第42話 帰る場所を、選び直す
「お前を、夜へ連れていくためだ」
ユアンの言葉と同時に、地面から伸びた黒い手が動いた。
長い指先が、安全地帯の表面をなぞる。
透明な境界に黒い波紋が広がった。
だが、手は中へ入れない。
「全員、境界から離れろ!」
ダリウス団長の命令で、兵士たちがユアンを囲みながら後退する。
ガレスとテオは剣を抜いた。
リディアも右手を柄へかける。
「外へ出ないでください」
一夜は、すぐにリディアの腕をつかんだ。
「切れるか確認する」
「安全地帯の外へ出たら、守れません」
「このまま見ているのか?」
「まず、何が起きているか確認します」
一夜は説明書を開いた。
白紙だった場所へ、黒い文字が次々と浮かぶ。
【外部接続を確認】
【接続形式:夜門誘導】
【接続対象:ユアン・ベルク】
【新規指定対象:設営者】
【保護領域内への強制侵入:不可】
【対象が自ら境界を越えた場合、保護対象から除外されます】
「中へは入れません」
一夜は読み上げる。
「でも、俺たちが外へ出たら駄目です」
「ならば、ここから攻撃する」
リディアが剣を抜いた。
「安全地帯の中から、外へ攻撃できないでしょう」
「試していない」
「群れ長の時に、矢が止まりました」
「私は矢ではない」
「理屈が騎士すぎます」
リディアは剣先を黒い手へ向けた。
ゆっくり突き出す。
剣は境界へ触れた瞬間、見えない壁に止められた。
「……本当に通らない」
「安全地帯ですから」
「不便だな」
「内側から攻撃できたら、安全地帯を盾にして戦えるでしょう」
「便利ではないか」
「そういう使い方をさせないためですよ」
黒い手が、境界の向こうで一夜を指す。
指が曲がる。
こちらへ来い。
そう招いていた。
「なぜ、一夜殿を狙う」
ダリウスが尋ねる。
「監視塔の装置を壊したからか?」
「それだけではないみたいです」
説明書の次の行が浮かぶ。
【指定理由】
【称号:朝を持ち帰る者】
【設営者は、夜門に対する干渉権限を保持しています】
「俺が、門へ干渉できるからです」
「門を閉じられるということか?」
「まだ分かりません」
「また、それか」
リディアが言う。
「説明書が全部教えてくれないんですよ」
黒い手の動きが止まった。
次の瞬間。
ユアンの足元から伸びた黒い糸が、強く張った。
「うっ……!」
ユアンの体が後ろへ引かれる。
椅子が倒れた。
ガレスとテオが左右から腕をつかむ。
それでも、靴が地面を滑った。
「母さん……」
ユアンが、境界の外へ手を伸ばす。
「待っている。母さんが、呼んでいる」
「聞かないでください!」
一夜はユアンの前へ回り込んだ。
「違う」
「何が違う!」
「その声は、あなたのお母さんではありません」
「お前に何が分かる!」
ユアンが一夜の胸を押した。
力は弱い。
それでも、目には強い怒りがあった。
「母さんは俺を責めなかった。仕事ができなくても、客に殴られても、母さんだけは――」
「だから、声を使われたんです」
「黙れ!」
黒い糸が、さらに強く引く。
ガレスとテオの足まで地面を滑った。
「団長、押さえきれません!」
「ロープを使え!」
「待ってください!」
一夜が止める。
「体を縛っても、接続は切れません」
「では、どうする!」
一夜は説明書をめくる。
新しい文字は出ない。
「必要な機能ほど、すぐに書かないんだよな……」
「一夜!」
リディアがユアンの腰を抱え、引き戻す。
傷ついていた左肩は使わない。
右腕と体全体で支えている。
「早く考えろ!」
「考えてます!」
一夜はユアンの顔を見る。
夜へ戻りたい。
母親の声が聞こえる。
残された6人を裏切った。
それらが絡まり、本人にも何を望んでいるのか分からなくなっている。
「ユアンさん!」
「放せ!」
「夜へ戻りたいんですか?」
「そうだ!」
「本当に?」
「何を――」
「戻りたいのは、夜ですか?」
一夜は、もう1度尋ねる。
「それとも、残された6人のところですか?」
ユアンの動きが止まった。
黒い糸だけが、体を引き続けている。
「同じことだ」
「違います」
「6人は夜の中にいる!」
