第31話 帰り道は、残してある
崩れ始めた階段へ、一夜とリディアは飛び込んだ。
直後、背後で石床が砕ける。
黒い結晶が立っていた最上部が、大きく傾いた。
「急げ!」
リディアの声が響く。
だが、その意味が途中から分からなくなった。
「え?」
聞こえているのは、異世界の言葉。
黒い結晶が壊れたことで、ノクスの影による言語干渉も消えたらしい。
「今、翻訳まで消えるのかよ!」
リディアが何かを叫び、一夜の手首を引く。
言葉が通じなくても、走れと言っていることだけは分かった。
「分かってます!」
階段を下りる。
1段飛ばしで進みたいが、一夜の足では転ぶ。
上から砕けた石が降ってくる。
リディアが剣で小さな破片を払った。
大きな石は避けるしかない。
「右!」
一夜が叫ぶ。
通じない。
それでも、手首をつなぐロープを右へ引くと、リディアがすぐに反応した。
2人が壁際へ寄る。
直前までいた場所へ、石柱の一部が落下した。
激しい音。
階段が途中から崩れ落ちる。
「道が……!」
下へ続いていたはずの石段が消えた。
暗い穴。
底は見えない。
向こう側には、かろうじて残っている踊り場がある。
距離は2メートルほど。
一夜は穴と向こう側を交互に見た。
「無理です」
リディアには通じない。
だが、一夜の顔を見れば意味は伝わったらしい。
彼女は向こう側を指した。
次に、自分の胸を指す。
「先に跳ぶ?」
リディアがうなずく。
「その肩で?」
傷ついた左肩を指す。
リディアは右腕を持ち上げた。
問題ないと言いたいらしい。
「問題ありますよ」
抗議しても、彼女はすでに数歩後ろへ下がっていた。
助走。
石床を蹴る。
崩れた階段の上を飛び越える。
リディアの足が向こう側へ着いた。
だが、着地した石が崩れる。
片膝をつき、体が穴の方へ傾いた。
「リディアさん!」
手首をつないでいた短いロープが張る。
一夜は反射的に引いた。
自分の方へ引けば、リディアを穴へ落とすかもしれない。
一夜は腰を落とし、ロープを固定するだけにとどめた。
リディアが残った石へ右手をつく。
体を持ち上げる。
どうにか踊り場へ這い上がった。
「大丈夫ですか!」
リディアは振り返り、親指を立てた。
「それ、絶対に大丈夫じゃない時にも使ってますよね」
今度は、一夜が跳ばなければならない。
向こう側でリディアが手を伸ばしている。
一夜は穴を見る。
暗い。
深い。
落ちれば、安全地帯へ戻ることもできない。
「キャンプ初心者に求める動きじゃないんだよな」
腰へ結んだ長いロープを確認する。
監視塔の外。
緑色のテントまで続いている。
これが残っている限り、帰る方向は分かる。
一夜は数歩後ろへ下がった。
深く息を吸う。
「行きますよ」
当然、言葉は通じない。
リディアは両手を伸ばした。
一夜が走る。
穴の直前で地面を蹴った。
体が空中へ浮く。
一瞬だけ、向こう側へ届いたように思えた。
だが、靴の先が石の縁へぶつかった。
「うわっ!」
胸から踊り場へ激突する。
両手が石の縁をつかんだ。
下半身は穴の上。
足を動かしても、何も触れない。
「落ちる!」
リディアが一夜の右腕をつかんだ。
傷ついた左腕は使えない。
片腕だけで引き上げようとする。
だが、一夜の体重と荷物を支えきれない。
彼女の肩から血がにじんだ。
「無理しないで!」
言葉は通じない。
一夜は左手で腰の長いロープをつかんだ。
安全地帯へ続く命綱。
強く握り、腕へ巻きつける。
「俺も上がります!」
足元には何もない。
それでも、ロープを引けば体を少し持ち上げられる。
一夜は右腕を石床へ押しつけた。
リディアが引く。
一夜も、自分でロープを引く。
「せーの……!」
言葉の代わりに、リディアと目を合わせる。
同時に力を込めた。
一夜の胸が踊り場へ乗る。
腹。
腰。
最後に両足が穴から抜けた。
「助かった……」
一夜は石床へうつ伏せになった。
リディアも座り込んでいる。
左肩の包帯に、赤い色が広がっていた。
「また開いてるじゃないですか」
一夜が傷を指す。
リディアは一夜の額を指した。
触れる。
指先に血がついた。
「俺もですか」
どうやら、先ほど石へぶつけた時に切ったらしい。
「お互い様って言いたいんでしょう」
リディアがうなずく。
「それで納得はしませんからね」
塔が大きく揺れた。
休んでいる時間はない。
2人は長いロープをたどって進んだ。
階段が残っている場所。
崩れて斜面になっている場所。
石壁の隙間を横向きで抜けなければならない場所。
上った時とは、まったく違う道になっている。
それでも、ロープは途切れていなかった。
「こっちです」
一夜はロープが伸びる方向を指す。
