第4話 森の奥で、剣の音がした
金曜日の午後6時42分。
一夜は、パソコン画面の右下に表示された時刻を見つめていた。
「泊さん、帰る前に1つだけお願いしてもいいですか?」
背後から声が飛んできた。
一夜は、あと少しで閉じるところだったメール画面から、ゆっくり顔を上げる。
「今日中ですか?」
「できれば」
「どれくらいかかります?」
「そんなにかからないと思います。資料を確認して、数字をまとめてもらうだけなので」
その言葉を信じて作業を引き受けると、帰宅が1時間遅くなる。
一夜はすでに何度も経験していた。
机の下には、大きなバックパックが置いてある。
水。
保存食。
救急用品。
ランタン。
ヘッドライト。
懐中電灯。
鍛造ペグ。
今夜、一夜は再びキャンプ場へ向かう予定だった。
「あの、すみません」
一夜は椅子から立ち上がった。
「今日は予定があるので、月曜日でも大丈夫ですか?」
「え?」
頼んできた同僚が、少し驚いた顔をする。
一夜自身も、同じくらい驚いていた。
断った。
自分が、仕事を断った。
「でも、来週使いたい資料で」
「月曜日の午前中にまとめます。今日必要なら、元のデータだけ送ってもらえれば、帰宅後に確認します」
帰宅後に確認する。
そこまで言ってしまうのが、一夜の弱さだった。
しかし、今までなら迷わず残っていた。
半歩くらいは前進している。
「……分かりました。月曜日でお願いします」
「はい」
一夜はパソコンの電源を落とした。
引き止められる前に、バックパックを背負う。
「お疲れさまでした」
会社を出た瞬間、肩から力が抜けた。
「言えたな」
自分の予定を優先した。
ただし、その予定が異世界の森へ行くことだとは、誰にも説明できない。
「休日の使い方として正しいのかは分からないけど」
少なくとも、資料の数字をまとめるよりは、自分で選んだ時間だった。
キャンプ場へ着いた頃には、空が暗くなり始めていた。
一夜は前回と同じ区画を予約していた。
管理棟。
駐車場。
隣のテント。
すべて以前と同じように見える。
異世界の森に変わるような場所には思えなかった。
「本当に行くんだよな」
一夜は濃い緑色の収納袋を見下ろす。
ここで引き返すこともできる。
テントを設営せず、そのまま帰宅する。
週末は部屋で眠り、動画を見て、洗濯をして過ごす。
月曜日になれば、いつも通り仕事へ行く。
それが安全だった。
一夜は収納袋の口を開いた。
「確認するだけだ」
あの森へ再び行けるのか。
安全地帯は本当に機能するのか。
説明書の白紙が何を意味しているのか。
それを確認したら、戻ってくる。
誰かを助けに行くわけではない。
危険な場所へ踏み込むつもりもない。
「森の空き地から出なければ大丈夫」
誰に言い聞かせているのか、自分でも分かっていた。
前回よりも設営は早かった。
ポールを通し、テントを立ち上げる。
4本の鍛造ペグを、森川に教わった角度で地面へ打ち込む。
付属のペグより重い音がした。
「これは抜けそうにないな」
ロープの張りを確認する。
ランタンを吊るす。
バックパックは、すぐに背負える位置へ。
靴も入口へそろえる。
懐中電灯は枕元。
ヘッドライトは首へかけた。
準備だけを見れば、かなり慣れたキャンパーに見えるかもしれない。
実際は、魔物に襲われる前提で荷物を並べているだけだった。
夕食を済ませ、一夜は説明書を開く。
【テントレベル:1】
【往還回数:1】
【同一地点への接続を維持します】
文字に変化はない。
「今夜で2回目だな」
新しいページは白紙のまま。
一夜は寝袋へ入った。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも、前回より心の準備はできていた。
「朝になったら、まず周囲を確認」
水と食料は3日分。
予備の電池もある。
異世界で1泊すれば現代へ帰れる。
安全地帯は魔物を通さない。
