第38話 異世界の出張には、身分証が足りない
「6日後だ」
リディアが、念を押すように言った。
「はい。体調に問題がなければ」
「朝から昼までに来る」
「眠って移動するので、正確な時間は約束できません」
「ならば、昼まで待つ」
「ずっと広場にいなくても大丈夫ですよ」
「出発の準備がある」
「アルノへ行く準備ですか」
「ああ」
リディアは、一夜の服装を上から下まで確認した。
アウトドア用の上着。
丈夫なパンツ。
歩きやすい靴。
どれも森を進むには問題ない。
だが、彼女の表情は険しかった。
「何か足りません?」
「身分証だ」
「身分証?」
「アルノはハルト村とは違う。城壁へ入る時、身元を確認される」
一夜は自分の財布を取り出した。
運転免許証。
日本語で書かれた名前と住所。
顔写真はある。
「これでは駄目ですよね」
リディアが免許証を見る。
「文字が読めない」
「俺も、そちらの文字は読めません」
「これが身分を証明する物だと説明しても、偽造を疑われる」
「本物なんですけどね」
「異国の物を見せられても、門番は判断できない」
「副隊長が一緒でも?」
「私の同行者として入れることはできる。だが、記録は必要だ」
一夜は少し嫌な予感がした。
「何を記録するんです?」
「名前。年齢。出身地。職業。アルノへ入る目的」
「会社の手続きみたいですね」
「カイシャとは、城の役所のような場所か?」
「少し違いますけど、書類が多いところは似ています」
リディアは村長のエドガーへ声をかけた。
集会所の中から、木の板と紙を持って戻ってくる。
「一夜殿。村でも一時滞在者の証明を作れる」
「そんな物があるんですか」
「行商人や旅人が泊まることもあるからな」
エドガーは紙を広げた。
細い線が並び、その横へ見慣れない文字が書かれている。
「読めません」
「私たちも、あなたの国の文字は読めない」
「そうでした」
「話せても、文字までは通じないのだな」
一夜は説明書を開いた。
【領域内言語支援:会話のみ】
【文字情報への翻訳支援:未解放】
「説明書にも、会話だけと書いてあります」
「不便だな」
「便利な部分の方が多いですけどね」
エドガーが椅子へ座る。
「質問する。答えてくれ」
「分かりました」
「名は」
「泊一夜です」
エドガーがペンを止めた。
「トマリが家名か?」
「はい」
「イチヤが名」
「そうです」
「一夜という意味か?」
一夜は少し驚いた。
「こちらの言葉でも、分かるんですか」
「会話なら意味まで届くようだ」
リディアが腕を組む。
「夜を越える天幕を持つ者が、一夜という名か」
「自分でも、少し出来すぎだと思っています」
「偽名ではないのか?」
「両親がつけた本名です」
「両親は、この天幕のことを知っていたのか」
「知るわけないでしょう」
「では、偶然か」
「そういうことになります」
エドガーが紙へ文字を書く。
「年齢は」
「31歳です」
リディアが一夜を見る。
「私より6歳上だったのか」
「初めて言いました?」
「年齢は聞いていなかった」
「落ち着いているから、もっと上だと思ってました?」
「疲れているからだと思っていた」
「否定できないな」
「出身地は」
エドガーの質問に、一夜は口を閉じた。
「日本です」
「ニホン」
「ただ、この世界にはない国です」
「異国ではなく、異世界なのだな」
「はい」
エドガーは紙へ書こうとして、手を止めた。
「正式な証明書へ、異世界と書くのか?」
「門番に捕まりそうですね」
「間違いなく別室へ連れていかれる」
リディアが答えた。
「では、遠方の国でいい」
「嘘になりません?」
「この世界から見れば、これ以上ないほど遠方だ」
「確かに」
エドガーは出身地の欄へ文字を書く。
「職業は」
「会社員です」
「カイシャインとは?」
「会社で働く人です」
「何をする」
「営業事務と調整業務です」
「チョウセイとは?」
「誰が何をするか決めたり、期限を確認したり、必要な相手へ連絡したり」
エドガーとリディアが顔を見合わせた。
「指揮官ではないのか?」
