第2話 安全地帯の外は保証されません
説明書へ文句を言ったところで、状況が改善するわけではなかった。
透明な壁の向こうでは、黒い狼のような魔物が牙をむいている。
「説明不足にもほどがあるだろ」
説明書は答えない。
当然だった。
昨日まで白紙だった紙に突然文字が現れた時点で、当然という言葉にどれほど意味があるのかは分からないが。
魔物が再び飛びかかってくる。
ごんっ、と重い音が響いた。
見えない壁がわずかに揺れ、魔物は鼻先を押さえるように後ずさった。
「学習しないな……」
一夜はコーヒーをひと口飲んだ。
自分でも、意外なほど落ち着いていた。
落ち着いているというより、現実感が追いついていないだけかもしれない。
目の前にいるのが大型犬なら、まだ理解できる。
だが、黒い毛の間を紫色の光が脈打っている生き物について、正しい対処方法を知っている会社員は少ないだろう。
一夜は説明書をもう1度開いた。
【簡易保護領域】
【テントの中心から半径1メートル以内に展開】
「半径1メートル……」
一夜はテントの中央を見た。
1人用の小型テントだ。
保護領域は、テント本体と入口付近をぎりぎり覆う程度らしい。
昨日、少しでも適当に設営位置を決めていたら、バーナーが範囲の外に出ていた可能性もある。
「これ、コーヒーを淹れてる場合じゃなかったな」
今さら気づいた。
ただし、途中でやめるのももったいない。
一夜は残りを飲み干した。
魔物は何度か透明な壁へ体当たりした後、低いうなり声を上げながら周囲を歩き始めた。
右へ行き、左へ行き、時折こちらをにらむ。
入口が見つからないのではない。
入口は開いている。
それでも中へ入れないようだった。
「敵意があるから、入れない」
一夜は説明書に書かれた文章を読み上げた。
「じゃあ、敵意がなければ入れるのか?」
答えを確かめるために、魔物へ尋ねる気にはなれなかった。
近くの地面には、小さな羽虫が飛んでいる。
そのうち1匹が、何事もなかったように一夜の腕へ止まった。
「虫は入れるのか」
羽虫には敵意がない。
少なくとも、一夜を食い殺すつもりはなさそうだ。
「虫よけの役には立たないんだな」
最強の安全地帯にも、限界はあるらしい。
一夜は地面に落ちていた細い枝を拾った。
枝先を保護領域の外へ伸ばす。
何も起きない。
そのまま地面を軽くたたいてみる。
魔物が素早く振り向いた。
「うわ」
一夜は慌てて枝を引っ込めた。
魔物が飛びかかり、枝の先端を噛み砕く。
砕けた木片が透明な壁へぶつかった。
木片は弾かれず、そのまま足元へ転がってきた。
「物は通るのか?」
説明書には、敵意や害意を持つ存在の侵入を防ぐと書かれている。
木片そのものには意思がない。
だとすれば、矢や石を投げられた場合はどうなるのか。
投げた相手の害意まで判断するのだろうか。
「試す方法が嫌すぎるな」
わざわざ攻撃してくれる人間を探すわけにもいかない。
目の前の魔物が石を投げる知能を持っていないことだけは、ありがたかった。
魔物はしばらくテントの周囲を回っていた。
しかし、一夜へ届かないと理解したのか、やがて森の奥へ姿を消した。
一夜はすぐには動かなかった。
木々の隙間を見つめ、黒い影が戻ってこないか確認する。
1分。
3分。
5分。
「……行ったか?」
返事はない。
森の中から聞こえるのは、鳥の声と葉の擦れる音だけだった。
一夜は保護領域の端まで近づいた。
外へ足を出そうとして、止まる。
【保護領域外での安全は保証されません】
「保証されないんだよな」
会社の契約書なら、間違いなく重要事項として太字にする文章だった。
だが、ここに留まり続けるわけにもいかない。
水はペットボトルが2本。
食料は、朝食用のパンと昼に食べる予定だったカップ麺。それから非常用に持ってきた栄養補助食品が少し。
今日1日を過ごすだけなら足りる。
問題は、どうすれば元のキャンプ場へ戻れるのかだった。
「来た時と同じなら、寝れば帰れる?」
昨日、現代のテントで眠った。
目が覚めたら、この森にいた。