「大丈夫」
小さくつぶやき、目を閉じた。
鳥の声で目が覚めた。
一夜はすぐに体を起こした。
スマートフォンを確認する。
土曜日、午前6時07分。
圏外。
「来たな」
ヘッドライトを首へかけ、懐中電灯を手に取る。
テントのファスナーを、少しだけ開いた。
灰緑色の苔。
青みがかった葉。
巨大な木々。
前回と同じ森だった。
黒い狼の姿は見えない。
一夜は入口を開き、周囲を確認する。
テントの位置も変わっていない。
前回使った石。
バーナーを置いた跡。
折れた細い枝。
「同じ場所だ」
説明書の記載は正しかった。
一夜は保護領域の端へ立つ。
足元へ木の実が落ちている。
枝を使い、安全地帯の外から内側へ転がしてみる。
木の実は問題なく入ってきた。
「物は通る」
次に、小さな石を外へ投げる。
石も透明な壁を通過した。
「敵意がなければ、出せるのか」
朝の魔物へ枝を伸ばした時も、外へ出すことはできた。
ただし、攻撃しようとすればどうなるかは分からない。
「試したくはないな」
一夜はテントへ戻り、バーナーで湯を沸かした。
前回と同じインスタントコーヒー。
けれど、今回は紙コップではなく、店で購入した金属製のマグカップを使う。
「道具を変えると、それっぽくなるな」
味まで良くなったような気がする。
気のせいかもしれない。
コーヒーを飲みながら、森の音へ耳を澄ませる。
鳥の声。
風。
遠くで水が流れるような音。
「川があるのか?」
飲み水は十分に持ってきた。
わざわざ探しに行く必要はない。
森の中へ入るつもりもなかった。
一夜は椅子へ腰かけ、持ってきた本を取り出した。
異世界まで来て読書。
安全地帯から出なければ、危険はない。
自分の時間を過ごすだけなら、これでいい。
ページを開いて、5分ほど経った時だった。
甲高い音が、森の奥から響いた。
一夜は顔を上げた。
「何だ?」
金属同士がぶつかるような音。
少し間を置き、もう1度聞こえた。
甲高い衝突音。
続いて、獣のうなり声。
「戦ってる?」
一夜は本を閉じた。
音は、水の流れる方向とは反対側から聞こえている。
金属音が続く。
何かが地面へ倒れたような重い音。
そして、人間の声がした。
言葉の内容は分からない。
それでも、苦しそうな声であることは伝わった。
一夜は立ち上がる。
「人がいる」
初めて聞いた。
この世界へ来てから、人間の声を。
森へ行けば危険だ。
黒い魔物がいる。
安全地帯の外では、自分を守る物がない。
剣も使えない。
走るのも速くない。
一夜はテントの前で足を止めた。
「助けに行って、何ができるんだ」
戦うことはできない。
けが人を背負って逃げられる自信もない。
言葉も通じない。
自分まで倒れれば、助けるどころではなくなる。
再び金属音が響いた。
今度は、かなり近い。
枝が折れる。
獣が吠える。
一夜はヘッドライトを頭へつけた。
「確認するだけだ」
同じ言い訳を、今日だけで何度使っただろう。
バックパックを背負う。
救急セット。
水。
スープ。
ロープ。
懐中電灯。
必要な物が入っていることを確認した。
テントから数歩離れ、振り返る。
見えない安全地帯。
自分が戻るべき場所。
「遠くまでは行かない」
一夜は木々の間へ足を踏み入れた。
森の地面は歩きにくかった。
灰緑色の苔の下に、木の根や石が隠れている。
一夜は何度も足を取られながら、音のした方向へ進んだ。
テントが見えなくならないよう、時々振り返る。
だが、巨大な木々が視界を遮り、数十メートル進んだだけで緑色の布は見えなくなった。
「戻れるよな……?」
一夜はスマートフォンの方位磁針を確認した。
圏外でも方角は分かる。
念のため、歩いた方向を記録している。
前方から、低いうなり声が聞こえた。
一夜は足を止め、太い木の陰へ隠れる。
地面に、黒い獣が倒れていた。
前回見た魔物と同じ種類だ。
首元には深い傷があり、紫色の光が消えかけている。
