第34話 月曜日の朝に、休むと伝えた
鳥の声で、一夜は目を覚ました。
「……朝か」
目を開ける。
緑色のテント。
寝袋。
足元に置いたバックパック。
見慣れた物ばかりだった。
だが、外から聞こえてくる鳥の声が違う。
灰緑の森にいた鳥ではない。
遠くを走る車の音。
風に揺れる木々。
どこかの区画で、金属製の食器が重なる音。
「戻ったんだな」
一夜は上半身を起こした。
隣にリディアはいない。
ニナの声も聞こえない。
保温シートの上には、自分が使った毛布だけが残っている。
テントの入口を開く。
朝日に照らされたキャンプ場が広がっていた。
整備された芝生。
並んだ車。
色とりどりのテント。
現代の景色。
「本当に帰ってきた」
一夜は外へ出ようとして、足を止めた。
安全地帯の境界があるかもしれない。
試しに手を伸ばす。
何もない。
普通に外へ出られた。
説明書を開く。
【往還を確認しました】
【現在地:現実世界】
【保護領域:非展開】
【往還回数:2】
【異世界側接続地点:ハルト村中央広場】
「接続は残ってる」
ページをめくる。
【次回設営時、前回接続地点への接続を維持します】
【異世界側との時間経過:同速】
一夜はスマートフォンを探した。
寝袋の横。
画面を点灯する。
「午前6時42分」
日付を見る。
月曜日。
一夜は数秒、画面を見つめた。
「月曜日?」
もう1度確認する。
間違いなく月曜日だった。
通知が並んでいる。
キャンプ場からの着信が2件。
会社からのメッセージが4件。
課長からの個別連絡。
『泊さん、今日の午前中に先方へ提出する資料、最終確認をお願いします』
続いて、同じ課長から。
『出社後、すぐ確認できますか?』
「出社……」
一夜は自分の姿を見る。
泥だらけの服。
額の傷。
破れかけた靴。
何度も地面へ転がったせいで、腕や足にも細かな擦り傷がある。
体は重い。
少し動くだけで、筋肉が痛んだ。
「ここから帰って、シャワーを浴びて……」
車で自宅へ戻る。
荷物を下ろす。
着替える。
そのまま会社へ向かえば、始業時間へ間に合うかもしれない。
以前の一夜なら、そうしていた。
寝不足でも。
体調が悪くても。
誰かが困ると言われれば、出勤していた。
「行けなくはない」
一夜は口にした。
すぐに、リディアの声が頭へ浮かぶ。
『歩けるかどうかではない。戻ってこられるかどうかだ』
「逆だったかな」
言ったのは自分だ。
リディアへ向けて。
だが、自分にも同じことが言える。
会社へ行けるかどうかではない。
まともに働き、無事に帰れる状態なのか。
一夜はスマートフォンを握った。
「休もう」
声に出してみる。
それだけなのに、胸が苦しくなった。
月曜日。
資料の提出日。
急に休めば、誰かへ仕事が移る。
迷惑をかける。
「でも、今日は無理だ」
一夜は課長へ電話をかけた。
数回の呼び出し音。
『はい、佐久間です』
「おはようございます。泊です」
『おはよう。もう移動中?』
「いえ」
一夜は言葉を選ぶ。
「体調が悪いため、本日は休ませてください」
言った。
言ってしまった。
心臓が速くなる。
『体調? 大丈夫?』
「けがも少しあります。今日は休んだ方がいいと判断しました」
『けが? 何があったの?』
「キャンプ中に転びました」
嘘ではない。
監視塔の崩落から逃げる途中に、何度も転んでいる。
『病院へ行くほど?』
「額の傷は浅いです。ただ、寝不足と疲労があります」
『分かった。今日は休んで』
あっさりとした返事だった。
一夜は次の言葉を待つ。
資料はどうする。
少しだけ確認できないか。
家から連絡できるか。
そんな頼みが来ると思っていた。
『資料だけど、共有フォルダに入ってる?』
「はい。昨日までの修正版が入っています」
『最終確認は、誰か引き継げそう?』
「内容を把握しているのは田中さんです。確認箇所をメモにまとめています」
『分かった。こちらで頼んでおく』
「すみません」
『無理して来られる方が困るから。今日は連絡を見なくていいよ』
一夜は黙った。
『泊さん?』
「はい」
『聞こえてる?』
「聞こえています」
『では、お大事に』
「ありがとうございます」
電話が切れた。
一夜はしばらくスマートフォンを見つめた。
「終わった」
怒られなかった。
責められもしなかった。
会社も止まっていない。
