第3話 異世界対策をキャンプ用品店で相談してはいけない
テントを撤収しながら、一夜は何度も説明書を確認した。
【往還回数:1】
【同一地点への接続を維持します】
何度読んでも、文字は消えない。
「同一地点って、あの森の空き地だよな」
説明書は答えない。
「せめて質問欄を作ってくれないか」
もちろん、新しい文字が浮かぶこともなかった。
一夜はため息をつき、ポールを収納袋へ押し込んだ。
行きよりも袋が膨らんでいる。
同じ道具を同じ袋へ戻しているはずなのに、なぜ入らなくなるのか。
「異世界より、こっちの方が理不尽だな」
押す。
入らない。
向きを変える。
やはり入らない。
説明書の収納手順を確認し、ようやく袋の口を閉じるまでに30分ほどかかった。
帰りのバスでは、ほとんど眠っていた。
自宅へ着いたのは昼過ぎだった。
玄関に荷物を置き、靴を脱ぐ。
見慣れた1Kの部屋。
小さな机。
洗濯物の残った籠。
流しに置いたままのマグカップ。
昨日までと何も変わっていない。
「本当に帰ってきたんだよな」
一夜はスマートフォンを取り出し、森で撮影した動画を再生した。
青みがかった葉が風に揺れている。
遠くで、低い獣の声も聞こえた。
映像の端には、黒い狼のような影が一瞬だけ映り込んでいる。
「いたな……」
夢ではない。
寝ぼけてもいない。
一夜は動画を止め、カーテンを閉めた。
誰かに見せるべきだろうか。
警察。
役所。
大学の研究者。
動画投稿サイト。
「どこに連絡しても、まず病院を勧められそうだな」
それに、テントを調べると言われて取り上げられる可能性もある。
危険な物には違いない。
だが、あの安全地帯がなければ、一夜はすでに魔物に食べられていた。
手放すにしても、もう少し仕組みを理解してからにしたかった。
「次は行かない」
一夜は口に出した。
テントを押し入れへ入れる。
「絶対に行かない」
扉を閉める。
それから、空になったペットボトルと食料の袋を見た。
「……行かないけど、備えは必要だよな」
災害対策にも使える。
キャンプ道具は現代でも役に立つ。
次に異世界へ行くためではない。
万が一のためだ。
「水と食料。あと、ライト」
昨日の夜は、スマートフォンの明かりと小型ランタンだけで過ごした。
電池が切れていたら危なかった。
魔物が保護領域を突破できないとしても、暗闇の中で何も見えないのは怖い。
「救急用品もいるな」
自分がけがをする可能性がある。
それから、ペグ。
地面が硬かったり、逆に柔らかすぎたりすれば、付属品では固定できないかもしれない。
一夜はスマートフォンへ必要な物を入力していった。
水。
保存食。
ライト。
予備電池。
救急用品。
丈夫なペグ。
ハンマー。
防寒具。
虫よけ。
「虫よけは効くのか?」
異世界の虫に、現代の薬品が通用する保証はない。
「……店で聞けるわけないか」
異世界の森で使える虫よけはありますか。
そんな質問をした瞬間、店員の笑顔が固まりそうだった。
月曜日。
「泊さん、先週の件なんですけど」
「はい」
「先方から返事が来てなくて。確認してもらえますか?」
「金曜日に送った内容ですか?」
「そうです。朝1番でお願いします」
午前8時58分。
始業前だった。
一夜はパソコンを起動しながら、小さく息を吐いた。
異世界から帰った翌日に、取引先への催促をしている。
人生というものは、もう少し余韻を与えてくれてもいいと思う。
「泊さん?」
「あ、はい。確認します」
メールを開く。
相手へ送った内容を読み返す。
返信期限は、今日の午後となっていた。
「今日の午後までと書いてありますけど」
「でも、早い方がいいですよね?」
「……そうですね」
言い返せなかった。
結局、一夜は相手へ確認のメールを送った。
返事は10分後に届いた。
『期限内に回答いたしますので、少々お待ちください』
「ですよね」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
異世界の魔物は、敵意をむき出しにして襲ってきた。