「でも、あなたは6人を連れて戻りたいと言いました」
「……言っていない」
「言いました」
一夜は、ユアンの肩へ手を置く。
「夜から出せば苦しむと思っている。でも、置いてきたことも苦しい」
「俺だけ朝へ戻った」
「だから、迎えに行きたいんでしょう」
「夜へ戻れば会える」
「戻ったら、また出られますか?」
ユアンは答えなかった。
「門は、あなたを帰したんじゃありません」
一夜は黒い手を見る。
「俺を呼ぶために、あなたを使った」
ユアンの顔がゆがむ。
「違う」
「なら、どうして今、あなたではなく俺を指しているんです?」
黒い手は、変わらず一夜だけを招いている。
ユアンを迎えに来たようには見えない。
「あなたのお母さんの声も、6人も、全部あなたを動かすために使われています」
「母さんは……」
「あなたを苦しい場所へ戻そうとする人でしたか?」
ユアンの唇が震える。
「違う」
「朝へ出たことを、裏切りだと言う人でしたか?」
「違う」
「なら、その声はお母さんではありません」
黒い糸が激しく震えた。
安全地帯の外から、低い声が聞こえる。
『ユアン』
女性の声。
境界を越えているのに、意味まで分かる。
『帰っておいで』
ユアンが顔を上げる。
『ここでは、もう頑張らなくていい』
「母さん……」
一夜はユアンの手から、コーヒーのカップを取った。
こぼれかけた中身は、まだ少し温かい。
「ユアンさん」
カップを両手へ握らせる。
「今、何を持っています?」
「何を……」
「答えてください」
「カップだ」
「温度は?」
ユアンが指へ力を込める。
「温かい」
「味は?」
「苦い」
「今、座っている場所は?」
ユアンは周囲を見る。
「天幕の中だ」
「誰がいます?」
「騎士団長。副隊長。騎士が2人」
一夜を見た。
「変な名前の男」
「そこ、覚えてたんですね」
ユアンの口元が、わずかに緩んだ。
黒い糸の力が弱まる。
「ここは朝です」
一夜は言った。
「苦い物も、疲れも、嫌な仕事もある」
「なら、なぜ戻る」
「選び直せるからです」
「選べないこともある」
「あります」
一夜は否定しない。
「でも、助けを求める相手は選べます」
ダリウスがユアンを見る。
「宿場で起きたことは、私が調べる」
「本当に?」
「ああ」
「主人は、騎士団へ金を払っている」
「それで事実は変わらない」
ダリウスの声は低く、揺らがなかった。
「客が厩番へ暴力を振るい、宿の主人が放置した。それが事実なら処罰する」
「俺の証言だけで?」
「ほかの従業員にも確認する。傷の記録も調べる」
「誰も、話してくれない」
「話させるのが我々の仕事だ」
ユアンは、しばらく団長を見つめていた。
「朝へ戻っても、同じではないのか」
「何もせずに戻れば、同じかもしれない」
一夜が答える。
「だから、戻る場所を作り直します」
「作り直す?」
説明書から、紙の擦れる音がした。
【対象の意思分離を確認】
【夜への帰還要求と、行方不明者の救助要求を分離しました】
【帰還標識を付与可能です】
【対象:ユアン・ベルク】
【帰還先:現在の安全地帯】
【対象本人の同意が必要です】
「出ました」
「何がだ」
「このテントを、ユアンさんの帰る場所として登録できます」
一夜は説明書を見せる。
ユアンには文字が見えていない。
それでも、一夜の言葉は届く。
「戻る場所……」
「夜から出る時、ここを目指せます」
「6人は?」
「連れてきてください」
「俺が?」
「俺たちも行きます」
リディアが続ける。
「あなたは道を知っている。私たちは戦える。一夜は帰る場所を作る」
ガレスがうなずく。
「騎士団も捜索隊を出す」
「俺が、またあの扉へ?」
「無理に行かせるつもりはない」
ダリウスが言う。
「場所だけ伝えてもらえれば、我々が進む」
ユアンはカップを握りしめた。
外から、母親の声が聞こえる。
『帰っておいで』
ユアンは目を閉じる。
「母さんなら」
小さくつぶやいた。
「俺だけ楽な場所へ逃げろとは言わない」
黒い糸が震える。
「夜に戻りたいんじゃない」
ユアンが顔を上げた。
「6人を迎えに行きたい」
黒い手の指が、境界を強く引っかいた。
