第37話 5日ぶんの約束
ケトルの中で、湯が小さく音を立て始める。
リディアはテントの入口に座ったまま、その様子を見ていた。
「先に傷を確認するんじゃなかったんですか?」
「湯が沸くまで待っている」
「効率的ですね」
「時間を無駄にしないだけだ」
「5日待った人の言葉とは思えません」
リディアの眉が動いた。
「待っていたわけではない」
「では、どうしてテントの前に?」
「突然現れる可能性があった」
「待っていたんですよね」
「接続地点を警戒していた」
「毎日?」
「必要な範囲でだ」
「毎朝?」
「質問が多い」
一夜はドリップバッグを2つ並べた。
「5日間、毎朝ここへ来ていたんですか?」
「……3日だ」
「最初の2日は?」
「傷のせいで、マルタに外出を止められていた」
「つまり、動けるようになってからは毎日来ていた」
「コーヒーを持ってくると約束しただろう」
「俺ではなく、コーヒーを待ってたんですか」
「両方だ」
一夜の手が止まった。
リディアも、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
わずかに視線をそらす。
「コーヒーと、その調理をする者だ」
「言い直さなくてもいいですよ」
「正確にしただけだ」
「はい」
一夜は、少しだけ笑った。
「お待たせしました」
「5日分だ。量を増やせ」
「効果は重なりませんよ」
「飲み物としてだ」
「普通に気に入ってるじゃないですか」
湯を注ぐ。
香ばしい匂いが、朝のテントへ広がった。
リディアが目を細める。
「この匂いだ」
「覚えてたんですね」
「認識を乱された森で飲んだ。忘れにくい」
一夜は新しく買ったカップへコーヒーを注いだ。
以前より苦みの弱い種類だ。
「どうぞ」
リディアが左手を伸ばす。
肩が痛むのか、途中で動きが止まった。
一夜はカップを引いた。
「右手で持ってください」
「左でも持てる」
「痛そうでした」
「少し動かしにくいだけだ」
「その言い方は禁止です」
「痛みはない」
「では、左腕を上げてください」
「なぜだ」
「確認します」
「コーヒーが冷める」
「先に傷です」
「順番が違うだろう」
「自分で言いましたよね」
リディアは不満そうに右手を差し出した。
一夜はカップを渡す。
「結局、コーヒーが先になりましたね」
「あなたが渡した」
「飲んだら見せてください」
リディアは慎重に口をつけた。
前回のように眉を寄せない。
「どうです?」
「薄い」
「飲みやすい物を選んだんですけど」
「前の方がよかった」
「苦いって言ってたでしょう」
「苦いことと、嫌いなことは同じではない」
「面倒な好みですね」
「次は前の物を持ってこい」
「覚えていたら」
「約束しろ」
「コーヒーで約束を増やさないでください」
コーヒーを飲み終えた後、一夜はリディアの傷を確認した。
肩の包帯を外す。
傷口は閉じている。
赤みも以前より引いていた。
「ちゃんと治ってますね」
「だから言っただろう」
「でも、まだ完全ではありません」
「剣は振れる」
「振ったんですか?」
リディアが黙る。
「振ったんですね」
「軽く確認しただけだ」
「いつ?」
「昨日だ」
「何回?」
「数えていない」
「マルタさんには?」
「言っていない」
「あとで報告します」
「なぜだ」
「治療する人が知らないと困るでしょう」
「問題は起きていない」
「結果で判断しないでください」
リディアが一夜を見る。
「本当に、私へ言ったことを全部自分でも使うのだな」
「便利なので」
「面倒な男だ」
「よく言われます」
一夜は新しい包帯を巻いた。
結び目を作り、腕が動く範囲を確かめる。
「これなら大丈夫です」
「先ほどから、私には大丈夫と言わせないのに、自分は使うのだな」
「今のは状態を確認した上で言っています」
「私も確認している」
「自分の基準が甘いんですよ」
「あなたも群れ長の前に立った」
「安全地帯の中です」
「まだ言うか」
一夜は救急用品から、新しい水筒を取り出した。
「これを使ってください」
「何だ」
「片手で開けられる水筒です」
上部のボタンを押す。
蓋が開く。
「肩が治るまで、左腕をあまり使わなくて済みます」
リディアは水筒を受け取り、何度か蓋を開閉した。
「よくできている」
「保温もできます」
