第41話 朝を忘れた男
夜の中から戻ってきた男は、4人の兵士に囲まれて現れた。
年齢は30歳前後。
茶色い上着。
泥に汚れた靴。
首元には、宿場の従業員らしい木札が下がっている。
両手を縛られてはいない。
それでも、左右の兵士はすぐに腕をつかめる距離を保っていた。
「ユアン・ベルクです」
兵士の1人が安全地帯へ入り、説明する。
「西宿場の厩番。姿を消した7人のうち、昨夜戻った者です」
「ユアンさん」
一夜が名前を呼ぶ。
男は反応しなかった。
安全地帯の境界の外で、暗い門の向こうを見つめている。
「この中へ入ってもらえますか?」
一夜の言葉は届かない。
リディアが外へ出て、ユアンへ話しかけた。
男は首を横へ振る。
声を荒らげることも、暴れることもない。
ただ、安全地帯へ近づこうとしなかった。
「嫌がっています」
境界へ戻ったリディアが言う。
「この天幕の中は明るすぎる、と」
「普通の明るさですけど」
「彼には違って見えるのだろう」
一夜はユアンの足元を見る。
朝日は城門の石畳へ差し込んでいる。
だが、男の影だけが不自然に濃かった。
ほかの人間の影より黒い。
地面へ染みついたように、ほとんど動かない。
「無理に入れても大丈夫でしょうか」
ダリウス団長が尋ねる。
「敵意を持っていなければ入れます」
「本人が拒んでいる」
「助けを求めていない人にも、効果があるかは分かりません」
説明書を開く。
【認識干渉を受けた対象を確認】
【対象の保護領域内への誘導を推奨します】
【強制的な入域:非推奨】
「強引に入れるのは、勧められてません」
「では、説得するしかないか」
「その人が、今何を望んでいるか聞いてください」
リディアが再び境界の外へ出る。
ユアンと短く話す。
今度は、男が何かを答えた。
リディアの表情が変わる。
すぐに安全地帯へ戻った。
「何と言いました?」
「夜へ帰りたい」
「理由は?」
「残った6人が待っている。朝へ出てきた自分は、裏切り者だと」
「本人は、逃げてきたつもりなんですね」
「ああ」
一夜はユアンを見る。
朝へ戻れたのに。
自分だけ助かったことを喜んでいない。
残った人々へ申し訳ないと思っている。
「では、夜へ戻る方法を一緒に探す、と伝えてください」
「一夜」
リディアの声が低くなる。
「本当に戻す気か?」
「連れ戻しに行くためです」
「言い方を誤解される」
「でも、今のユアンさんに『朝はいい場所だ』と言っても届きません」
朝を望む感覚そのものを失っている。
夜から離れろ。
朝を選べ。
そう言われても、本人には理由が分からない。
「まず、その人が行きたい場所の話を聞きます」
一夜はテントの中へ置いていた椅子を、境界の近くへ運んだ。
次に、小型バーナーとケトルを用意する。
「何をする」
ダリウスが尋ねる。
「コーヒーを淹れます」
「この状況で?」
「この状況だからです」
リディアが少し考え、うなずいた。
「認識を安定させた飲み物か」
「同じ効果が出るとは限りませんけど」
「また、たぶんか」
「今回は言ってません」
一夜は湯を沸かし始めた。
安全地帯の中へ、香ばしい匂いが広がる。
境界の外にいるユアンの鼻が、わずかに動いた。
「反応した」
テオが小さく言う。
一夜は苦みの弱いコーヒーをカップへ注いだ。
椅子の上へ置く。
「ここへ座れば、飲めます」
リディアが外へ出て、その言葉を伝えた。
ユアンはカップを見る。
次に、安全地帯の境界。
何度も視線を往復させる。
やがて、ゆっくりと足を前へ出した。
境界の直前で止まる。
「大丈夫です」
一夜は言った。
まだ言葉は通じない。
「ここでは、無理に朝を選ばせたりしません」
ユアンが1歩踏み出した。
