ですよ」
「普通ではなかった」
「それは本当にそうです」
名のない男を安全地帯の奥へ寝かせ、一夜たちは交代で休むことになった。
推奨人数は8人。
中に残るのは、一夜、リディア、ダリウス、ガレス、テオ、そして男。
騎士2人は境界の外を警戒する。
「私は起きている」
リディアが言った。
「肩の傷は?」
「痛みはない」
「では、1時間後に交代してください」
「あなたは?」
「俺も起きています」
「足を負傷している」
「座って見張るだけです」
「地下から名前を呼ばれ続けていたのだろう」
「今は聞こえません」
「疲れている」
「リディアさんもです」
「私は騎士だ」
「俺は設営者です」
リディアが眉を寄せる。
「役割を理由にするな」
「先に使ったのはそちらです」
「……交代で休む」
「はい」
「あなたが先だ」
「なぜです?」
「私が決めた」
「それは理由ではありません」
ダリウスが2人の間へ入る。
「設営者が先に休め」
「団長まで」
「地下接続の変化を読めるのは君だけだ。必要な時に起きている方がいい」
「何時間ですか?」
「2時間」
「1時間で」
「2時間だ」
リディアがうなずく。
「決まりだな」
「味方を増やしましたね」
一夜が寝袋へ入ってから、1時間20分ほどが過ぎた。
「……水」
かすかな声が聞こえた。
一夜は目を開ける。
名のない男が、上半身を起こしていた。
周囲を見回し。
自分へ向けられた剣を見て。
最後に、一夜を見た。
「起きたんですか」
「水がほしい」
一夜は自分の水筒へ手を伸ばした。
リディアが止める。
「待て」
「毒を入れるとは思えませんけど」
「同じ器を使うな」
「病気の可能性もありますね」
一夜は予備のカップへ水を注いだ。
男の前へ置く。
「自分で持てますか?」
「ああ」
男はカップを両手で包む。
すぐには飲まず、水面へ映った自分の顔を見た。
「知らない顔だ」
「俺の顔ではなくなりました」
「これが、私の顔なのか」
「たぶん」
男が一夜を見る。
「その言葉を使うんだな」
「俺の記憶があります?」
「ある」
「どこまで?」
「分からない」
男は水をひと口飲んだ。
「会社へ行く朝」
一夜の指が止まる。
「狭い部屋」
「はい」
「課長から届いた連絡」
「それも?」
「キャンプ用品店の女」
「森川さんです」
「名前も知っている」
男は苦しそうに額を押さえた。
「だが、会ったことはない」
「俺の記憶ですから」
「思い出せる」
「はい」
「なら、私の記憶でもあるのではないか」
一夜はすぐには答えられなかった。
記憶は頭の中にある。
感情も残っている。
本人にとって、それは過去として感じられる。
「出来事は、俺に起きたことです」
「では、私の中にあるものは何だ」
「写された記録だと思います」
「偽物か」
「元になった出来事については」
男の顔がゆがむ。
「やはり、私は偽物だ」
「でも」
一夜は言葉を続ける。
「今、水を飲んだのはあなたです」
「何?」
「俺は寝袋の中にいました」
一夜は空になりかけたカップを指す。
「喉が渇いて、水を頼んで、飲んだ。それは俺の記憶ではありません」
男がカップを見る。
「これが、私の記憶」
「はい」
「水の味しかしない」
「最初の記憶が水でも、悪くないでしょう」
「もっと特別なものではないのか」
「普通は、最初の記憶なんて覚えてませんよ」
男は、もう1度水を飲んだ。
「冷たい」
「それも、あなたが感じたことです」
一夜は小型バーナーへ火をつけた。
「何をする」
リディアが尋ねる。
「温かい物を作ります」
「眠る時間は?」
「起きてしまったので」
「まだ40分ある」
「細かいですね」
「約束した」
一夜は鍋へ水を入れる。
乾燥スープ。
少量の麦。
干し肉。
「コーヒーではないのか」
名のない男が尋ねた。
「飲みたいですか?」
「記憶では、飲みたい」
「あなたは?」
男が黙る。
「俺が好きだったからではなく、今のあなたが飲みたいかどうかです」
「分からない」
「では、匂いを確認します?」
一夜は濃いコーヒーの袋を開けた。
香りが広がる。
リディアが反応する。
「淹れるのか」
「匂いだけです」
「開けたなら淹れろ」
「後でです」
男はコーヒーの香りを吸い込んだ。
