第48話 同じ道を、選ばなくていい
扉の向こうには、終わりの見えない市場が広がっていた。
左右へ並ぶ露店。
積み上げられた木箱。
吊り下げられた布。
果物。
香辛料。
金属製の道具。
商品は大量にある。
だが、通りを歩く客は誰もいない。
店の中央で、ベルクが硬貨を数えていた。
「1枚、足りない」
硬貨を並べ直す。
「また1枚、足りない」
もう1度数える。
「なぜだ。確かに売ったはずだ」
数えるたび、硬貨が1枚ずつ消えていく。
ベルクの背後には、商品を積んだ大きな荷車があった。
ソフィがその持ち手を握り、立っている。
腕には黒い鎖。
荷車とつながっていた。
「ベルク」
ソフィが名前を呼ぶ。
男は硬貨から顔を上げない。
「遅いぞ」
「何が?」
「次の町へ行く」
「私は行かない」
ベルクの指が止まった。
「何を言っている」
「旅をやめたい」
「また、その話か」
「本人には、まだ話していなかったはずです」
一夜が言う。
ベルクが、ようやくこちらを見る。
「誰だ、お前は」
「泊一夜です」
「客か?」
「違います」
「ならば、邪魔をするな」
ベルクは再び硬貨を数え始める。
「ソフィ。荷物を運べ」
「嫌」
「妻だろう」
「妻だから、何を言っても許されるわけじゃない」
「夫婦で始めた商売だ!」
「夫婦で始めたから、私はやめられないの?」
「当然だ!」
怒鳴り声が、市場中へ響く。
誰もいなかった露店の奥から、黒い人影が立ち上がった。
『夫なら稼げ』
『妻を食わせろ』
『商品を売れ』
『止まれば失敗だ』
『失敗した男には、何も残らない』
ベルクは両耳を押さえる。
「黙れ」
『次の町へ行け』
「黙れ!」
『売れ』
「売っている!」
『もっと売れ』
ベルクは硬貨を床へ投げつけた。
「俺は働いている!」
黒い影の客たちが、商品へ手を伸ばす。
品物を持ち去る。
だが、硬貨は置かれない。
「待て!」
ベルクが影を追う。
次の瞬間、背後の商品が増えた。
箱。
袋。
樽。
荷車へ、次々と積み上がっていく。
「ソフィ、運べ!」
「もう無理」
「お前まで止まったら、全部終わる!」
「私は、とっくに止まりたかった!」
ソフィが持ち手を離そうとする。
黒い鎖が締まり、腕へ食い込んだ。
「痛っ……!」
「ソフィ!」
一夜が駆け寄る。
だが、ベルクが前へ立った。
「触るな!」
「鎖を外します」
「その荷車は、俺たちの商売だ!」
「ソフィさんをつないでおく理由にはなりません」
「妻だ!」
「名前は?」
「何?」
「奥さんの名前です」
「ソフィだ」
「名字まで」
「ソフィ・アレン」
「役割ではなく、名前で呼べるじゃないですか」
ベルクの顔がゆがむ。
「言葉遊びをするな」
「ソフィさんは、あなたの妻である前に1人の人です」
「分かっている!」
「では、何を望んでいるか知っていますか?」
「商売を成功させたいに決まっている!」
「違う」
ソフィが答えた。
「小さな店を持ちたい」
「店?」
「アルノで」
「そんな金がどこにある!」
「今の商売をやめて、働いて貯める」
「行商をやめたら収入がなくなる!」
「だから別の仕事を探す」
「俺はどうする!」
ベルクの声が、市場へ響いた。
怒鳴り声ではあった。
だが、その奥にあったのは怒りではない。
恐怖だった。
「俺を置いていくのか」
ソフィはすぐに答えなかった。
「あなたが今のままなら」
ベルクの顔から血の気が引く。
「夫婦だろう」
「だから、ずっと我慢してきた」
「俺は、お前のために――」
「私を怒鳴ることが?」
「違う!」
「失敗するたび、私のせいにした」
「違う!」
「商品が売れないのも。道を間違えたのも。宿代が高かったのも」
「俺だけが悪いと言うのか!」
「それを話したかった」
ソフィの目から涙が落ちる。