「俺がいなくても、回るんだな」
当然のことだった。
自分がいないと何も進まないと思っていたわけではない。
それでも、休めば誰かが困るという不安を、必要以上に大きくしていた。
スマートフォンが振動する。
課長からメッセージが届いた。
『田中さんに引き継ぎました。返信不要です。休んでください』
「返信不要って書かれてる」
それでも、反射的に返信欄を開く。
文章を入力しかける。
『承知しました。必要であれば――』
一夜は手を止めた。
「必要であれば、じゃない」
入力した文字を消す。
スマートフォンを伏せた。
「今日は対応しない」
自分へ言い聞かせるように、もう1度口にした。
一夜はキャンプ場の管理棟へ向かった。
受付にいた男性が、一夜を見るなり目を見開く。
「泊さん?」
「はい」
「大丈夫ですか、その顔」
「少し転びました」
「少し?」
「何度か」
「何度か転んだ傷には見えませんけど」
一夜は額へ貼った布を押さえた。
「山の斜面で」
監視塔の話はできない。
宵喰い狼も。
朝を止める黒い結晶も。
「昨日、テントを確認しに行ったんですよ」
「すみません」
「声をかけても返事がなかったので、寝ているのかと思って」
一夜の背中に冷たい汗が流れる。
現代側のテントは、どうなっていたのか。
自分の体も中にあったのか。
それとも、テントだけが残されていたのか。
「中までは見ました?」
「いえ。閉まってましたし、車もあったので」
「そうですか」
「ただ、予定では昨日の昼に撤収でしたよね」
「延長分を支払います」
「それは構いませんけど、連絡はしてください」
「申し訳ありません」
「本当に大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか」
「自分で病院へ行けます」
「運転できます?」
一夜は答えようとして、止まった。
体が重い。
睡眠は取ったが、異世界での疲労は残っている。
監視塔から走って逃げた後、森を歩き、村で治療を手伝い、料理までした。
「……今すぐは、やめておきます」
「休憩室を使います?」
「いいんですか」
「その状態で事故を起こされる方が困ります」
「では、少しだけ」
「少しではなく、運転できるまで休んでください」
誰かに似た言い方だった。
一夜は小さく笑う。
「分かりました」
テントへ戻り、一夜は湯を沸かした。
現代のキャンプ場。
敵はいない。
見えない壁もない。
それでも、いつもの手順でコーヒーを淹れる。
香りが広がる。
一夜は椅子へ座り、ひと口飲んだ。
「……うまい」
味は、異世界で飲んだものと同じだった。
説明書を開く。
料理効果の表示はない。
現実世界では、普通のコーヒーらしい。
「それでいいか」
効果がなくても。
体力を回復させなくても。
飲みたいから淹れた。
自分のために使う時間だった。
一夜は空を見上げる。
青い空。
普通に昇った朝日。
向こうの世界でも、同じように朝が届いている。
リディアは治療を受けているだろうか。
ニナはまた「アサ」と騒いでいるだろうか。
「次は、コーヒーと料理の材料か」
持っていく物を考え始める。
すぐに一夜は首を振った。
「今日は考えない」
次の準備は、明日でもできる。
異世界の誰かを助けることも大切だ。
だが、今日は自分を休ませる。
一夜はスマートフォンの通知をすべて切った。
会社のメール。
メッセージ。
着信。
緊急連絡だけを残し、画面を伏せる。
寝袋へ横になる。
「リディアさんに知られたら、休む時間が短いって怒られそうだな」
目を閉じる。
説明書から、紙の擦れる音がした。
一夜は片目だけ開ける。
「今ですか?」
白紙だった場所へ、黒い文字が浮かんでいる。
【現実世界側での休息行為を確認しました】
【設営者の疲労状態:高】
【休息を推奨します】
「それは、見れば分かるでしょう」
さらに下へ、新しい1行が現れた。
【設営者本人も、保護対象に含まれます】
一夜は文字を見つめた。
誰かを朝へ届けること。
帰ってこられる場所を作ること。
温かい物を渡すこと。
それは、他人だけに向けるものではない。
「最初から書いておいてくださいよ」
一夜は説明書を閉じた。
今度こそ目を閉じる。
月曜日の朝。
仕事へ行かず。
誰かのためでもなく。
一夜は、自分のために眠った。