顔をしかめる。
「嫌だ」
一夜は袋を閉じた。
「分かりました」
「それだけか」
「飲ませません」
「記憶では、これを飲むと落ち着く」
「嫌なら別の物にしましょう」
「泊一夜なら飲む」
「あなたは泊一夜ではありません」
男は自分の胸へ手を置いた。
「……そうだった」
「温かいスープは?」
鍋から湯気が上がる。
「匂いは悪くない」
「では、少し食べてみてください」
「嫌だったら?」
「残して構いません」
「食料を無駄にする」
「少量しか入れません」
一夜は小さな器へスープをよそった。
男が慎重に口へ運ぶ。
麦を噛む。
飲み込む。
「どうです?」
「熱い」
「味は?」
「薄い」
「今日は薄めにしています」
「干し肉は、もう少し入っていていい」
一夜は笑った。
「そこは俺と違いますね」
「あなたは少ない方がいいのか」
「疲れている時は」
「私は多い方がいい」
「では、次は増やします」
男が器を見つめた。
「次があるのか」
「ここから出た後も、食事は必要でしょう」
「捕らえられる」
ダリウスが答える。
「隔離と事情聴取は行う」
「自由にはならない」
「すぐにはな」
「地下へ戻される?」
「戻さない」
団長は迷わず言った。
「危険がないと確認できるまで、騎士団の保護下へ置く」
「保護」
「逃げれば追う。誰かへ危害を加えれば拘束する」
「それでも保護なのか」
「危険から守り、危険を起こさせない。両方だ」
男はダリウスを見つめる。
「正直だな」
「嘘をついて安心させても意味がない」
「安心してはいない」
「それでいい」
説明書に文字が浮かんだ。
【食事支援効果を確認】
【対象:自己識別未成立者】
【感覚安定・中】
【模倣衝動抑制・弱】
【自己選択補助・弱】
【持続時間:4時間】
「模倣しようとする衝動が、少し弱くなるみたいです」
一夜が読み上げる。
「衝動?」
男が自分の手を見る。
「さっきから、あなたと同じ持ち方をしたくなる」
一夜も器を持っている。
確かに、指の位置まで似ていた。
男は意識して、器を逆の手へ持ち替える。
「これは?」
「俺は右手で持つことが多いです」
「なら、左で持つ」
「無理に違うことをしなくても」
「同じにしたくない」
「それも、あなたの選択です」
男は左手でスープを飲む。
少しこぼした。
「慣れていない」
「両手で持ってもいいですよ」
「それは、あなたもする」
「同じ行動を全部避ける必要はありません」
「では、どう違えばいい」
「違おうと考えた時点で、もう同じではないでしょう」
男は器を両手で持った。
「難しい」
「ゆっくりでいいです」
「名前も?」
「はい」
「呼ばれなければ、不便だ」
ダリウスが口を開く。
「記録上の呼称は必要になる」
「番号にするのか」
「本人が決めない場合は、仮の識別名をつける」
男の顔が険しくなる。
「役割と同じだ」
「呼ぶためのものだ」
「私が選んでも?」
「ほかの者と重ならなければ」
男は黙り込んだ。
自分の中にある一夜の記憶を探しているようだった。
「借りた言葉しか知らない」
「それでも、選ぶのはあなたです」
一夜が言う。
「俺の知っている名前から選んでも構いません」
「あなたの名前を使っても?」
「それは困ります」
「分かっている」
男が、初めて少し笑った。
一夜と同じ笑い方ではない。
口元だけが、不器用に動いた。
「夜から出た」
「ああ」
「でも、朝になったわけではない」
「そうですね」
「夜と朝の間を、何と呼ぶ」
一夜は少し考える。
「夜明け前?」
「ほかには」
「黎明」
「レイメイ」
「朝が始まる前の、少しずつ明るくなる時間です」
男は、その言葉を何度か口の中で確かめた。
「レイ」
「そこを取るんですか?」
「短い方が呼びやすい」
「日本の名前みたいですけど」
「あなたの記憶から選んだ」
「嫌ではありませんか?」
「選んだのは私だ」
一夜はうなずく。
「では、レイさん」
男の肩が小さく動いた。
「もう1度」
「レイさん」
「さん、は必要か?」
「初対面なので」
「私たちは、初対面なのか」
「この顔になってからは」
「なら、レイでいい」
一夜は少し迷う。
「レイ」
「何だ」
「呼んだだけです」
「返事をしていい名前なのか」
「自分で選んだ名前なら」