リディアが言う。
「違います」
「村で、同じことをしていた」
「責任と権限がないと言ったでしょう」
「ならば、書記官か?」
「書類は扱いますけど」
「兵站官にも近い」
「食料を運ぶ仕事ではありません」
「野営具を管理し、食事を作り、人員を振り分ける」
「異世界での俺だけを見ると、そうなりますね」
エドガーがペンを持ったまま尋ねる。
「何と書けばいい」
一夜は少し考えた。
「旅人でいいんじゃないですか」
「天幕を持った旅人?」
「はい」
リディアが首を横へ振る。
「それでは、騎士団へ説明できない」
「では、何と」
「特異野営具の管理者」
「急に堅くなりましたね」
「事実だ」
「戦えない天幕の男よりはいいですけど」
「それは非公式の呼び方だ」
「公式にしないでくださいよ」
エドガーが紙へ文字を書く。
「職業は、特異野営具管理者とする」
「そんな職業、この世界に存在します?」
「今、できた」
「役職を勝手に作るの、異世界でもあるんですね」
「最後に、アルノへ入る目的だ」
「ノクスについて調べるためです」
エドガーの手が止まる。
「その名を門で出すのは避けた方がいい」
「なぜです?」
「騎士団内部でも、まだ確認できていない古い名だからだ」
リディアが紙をのぞき込む。
「表向きは、辺境騎士団への協力者として報告へ同行する、と書く」
「協力者」
「間違ってはいない」
「何を協力したか聞かれたら?」
「ハルト村の防衛と、灰緑の森で発生した異常現象の調査」
「朝を取り戻したことは?」
「門番へ話す必要はない」
「英雄らしい部分が消えましたね」
「見栄を張りたいのか?」
「少しは」
「騎士団で正確に伝える」
「それが1番怖いんですよ」
書類が完成する。
エドガーが村長の印を押し、続いてリディアが自分の名を書いた。
「これで、ハルト村と私があなたの身元を保証する」
「ありがとうございます」
一夜は紙を受け取った。
何が書いてあるのか、まったく読めない。
「なくしたらどうなります?」
「門へ入れない」
「予備は?」
「1枚だけだ」
「コピーは」
「コピイ?」
「同じ物をもう1枚」
「紙は安くない」
「大切にします」
一夜は証明書を透明な防水ケースへ入れた。
リディアが興味深そうに見る。
「水へ濡れても平気なのか?」
「中までは濡れません」
「私の報告書も入れられるか」
「大きさが合えば」
「次に持ってこい」
「もう仕事を頼まれてる」
「報酬は払う」
「こちらのお金、持ってませんけど」
エドガーが思い出したように立ち上がった。
「それも必要だな」
村長が戻ってきた時、手には小さな革袋があった。
テーブルへ置く。
中から銀色の硬貨が12枚出てきた。
「村からの礼だ」
「受け取れません」
一夜は即座に答えた。
「食料も治療道具も、こちらから持ち込んだだけです」
「だからこそだ」
「でも、村の復旧にお金が必要でしょう」
「あなたが使った物へ支払わなければ、次に助けを求められない」
「次も、必要な物は持ってきます」
「あなたの国では、すべて無料なのか?」
「違いますけど」
「ならば受け取れ」
エドガーは硬貨を一夜の前へ押し出した。
「これは命への値段ではない。使った食料、薬、道具への支払いだ」
「それでも多くないですか」
「アルノで数日過ごすには必要だ」
リディアも硬貨を見た。
「宿と食事で、1日に銀貨2枚程度。装備を買えば、さらに必要になる」
「物価が分かりません」
「だから持っていけ」
「使わなかった分は返します」
「返さなくていい」
「では、次の食材代にします」
「好きにしろ」
一夜は革袋を受け取った。
硬貨は見た目より重い。
「異世界で初めてのお給料ですね」
「給料ではない」
「経費の精算ですか」
「その方が近い」
「急に仕事っぽくなりました」
リディアが銀貨を1枚取り、一夜へ見せる。
「アルノでは、知らない相手の前で袋を開くな」
「盗まれます?」
「狙われる可能性がある」
「財布を買った方がいいですね」
「その革袋が財布だ」
「全部入れて持つのは危なくないですか?」
