第47話 帰る場所は、これから作れる
「帰る場所を持たない者を、お前はどこへ連れ帰る?」
カイルの杖が、最後の帰還ロープを踏んでいる。
あと少し力を加えれば、石畳との間で傷つく。
切断されれば、外のテントとつながる物理的な道は失われる。
「杖をどけろ」
リディアが剣へ手を伸ばした。
「副隊長、待ってください」
一夜は彼女の前へ腕を出す。
「ロープを踏んでいます」
「だから斬る」
「カイルさんの足元ごとですか?」
「杖だけだ」
「動いたら危ないです」
「私を信用しろ」
「信用してますけど、話を聞きます」
カイルは動かない。
黒い霧の中に立ちながら、ほかの5人のように作られた笑顔を浮かべてもいない。
影もある。
声も本人のもの。
自分の名前も忘れていないように見えた。
「カイルさん」
一夜は呼びかける。
「あなたは、夜に操られているんですか?」
「操られてはいない」
「では、自分でロープを踏んでいる?」
「ああ」
「どうしてです?」
「帰るという言葉が嫌いだからだ」
老人は静かに答えた。
「帰る場所がある者は、簡単に言う。戻ればいい。待つ者がいる。朝へ帰れとな」
「カイルさんには、いないんですか」
「いない」
迷いのない返事だった。
「家族は?」
「死んだ」
「家は?」
「とうに売った」
「故郷は?」
「私を覚えている者など、もう残っていない」
カイルは杖へ体重をかける。
ロープが石畳へ押しつけられた。
繊維がきしむ。
「私は30年以上、街から街へ歩いてきた」
「旅が好きだったんですか?」
「最初はな」
老人の目が、遠くを見る。
「若い頃は、知らない町を見るのが楽しかった。山を越えるたび、次は何があるのかと思えた」
「今は?」
「宿へ入れば、いつ出ていくのか聞かれる」
カイルは夜の宿場を見回した。
「門へ行けば、どこから来た。どこへ行く。何のために来たと聞かれる」
一夜は、アルノの門で記入された一時滞在証明書を思い出した。
「行く先がない者は、怪しまれる」
「だから、夜へ残ったんですか」
「夜は聞かなかった」
宿場の窓に、暗い明かりがともる。
「どこから来たのか」
1つ。
「何者なのか」
また1つ。
「次はどこへ行くのか」
すべての窓が光る。
「何も聞かず、ただ留まってよいと言った」
『ここにいればいい』
夜の声が、宿場中から響いた。
『もう、行き先を答えなくていい』
カイルが目を閉じる。
「悪い話ではない」
「夜の中で、何をしていたんです?」
「何も」
「眠っていた?」
「分からない」
「食べました?」
「必要なかった」
「誰かと話しました?」
「必要なかった」
「楽しかったですか?」
カイルの眉がわずかに動いた。
「必要なかった」
「楽しいかどうかを聞いています」
「……必要ない」
一夜は老人を見る。
「何も求められない代わりに、何も感じなくなっていたんですね」
「それの何が悪い」
「悪いとは言いません」
疲れた時。
何も考えたくない時。
誰からも連絡されたくない時。
一夜にもあった。
「何もしなくていい時間は必要です」
「ならば、私を置いていけ」
「カイルさんが本当に選んだなら」
一夜はロープを握ったまま答える。
「でも、今のあなたは夜を守っています」
「何?」
「帰る場所を持たないと言ったのに、夜を残すためにロープを踏んでいる」
カイルの視線が、自分の杖へ落ちる。
「夜に役割はないと言ったのに」
一夜は続けた。
「あなたは今、門番をしています」
黒い霧が揺れた。
『違う』
夜の声。
『彼は自由だ』
「自由な人に、俺たちの帰り道を壊させるんですか?」
『彼が望んでいる』
一夜はカイルへ尋ねる。
「本当に望んでいますか?」
「私は……」
「ロープを切りたいんですか?」
「お前たちが朝へ戻れば、夜が消える」
「それが嫌ですか?」