レイは、ゆっくり息を吐いた。
「そうか」
説明書のページが光る。
【自己呼称を確認】
【仮登録名:レイ】
【自己識別:仮成立】
【現在の設営者との識別分離を確認しました】
【宿泊者候補:レイ】
「登録されました」
「仮なのか」
「後で変えてもいいということでしょう」
「名前は、変えていいのか」
「自分で選んだなら」
「では、今はレイにする」
レイは器へ残ったスープを飲み干した。
「干し肉は、次から多めだ」
「覚えておきます」
「コーヒーはいらない」
「それも」
リディアが不満そうに言う。
「飲んでから決めるべきだ」
「嫌だと言っています」
「薄い物なら違うかもしれない」
「好みを押しつけないでください」
「自分と同じ顔だった者が、コーヒーを嫌うのは落ち着かない」
「もう同じ顔ではないでしょう」
「記憶は同じだ」
レイがリディアを見る。
「あなたは、コーヒーが飲みたいだけでは?」
「違う」
「記憶では、その時は嘘をついている」
一夜は思わず吹き出した。
「そこまで分かるんですか」
「覚えている」
リディアがレイをにらむ。
「記憶の扱いについては、あとで話し合う必要があるな」
「怖いですね」
「あなたもだ」
「俺も?」
「余計な記憶を渡しすぎだ」
「俺の意思ではありませんよ」
レイの自己識別が仮成立したことで、説明書の警告が少し変わった。
【外部接続:切断済み】
【模倣衝動:低下中】
【保護領域外への移動:非推奨】
【推奨安定時間:残り3時間38分】
「まだ、ここからは出られません」
「構わない」
レイは寝袋へ横になる。
「眠るんですか?」
「疲れた」
「今度は、泊一夜としてではなく?」
「レイとして休む」
「分かりました」
一夜は別の寝袋へ戻ろうとした。
レイが呼び止める。
「設営者」
「何です?」
「地下の声が言っていた」
テントの空気が変わる。
ダリウスとガレスが身構えた。
「何をです?」
「次は、本人を迎えに行くと」
「聞きました」
「意味が違う」
レイが一夜を見る。
「地下にいるものは、あなたをここへ連れてくるつもりではない」
「では?」
「あなたが眠って戻る場所を知っている」
一夜の表情が固まる。
現実世界。
キャンプ場。
設営されたテント。
「向こうへ行くつもりなのか」
リディアが尋ねる。
レイはうなずいた。
「私の中に、現実世界の断片がある」
「どこまで見えているんです?」
「テントの外までは分からない」
レイは目を閉じた。
「だが、眠った後につながる道は見えた」
「地下の相手にも?」
「ああ」
一夜は説明書を開く。
【現実世界側接続情報】
【秘匿状態:一部損傷】
【外部からの探索反応:未検出】
【警告】
【次回往還時、接続経路への追跡が発生する可能性があります】
「現代へ帰る時に、ついてくるかもしれない」
一夜の声が低くなる。
「今すぐではない」
レイが言った。
「まだ、道を完全には知らない」
「どれくらい時間があります?」
「分からない」
一夜が眉を寄せる。
「それ、俺の言い方をまねしてません?」
「便利だ」
「最初に選んだ言葉が、それですか」
レイは、わずかに笑った。
だが、一夜は説明書から目を離せなかった。
異世界で夜を止めるだけではない。
ノクスは、一夜が帰るもう1つの朝へ手を伸ばそうとしている。
【推奨】
【現実世界側への往還前に、接続経路の保護を確立してください】
「新しい問題が増えましたね」
リディアが一夜の隣へ座る。
「帰れないのか」
「今のままでは、危険があります」
「ならば、守る方法を探す」
「現代側には、一緒に来られませんよ」
「まだ決まっていない」
「普通は無理です」
「この天幕に普通を求めるな」
一夜は反論できなかった。
寝袋の中で、レイが目を閉じる。
「私は、道を見た」
「案内できます?」
「たぶん」
「その言葉、使いましたね」
「記憶にあった」
「便利だからって、そこから覚えないでください」
レイはもう答えなかった。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
一夜は説明書に表示された警告を見る。
帰る場所が2つある。
だからこそ。
どちらへ続く道も、守らなければならなくなった。