「連れて帰りたい場所は、どこです?」
一夜が尋ねる。
ユアンはテントの中を見回した。
朝日を半分だけ遮る布。
温かいカップ。
自分を押さえるのではなく、支えている人たち。
「ここだ」
「夜ではなく?」
「ここへ戻る」
説明書へ文字が浮かぶ。
【本人の同意を確認】
【帰還標識を付与します】
テントの中心から、淡い緑色の光が広がった。
光がユアンの足元へ届く。
濃く染みついていた影へ、緑色の小さな印が浮かんだ。
黒い糸が弾ける。
境界の外へ引き戻されるように、次々とほどけていく。
『ユアン!』
母親の声が叫びへ変わった。
「違う」
ユアンは境界の外を見た。
「お前は母さんじゃない」
黒い糸が切れた。
地面から生えていた手が、音もなく崩れる。
黒い灰。
風もないのに、西へ向かって流れていった。
ユアンの体から力が抜ける。
倒れる直前、リディアとガレスが支えた。
「眠い……」
「眠ってください」
一夜は椅子をテントの奥へ移す。
「今度は、目を覚ませば朝です」
「6人を……」
「忘れません」
ユアンは目を閉じた。
すぐに穏やかな寝息が聞こえ始める。
説明書に新しい記録が浮かんだ。
【外部認識接続を切断しました】
【帰還標識登録者:1人】
【朝到達記録:74】
一夜は、その数字を見つめる。
ユアンは昨日、体だけなら朝へ戻っていた。
だが、本当に朝へ到達したのは今だった。
「黒い手は消えたのか」
ダリウスが境界の外を確認する。
「接続は切れたと出ています」
「一夜殿への指定は?」
一夜は説明書をめくる。
【夜門からの招待:継続中】
【指定対象:設営者】
【接続記憶を取得しました】
【夜門推定位置:西宿場北西・旧石橋周辺】
【位置情報の保持期限:本日の日没】
「まだ、俺を呼んでます」
リディアが即座に答える。
「行かない選択はないな」
「1人では行きませんよ」
「当然だ」
「リディアさんは、肩が治ってからです」
「すでに動く」
「完全に治ってからです」
「日没までしか場所が分からないのだろう」
「だからって、けがを無視していい理由にはなりません」
「剣は振れる」
「その言い方は禁止です」
「今は緊急時だ」
「緊急時ほど、動ける人が動きます」
ダリウスが2人の間へ入った。
「副隊長は同行する」
「団長」
「ただし、前衛には出さない」
リディアの眉が上がる。
「私は副隊長です」
「負傷者でもある」
一夜がうなずく。
「団長は話が早いですね」
「一夜殿も同行する」
「はい」
「ただし、我々の指示なく安全地帯から出ない」
「分かりました」
「聞き分けがよすぎないか?」
リディアが不満そうに言う。
「安全に関する指示なので」
「私の指示も聞け」
「休む指示なら聞きます」
ダリウスは周囲の兵士へ命じた。
「西宿場へ先触れを出せ。宿泊者と従業員を全員、建物の中へ入れろ」
「はい!」
「声に呼ばれても、1人で動かないよう伝えろ。捜索隊は12人。ロープ、松明、負傷者を運ぶ担架を準備」
兵士たちが動き始める。
「テントはどうする」
ガレスが尋ねる。
「旧石橋から距離を取り、帰還地点として設営します」
一夜が答えた。
「門の近くへ張るのではないのか?」
「近すぎると、地面を崩される可能性があります」
監視塔で、群れ長がペグの周囲を掘った。
夜門が同じ方法を使うとは限らない。
それでも、安全地帯の弱点を知る相手だと思って準備すべきだ。
「道が見える範囲で、安全な地面を探します」
「4本のペグだけで足りるか?」
「追加のロープとペグも持っています」
「設営中は我々が守る」
「お願いします」
役割を分ける。
戦える者。
道を知る者。
傷ついた者を運ぶ者。
帰る場所を作る者。
一夜は、眠っているユアンを見る。
「夜へ戻るためではありません」
残された6人。
朝を望む感覚を奪われた人々。
「6人を、ここへ連れて帰るために行きます」
テントの外では、黒い灰が西へ流れ続けていた。
まるで、一夜たちが追ってくると分かっているように。
夜門は、一夜を招いている。
ならば、その誘いを利用する。
今度はこちらから、奪われた朝を迎えに行く。