仕事の依頼は、笑顔と丁寧な言葉で時間を奪っていく。
どちらが厄介なのか、一夜には判断できなかった。
昼休み。
一夜は通販サイトでキャンプ用品を調べた。
商品が多すぎる。
ライトだけでも、充電式、乾電池式、吊り下げ式、置き型と種類がある。
ペグにも、アルミ、スチール、チタンと書かれていた。
「初心者向けって書いてあるのに、初心者には違いが分からないんだよな」
画面を見続けているうちに、判断するのが面倒になってきた。
実物を見た方が早い。
一夜は会社から2駅離れた場所に、アウトドア用品店があることを思い出した。
仕事を終えた一夜が店へ着いたのは、午後7時前だった。
店内には、色とりどりのテントや寝袋、テーブル、調理器具が並んでいた。
キャンプ場で見た道具よりも多い。
「こんなにあるのか……」
自分が買ったテントが、急に頼りなく見えてくる。
巨大なテントの値札を見て、一夜は静かに離れた。
「こちら、お探しの物はございますか?」
声をかけられ、振り返る。
店員の名札には、森川と書かれていた。
20代後半くらいの女性で、髪を後ろでまとめている。
「ええと、キャンプ用品を少し」
「初めてですか?」
「1回だけ行きました」
「どうでした?」
一夜は答えに詰まった。
森が違う世界へ変わり、黒い魔物に囲まれた。
感想としては、刺激的すぎる。
「思っていたより、野生が近かったです」
「キャンプ場によっては、動物も出ますからね」
森川は自然に受け止めた。
「どんな動物でした?」
「狼みたいなものです」
「狼?」
「……かなり大きい犬だったかもしれません」
「キャンプ場に大型犬が?」
「飼い主はいませんでした」
森川の表情が少しだけ心配そうになる。
「管理人さんには連絡されましたか?」
「次に見たら、相談します」
「次がない方がいいと思いますけど」
「俺もそう思います」
心から同意した。
森川はそれ以上追及せず、売り場の案内へ戻った。
「今日は何をお探しですか?」
「夜でも周りを確認できるライトと、丈夫なペグ。それから、数日分の水や食料を運べる物が欲しいです」
「何泊の予定ですか?」
「基本は1泊です」
「1泊で数日分ですか?」
「帰れなくなる可能性も考えて」
「かなり慎重なんですね」
「前回、少し帰れるか不安になったので」
嘘ではない。
森川はうなずいた。
「では、まずライトですね。メイン用と、手元用の2つがあると安心です」
「2つですか」
「ライトが故障した時、真っ暗になりますから。メインは吊り下げられる物。手元用はヘッドライトがおすすめです」
「頭につけるやつですね」
「両手が空きます。暗い中で設営したり、何かから急いで逃げたりする時にも便利ですよ」
「逃げる時……」
「急な雨とか、動物とかです」
「ああ、動物」
一夜の脳裏に、透明な壁へ体当たりする黒い魔物が浮かんだ。
「明るさは、どれくらい必要ですか?」
「周囲全体を見るなら、最大で1000ルーメン前後あると便利です。ただ、ずっと最大にすると電池を消耗します」
「森の奥から何か来ているか確認できますか?」
「距離にもよりますが、広範囲を照らすランタンより、遠くを見るなら懐中電灯の方が向いています」
「両方必要ですね」
「……ずいぶん本格的ですね」
「何がいるか分からないので」
「初めて行くキャンプ場ですか?」
「初めてというか、前回と同じ場所だと思います」
「思います?」
一夜は商品棚へ視線を移した。
「景色が変わっていなければ」
「キャンプ場が移転する予定でも?」
「そういう意味ではありません」
森川が不思議そうに首を傾げる。
一夜は咳払いした。
「丈夫なペグをお願いします」
「地面はどんな感じでした?」
「苔が多くて、その下は土です。周りには大きな木がありました」
「雨の後だと、地面が緩むかもしれませんね。付属のアルミペグより、こちらの鍛造ペグが安心です」
森川が手に取ったペグは、太くて重かった。
「これを4本」
「テントによっては、ロープ分も必要ですけど」
