第21話 鐘が1つなら、壊される
群れ長の爪が、鐘楼の柱へ振り下ろされた。
太い木材が裂ける。
鐘楼全体が、集会所の方へ大きく傾いた。
「倒れる!」
一夜は安全地帯の中から叫んだ。
鐘楼の上には、まだ2人の村人がいる。
揺れる足場へしがみつき、降りることもできずにいた。
その下では、リディアが鐘楼へ向かって走っている。
「リディアさん、上に2人います!」
安全地帯の外へ出た彼女には、一夜の言葉は通じない。
それでも、リディアはすでに状況を理解していた。
鐘楼の柱へ足をかけ、一気に上り始める。
群れ長が屋根の端から彼女を見下ろした。
「そっちへ行くな……!」
群れ長の目的は鐘だ。
だが、リディアが近づけば、標的を変える可能性がある。
一夜は警告音を鳴らした。
鋭い音が村へ響く。
群れ長の右目が、一夜へ向いた。
ほんの一瞬。
リディアが、その隙に鐘楼の中段へ到達する。
「もっと、こっちを見ろ!」
一夜は懐中電灯を振った。
群れ長は低くうなった。
光と音の正体が一夜であることは、完全に理解している。
だが、以前のように飛びかかってはこなかった。
安全地帯へ攻撃しても無駄だと学習している。
「本当に頭がいいな……」
群れ長は一夜から視線を外し、鐘を支える横木へ爪を立てた。
木材がきしむ。
鐘楼の上で、大きな鐘が揺れた。
「鐘を落とす気か!」
真下には、上っているリディアと村人たちがいる。
一夜は周囲を見回した。
「エドガーさん!」
村長が安全地帯へ入る。
「鐘楼がこちらへ倒れます!」
「見れば分かる!」
「太いロープはありますか?」
「荷車を引く綱ならある!」
「それを鐘楼へかけて、広場の反対側から引いてください!」
「倒れる向きを変えるのか?」
「集会所とテントに当たらなければいいです!」
「だが、綱をかける者が必要だ!」
一夜は鐘楼を見る。
リディアが中段へ到着し、怯えている村人の1人を支えている。
上へ行かせるわけにはいかない。
「俺が行きます」
「駄目だ」
答えたのは村長ではなかった。
マルタが一夜の上着をつかんでいる。
「でも、ロープを結べる人が――」
「村には荷車を扱う者がいる」
「結び方を説明しないと」
「安全地帯へ呼べ」
一夜は口を閉じた。
自分でやる方が早い。
そう思った。
会社でも、説明する時間が惜しくて、自分で仕事を抱えることがあった。
その結果、帰れなくなる。
今は、失敗すれば帰れないどころではない。
「……分かりました」
一夜はエドガーを見る。
「荷車を扱っている人を呼んでください!」
村長が外へ出て叫ぶ。
すぐに、体格のいい男性が安全地帯へ飛び込んできた。
「何をすればいい!」
一夜は地面へ枝で鐘楼を描いた。
「ロープを柱の低い位置へ巻いてください。結び目は引くほど締まる形で」
「普段、丸太を引く時と同じでいいか?」
「はい。それを2本。広場の反対側から、できるだけ多くの人で引いてください」
「分かった!」
「鐘楼の下には入らないでください。ロープを回したら、すぐ離れて!」
男がうなずき、安全地帯を出る。
村長も別の者へ指示を出した。
倉庫から太い綱が運び出される。
男たちは鐘楼へ近づき、傾いていない側の柱へ綱を回した。
その間にも、群れ長は横木を削り続ける。
鐘を支えていた金具が、片側だけ外れた。
ごおんっ。
大きな鐘が不規則に鳴る。
村全体へ重い音が広がった。
宵喰い狼たちの動きが乱れる。
「鐘が落ちても、音は出る」
一夜はつぶやいた。
「何?」
マルタが聞き返す。
「俺たちが必要なのは、鐘じゃない」
群れ長は鐘を狙っている。
鐘を壊せば、遠吠えを邪魔する音が消えると考えている。
それは正しい。
村人たちも、一夜も、あの鐘だけに頼っていた。
「音なら、ほかにも出せる」
一夜はスープを作った大鍋を見る。
鉄製の大きな鍋。
その隣には、金属の器や農具が置かれている。
「マルタさん。鍋をたたく物をください」
「何をする気だ」
「鐘の代わりです」
一夜は木べらを手に取り、鉄鍋の縁を強くたたいた。
があんっ、と鈍い音が響く。
鐘ほど大きくはない。
だが、近くにいた宵喰い狼が耳を動かした。
「これを村中で鳴らします」
「村中?」
「鍋、農具、金属の板。大きな音が出る物なら何でもいいです」
一夜は安全地帯へ入ってきた村人へ伝える。
