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都会に疲れて通販テントで寝たら、異世界最強の安全地帯でした 〜もう一泊で帰れるけど、今日も誰かに眠れる夜を渡しています〜  作者: TimeBender


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第45話 役割ではなく、名前で呼ぶ

 残りの5人が、黒い霧の中へ消えた。


 一夜は追いかけようとして、足を止めた。


「待ってください!」


 ユアンが霧へ踏み込む直前、その腕をつかむ。


「リナがいた!」


「分かっています!」


「今なら追いつける!」


「道が見えません!」


 黒い霧の先には、宿場の建物すら見えない。


 足元の石畳も、数メートル先で闇へ溶けていた。


 飛び込めば、戻る方向まで失う可能性がある。


「でも、このままでは!」


「1人で追えば、今度はユアンさんまで連れていかれます!」


 ユアンは歯を食いしばった。


 腰へ結ばれたロープを強く握る。


「……分かった」


 口ではそう答えたが、視線は霧から離れない。


「エマさんは?」


 一夜が振り返る。


 エマは地面へ座り込み、荒い呼吸を繰り返していた。


 リディアが背中を支えている。


「意識はある」


「名前を確認してください」


「エマ・ローデンだ」


 女性が自分で答えた。


「今日は、料理をしない」


「覚えていますね」


「忘れるものか」


 声は震えている。


 それでも、先ほどの作り物の笑顔は消えていた。


 彼女自身の表情だった。


 ガレスが残ったロープを確認する。


「こちらは切れていない」


「外とつながっていますか?」


 一夜が尋ねる。


 ガレスはロープを3回、短く引いた。


 数秒後。


 外側から、同じように3回の振動が返ってくる。


「ダリウス団長たちです」


「こちらの状況までは伝えられないが、接続は分かる」


「合図を決めておけばよかったですね」


「今から決める」


 ガレスはロープを1回、長く引いた。


「これは、全員生存」


 続いて2回、短く引く。


「救助対象を確保」


「外へ伝わりますか?」


「分からなくても、異常が起きたことは伝わる」


 数秒待つ。


 外側から、1回長く、2回短い振動が返ってきた。


「同じ合図を返した」


「理解したみたいですね」


 完全な会話はできない。


 それでも、外で帰る場所を守っている人たちがいる。


 一夜は胸の奥に残る帰還標識を確かめた。


 方向は変わっていない。


 ロープの先。


 黒い扉の向こう。


 緑色のテントがある。


「まだ帰れます」


「残りの者を連れてな」


 リディアが立ち上がる。


「はい」


 一夜は説明書を開いた。


【救助対象:1人】


【残存対象:5人】


【夜門領域の支配状態が変化しました】


【対象者は個別記憶領域へ分散しています】


「個別記憶領域?」


【夜門は対象者の名前と役割を分離します】


【役割のみを残した対象は、夜門領域へ固定されます】


【救助には、本人による自己名および帰還意思の確認が必要です】


「名前を思い出すだけでは足りない」


 一夜は文字を読み上げる。


「帰りたいと、本人が決める必要があります」


「エマの時と同じか」


 リディアが言う。


「でも、残りは別々の場所にいるみたいです」


 説明書の次の行が浮かぶ。


【警告】


【設営者の称号が、夜門による役割固定の対象となっています】


「俺も?」


【対象称号:朝を持ち帰る者】


【役割と自己認識の混同に注意してください】


 黒い霧の中から、声が聞こえた。


『朝を持ち帰る者』


 一夜は顔を上げる。


『残りの5人を救いなさい』


「命令してくるんですか」


『あなたの役割でしょう』


 霧の中へ、いくつもの扉が浮かび上がる。


 5枚。


 それぞれの向こうから、助けを求める声が聞こえた。


「お願い!」


「ここから出してくれ!」


「置いていかないで!」


「朝を持ってきて!」


 声が重なる。


 一夜は反射的に、最も近い扉へ向かおうとした。