「とりあえず、絶対に抜けてほしくない場所が4か所あります」
「四隅ですね」
「命に関わるので」
「強風ですか?」
「それに近いです」
説明すればするほど怪しくなる。
森川は一夜のテントの商品名を聞き、必要な本数を確認してくれた。
「ハンマーも付属品ではなく、こちらの方が打ち込みやすいです」
「抜けにくくなりますか?」
「正しく打てば、かなり安定しますよ」
「地面が崩れた場合は?」
「崩れる場所にテントを設営しないでください」
「それはそうですね」
一夜は素直にうなずいた。
買い物籠には、次々と商品が増えていった。
ランタン。
ヘッドライト。
懐中電灯。
予備電池。
鍛造ペグ。
ハンマー。
救急セット。
携帯浄水器。
保温シート。
ロープ。
大容量のバックパック。
「この浄水器は、川の水にも使えますか?」
「細菌や微生物には対応しています。ただし、毒物や重金属まで除去できるわけではありません」
「紫色に光っている水は?」
「飲まないでください」
「ですよね」
「そんな水がある場所へ行く予定なんですか?」
「念のためです」
「念のための範囲が広いですね」
森川は笑った。
一夜も少しだけ笑う。
自分の話をまともに聞いてもらえるだけで、なぜか気持ちが軽くなった。
「食料は、店内の保存食も見ていきますか?」
「お願いします。お湯だけで食べられて、なるべく温かい物がいいです」
「フリーズドライのスープやリゾットがありますよ」
「スープ……」
魔物に囲まれた夜でも、温かい物を飲むと落ち着いた。
誰かと一緒にいるなら、渡すこともできる。
もっとも、あの森で人間に会えるかは分からない。
「2人分くらい用意した方がいいですかね」
「お連れの方がいるんですか?」
「いません」
「では、予備ですか?」
「誰かが倒れているかもしれないので」
「遭難救助へ行くんですか?」
「行く予定はないです」
店員の笑顔が、少しずつ困惑へ変わっていく。
一夜は籠にスープを入れた。
「誰も倒れていなければ、自分で食べます」
「それがいいと思います」
会計金額は、予想していたより高かった。
一夜は一瞬だけ迷った。
だが、異世界で命を落とすことを考えれば安い。
そもそも、行かなければ普通の防災用品として使える。
「カードでお願いします」
「ありがとうございます」
森川が商品を袋へ入れながら言った。
「次のキャンプも、お気をつけください」
「はい」
「特に大型犬には」
「できれば、もう会いたくないですね」
「無理に近づかず、管理人さんへ連絡してください」
「管理人がいれば、そうします」
「いない場所には行かないでくださいね」
「善処します」
「そこは約束してください」
真面目な顔で言われ、一夜は目をそらした。
帰宅後、一夜は買った道具を床へ並べた。
1Kの部屋が、一気に狭くなる。
ランタンの動作を確認する。
明るい。
懐中電灯は、部屋の端まで強い光を飛ばした。
ヘッドライトをつけ、鏡を見る。
「似合わないな」
ただし、格好を気にしている場合ではない。
バックパックへ水と食料を詰める。
救急セット。
ライト。
予備電池。
浄水器。
防寒具。
容量には、まだ少し余裕があった。
一夜は押し入れを開ける。
濃い緑色の収納袋が見えた。
「行かない」
自分へ言い聞かせる。
「今週は疲れてる。来週も仕事がある」
扉を閉める。
数秒後、もう1度開けた。
説明書だけを取り出す。
白紙のページには、昨日までと同じ文字が残っている。
【往還回数:1】
【同一地点への接続を維持します】
一夜はその下の余白を見つめた。
「何で、こんなに白紙が残ってるんだろうな」
レベル1。
つまり、レベル2がある。
その先も。
何をすれば上がるのか。
上がったら、何が変わるのか。
一夜は説明書を閉じた。
テントを押し入れの奥へ戻すつもりだった。
だが、収納袋はバックパックの隣へ置かれた。
「防災用品の確認だからな」
誰に向けたものでもない言い訳が、狭い部屋へ落ちる。
一夜は次の金曜日までの日数を、無意識に数えていた。