リディアが先へ進む。
数メートル進んだところで、彼女が足を止めた。
ロープが、崩れた石の下へ入り込んでいる。
「挟まってる」
一夜は両手で引いた。
動かない。
大きな石板が、ロープの上へ落ちていた。
周囲の隙間も狭い。
「持ち上げるのは無理ですね」
リディアが剣を抜いた。
ロープを切ろうとしている。
「待ってください!」
一夜は剣とロープの間へ手を入れた。
リディアが眉を寄せる。
「切ったら、帰る方向が分からなくなります」
言葉は通じない。
一夜はロープを指す。
次に、塔の外を指す。
最後に両腕で大きく交差を作った。
「切るのは駄目です」
リディアは石板を指した。
どうするつもりだ、と聞いているらしい。
一夜は懐中電灯で周囲を照らす。
ロープは石板の下へ入っている。
だが、その先は右側の壁際から出ていた。
「全部をどかす必要はない」
石板の端。
拳1つ分ほどの隙間がある。
一夜は小さなバッグから、予備の短いロープを取り出した。
先端へ金属の留め具をつける。
「向こう側のロープを引っかけます」
リディアには説明が伝わらない。
それでも、一夜の手元を見て意図を理解したようだった。
一夜は隙間へ短いロープを通す。
懐中電灯を置き、光を奥へ向けた。
石板の向こう側にある長いロープ。
留め具を何度か振る。
1回目は外れる。
2回目も届かない。
「もう少し……」
塔が揺れる。
天井から砂と小石が落ちてくる。
リディアが後ろを振り返った。
上の階から、崩壊が近づいている。
「分かってます!」
3回目。
金属の留め具が、長いロープへ引っかかった。
「取れた!」
一夜は短いロープを引く。
向こう側の長いロープが、少しずつ隙間へ近づいてくる。
リディアも手伝う。
2人で引き、石板の端からロープを抜き出した。
挟まっていた部分は残る。
だが、安全地帯へ続く側は確保できた。
一夜は長いロープを腰へ結び直す。
塔の上へ続く側は、その場へ置いた。
「帰り道だけ残ればいい」
リディアが親指を立てる。
「今のは、正しい使い方ですね」
前方から、白い光が見えた。
塔の入口。
朝日だった。
「出口です!」
一夜は足を速める。
リディアが腕を伸ばし、一夜の胸を押さえた。
「何です?」
彼女は足元を指す。
入口までの石床に、大きな亀裂が走っていた。
亀裂は少しずつ広がっている。
その下には、崩れた塔の空洞。
「走り抜けろ、ですか」
リディアがうなずく。
「今度は跳ばなくていいですよね?」
返事は分からない。
リディアが先に走る。
一夜も続いた。
足を置くたび、石が沈む。
背後から崩れていく。
「待ってください!」
リディアは待たない。
待てば、2人とも落ちる。
一夜も必死に走った。
入口まで、あと5メートル。
3メートル。
足元の石が割れた。
一夜の右足が沈む。
「またか!」
体が前へ倒れる。
リディアとの短いロープが張った。
彼女は振り返らず、そのまま一夜を引いた。
一夜は片足を穴から抜き、地面を蹴る。
2人が監視塔の外へ飛び出した。
直後。
背後で塔の下半分が崩れ落ちた。
石と土煙が、入口から噴き出す。
「走ってください!」
安全地帯までは、まだ20メートルほどある。
リディアには言葉が通じない。
だが、言われるまでもなく走っていた。
一夜も長いロープを握り、あとを追う。
緑色のテント。
開いた入口。
境界は見えない。
それでも、そこに安全地帯があると分かっている。
後ろから地面が揺れる。
監視塔の残った壁が、外側へ倒れ始めた。
影が一夜たちへ迫る。
「あと少し!」
リディアが先に境界へ飛び込む。
一夜も続く。
見えない線を越えた瞬間、言葉がつながった。
「伏せろ!」
「はい!」
2人は地面へ倒れ込んだ。
背後で監視塔が完全に崩壊する。
石の破片が安全地帯の近くまで転がってきた。
見えない壁は、落石を止めなかった。
敵意のない瓦礫だからだ。
大きな石が境界を越え、一夜の足元へ転がる。
「危ない!」
リディアが一夜の上着を引いた。
石は、一夜の靴先から数センチの場所で止まった。
「……安全地帯でも、落石は普通に入るんですね」
「今、確認する必要があったか?」
「体で知りたくはなかったです」
土煙が風に流されていく。
監視塔があった場所には、崩れた石の山だけが残った。
空は青い。
木々の間から、朝日が差し込んでいる。
鳥の声も聞こえた。
「帰ってきましたね」
「ああ」
リディアはその場へ座り込んだ。
「約束通りだ」
「まだ村まで戻らないと」
「少しは休ませろ」
一夜は目を見開いた。
「今、自分から休むと言いました?」
「言っていない」
「言いましたよ」
「聞き間違いだ」