「一夜!」


 リディアが名前を呼ぶ。


 足が止まった。


『早く』


 夜の声が急かす。


『あなたが救わなければ、5人は夜になる』


 一夜は扉を見る。


 すべて開けなければ。


 全員を助けなければ。


 自分が朝を持ち帰らなければ。


「一夜」


 リディアが、もう1度呼んだ。


「こちらを見ろ」


 一夜は彼女を見る。


「今、何を考えていた」


「全部の扉を開けないと」


「どの扉に誰がいる」


「分かりません」


「開けた後、戻れるのか」


「それも分かりません」


「ならば、今すぐ開けるな」


『役割を果たしなさい』


 夜の声が、一夜の耳元でささやく。


『朝を持ち帰る者』


 一夜は自分の胸へ手を置いた。


「違う」


『何が違うのです』


「俺の名前は、泊一夜です」


 5枚の扉が揺れた。


「朝を持ち帰ることは、俺が選んでやったことです」


『あなたの役割です』


「役割だけで来たわけではありません」


 一夜はリディアを見る。


 ユアン。


 エマ。


 ガレスたち。


「約束した人がいるから来ました」


 扉の向こうから聞こえる声が小さくなる。


「俺1人で全員を救うつもりもありません」


『朝を持ち帰る者ではないのですか』


「それだけではありません」


 一夜は、はっきり答えた。


「俺は、泊一夜です」


 5枚の扉のうち、4枚が黒い霧へ溶けた。


 残った1枚だけが、淡く震えている。


 その向こうから、小さな女性の声が聞こえた。


「……ユアン」


 ユアンが顔を上げる。


「リナだ!」


 扉へ駆け寄る。


 今度は一夜も止めなかった。


「開ける前に確認します」


「何をだ!」


「リナさんのことを教えてください」


「宿の女中だ」


「それは役割です」


 ユアンが言葉を止める。


「本人のことです。仕事以外で、何が好きでした?」


「そんなこと……」


 ユアンは考える。


 エマが、弱い声で答えた。


「文字だ」


「文字?」


「あの子は、客が置いていった紙を集めていた」


 エマは地面へ手をつき、ゆっくり立ち上がる。


「読めないのに、ずっと眺めていた」


「読み書きを覚えたかったのか?」


 ユアンが尋ねる。


「宿の主人には、女中に必要ないと言われていた」


 エマの顔が悔しそうにゆがむ。


「夜に皆で出ていく前も、帳場の紙を見ていた」


 一夜は残った扉へ近づいた。


「リナさん!」


 扉の向こうから返事はない。


「あなたは、文字を覚えたかったんですか?」


 しばらくして、細い声が聞こえた。


「女中に、文字はいらない」


「リナさんは、どう思っているんです?」


「私は女中」


「それは仕事です」


「朝になれば、掃除をする。水を運ぶ。客に呼ばれる」


「休みの日は?」


「ない」


「仕事以外の時間は?」


「必要ない」


 一夜は扉へ手を触れた。


 表面は冷たい。


「文字を読みたいと思ったことは?」


「女中には必要ない」


「女中ではなく、リナさんに聞いています」


 扉の向こうが静かになる。


「リナさんは、文字を読みたいですか?」


「……分からない」


「では、自分の名前を書いてみたいですか?」


 扉が小さく揺れた。


「名前」


「はい」


「女中と書けばいい」


「それは名前ではありません」


 一夜は答える。


「あなたの名前は、リナです」


 ユアンが隣へ立つ。


「リナ・ハーヴェル」


 エマも続ける。


「あんたは、私の帳面を勝手に見て、いつも怒られていた」


「違う」


 扉の奥から声がする。


「勝手に見てない」


「見てたよ」


「片づけていただけ」


「文字を指でなぞってた」


「……覚えたかった」


 初めて、リナ自身の声がはっきり聞こえた。


「自分で、読めるようになりたかった」


 扉へ、細い亀裂が入る。


 一夜は取っ手を握った。


「開けます」


「待て」


 ガレスが前へ出る。


「私が先だ」


「中に敵がいるかもしれません」


「だからだ」


 ガレスが剣を構える。


 一夜はうなずき、扉を開いた。


     