もう1度ここで眠れば、元の場所へ戻る。
単純に考えればそうなる。
「失敗したら、明日もここだけど」
さらに次の日も同じなら、月曜日になる。
会社へ連絡できない。
無断欠勤。
取引先への連絡も、納期調整も止まる。
一夜は知らない森より先に、職場のことを心配している自分に気づいた。
「いや、まず命だろ」
誰に言うでもなく、自分へ突っ込む。
それでも、頭の隅には月曜日の予定が並んでいた。
人間は簡単には変わらないらしい。
森へ出ることは諦めた。
正確には、魔物が戻ってこないことを確認しながら、保護領域のすぐ外にある荷物だけを回収した。
バーナー。
やかん。
昨夜使った折り畳み椅子。
外へ手を伸ばすたび、背中が冷たくなる。
「昨日、片づけてから寝てよかったな」
食材や大半の道具はテント内に入れていた。
キャンプ場では盗難や雨への対策として当然の行動だったが、今は命をつないでいる。
一夜は入口を少しだけ閉め、テントの中で説明書を調べた。
白紙だったページに、帰還方法が書かれていないか探す。
しかし、増えていたのは保護領域の説明だけだった。
「必要な情報を小出しにするタイプか」
家電製品の説明書なら、低評価をつけていた。
一夜は表紙に書かれた商品名を確認する。
通販サイトで見た、ありふれた初心者向けテントと同じ名前だ。
メーカー名も書かれている。
問い合わせ先の電話番号もある。
もっとも、現在は圏外だった。
「帰ったら電話するか?」
『御社のテントで寝たところ、異世界らしき森へ移動しました』
担当者を困らせるだけだろう。
それ以前に、信じてもらえるはずがない。
一夜はスマートフォンを取り出し、森の写真を撮った。
巨大な木。
青みがかった葉。
灰緑色の苔。
続けて動画も撮影する。
「証拠にはなるか」
自分が見返すための証拠にはなる。
だが、他人へ見せれば、映像加工や海外の森だと言われるのが終わりだ。
黒い魔物が写っていれば話は違ったかもしれない。
「戻ってきてほしくはないけどな」
そこまで考えた瞬間、遠くから低いうなり声が聞こえた。
一夜は入口を閉めた。
「言うんじゃなかった」
足音が近づいてくる。
1匹ではない。
地面を踏む音が、少なくとも3方向から聞こえる。
一夜は息を殺した。
テントの薄い布越しに、黒い影が映る。
朝に現れた魔物より少し小さい。
それでも、素手でどうにかできる大きさではなかった。
影がテントへ近づく。
一夜は説明書を握った。
何の武器にもならない。
外から鼻を鳴らす音がする。
布1枚を挟んだ向こう側に、牙を持つ生き物がいる。
「頼むぞ、レベル1」
影が飛びかかった。
ごんっ。
透明な壁へ激突した音が響く。
テント本体には触れていない。
別の影も飛びかかる。
続けて、もう1匹。
ごんっ。ごんっ。
「大丈夫だ」
一夜は自分へ言い聞かせた。
「入ってこられない」
何度襲われても、保護領域は壊れなかった。
やがて魔物たちは諦めたように離れていった。
足音が完全に消えてからも、一夜はしばらく動けなかった。
安全だと分かっている。
それでも、怖くないわけではない。
「キャンプって、もっと静かな趣味じゃなかったか?」
通販サイトの写真では、笑顔の男女が焚き火を囲んでいた。
少なくとも、見えない壁の外から魔物に囲まれてはいなかった。
昼はカップ麺を食べた。
森の中で食べる温かい麺は、思っていた以上においしかった。
「異世界でも味は変わらないんだな」
当然なのかどうかも分からない。
午後は、ほとんどテントの中で過ごした。
スマートフォンの電池を節約するため、機内モードのまま電源を切る。
時計は腕時計で確認した。
時間の進み方は普通だった。
太陽も少しずつ空を移動している。
午後3時を過ぎた頃、小さな青い鳥が保護領域へ入ってきた。
鳥は一夜を警戒する様子もなく、テントのロープへ止まる。
「お前は入れるんだな」
鳥が首を傾げた。
「敵意がないからか」
もう1度、首を傾げる。
「話は通じないよな」
鳥は短く鳴き、森へ飛び去った。
それだけの出来事だった。