「私の居場所がなくなる」
初めて、カイルの声に感情が混じった。
怒りではない。
恐怖だった。
「夜がなくなったら、また歩かなければならない」
「歩きたくないんですか?」
「行く先がない」
「では、歩かなくてもいいです」
「宿には金がいる」
「今すぐの話です」
一夜は緑色のテントがある方向を指した。
「外に、安全地帯があります」
「それは、お前たちの帰る場所だ」
「カイルさんも登録できます」
「私には帰る資格がない」
「資格は必要ありません」
「待つ者もいない」
「待っている人がいなくても、休んでいいでしょう」
カイルは何も答えない。
一夜は説明書を開く。
【帰還標識】
【登録条件:本人の同意】
【既存の居住地・所属・関係者は不要です】
「このテントは、家があるかなんて聞きません」
「天幕に何が分かる」
「俺にも、全部は分かりません」
「ならば、無責任なことを言うな」
「分からないから、一緒に考えるんです」
一夜は自分の胸へ手を置く。
「俺の部屋も、前は帰る場所とは思えませんでした」
「家があるのだろう」
「寝るだけでした」
朝に出て。
仕事をして。
帰って眠る。
「明日のために体を置く場所でしかなかった」
「それでも、家だ」
「住所としては」
一夜は腰へ結ばれたロープを見る。
「でも、このテントで初めて、自分のために休んでいいと思えました」
「天幕が家になったのか」
「まだ、よく分かりません」
「分からないことばかりだな」
「はい」
一夜は笑った。
「でも、帰る場所は最初から完成しているものではないと思います」
ハルト村。
現代のキャンプ場。
自分の部屋。
どれも最初から特別だったわけではない。
「休んだり。約束したり。また来たいと思ったり」
それを繰り返して、帰る場所になっていく。
「カイルさんも、まずはテントへ戻りませんか」
「その後は」
「休んでから決めてください」
「また歩くのか」
「歩きたくなければ、アルノへ残る方法を探します」
「誰が探す」
一夜はガレスを見る。
ガレスはすぐに答えた。
「一時滞在者を受け入れる施設はある」
「老人を置いてくれるのか」
「年齢だけで追い出すことはない」
「金がない」
「事情を確認するまで、騎士団で保護する」
カイルがガレスを見る。
「なぜ、そこまでする」
「夜門から戻った者は、事件の被害者だ」
「私は自分で入った」
「自ら入った者が被害者ではないとは限らない」
ガレスの言葉に、カイルは黙った。
「それに」
リディアが口を開く。
「アルノへ残らなくてもいい」
「ほかに何がある」
「旅を続ける」
「行く先がないと言っただろう」
「行き先を決めなければいい」
カイルが眉を寄せる。
「門番には説明が必要だ」
「次に見たい場所を言えばいい」
「そんなものはない」
「本当に?」
一夜が尋ねる。
「30年以上旅をして、まだ行ったことがない場所は?」
「いくらでもある」
「その中で、1度くらい見たいと思った場所は?」
カイルは答えない。
黒い霧が、老人の体へまとわりつく。
『何もない』
夜がささやく。
『もう望むものなどない』
「カイルさんに聞いています」
一夜は夜の声を遮る。
「本当に、1つもありませんか?」
「……東」
老人の声は小さかった。
「東?」
「大山脈の向こうに、白い海があると聞いた」
「白い海」
「冬になると、海全体が凍るらしい」
カイルの目に、わずかな光が戻る。
「若い頃に行こうと思った。だが、道を変えた」
「まだ見ていない?」
「ああ」
「見たいですか?」
『必要ない』
夜の声が強くなる。
『疲れたのだろう』
カイルの杖が、ロープをさらに押す。
「疲れた」
「なら、先に休みましょう」
「休んだ後は」
「行きたければ、白い海へ」
「行けると思うのか」
「難しいかもしれません」