「コーヒーを入れられるのか」
「最初に聞くのがそれですか」
「重要だ」
「水も飲んでください」
「もう1本あるな」
「それは俺の分です」
「同じ物か?」
「色を変えました」
リディアは2本の水筒を見比べる。
「こちらの方が大きい」
「俺の方が水を多く持つので」
「私も大きい方がいい」
「子供ですか」
「長時間の任務には水が必要だ」
「村にいる間は補給できます」
「森へ行くこともある」
「傷が治ってからです」
リディアは、一夜の水筒を見つめ続けている。
「交換しませんよ」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてあります」
「顔で判断するな」
テントを出ると、ハルト村の景色は5日前と変わっていた。
完全に直ったわけではない。
壊れた柵には、新しい木材が仮止めされている。
家畜小屋の屋根は半分しか戻っていない。
倒れた鐘楼は撤去され、広場の端へ木材が積まれていた。
それでも、村人たちは少しずつ日常へ戻っている。
畑へ向かう者。
家を修理する者。
水を運ぶ子供たち。
「イチヤ!」
ニナが木の桶を置き、こちらへ走ってきた。
「おはようございます」
「キタ!」
「来ました」
「オソイ!」
一夜はリディアを見る。
「教えました?」
「私は教えていない」
「では、誰から覚えたんでしょう」
「皆が言っていた」
「皆?」
ニナが指を折りながら数え始める。
「リディア、オソイ。マルタ、オソイ。エドガー、オソイ」
「村全体で言われてたんですか」
「5日も空けたからだ」
「こちらでも5日だったんですよ」
「オソイ!」
ニナが頬を膨らませる。
一夜は少女の目線までしゃがんだ。
「すみません。でも、ちゃんと休んでから来ました」
「ヤスム?」
「はい」
一夜は両手を頬へ当て、眠る仕草をする。
「ネル」
「そうです。寝て、元気になってから来ました」
ニナは一夜の額へ残っている保護テープを見る。
小さな手で、触れないように周囲を指した。
「イタイ?」
「もう痛くありません」
「ダイジョウブ?」
今度は迷わず答えられた。
「大丈夫です」
ニナが笑う。
続いて、一夜の手を引いた。
「ミンナ!」
「皆のところへ?」
「ミンナ、マツ!」
一夜は再びリディアを見る。
「本当に待たせてたみたいですね」
「だから遅いと言った」
「日付を決めておけばよかったです」
「次は決めろ」
「仕事の予定もあります」
「こちらにも予定はある」
「調整します」
「あなたの仕事だろう」
「異世界でも調整役なんですね」
集会所の前には、村長のエドガーとマルタが待っていた。
安全地帯へ入った瞬間、言葉がつながる。
「一夜殿。無事に戻ったか」
「はい。遅くなりました」
「5日程度なら、遅いとは言わん」
一夜は隣を見る。
リディアが何も聞いていないような顔をしていた。
「村長は、そう言ってますけど」
「村長は甘い」
「副隊長が厳しすぎるのだ」
「エドガー殿まで」
マルタがリディアの肩を見る。
「包帯が新しくなっているな」
「一夜が勝手に巻いた」
「確認したら傷は閉じていました。ただ、昨日剣を振ったそうです」
「一夜!」
「名前を呼ばなくても聞こえています」
「告げ口するな」
「治療報告です」
マルタはリディアの耳をつかんだ。
「痛い」
「傷が治るまで振るなと言ったな?」
「軽くだ」
「何回だ」
「数えていない」
「治療所へ来い」
「今は一夜の報告が先だ」
「患者の言い訳は聞かん」
リディアが連れていかれる。
一夜は思わず笑った。
「一夜殿」
エドガーが声を低くする。
「副隊長が村に残っていた理由は、傷だけではない」
「何かあったんですか?」
「2日前、アルノーから騎士団の増援が到着した」
地域の中心都市。
リディアが所属する辺境騎士団の拠点もある場所だった。
「監視塔を調べた者たちがいる。だが、残っていたのは瓦礫だけだ」
「黒い結晶は砕けました」
「破片も見つかっていない」
「消えたんでしょうか」
「分からん」
エドガーは周囲へ視線を向けた。
「ノクスという名についても、村には知る者がいなかった」
「騎士団では?」
「古い記録に、似た名があるらしい」
一夜は表情を引き締めた。
「どんな記録ですか?」
「詳しくは、アルノーへ戻らなければ確認できないそうだ」
