第35話 休んでも、世界は止まらなかった
一夜が次に目を覚ました時、テントの中は明るくなっていた。
「……何時だ」
寝袋の横へ置いたスマートフォンを手に取る。
午後1時18分。
「6時間以上、寝てたのか」
途中で目を覚ました記憶はない。
会社からの通知も切ったまま。
誰かに呼ばれることもなく、ただ眠っていた。
一夜はゆっくり上半身を起こす。
体はまだ重い。
だが、朝よりは明らかに楽になっていた。
説明書を開く。
【現実世界側での休息を確認しました】
【設営者の疲労状態:中】
【外傷状態:軽度】
【追加の休息を推奨します】
「まだ休めと言うのか」
さらに下へ文字が浮かぶ。
【設営者本人も、保護対象に含まれます】
「同じことを2回書かなくても分かってますよ」
ページは何も答えない。
「……分かってなかったから、書かれたのか」
一夜は寝袋から出た。
立ち上がると、足と腰に痛みが走る。
「痛っ」
監視塔の階段。
崩れた床。
何度も転んだ森の道。
安全地帯の中では気にならなかった痛みが、現実世界へ戻ったことで一気に表へ出たようだった。
「これは、病院へ行った方がいいな」
自分で判断できた。
以前なら、出勤してから悪化すれば考えようと思っていただろう。
今日は違う。
会社は休んだ。
時間はある。
「まず、何か食べるか」
一夜は携帯食の袋を開いた。
異世界へ持っていくつもりで買った栄養バー。
水。
残っていたインスタントスープ。
「村であれだけ料理したのに、自分の昼はこれか」
小型バーナーで湯を沸かす。
カップへスープを入れる。
特別な効果は表示されない。
それでも、温かい食事を口へ入れると、体が少しずつ動き始めた。
「自分に作っても、料理ではあるよな」
説明書を見る。
変化はない。
「現実では、普通に食べろということですか」
キャンプ場を出た一夜は、近くの診療所へ向かった。
車を運転する前に管理棟の休憩室でもう1時間休み、スタッフへ状態を確認してもらっている。
診察室で額の傷や腕の擦り傷を見せると、医師は眼鏡の奥から一夜を見た。
「キャンプ中に転んだんですよね?」
「はい」
「何回くらい?」
「正確には覚えていません」
「山から落ちた?」
「落ちかけました」
「落ちかけた?」
「ロープで引き上げてもらいました」
嘘は言っていない。
ただし、引き上げた相手が異世界の女騎士だとは話していない。
「頭を強く打った記憶は?」
「石の床へ額をぶつけました」
「意識を失った?」
「それはないです」
「吐き気は?」
「ありません」
医師は傷を洗い、額へ新しい保護テープを貼った。
腕や足も確認する。
「大きな骨折はなさそうですね。ただ、全身打撲に近い状態です」
「やっぱり休んだ方がいいですか」
「今日は当然です。明日も痛みが強ければ、仕事を休んでください」
「明日も?」
「無理に出勤する理由があります?」
一夜は言葉を止めた。
「仕事が残っているので」
「休んでも、仕事は残ります」
「そうですね」
「無理して悪化させても、仕事は残ります」
「……そうですね」
「なら、治してから行った方がいいでしょう」
正論だった。
異世界でも現実でも、同じことを言われている気がする。
「周りから、休めと言われ続けているんですよ」
「それなら、聞いた方がいいですね」
「はい」
「返事だけは素直ですね」
「よく言われます」
自宅へ戻ったのは、夕方だった。
一夜は荷物を玄関へ下ろし、最初にシャワーを浴びた。
泥と汗を洗い流す。
排水口へ流れていく水が、何度も茶色く濁った。
「本当に、どこでキャンプしてきたんだって感じだな」
鏡を見る。
額には保護テープ。
肩や脇腹には青いあざ。
腕には細かな擦り傷。
群れ長と直接戦ったわけでもないのに、この状態だ。
「リディアさんは、もっとひどかったよな」
今頃、マルタに治療されているだろうか。
それとも、もう立ち上がって村の修復を手伝っているのか。
「たぶん、後者だな」
次に会った時は、最初に傷を確認しよう。
一夜はそう考え、すぐに首を振った。
「俺も同じことをされるか」
着替えを済ませ、リビングへ戻る。
仕事用の鞄が、部屋の隅へ置かれている。
スマートフォンの通知は切ったままだった。
画面を開けば、会社の状況を確認できる。
田中が資料を確認できたか。
先方へ提出できたか。
何か問題が起きていないか。
一夜はスマートフォンへ手を伸ばした。
指が画面へ触れる直前で止まる。
『返信不要です。休んでください』
課長からの言葉を思い出した。
「見たら、何か返したくなる」
問題が起きていれば、自分が対応しなければと思う。