 扉の向こうは、宿の帳場だった。


 小さな机。


 積み重なった紙。


 壁一面に並ぶ文字。


 だが、書かれている内容はすべて同じだった。


 女中。


 女中。


 女中。


 読めない一夜にも、意味だけが頭へ流れ込んでくる。


 部屋の中央で、リナが床を磨いていた。


 同じ場所を、何度も。


「リナ!」


 ユアンが呼ぶ。


 少女は顔を上げない。


「まだ終わっていない」


「何が?」


「掃除」


「床は十分きれいだ!」


「主人が決める」


 壁から、黒い影が伸びる。


 棒のような形。


 リナの背中を打つ。


「遅い」


 宿の主人の声。


「手を止めるな」


 もう1度、影が振り下ろされる。


 リディアが右手だけで剣を抜いた。


 影を切る。


 黒い棒が床へ落ち、霧になって消えた。


「誰だ!」


 壁全体から声が響く。


「女中へ仕事をさせているだけだ!」


「仕事ではない」


 リディアがリナの前へ立つ。


「罰を与えて従わせているだけだ」


「雇われた者には役割がある!」


「役割は、傷つける理由にならない」


 新しい黒い棒が、壁から何本も伸びる。


 ガレスと騎士たちが前へ出た。


「守るぞ!」


 剣で影を払い、リナへ届かせない。


 一夜は少女のそばへしゃがんだ。


「リナさん」


「掃除が終わっていない」


「今日は、もうやめませんか?」


「怒られる」


「怒る人から離れましょう」


「行く場所がない」


「今は、俺たちと一緒に来てください」


「その後は?」


 一夜は簡単に答えなかった。


 戻れば、すべて解決するとは言えない。


「宿場で起きたことは、騎士団が調べます」


「主人は許さない」


「許可をもらう必要はありません」


「私は、何をすればいい」


「それを自分で決められるようになるまで、休んでください」


 リナの手が止まる。


「何もしなくていい?」


「今は」


「ずっとではない?」


「ずっと何もしないかどうかも、後で決めればいいです」


 一夜は床に落ちていた紙を拾った。


 何も書かれていない白い紙。


「最初に何をしたいですか?」


 リナは紙を見る。


「文字を……」


 壁から伸びる影が、一斉に太くなった。


「女中に必要ない!」


「私には必要!」


 リナが叫んだ。


 部屋中の文字が揺れる。


「私は、女中だけじゃない!」


 床を磨いていた布を投げ捨てる。


「私の名前は、リナ・ハーヴェル!」


 壁に並んでいた文字が、次々と崩れた。


 女中という言葉が消えていく。


「朝へ戻ったら、何をしたいですか!」


 一夜が尋ねる。


 リナは白い紙を胸へ抱いた。


「自分の名前を書きたい!」


 足元へ、淡い緑色の印が浮かぶ。


【本人の自己名を確認】


【帰還意思を確認】


【一時帰還標識を付与します】


【救助対象:2人】


【残存対象:4人】


 帳場の壁が砕けた。


 黒い影が逃げるように天井へ吸い込まれていく。


 ガレスが叫ぶ。


「部屋が崩れる! 戻れ!」


 一夜はリナの手を取った。


 ユアンが反対側を支える。


 全員が扉を越え、夜の宿場へ戻った。


 直後。


 帳場へ続く扉が消える。


     


 リナは白い紙を握ったまま、エマの隣へ座り込んだ。


「エマさん」


「今日は料理をしない」


「私も、掃除しない」


「好きにしな」


 2人は顔を見合わせる。


 少しだけ笑った。


 説明書が光る。


【救助対象:2人】


【残存対象:4人】


【夜門領域の固定化が進行しています】


【領域閉鎖まで:48分】


 一夜は数字を見つめた。


「時間制限が出ました」


「48分で何が起きる」


 リディアが尋ねる。


「残った4人が、夜門に固定されます」


「戻せなくなるのか?」


【固定後の救助可能性:不明】


「分からないそうです」


「なら、今助ける」


 リディアは迷わず言った。


 黒い霧の中へ、今度は4枚の扉が現れる。


 それぞれ別の方向。


 同時に、残ったロープが強く引かれた。


 外側からの合図ではない。


 夜の奥へ、ロープそのものを奪おうとする力だった。


「ロープを押さえろ!」


 テオと騎士たちが飛びつく。


 一夜も両手で握った。


 帰還地点へ続く、最後の1本。


 黒い霧の向こうから、声がする。


『4人を選びなさい』


「全員です」


 一夜は即答した。


『時間は足りません』


「それを決めるのは、そっちじゃない」


『ならば、どの扉から開けますか』


 4枚の扉の向こうから、それぞれ異なる声が聞こえる。


 泣く声。


 怒鳴る声。


 笑う声。


 何も聞こえない扉。


 残り48分。


 4人。


 そして、帰還へ続くロープはあと1本。


 一夜は4枚の扉を見回した。


「まず、誰がどこにいるか確認します」


 救助は、急ぐ。


 だが、焦って選ばない。


 名前も知らずに扉を開ければ、夜の思う通りになる。


「全員で情報を出してください」


 一夜はユアンとエマへ向き直った。


「残りの4人について、知っていることを全部教えてください」

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