「死んでるのか?」
近づかない方がいい。
一夜は距離を取り、横を通り過ぎようとした。
その時、魔物の足が動いた。
「うわっ」
一夜は後ずさった。
魔物は立ち上がらなかった。
弱く息を吐き、そのまま動かなくなる。
「心臓に悪いな……」
傷は刃物で切られたように見えた。
人間が戦った証拠だった。
さらに進むと、折れた枝や抉れた地面が増えていく。
血も落ちていた。
黒い魔物の血は、紫がかった色をしている。
その中に、赤い血が混じっていた。
「人の血か」
一夜は歩く速度を上げた。
また金属音が響く。
今度は、木々の向こうからはっきり聞こえた。
人影が見える。
銀色の鎧。
長い金色の髪。
剣を持った女が、黒い魔物と向かい合っていた。
彼女の周囲には、すでに3匹の魔物が倒れている。
だが、立っている魔物も2匹いた。
女の左腕から血が流れている。
鎧の脇腹も大きく裂けていた。
呼吸が荒い。
剣を構える腕も、わずかに震えている。
「人だ」
一夜が声を漏らした瞬間、女が振り向いた。
青い瞳が、一夜を捉える。
女は何かを叫んだ。
「え?」
聞いたことのない言葉だった。
警告している。
それだけは分かる。
直後、黒い魔物が一夜へ向かって走り出した。
「まずい!」
一夜は背を向けた。
逃げる。
森の中を、来た道へ。
背後から獣の足音が迫る。
速い。
振り返らなくても分かる。
一夜は懐中電灯を握ったまま、木の根を飛び越えた。
「こんなの、聞いてない!」
説明書には、保護領域外の安全は保証されないと書かれていた。
つまり、聞いてはいた。
「もっと強く止めろよ!」
背後で剣の音がした。
女が魔物へ追いついたのだろう。
獣の悲鳴。
足音が1つ消える。
だが、もう1匹がいる。
一夜の前方に、緑色のテントが見えた。
「あと少し!」
安全地帯まで、20メートル。
15メートル。
10メートル。
横の茂みが大きく揺れた。
別の魔物が飛び出してくる。
「嘘だろ!」
一夜は急停止した。
魔物が牙をむく。
逃げ道を塞がれた。
背後には、もう1匹。
一夜は手にしていた懐中電灯を構えた。
武器にはならない。
それでも、何も持っていないよりはましだった。
前方の魔物が地面を蹴る。
その直前。
銀色の影が、一夜の横を通り過ぎた。
剣が振り抜かれる。
魔物の前足が切り裂かれ、巨体が地面へ転がった。
女騎士だった。
彼女は一夜をかばうように立つ。
しかし、すでに限界が近い。
剣先が下がっている。
脇腹から流れた血が、足元へ落ちた。
「大丈夫ですか?」
一夜が声をかける。
女は理解できない様子で眉を寄せた。
何かを叫び、剣でテントの方向を示す。
「向こうへ行けってことか?」
女がもう1度叫ぶ。
背後から魔物が迫っていた。
一夜はテントへ向かって走る。
女も後ろへ下がりながら剣を振るった。
安全地帯まで、あと5メートル。
4メートル。
3メートル。
女の膝が崩れた。
「危ない!」
一夜は振り返った。
魔物が女へ飛びかかる。
一夜は考えるより先に、彼女の腕をつかんだ。
重い。
鎧を身につけた人間を、簡単に引っ張れるはずがない。
「こっちです!」
言葉は通じない。
それでも、一夜は力を込めた。
女が顔を上げる。
青い瞳が、一夜とテントを交互に見る。
魔物が迫る。
女は最後の力で立ち上がり、一夜に肩を借りながら前へ進んだ。
あと2メートル。
あと1メートル。
一夜は女を引き寄せた。
次の瞬間。
ごんっ、と重い音が響いた。
黒い魔物が、見えない壁へ激突する。
女騎士は目を見開いた。
自分たちと魔物の間にある、何もない空間へ手を伸ばす。
その唇が、震えながら言葉を紡いだ。
「――何だ、これは」
一夜は息を止めた。
今まで理解できなかった声が、はっきりと日本語に聞こえた。
女も驚いたように一夜を見る。
「あなたの言葉が……分かる?」
安全地帯の中で、初めて2人の言葉がつながった。




