第29話 帰る場所を、外に残して
崩れた監視塔の前で、一夜はリディアの肩へ新しい包帯を巻いた。
「きつくないですか?」
「問題ない」
「その答えは禁止です」
「では、少しきつい」
「最初からそう言ってください」
一夜は結び目をわずかに緩める。
傷は深くない。
だが、何度も開いたせいで周囲が赤く腫れていた。
「腕を上げてみてください」
リディアが左腕を持ち上げる。
肩の高さへ届く前に、顔をしかめた。
「そこまでです」
「剣は振れる」
「今の動きで、どうしてそう思えるんですか」
「右腕がある」
「両手で使ってましたよね」
「状況に合わせる」
「傷にも合わせてください」
一夜は包帯の上から軽く押さえた。
「塔の中で傷が開いたら、すぐ戻ります」
「装置が目の前にあってもか?」
「戻ります」
「嘘だな」
「先に言っておきますけど、リディアさんも同じですよ」
「私は騎士だ」
「俺は安全地帯の設営者です」
「その役職は今作っただろう」
「説明書にも似たようなことが書いてあります」
「見えない文字を証拠にするな」
リディアは不満そうだったが、包帯を外そうとはしなかった。
一夜は自分の水筒を差し出す。
「水も飲んでください」
「あなたの分が減る」
「村へ戻れば補給できます」
「戻れれば、だろう」
一夜はリディアを見る。
「戻る準備をしてから行くと言いました」
「そうだったな」
「戻れれば、じゃありません。戻ります」
リディアは少しだけ目を細め、水筒を受け取った。
「ニナとの約束か」
「それもあります」
「ほかにも?」
一夜は緑色のテントを見る。
「俺も、帰りたいので」
誰かを助けるためだけではない。
自分の時間を取り戻すために、キャンプを始めた。
この世界で朝を渡した後も、自分の生活は続く。
「だから、無理はしません」
「群れ長の前へ立った男の言葉とは思えない」
「あれは安全地帯の中でした」
「保護領域の力が減っていただろう」
「結果的に無事でした」
「結果で判断するな」
「それ、俺がいつも言ってることじゃないですか」
「学んだ」
「悪いところばかり吸収しますね」
一夜はテントの内側に、新しいペグを1本打ち込んだ。
設営に必要なものではない。
荷物やランタンを固定するために使う補助用だ。
そこへ、持ってきた中で最も長いロープを結ぶ。
「これを塔の中まで伸ばします」
「道に迷わないためか」
「はい」
監視塔は外から見れば小さい。
上にある黒い結晶まで、説明書の表示では23メートル。
普通に階段を上るだけなら、迷うような距離ではない。
だが、森で見た幻を考えれば、内部が見たままとは限らなかった。
「何かを見せられても、ロープをたどれば戻れます」
「途中で切られたら?」
「切れたら、すぐ引き返します」
「装置が目の前でも?」
「戻ります」
「今度は本当か?」
「ロープが切れたら、帰る場所とのつながりが消えます」
一夜は結び目を強く引いた。
「その状態で進むのは、ただの無謀です」
「群れ長の前へ――」
「それはもういいでしょう」
リディアがわずかに笑う。
一夜はロープの反対側を自分の腰へ結んだ。
リディアと手首をつないでいた短いロープも残す。
「少し動きにくいな」
「離れるよりはいいです」
「敵が出たら、あなたを巻き込む」
「その時は、この留め具を外してください」
一夜は金具を指す。
「強く引けば外れます。ただし、戦いが終わったらすぐ戻ってください」
「私を犬のようにつないでおいて、放したら戻れと言うのか」
「犬の話から離れてください」
「見た目がそうなのだから仕方ない」
「なら、命綱です」
「最初からそう言え」
一夜は懐中電灯とヘッドライトを確認した。
予備電池。
救急セット。
水。
携帯食。
説明書。
必要なものだけを小さなバッグへ移す。
大きなバックパックは、テントの中へ置いた。
「荷物を置いていくのか」
「塔の中で動きにくくなるので」
「盗まれないか?」
「敵意がある相手は入れません」
「助けを求める者なら入れるのだろう」
「その時は、食料くらい渡します」
「ずいぶん気前がいいな」
「命と比べれば安いです」
一夜はテントの入口を開けたままにした。
戻れば、すぐ安全地帯へ入れる。
傷ついていても。
追われていても。
最後の数歩を進めば、守られる場所がある。
「これでいい」
一夜は立ち上がった。
「帰ってこられる場所は、できました」
2人が安全地帯を出ると、言葉は再び通じなくなった。
一夜は自分を指す。
次にリディアを指し、手首をつなぐロープを軽く引いた。
リディアが親指を立てる。
塔の入口を指す。
一夜も親指を返した。
「行きましょう」
意味は伝わらなくても、声は届く。
2人は暗い階段へ足を踏み入れた。
内部は、外から見た以上に暗かった。
崩れた壁の隙間から光が入っているはずなのに、数歩進むだけで入口が見えなくなる。
一夜はヘッドライトを点灯した。
石造りの階段。
壁に刻まれた古い傷。
床には、黒い糸のようなものが伸びている。
黒い糸は光を当てると、石の隙間へ逃げるように消えた。
「気持ち悪いな」
リディアが振り返る。
一夜は問題ないというように親指を立てた。
リディアも返す。
声の意味は分からない。
それでも、互いがここにいることは確認できた。
階段を上る。
1段。
2段。
3段。
一夜の腰につないだロープが、少しずつ伸びていく。
塔の外へ残した安全地帯。
その中心と、自分たちをつなぐ線。
ロープが張られている限り、戻る方向を見失うことはない。
最初の踊り場へ着いた。
リディアが拳を上げる。
一夜は足を止めた。
壁際に、人影が立っている。