「安全地帯の中なので、言葉は正確に通じてます」
「ならば、翻訳機能の故障だ」
「都合がいいな」
「誰が来ている?」
リディアが話を変えた。
テントの奥。
そこに、人が座っていた。
泥だらけの服。
短い茶色の髪。
見覚えのある少年。
ハルト村で、集会所の裏側を何度も確認しに行ってくれた少年だった。
「あなたがロープを引いたんですか?」
「ああ」
少年は一夜の言葉が通じることに、少し驚いた顔をした。
「村長に頼まれて、様子を見に来た。ここへ着いたら、綱が何度も動いていたから」
「1人で来たんですか?」
「途中までは猟師が2人いた。宵喰い狼が残っていないか確認している」
「危険でしょう!」
「朝が来たから大丈夫だと思った」
「朝が来ても、森は安全とは限りません!」
「でも、役に立っただろ?」
一夜は言葉を止めた。
少年がロープを引いたことで、塔の上にいた一夜たちへ村とのつながりが届いた。
崩れる塔の中でも、帰る方向を失わずに済んだ。
「……かなり助かりました」
少年が笑う。
「なら、よかった」
「でも、次からは大人と一緒に来てください」
「猟師が2人いる」
「最後まで一緒に行動してください」
「あなたも副隊長と離れて塔へ上っただろう」
「離れてません。ロープでつながってました」
「俺も猟師と道を知っている」
「言い返しますね」
「あなたと同じだ」
リディアが小さく笑った。
「似ているな」
「似てません」
「即答するなよ」
少年まで同じことを言う。
一夜は反論しようとして、諦めた。
「名前を聞いてませんでしたね」
「セスだ」
「セス。俺は泊一夜です」
「知ってる。ニナが何度も話していた」
「どんな話を?」
「変な天幕の男。苦い黒い湯を飲む。狼の前で光る棒を振る」
「だいぶ変な人ですね」
「違うのか?」
「否定しにくいです」
セスはテントの外へ目を向けた。
「村にも朝が来た」
「見えましたか?」
「ああ。皆、泣いてた」
一夜は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「ニナは?」
「朝だって、ずっと騒いでる」
「元気ですね」
「あなたたちが戻るまで待つと言っていた」
「では、早く戻らないと」
一夜は立ち上がろうとした。
膝に力が入らない。
そのまま座り直す。
「今度はあなたが休む番だ」
リディアが言った。
「少し足が震えただけです」
「その言い方は禁止ではなかったか?」
「俺にも適用されるんですか」
「一生続けるのだろう?」
言い返せない。
一夜はテントの床へ仰向けになった。
「では、10分だけ」
「30分だ」
「長いです」
「私が決める」
「相棒からのお願いですか?」
「副隊長命令だ」
「俺は騎士団員じゃありません」
「では、相棒からの命令だ」
「お願いにしてくださいよ」
リディアは答えず、一夜の隣へ座った。
彼女も壁へ背を預け、目を閉じる。
説明書が、ひとりでに開いた。
【レベル3機能を解放しました】
【保護領域半径:4メートル】
【推奨宿泊人数:8人】
【軽傷回復効果:強化】
【中等度外傷の悪化抑制を追加】
【調理支援効果:第2段階】
【帰還標識を解放】
「帰還標識?」
さらに説明が続く。
【保護領域を利用した者は、一定範囲内で設営地点の方向を認識できます】
【設営者と物理的に接続されている場合、効果範囲が拡大します】
一夜は長いロープを見る。
塔の中で、崩れた道に迷わなかった。
どちら側が安全地帯へ続いているのか、考えなくても分かっていた。
「これも働いてたのか」
「何だ?」
「レベル3で、帰る場所の方向が分かるようになったみたいです」
リディアが緑色のテントを見る。
「この場所へ?」
「はい」
「便利だな」
「でも、帰り道そのものを作ってくれるわけではありません」
崩れた階段。
深い穴。
石の下に挟まったロープ。
進むのは、自分たちだった。
「方向が分かるだけです」
「それで十分な時もある」
「そうですね」
どこへ帰ればいいか分からなければ、歩き始めることもできない。
一夜は朝日が差し込むテントの入口を見た。
「帰る場所は、残しておいて正解でした」
ハルト村まで、あと4キロ。
テントを畳めば、安全地帯は消える。
だが、今度は朝の中を歩いて帰れる。
一夜は目を閉じた。
「30分たったら、起こしてください」
「ああ」
「本当に起こしてくださいよ」
「善処する」
「それ、起こさない人の言葉です」
返事はなかった。
隣から、すぐに穏やかな寝息が聞こえ始める。
「先に寝るんですか」
一夜は小さく笑った。
帰ってこられる場所の中で、2人はようやく朝の眠りについた。