安全地帯へ入る。
濃かった影が境界を越えた瞬間、地面から引き剥がされるように揺れた。
黒い糸が、男のかかとから外へ伸びている。
「見えた!」
一夜が声を上げる。
糸は安全地帯へ入れない。
境界で引っかかり、細く震えていた。
説明書が光る。
【外部認識干渉との接続を確認】
【保護領域内への侵入を拒否】
【対象本人との接続は継続中です】
「切れてはいません」
ユアンが、怯えたように振り返る。
自分の影から伸びる黒い糸が、本人にも見えたらしい。
「それは何だ」
安全地帯に入ったことで、初めて声がつながった。
「こちらが聞きたいです」
一夜はユアンへ椅子を勧めた。
「座れますか?」
「座る必要はない」
「かなり疲れて見えます」
「夜では疲れなかった」
「今は朝です」
「だから、体が重い」
ユアンは嫌そうに空を見る。
青空。
白い雲。
朝日。
「光が痛い」
「では、テントの中へ入りましょう」
一夜は入口を指す。
「少し暗くできます」
「夜へ戻れるのか?」
「完全な夜にはできません」
ユアンは動かない。
一夜は自分が先にテントの中へ入り、入口の布を半分だけ閉じた。
直射日光が遮られる。
それでも、暗闇ではない。
「このくらいなら?」
ユアンは迷った末、テントの中へ入った。
椅子へ座る。
一夜はコーヒーを差し出した。
「毒か?」
「俺も飲みます」
自分用のカップへ口をつける。
ユアンも、慎重にひと口飲んだ。
顔がゆがむ。
「苦い」
「その反応は普通です」
「なぜ、これを飲む」
「少し落ち着くので」
「夜なら、何も飲まなくても落ち着けた」
「喉は渇きませんでした?」
ユアンの手が止まった。
「腹は?」
「……空かなかった」
「眠りました?」
「ずっと眠っていた」
「でも、起きていたんですよね」
ユアンは答えない。
眠っている。
起きている。
その区別が、夜の中ではなくなっていたのかもしれない。
説明書へ文字が浮かぶ。
【飲料調製を確認】
【対象:認識干渉を受けた帰還者】
【一時効果を付与】
【認識安定・弱】
【感覚回復・微弱】
【持続時間:30分】
「効果が出ました」
「何の話だ」
「少し、感覚が戻りやすくなっています」
「失ってなどいない」
「では、このコーヒーは温かいですか?」
ユアンがカップを見る。
両手で包むように持つ。
「……温かい」
「苦い?」
「苦い」
「香りは?」
ユアンは少し間を置いた。
「焦げた木のようだ」
「そこまで悪くないと思うんですけど」
リディアが横から口を挟む。
「最初は私も、黒い薬だと思った」
「味方してくださいよ」
「今は嫌いではない」
「かなりの進歩ですね」
ユアンの目が、リディアへ向く。
「あなたも、夜を見たのか」
「ああ」
「なら、なぜ戻った」
「戻る場所があったからだ」
リディアは一夜とテントを見る。
「そして、朝に待つ者がいた」
「夜にも待つ者がいる」
「だから、迎えに行く」
「夜から出せば、苦しむ」
「それを決めるのは、あなたではない」
リディアの声は強い。
だが、責めるものではなかった。
「夜へ残るか、朝へ戻るか。本人が決めるべきだ」
「夜では、何も決めなくてよかった」
ユアンはカップを見つめる。
「働かなくていい。馬の世話も。宿の客へ怒鳴られることもない」
一夜は黙って聞いた。
「朝になるたび、同じことの繰り返しだった」
「朝が嫌だったんですね」
「ああ」
「俺もです」
ユアンが顔を上げる。
「お前も?」
「仕事へ行きたくない朝は、何度もありました」
「ならば、なぜ夜を壊す」
「朝が悪いわけではなかったからです」
一夜はコーヒーを飲む。
「朝が来た後の過ごし方を、自分で選べていなかっただけでした」