スーツ姿の男性。
一夜の上司だった。
「泊君」
日本語。
リディアには別の声が聞こえているのだろう。
彼女も人影を見て、剣へ手を置いた。
「明日の朝までに、資料をまとめておいて」
一夜は返事をしなかった。
「皆、忙しいんだ。君ならできるだろう」
手首のロープが引かれる。
リディアが一夜を見ていた。
一夜は親指を立てる。
「できるかどうかではなく、先に予定を確認してください」
返事をしてしまった。
森では、影へ応答すると干渉が強まると説明書に出ていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
上司の影が笑う。
「断るのか?」
「今は勤務時間外です」
「困っている人がいる」
「明日、勤務時間内に相談してください」
「冷たくなったな」
「普通になっただけです」
影の顔が崩れる。
スーツが黒い霧へ変わり、階段の上へ流れていった。
リディアが一夜を見ている。
何を話していたのかは分からない。
一夜は両手を合わせ、申し訳ないという動きをした。
次に口を閉じる仕草をする。
もう返事はしない。
リディアはため息をついたように見えた。
2つ目の踊り場。
3つ目の踊り場。
階段は、外から見た塔の高さより長く続いていた。
一夜はスマートフォンを取り出す。
午前9時58分。
「おかしい」
塔へ入る前も、同じ時刻だった。
歩き始めてから、少なくとも10分は経っている。
秒の表示を見る。
58秒。
59秒。
午前9時59分へ変わる。
「動いてはいる」
故障ではない。
一夜は時間を確認しながら歩く。
次の踊り場まで、約2分。
そこで再び画面を見る。
午前9時58分。
「戻ってる?」
リディアが足を止めた。
一夜は画面を見せる。
彼女には数字の意味までは分からない。
一夜は指で円を描き、後ろを指す。
時間が戻っている。
正確には伝わらなくても、異常は伝わったらしい。
リディアが壁へ剣先で傷をつけた。
斜めに2本。
2人は階段を上る。
次の踊り場。
壁に、同じ傷があった。
「同じ場所だ」
階段は上へ続いている。
自分たちは確かに上っている。
腰につないだロープも伸びている。
それなのに、同じ踊り場へ戻ってきた。
一夜はロープを確認した。
たるんでいない。
後ろへ続いている。
「安全地帯とは、まだつながってる」
リディアがロープを引く。
後ろへ戻るという合図。
一夜はうなずいた。
2人でロープをたどり、階段を下りる。
1つ目の踊り場。
2つ目。
さらに下る。
だが、塔の入口が現れない。
壁には、リディアがつけた斜めの傷。
「戻る方も同じ場所か」
上っても。
下っても。
同じ踊り場へ戻される。
それでも、ロープは安全地帯へ向かって伸び続けていた。
一夜はロープを両手でつかむ。
強く引く。
向こう側から、手応えが返ってきた。
ペグへ固定されている。
帰る場所は消えていない。
ただ、道だけがねじ曲げられている。
「距離じゃないのか」
説明書を開く。
【夜明け阻害領域へ侵入しました】
【時間認識への干渉を確認】
【現在位置の測定に失敗しました】
新しい文字が浮かぶ。
【警告】
【同一時間内での滞在が継続しています】
「同じ時間……」
階段が続いているのではない。
午前9時58分という時間から、出られなくなっている。
どれだけ歩いても。
どちらへ進んでも。
同じ瞬間へ戻される。
リディアが一夜の肩へ触れた。
大丈夫かと聞いている。
一夜は親指を立てかけ、途中で止めた。
大丈夫ではない。
だから、首を横へ振った。
次に、説明書を指す。
文字の下へ、さらに1行が浮かんだ。
【脱出条件】
【進行方向ではなく、進行する時間を指定してください】
「時間を、指定する?」
一夜はスマートフォンを見る。
午前9時58分。
秒数は進む。
だが、59分へ変わると、再び58分へ戻る。
塔は、朝へ向かう時間を拒んでいる。
「朝を止める装置の中だから、時間そのものが進まない」
リディアには言葉が届かない。
それでも、一夜は彼女の手を取った。
スマートフォンのアラーム画面を開く。
時刻を入力する。
午前10時00分。
今の時間より、わずか2分後。
「俺たちは、そこへ行く」
一夜は画面を指した。
次に、階段の上を指す。
リディアは数字を見つめる。
意味を理解したかは分からない。
それでも、一夜の手を強く握り返した。
午前9時59分。
アラームまで、残り1分。
2人は階段を上り始める。
同じ踊り場。
同じ傷。
同じ暗闇。
一夜は画面から目を離さない。
残り10秒。
9秒。
8秒。
塔の奥から、無数の声が聞こえた。
「進むな」
「戻れ」
「朝には何もない」
「ここなら、失わない」
リディアが手首のロープを引く。
一夜も握り返す。
3秒。
2秒。
1秒。
アラームが鳴った。
設定した午前10時00分。
同時に、階段の上から白い光が差し込んだ。
同じ踊り場ではない。
崩れた塔の最上部。
黒い結晶が、目の前に立っていた。
2人は、止められていた時間を1分だけ越えた。
説明書に、新たな文字が浮かぶ。
【夜明け阻害装置へ到達しました】
【停止可能者を確認中】
黒い結晶から、無数の紫色の線が一夜とリディアへ伸びる。
やがて、そのすべてが一夜だけを指した。
【適合者:設営者】
【停止操作には、設営者本人による直接接触が必要です】
一夜は文字を読み上げる。
「触れるのは、俺みたいです」
安全地帯は、23メートル下に残してきた。
黒い結晶との間に、見えない壁はない。
リディアが一夜の前へ立つ。
その背後で、階段から黒い影が次々と上ってきていた。