「分けるのか?」
「少額だけ取り出しやすい場所へ入れます」
リディアは少し考え、うなずいた。
「その方がいい」
「現代でも同じですね」
「あなたの国にも盗人がいるのか」
「普通にいますよ」
「安全な国ではないのか?」
「宵喰い狼はいませんけど、何も起きないわけではありません」
昼を過ぎると、リディアはアルノへ向けて出発することになった。
村の入口には、辺境騎士団の馬車が待っている。
御者席に1人。
護衛の騎士が2人。
3人とも、一夜のテントを遠巻きに見ていた。
「あの人たちには、説明したんですか?」
「概要だけだ」
「どんな概要です?」
「異邦から現れた、特異な天幕を使う協力者」
「まともですね」
「戦闘能力はない」
「付け加えたんですか」
「重要な情報だ」
「もう少し柔らかく言えません?」
「事実だ」
リディアは馬車へ乗る前に、一夜を見る。
「6日後」
「はい」
「来られない場合は?」
「連絡方法がありません」
「では、昼まで待つ」
「来なければ出発してください」
「翌日まで待つ」
「予定がずれるでしょう」
「私の判断だ」
一夜は少し考えた。
「では、来なければ翌日の朝に出発してください」
「分かった」
「無理に待ち続けないでください」
「あなたが言うのか」
「俺も学んだので」
リディアは馬車へ片足をかける。
そのまま振り返った。
「濃いコーヒーを忘れるな」
「持ってきます」
「防水の袋も」
「仕事の依頼まで約束に入れないでください」
「報酬は払う」
「銀貨の価値を覚えてから相談します」
「片手で開く水筒は便利だった」
「気に入ったんですね」
「ああ」
「それは差し上げます」
リディアが水筒を見る。
「高価な物ではないのか?」
「村でもらった銀貨よりは安いです」
「ならば、受け取る」
「素直ですね」
「言い争う時間が惜しい」
「もう出発ですからね」
リディアが右手の親指を立てる。
「6日後だ」
一夜も親指を返した。
「約束します」
馬車が動き出す。
リディアは後ろの窓から、しばらく村を見ていた。
一夜が手を振る。
彼女も小さく手を上げる。
やがて、馬車は森へ続く道の向こうへ消えた。
その日の夜。
一夜はハルト村の中央で眠り、現代へ戻った。
月曜日から金曜日まで、仕事をした。
残業はしなかった。
頼める仕事は頼んだ。
自分で抱える必要がない案件は、担当者へ戻した。
そして金曜日。
「今日は定時で帰ります」
一夜は課長へ告げた。
「キャンプ?」
「はい。約束があるので」
「例の相棒と?」
「そうです」
「泊君、最近楽しそうだね」
一夜は少し考える。
「疲れてはいますけど」
「休めてる?」
「以前よりは」
「なら、気をつけて」
「ありがとうございます」
会社から40分ほどのキャンプ場。
日が沈む前にテントを設営する。
食事。
コーヒー。
荷物の確認。
濃いドリップバッグ。
防水ケース。
食料。
救急用品。
そして、ハルト村で作ってもらった一時滞在証明書。
「これをなくしたら、異世界でも身元不明か」
一夜はケースをバックパックの内ポケットへ入れた。
「出張より準備が大変だな」
寝袋へ入る。
金曜日の夜。
約束した6日後。
一夜は目を閉じた。
「本当に来たぞ」
知らない男の声で、一夜は目を覚ました。
テントの外が騒がしい。
入口を開く。
ハルト村の中央広場。
朝。
その前に、辺境騎士団の馬車が止まっていた。
鎧を着た騎士が2人。
御者が1人。
そして、馬車の横にはリディアが立っている。
「おはようございます」
「時間通りだ」
「正確な時間は決めてませんでしたけど」
「朝に来た」
「そこは褒めてください」
「よく来た」
「急に素直ですね」
護衛の騎士たちが、一夜をじっと見ている。
リディアが彼らへ向き直った。
「紹介する」
一夜は姿勢を正した。
「異邦の特異野営具管理者、泊一夜だ」
騎士の1人が首を傾げる。
「戦えない天幕の男ではないのですか?」
一夜はリディアを見る。
「非公式の呼び方、広まってません?」
リディアは何も答えず、親指を立てた。