問題が起きていなくても、安心したと連絡したくなる。
「今日は休みだ」
一夜はスマートフォンを裏返した。
代わりに、ノートを取り出す。
次に異世界へ持っていく物。
コーヒー。
長期保存できる食料。
包帯。
消毒用品。
予備電池。
大人数へ配れる器。
「いや」
一夜はペンを止めた。
「今日は、これもやめよう」
異世界の準備も、急ぎではない。
ハルト村には朝が戻った。
宵喰い狼も、群れ長を失っている。
今夜すぐに戻らなければならない理由はない。
自分で休むと決めたのに、別の仕事を始めてしまえば同じだった。
一夜はノートを閉じた。
「何もしないって、結構難しいな」
夕食は、近所で買った弁当にした。
料理をする体力は残っていない。
電子レンジで温め、テーブルへ置く。
テレビをつける。
内容はほとんど頭へ入らなかった。
それでも、仕事の画面でも、異世界の戦場でもない映像が流れているだけで落ち着いた。
食事を終え、薬を飲む。
午後8時を過ぎた頃、一夜はベッドへ入った。
「今日は、ずっと寝てるな」
だが、眠気はまだある。
体が休息を求めている。
目を閉じる前に、説明書だけを枕元へ置いた。
「今日は、向こうへ行きませんよ」
テントは畳んだまま玄関にある。
設営しなければ往還は起きない。
説明書から紙の擦れる音がした。
「聞こえてるんですか?」
ページを開く。
【異世界側接続地点:ハルト村中央広場】
【接続状態:安定】
【異世界側経過時間:現実世界と同速】
【再接続可能】
「分かってます」
さらに、新しい項目が現れた。
【帰還標識登録地点】
【ハルト村中央広場】
【接続地点周辺状況:安定】
一夜は少し安心した。
村の安全を完全に確認できるわけではない。
それでも、少なくとも接続地点の周囲に大きな異常は起きていないらしい。
【推奨】
【設営者の疲労状態が改善するまで、再往還を延期してください】
「テントにまで止められた」
一夜は説明書を閉じた。
「分かりました。今週末まで行きません」
口にしてから、少し考える。
「いや、土曜日の体調を見て決めます」
行く日を先に決めて、無理に体を合わせるのではない。
体調を確認してから行く。
「これでいいですよね」
説明書は何も答えない。
「急に黙るなよ」
一夜は小さく笑い、目を閉じた。
翌朝。
目覚ましが鳴る前に、一夜は目を覚ました。
火曜日。
体を起こす。
昨日よりは楽だった。
だが、階段を下りる動きを想像すると、腰に鈍い痛みがある。
一夜は会社へ行く準備を始めかけた。
クローゼットを開く。
シャツを取る。
そこで、医師の言葉を思い出す。
『明日も痛みが強ければ、仕事を休んでください』
「強い、の基準はどれくらいだ」
自分なら行ける。
座って仕事をするだけなら問題ない。
そう考えた瞬間、リディアの顔が浮かんだ。
『剣は振れる』
「似てるな……」
一夜はシャツを戻した。
課長へ連絡する。
『打撲の痛みが残っているため、本日も休ませてください。昨日、診療所を受診しています』
送信する前に、指が止まる。
申し訳ありません。
急ぎの連絡があれば対応します。
そんな文章を追加したくなる。
一夜は何も加えず、そのまま送った。
数分後。
『了解しました。今日も休んでください。資料提出は完了しています』
「終わってる」
自分がいなくても、提出できた。
田中や課長が対応したのだろう。
一夜は安心すると同時に、少しだけ寂しいような感覚を覚えた。
「何でだよ」
頼られることが苦しかった。
それでも、自分が必要とされている感覚へ、どこかで安心していたのかもしれない。
スマートフォンへ新しいメッセージが届く。
田中からだった。
『泊さんのメモ、すごく分かりやすかったです。無事終わりました。お大事に』
一夜は文章を見つめた。
自分がすべてやらなくてもいい。
必要な情報を残せば、ほかの人が引き継げる。
ハルト村でやったことと同じだった。
戦う人。
休む人。
伝える人。
誰か1人が全部を抱えなくても、役割をつなげば進められる。
一夜は短く返信した。
『ありがとうございます。助かりました』
それだけ。
仕事を引き取るとも。
後から確認するとも書かなかった。
「これくらいでいいんだな」
スマートフォンを置く。
窓のカーテンを開ける。
朝日が部屋へ入ってきた。
会社へ行かなくても、朝は来る。
休んでいても、仕事は進む。
自分が止まっても、世界までは止まらない。
「それなら、今日はちゃんと休める」
一夜はコーヒーを淹れるため、台所へ向かった。
自分の朝を、自分のために使う。
それは誰かを見捨てることではなかった。