だが、この森にいるすべての生き物が、一夜を食べようとしているわけではないらしい。
少しだけ気持ちが軽くなった。
日が沈み始めると、森の空気が冷えてきた。
一夜はレトルト食品を温め、残していたパンと一緒に食べる。
本来なら、キャンプ場から帰宅している時間だった。
「今頃、洗濯してたかな」
それとも、疲れて昼寝をしていたか。
異世界で魔物に囲まれて過ごした1日の方が、いつもの休日より長く感じられた。
怖かった。
何度も帰りたいと思った。
それでも、一夜は今日、自分の意思で時間を使っていた。
誰かの納期でも、急な依頼でもない。
ただ生き延びるために使っただけだが。
「それを充実してるって言うのは、違うよな」
空になった容器を片づける。
辺りが暗くなる前に、テントとペグを確認した。
4本とも抜けていない。
ロープも緩んでいない。
設営完了が保護領域の条件なら、ペグが外れれば機能を失う可能性がある。
一夜は念入りに地面へ打ち直した。
その作業をしている間、保護領域の外へ腕や足が出ていた。
何かに見られている気がして、何度も森を振り返る。
「設営中は無防備か」
今回は、テントが完成した状態で異世界へ来た。
次も同じとは限らない。
もし畳んだ状態で放り出されたら、朝の魔物に襲われた時点で終わっていた。
「次?」
一夜は自分の言葉に手を止めた。
「また来るつもりなのか、俺」
帰れるかどうかも分かっていない。
考えるのは、戻ってからでいい。
日が完全に沈むと、一夜はテントへ入った。
入口を閉め、寝袋に潜る。
外から、獣の遠吠えが聞こえた。
すぐ近くではない。
それでも、昨日のキャンプ場では聞かなかった声だった。
一夜は説明書を枕元へ置く。
「寝れば帰れるんだよな?」
紙は答えなかった。
「せめて、そのくらい書いておけよ」
目を閉じる。
疲れているはずなのに、すぐには眠れなかった。
外で枝が折れるたびに目を開ける。
風がテントを揺らすたび、ペグが抜けていないか不安になる。
それでも、やがて意識が遠のいていった。
車の音で目が覚めた。
一夜は目を開けた。
薄いテントの布越しに、朝日が差し込んでいる。
遠くから人の話し声がした。
子供の笑い声。
食器を片づける音。
「……人?」
一夜は勢いよく起き上がった。
スマートフォンの電源を入れる。
画面に表示されたのは、日曜日の午前6時18分。
アンテナが立っている。
通知が一斉に届き始めた。
天気予報。
通販サイト。
会社のメール。
いつもなら気が重くなる通知だった。
今は、そのすべてが現代に戻った証拠に見えた。
一夜はテントの入口を開ける。
整備されたキャンプ場。
隣の区画に停まった車。
朝食を作っている家族。
昨日、一夜が設営した場所と同じだった。
「帰ってきた……」
森も、巨大な木も、黒い魔物もいない。
一夜は地面へ座り込んだ。
全身から力が抜けていく。
「夢だったのか?」
そう考えるのが1番自然だった。
疲れていた。
慣れない場所で眠った。
奇妙な夢を見た。
それだけなら、すべて説明できる。
一夜はスマートフォンの写真を開いた。
灰緑色の森が写っていた。
青い鳥の動画も残っている。
「……夢じゃないな」
さらに、枕元の説明書を手に取る。
昨日まで白紙だったページには、簡易保護領域の説明が残っていた。
その下に、新しい文章が増えている。
【異界側での宿泊を確認しました】
【往還回数:1】
【同一地点への接続を維持します】
一夜はしばらく文字を見つめた。
それから、テントの外に広がる普通のキャンプ場を見る。
「往還って……」
もう1度、行ける。
このテントで眠れば、あの森へ。
黒い魔物がいる、危険な異世界へ。
普通なら、二度と使わない。
返品する。
燃やす。
事情を信じてくれそうな場所へ相談する。
一夜はそう考えながら、説明書を閉じた。
その視線は、昨夜使い切った水と食料へ向いていた。
「次は、水をもっと持っていかないとな」
口にしてから、一夜は額を押さえた。
「だから、また行くつもりなのかよ」
説明書は、今回も何も答えなかった。