「遠吠えが聞こえたら、みんなで音を鳴らしてください!」
「鐘があるだろう」
「その鐘が壊されます!」
村人が鐘楼を見る。
群れ長の爪が、もう1本の横木へ食い込んでいた。
「音を1か所に集めたから狙われました」
一夜は鍋をたたく。
「村中から鳴らせば、全部は止められません!」
「だが、合図が分からなくなる」
「遠吠えが聞こえた時だけ鳴らしてください。止まったら、こちらも止める!」
村人は大きくうなずいた。
「皆に伝える!」
「安全地帯を通った人から広めてください!」
男が外へ出る。
次に入ってきた者へも、同じ説明をする。
集会所の中にも声が伝わった。
鍋を持つ者。
火かき棒を持つ者。
農具を集める者。
村の各所へ、音を鳴らす道具が配られていく。
「一夜殿!」
鐘楼へロープをかけていた男が戻ってきた。
「準備できた!」
「リディアさんたちは?」
「まだ上だ!」
一夜は鐘楼を見る。
リディアが1人目の村人を背負い、中段から地面へ降ろそうとしていた。
下にいる男たちが腕を伸ばす。
村人が受け止められる。
残りは1人。
鐘楼がさらに傾く。
「まだ引かないでください!」
一夜は両腕で大きく制止する合図を出した。
ロープを持った村人たちが待つ。
リディアは再び上へ向かった。
群れ長が彼女へ飛びかかる。
リディアは柱を蹴り、爪をかわした。
剣を抜く余裕はない。
狭く揺れる鐘楼の上では、戦えば全員が落ちる。
「リディアさん!」
一夜は懐中電灯を最大の明るさへする。
群れ長の右目へ光を当てた。
距離がある。
それでも、暗闇の中では十分にまぶしい。
群れ長が顔を背ける。
リディアは最後の村人の腕をつかんだ。
肩へ担ぐ。
中段まで下りる。
「あと少し……!」
その時、群れ長が横木を完全にへし折った。
大鐘が落ちる。
ごおおんっ!
地面へ激突した鐘が、耳を塞ぎたくなるほどの音を響かせた。
衝撃で鐘楼の柱が外れる。
建物全体が、集会所へ向かって倒れ始めた。
「引いてください!」
一夜はロープを持つ村人たちへ腕を振った。
「今です!」
言葉は通じない。
だが、合図は伝わった。
20人近い村人が、一斉にロープを引く。
傾いていた鐘楼が、わずかに向きを変える。
「もっと!」
一夜も安全地帯の境界から身を乗り出し、腕を引く動きを繰り返す。
村人たちが声を合わせる。
鐘楼は集会所を外れ、広場の空いている方向へ倒れていく。
だが、リディアと村人はまだ中段にいる。
「飛び降りろ!」
一夜には、リディアの叫びが分からなかった。
それでも、彼女は背負っていた村人を地面へ突き飛ばすように投げた。
下にいた男たちが受け止める。
リディアは最後に柱を蹴った。
鐘楼から離れる。
直後。
巨大な木組みが地面へ倒れた。
激しい土煙。
砕けた木材。
広場全体が揺れる。
「リディアさん!」
一夜は土煙の中へ目を凝らす。
倒れた鐘楼の近くで、銀色の影が動いた。
リディアが地面へ膝をついている。
巻き込まれてはいない。
「無事だ……」
だが、群れ長の姿が見えない。
「どこへ行った?」
土煙の上で、低い遠吠えが響いた。
一夜が顔を上げる。
群れ長は、倒れる直前に鐘楼から飛び降りていた。
集会所の屋根。
白く濁った左目。
無事な右目が、村を見渡している。
遠吠えが長く続く。
宵喰い狼たちが、一斉に動き始めた。
「音を!」
一夜は鉄鍋を木べらでたたいた。
があんっ!
その音へ応じるように、集会所の中から金属音が返る。
がん。
がん。
があん。
別の家から、鍋をたたく音。
倉庫から、農具を打ち合わせる音。
村の北。
東。
南。
あらゆる方向から、不ぞろいな騒音が響き始めた。
群れ長の遠吠えが、無数の音に埋もれていく。
宵喰い狼たちは動きを止めた。
どこから音がするのか分からない。
1つの鐘なら壊せる。
だが、村人全員が鳴らす音を止めることはできない。
「鐘は、もうありませんよ」
一夜は集会所の屋根に立つ群れ長を見た。
「でも、音を出せる人は、こんなにいます」
もちろん、群れ長に言葉は通じない。
それでも、一夜は木べらを握り直した。
群れ長が1つの方法を壊すたび、別の方法を考える。
1人では足りないなら、村全体へ頼る。
自分ですべてを抱える必要はない。
「次は、どうします?」
村中に響く騒音の中で、群れ長の右目が細められた。