「リディアさんも戻るんですか」
「ああ。本来なら、今日出発する予定だった」
一夜は治療所へ引っ張られていったリディアを見る。
「今日?」
「あなたが現れたので、半日延ばすと言っていた」
「待っていたわけではないんですよね」
エドガーが笑う。
「本人はそう言っている」
「アルノーまでは、どれくらいです?」
「徒歩で2日。騎士団の馬車なら1日だ」
一夜は現代側の予定を考える。
今日は日曜日。
今夜、異世界側で眠れば、現代の月曜日の朝へ帰る。
このままアルノーへ向かう時間はない。
「今日は、一緒に行けません」
「副隊長も分かっている」
「でも、ノクスの情報は知りたいです」
「ならば、次に来る日を決めておけ」
エドガーの言葉に、一夜は苦笑する。
「村長まで言いますか」
「待つ側にも、時間がある」
一夜は黙った。
会社でも。
この村でも。
自分の都合だけで、突然現れたり消えたりしていいわけではない。
相手には、相手の生活と予定がある。
「そうですね」
一夜はスマートフォンの予定表を開いた。
次の土曜日。
大きな予定は入っていない。
体調が悪ければ延期する必要はある。
それでも、最初から伝えておけば、待つ時間を減らせる。
「次は、6日後に来ます」
「約束できるのか?」
「体調に問題がなければ、という条件をつけます」
「それでいい」
「来られない場合は……連絡できないんですよね」
現代と異世界の間で、電話や手紙は届かない。
説明書にも連絡機能はない。
「何か方法があればいいんですけど」
一夜はページを開く。
白紙の部分に変化はない。
「本当に、必要な機能ほど出てこないな」
「天幕へ話しかけているのか?」
「時々、後から追加されるので」
エドガーが不思議そうに説明書を見る。
「便利なのか、不便なのか分からんな」
「俺もです」
治療所から戻ってきたリディアの左腕は、布で体へ固定されていた。
「悪化してません?」
「マルタが大げさにした」
「剣を振れないようにですね」
「片手でも振れる」
「次は右腕も固定されますよ」
リディアは黙った。
一夜はスマートフォンの画面を見せる。
「次に来る日を決めました」
「いつだ」
「6日後です」
「時間は?」
「朝だと思います」
「思う?」
「眠って移動するので、何時に着くか正確には」
「では、朝から昼まで待つ」
「ずっと待たなくてもいいですよ」
「出発の準備がある」
「アルノーへ行くんですか?」
「ああ」
リディアはまっすぐ一夜を見る。
「ノクスについて、あなたにも知ってもらう必要がある」
「俺が関わる前提なんですね」
「すでに関わっている」
「そうでした」
「それに、騎士団へ説明しなければならない」
「何をです?」
「異世界から来る、戦えない天幕の男についてだ」
「その説明、会う前から不安になるんですけど」
「事実だ」
「朝を取り戻したことも付け加えてください」
「光る棒で魔物を呼んだことも」
「そこはいりません」
「鍋をたたかせたことも」
「もっと英雄らしい部分を選べません?」
「自分を英雄だと思っているのか」
「思ってませんけど、少しは見栄を張りたいです」
リディアが笑った。
「分かった。正確に伝える」
「それが1番怖いな」
ニナが2人の間へ入り、小指を差し出す。
「ヤクソク?」
一夜も小指を出した。
「6日後です」
ニナには数字までは伝わらない。
それでも、また来るという意味は分かったらしい。
小指を絡め、笑う。
リディアも右手の小指を出した。
「私も必要か?」
「待つ側にも時間があるんでしょう」
一夜はリディアとも小指を絡めた。
「次は、約束した日に来ます」
「コーヒーも忘れるな」
「そこまで含まれるんですか?」
「5日分が足りない」
「さっき飲んだでしょう」
「1杯だけだ」
「飲みすぎると眠れなくなりますよ」
「眠らなければ、長く待てる」
「そういう使い方はしません」
一夜は絡めた小指をほどいた。
待つ時間。
戻る時間。
休む時間。
どれも、誰かが勝手に決めるものではない。
「6日後」
一夜は、もう1度確認するように言った。
リディアが親指を立てる。
「約束だ」
今度は、待たせた時間まで自分のものだと思わない。
次に帰る日を伝えられる。
帰る場所が2つあるなら。
その両方で、自分と誰かの時間を大切にすればいい。