「どちらが悪いか決めるためじゃない」
「なら、何のためだ」
「これからも一緒にいるのか、決めるため」
ベルクが後退する。
黒い影の客たちが、男の背後へ集まった。
『捨てられる』
『失敗したからだ』
『妻1人も守れない』
『お前には何もない』
「黙れ……」
ベルクが頭を抱える。
「俺は、ソフィを守るために働いてきた」
「守るというのは、相手を自分の道へ縛ることではない」
リディアが言った。
「騎士に何が分かる」
「部下を休ませず、進ませたことがある」
リディアの声が低くなる。
「私が正しいと思った道へ」
一夜は彼女を見る。
ロイド。
休ませる判断をせず、先を急いだ末に失った部下。
「守るつもりだった」
リディアが続ける。
「だが、私は相手が何を望んでいるか聞かなかった」
「俺とは違う」
「同じだ」
「俺は夫だ!」
「私は副隊長だった」
リディアはベルクをまっすぐ見る。
「役割を理由にすれば、自分の判断を正しいと思い込める」
ベルクは何も言えない。
「だが、相手が傷ついた結果は消えない」
ソフィの腕へ食い込んだ鎖。
その跡は赤く腫れている。
「ベルクさん」
一夜が呼びかける。
「商売を続けたいですか?」
「続けなければならない」
「義務ではなく、あなたの希望を聞いています」
「商人が商売をやめて、何になる」
「名前は?」
「何?」
「あなたの名前です」
「ベルク」
「全部」
男は戸惑いながら答える。
「ベルク・アレン」
「商人をやめても、ベルク・アレンです」
「何もできない男になる」
「できないことがあっても、名前は消えません」
「お前には分からない」
「少しは分かります」
一夜は会社での日々を思い出す。
「仕事を抱えていれば、必要とされていると思えました」
「……何の話だ」
「自分がいなければ困る。自分がやらなければ進まない」
一夜は、自分の手を見る。
「そう思えば、休まなくても理由ができた」
「実際に、誰かが困る」
「困ることはあります」
「ならば、やるしかない!」
「全部を自分でやる必要はありません」
「ほかの者に任せて、失敗したらどうする」
「一緒に直します」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
一夜は答えた。
「俺も、まだ練習している途中です」
ベルクが一夜を見る。
「仕事を手放して、何が残った」
「仕事以外の時間です」
「それだけか」
「今は、それで十分です」
リディア。
ハルト村。
コーヒー。
テント。
次に帰りたいと思える場所。
「空いた時間に、何を入れるかは後から決めます」
「俺には、何もない」
ソフィが静かに尋ねる。
「本当に?」
「お前がいなくなれば」
「私は、あなたの中身ではない」
ベルクの体が震える。
「でも」
ソフィは続けた。
「朝へ戻って、あなたが怒鳴らずに話せるなら」
ベルクが顔を上げる。
「もう1度だけ、話す」
「一緒に店を?」
「そこから決める」
「夫婦なのに?」
「夫婦だから、話さなくても分かると思うのをやめる」
ソフィは鎖につながれた腕を持ち上げる。
「私は、このまま一緒には行かない」
ベルクが鎖を見る。
自分がソフィをつないでいたことに、初めて気づいたような顔をした。
「俺が、やったのか」
「夜が形にしただけです」
一夜が答える。
「でも、元になったものはあった」
ガレスが低い声で言った。
「朝へ戻れば、宿場での行動も確認する」
ベルクがガレスを見る。
「俺を捕らえるのか」
「妻への暴力があったなら調べる」
「夫婦の問題だ!」
「暴力は、夫婦だけの問題ではない」
ガレスの声は揺らがない。
「戻るなら、向き合ってもらう」
「戻らなければ?」
「ここへ残ることになる」
黒い影の客たちが、ベルクの背中へ手を伸ばす。
『残れ』