「選べる者ばかりではない」
「そうですね」
一夜は簡単に否定しなかった。
「だから、朝へ戻れば全部うまくいくとは言いません」
宿の仕事。
疲労。
客からの怒声。
ユアンを夜へ向かわせた問題は、朝日だけでは消えない。
「でも、夜へ残ったら変えることもできません」
「変えられるのか」
「1人では難しいです」
一夜は周囲を見る。
リディア。
ガレス。
ダリウス団長。
「だから、助けを求めます」
ユアンの視線が、騎士団長へ向く。
ダリウスは腕を組んだまま話を聞いていた。
「宿場で、客から暴力を受けていたのか」
団長が尋ねる。
「……時々」
「宿の主人は知っている?」
「見ていた」
「ならば、そちらも調べる」
ユアンが目を見開く。
「なぜ」
「アルノの管理下にある宿場で起きたことだ」
「厩番1人のために?」
「1人を放置すれば、次も起きる」
ダリウスは当然のように答えた。
「戻った後のことは、騎士団と宿場の管理官が確認する」
「本当に?」
「約束する」
ユアンの手が震える。
コーヒーの表面に、小さな波紋が広がった。
「朝へ戻れば、また同じだと思っていた」
「同じにしないために、話を聞いています」
一夜は言った。
「残っている6人について教えてください」
ユアンが目を閉じる。
「思い出したくない」
「全部でなくていいです」
「呼ばれて……門を出た」
「誰の声でした?」
「母だ」
「亡くなっている?」
「ああ」
灰緑の森で見た幻と同じ。
本人が追い続けている人の声。
「どこへ行きました?」
「西の林」
「その先は?」
「古い石橋がある」
ユアンの呼吸が速くなる。
一夜は話を止めた。
「今は、ここまでにします」
「時間がないのでは?」
ダリウスが尋ねる。
「思い出させすぎると、また夜へ引かれます」
ユアンの影から伸びる黒い糸が、強く張っていた。
境界の外から、何かが引いている。
「ユアンさん」
一夜はカップを指す。
「今、何が分かります?」
「苦い」
「温かい?」
「ああ」
「椅子へ座っている?」
「ああ」
「ここにいるのは?」
「騎士団長。副隊長。騎士たち」
ユアンが一夜を見る。
「知らない男」
「泊一夜です」
「変な名前だ」
「初対面で言います?」
ユアンの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「では、もう1つだけ」
一夜は尋ねる。
「石橋の先で、何がありました?」
ユアンの表情から、わずかな笑みが消えた。
「扉だ」
「どんな?」
「地面に立っていた」
「建物は?」
「何もない」
ユアンの指が震える。
「黒い扉だけが、林の中に立っていた」
リディアとダリウスが顔を見合わせる。
「開けたんですか?」
「母が、向こうにいた」
「扉の先は?」
「宿場だった」
「西宿場?」
「同じ場所だ」
ユアンは首を横へ振る。
「でも、朝が来ない宿場だった」
「残りの6人も、そこに?」
「ああ」
「どうして、あなただけ戻れたんです?」
黒い糸が、激しく震えた。
ユアンが頭を押さえる。
「分からない」
「無理に思い出さなくていいです」
「違う」
ユアンの目が大きく開く。
「戻された」
「誰に?」
「夜に」
テントの外から、何かが地面を引っかく音がした。
兵士たちが一斉に武器を構える。
安全地帯の境界に、黒い指先が浮かんでいた。
人の手。
地面から生えたように、外側から見えない壁を探っている。
「迎えに来た」
ユアンが震える声で言った。
「私を、戻すためではない」
黒い糸が、ユアンの影から安全地帯の外へ伸びる。
その先にある手が、ゆっくりと一夜を指した。
「お前を、夜へ連れていくためだ」