「簡単に言うな」
「簡単だとは言ってません」
一夜は、まっすぐ老人を見る。
「行けるかどうかは、朝へ戻ってから調べましょう」
カイルの手が震える。
「夜にいれば、見なくて済む」
「海を?」
「見られない自分をだ」
「朝へ戻って、行かないと決めてもいいです」
「それでは、何も変わらない」
「自分で決めたなら、違います」
一夜は答えた。
「行けないと決めつけられて、夜へ隠されるのとは違う」
カイルの杖から、少しだけ力が抜けた。
ロープが石畳から浮く。
『踏め』
黒い霧が老人の腕へ絡む。
『帰る道を切れ』
「それが、あなたの望みですか!」
一夜が叫ぶ。
「夜に命令されて、ロープを切ることが!」
「違う!」
カイルが杖を持ち上げた。
帰還ロープから、完全に離れる。
「私は、門番ではない!」
黒い霧が腕を引く。
リディアが踏み込み、剣を振った。
影だけを切り裂く。
「今だ!」
一夜はカイルへ手を伸ばす。
「名前を!」
「カイル!」
「全部です!」
老人は黒い霧に引かれながら、杖を地面へ突き立てた。
「カイル・ヴェルン!」
「朝へ戻ったら、何をします!」
「休む!」
「その後は!」
カイルは歯を食いしばる。
「白い海へ行くか、考える!」
足元へ、淡い緑色の印が浮かんだ。
【本人の自己名を確認】
【帰還意思を確認】
【一時帰還標識を付与します】
【救助対象:5人】
【残存対象:1人】
黒い霧が弾けた。
カイルの体が前へ倒れる。
一夜と騎士が、左右から受け止めた。
「重い……」
「老人へ最初に言う言葉か」
「意識があるなら、自分でも立ってください」
「疲れた」
「それなら、少し座りましょう」
カイルは地面へ座り込んだ。
帰還ロープを見て、小さく息を吐く。
「切らなくてよかった」
「本当に」
一夜はロープの表面を確認する。
少し擦れている。
だが、まだ外とつながっている。
「帰る方向は分かりますか?」
カイルは目を閉じ、テントの方角を指した。
「あちらだ」
「なら、帰れます」
「帰る場所ではない」
「今は休む場所で十分です」
カイルは反論しなかった。
【領域閉鎖まで:18分】
残る救助対象は1人。
ベルク。
ソフィの夫。
怒鳴り声が聞こえる最後の扉。
ソフィが扉の前へ立つ。
手が震えていた。
「私も行く」
ガレスが隣へ立つ。
「危険だ」
「夫と話さないといけない」
「戻りたいと言わなければ、連れて帰れない」
「分かってる」
ソフィは扉へ手を触れる。
「一緒に止まるか」
小さくつぶやく。
「別の道へ行くか」
一夜は残ったロープを、カイルと騎士へ預けた。
「押さえていてください」
「お前も入るのか」
カイルが尋ねる。
「最後の1人です」
「帰る場所を守るのではなかったのか」
「今度は、守ってくれる人が増えました」
救助されたエマ。
リナ。
ドラン。
カイル。
4人が帰還ロープの周囲へ集まっている。
「お願いします」
ドランが太い腕でロープを握った。
「今度は、俺たちが持つ」
「無理をしないでくださいね」
「その言い方は禁止だったな」
「状態を確認した上でなら使えます」
「面倒な規則だ」
リディアが一夜の隣へ立つ。
「私も行く」
「肩は?」
「動く」
「痛みは?」
「ない」
「剣を振りましたよね」
「影を1本だけだ」
「あとで確認します」
「今は時間がない」
【領域閉鎖まで:17分】
「それは、その通りですね」
一夜は扉の取っ手へ手をかけた。
中から、男の怒鳴り声が響く。
「ソフィ! 荷物を持て! 店を続けるぞ!」
ソフィが深く息を吸う。
「ベルク」
扉の向こうへ、はっきりと呼びかけた。
「今日は、あなたの妻としてではなく、ソフィ・アレンとして話す」
扉が大きく震えた。
夜の宿場。
最後の記憶領域。
一夜はリディア、ガレス、ソフィと共に扉を開いた。