『朝へ戻れば責められる』
『夜なら失敗を隠せる』
『何も認めなくていい』
「ベルクさん」
一夜が尋ねる。
「何も認めず、ずっとここにいたいですか?」
「戻れば、すべて失う」
「残っても、何も手に入りません」
「ソフィは戻るのか」
ソフィが答える。
「戻る」
「俺を置いて?」
「あなたが決めるまで待たない」
ベルクが苦しそうに目を閉じた。
「私は先に朝へ戻る」
ソフィの言葉に、ベルクの肩が落ちる。
妻が自分を待つとは限らない。
許すとも。
一緒にいるとも約束していない。
「俺は……」
黒い影が耳元へささやく。
『追え』
『命令しろ』
『妻をつなげ』
ベルクは両手で頭を押さえた。
「黙れ!」
市場が揺れる。
「俺の名前は、ベルク・アレンだ!」
影の客たちが動きを止める。
「商人でなくても?」
一夜が尋ねる。
「分からない!」
「夫でなくなっても?」
ベルクがソフィを見る。
彼女は答えを与えない。
「……それでも」
ベルクは震えながら言った。
「ベルク・アレンだ」
荷車へつながっていた鎖に亀裂が入る。
「朝へ戻ったら、何をします?」
「ソフィと話す」
「許してもらうため?」
「違う」
ベルクは首を横へ振る。
「俺が何をしたか、聞く」
ソフィの目から、新しい涙が落ちる。
「それから、騎士団の調べを受ける」
「商売は?」
「今は決められない」
「それでいいです」
一夜は手を伸ばす。
「決めるために、朝へ戻りましょう」
ベルクが一夜の手を取る。
「戻る」
足元へ淡い緑色の印が浮かんだ。
【本人の自己名を確認】
【帰還意思を確認】
【一時帰還標識を付与します】
【救助対象:6人】
【残存対象:0人】
ソフィの腕を縛っていた黒い鎖が砕けた。
商品。
露店。
硬貨。
空の荷車。
市場のすべてが、黒い砂となって崩れ始める。
「戻ります!」
一夜が叫ぶ。
扉は、まだ開いている。
ガレスが先にソフィを通す。
リディアがベルクの背中を押した。
「急げ!」
4人が扉を越える。
直後。
最後の記憶領域が崩壊した。
夜の宿場へ戻る。
帰還ロープの周囲には、救助された5人が集まっていた。
「ベルク!」
ドランが声を上げる。
リナも。
エマも。
ユアンも、安堵した表情を見せる。
ソフィはベルクから少し離れた場所へ立った。
夫婦だから隣へ並ぶのではない。
今は、それぞれの足で立っている。
「全員いますか!」
一夜が人数を確認する。
行方不明者6人。
救助隊7人。
「13人!」
「全員いる!」
ガレスが答える。
説明書が光る。
【救助対象:6人】
【残存対象:0人】
【領域閉鎖まで:6分】
「帰ります!」
一夜は最後のロープを握った。
外のテントの方向は分かる。
「全員、ロープへつながってください!」
短いロープを使い、救助者たちを順番に結ぶ。
1本の長い帰還ロープを中心に、人の列を作る。
リディアが最後尾。
ガレスが先頭。
一夜は中央。
「進むぞ!」
ガレスがロープの先へ走り出す。
だが。
数メートル進んだところで、足を止めた。
「道がない」
先ほどまで続いていた宿場の街道が、黒い壁へ変わっていた。
帰還標識は、その向こうを示している。
「回り道は?」
テオが左右を見る。
建物。
黒い霧。
どちらも壁へつながっている。
外へ出る道はない。
『全員を救いましたね』
夜の声が響いた。
『では、次は自分を救ってください』
黒い壁へ、1枚の扉が現れる。
取っ手はない。
表面には、文字が浮かんでいる。
【帰還可能人数:12人】
一夜は列を数える。
13人。
「1人、足りない」
リディアが低く言った。
『朝を持ち帰る者』
夜が笑う。
『帰る場所へ、全員は戻れません』
【領域閉鎖まで:5分】
13人のうち、帰れるのは12人。
最後の扉は、一夜たちへ1人を選べと迫っていた。




