第19話 群れ長は、見えない壁を壊さない
集会所の屋根に立つ群れ長が、一夜を見下ろしていた。
ほかの宵喰い狼より、ひと回り以上大きい。
黒い毛の間を走る紫色の光も太く、胸の奥で脈打つたびに強く輝いている。
白く濁った左目は動かない。
それでも、無事な右目だけで、一夜の手にある懐中電灯を正確に捉えていた。
「俺が音を出してるって、分かってるのか」
群れ長が低くうなる。
周囲の宵喰い狼たちは動かない。
正面の通路。
集会所の裏。
建物の陰。
すべての個体が、群れ長の次の合図を待っていた。
「一夜、下がれ!」
マルタが一夜の服を引いた。
「安全地帯の中です」
「あれが、普通の個体と同じだと思うな」
「同じじゃないのは、見れば分かります」
「ならば、もっと下がれ!」
「下がっても半径2メートルしかないんですよ!」
テントの後ろまで下がったところで、数歩しか変わらない。
一夜は懐中電灯を握ったまま、群れ長から目を離さなかった。
群れ長が屋根を蹴る。
大きな黒い体が、空中へ飛び出した。
「来る!」
一夜は腕で顔をかばった。
群れ長の前足が、見えない壁へ激突する。
どんっ、と今までで最も大きな音が響いた。
透明な波紋が、安全地帯全体へ広がる。
テントの布が大きく揺れた。
地面も震える。
「うわっ!」
一夜は後ろへよろめいた。
だが、群れ長は境界を越えられない。
太い爪が、透明な何かを引っかく。
火花のような紫色の光が散った。
「止まってる」
「それでも近すぎる!」
マルタが一夜をさらに引っ張る。
群れ長は何度か壁を引っかいた後、地面へ着地した。
今までの宵喰い狼のように、何度も体当たりすることはなかった。
見えない壁を見上げる。
左右へ歩く。
境界の位置を確かめているようだった。
「調べてる……」
群れ長が、テントの周囲を半周する。
鼻先を地面へ近づける。
ペグ。
ロープ。
テントの四隅。
その視線が、設営に使われている物を順番に追っていた。
「まさか」
一夜は説明書を開いた。
【保護領域は、設営完了後に展開されます】
【設営状態に異常が発生した場合、保護領域が不安定になる可能性があります】
「最初から書いてあった……」
「何と書かれている?」
「テントが正常に設営されてないと、安全地帯が不安定になります」
「先ほどの攻撃で壊れたのか?」
「今のところは大丈夫です」
一夜は4本のペグを見る。
どれも地面へ深く打ち込まれている。
ロープも緩んでいない。
テント本体にも破損はなかった。
「展開中なら、テント自体も守られてるはずです」
「ならば問題ないのだろう」
「そうだと思いますけど」
群れ長は、まだ地面の匂いを嗅いでいる。
壁を壊せないと分かった。
テントにも触れられない。
ならば、諦めるはずだ。
一夜がそう考えた直後。
群れ長が、安全地帯の境界から少し離れた場所へ爪を突き立てた。
地面を掘る。
「何をしてるんだ?」
もう1度。
土と石が後ろへ飛ぶ。
群れ長は、一夜たちを見ていなかった。
テントでもない。
ペグが打ち込まれている場所の、さらに外側。
そこだけを狙って地面を削っている。
「一夜」
マルタの声が低くなる。
「地面を崩すつもりではないか」
「そんなことまで分かるのかよ……」
群れ長が遠吠えを上げた。
短く1回。
周囲にいた宵喰い狼のうち、3匹が動き出す。
それぞれ安全地帯の別の方向へ回り、地面へ爪を立てた。
「壁を壊さずに、テントを倒す気だ」
1匹が土を掘る。
もう1匹が地面へ体をぶつける。
別の個体は、障害物に使っていた樽を押し倒し、その勢いで安全地帯周辺の地面を削った。
鍛造ペグは境界の内側にある。
宵喰い狼の爪は直接届かない。
だが、外側の土を崩されれば、ペグを支えている地面まで緩んでいく。
「説明書には、そんな攻略法まで書いてないぞ」
「敵へ説明書を渡したのではないか?」
「そんなわけないでしょう!」
地面が揺れた。
テントの右側を支えているロープが、わずかに震える。
一夜はペグへ駆け寄った。
「まだ抜けてない」
手で触れる。
しっかり固定されている。
だが、周囲の土に細い亀裂が入っていた。
群れ長が、もう1度吠える。
宵喰い狼たちが同時に地面を削る。
亀裂が少し広がった。
説明書に黒い文字が浮かぶ。
【固定点周辺に地盤変化を確認】
【設営状態:軽度不安定】
【保護領域出力:正常】
「まだ正常です」
「まだ?」
「このまま続いたら分かりません」
マルタが安全地帯の外を見る。
「自警団に追い払わせる」
「駄目です」
「なぜだ」
「群れ長は、それを狙ってます」
一夜は正面の通路を見る。
宵喰い狼たちは、地面を掘る個体だけではない。
残りは、少し離れた暗闇で待機している。
自警団が外へ出れば、一斉に襲うつもりだ。
「安全地帯の周りへ近づいた人から狙われます」
「では、掘られるのを見ているだけか」
「それも駄目です」
一夜はバックパックを開いた。
ロープ。
ハンマー。
予備の鍛造ペグ。
森川に勧められ、必要な数より多く買っていた。
「予備があります」
「今の杭を抜くのか?」
「抜いたら安全地帯が消えるかもしれません」
「ならば、どうする」
「追加で支えます」
一夜はテントの内側に近い地面を触った。
群れ長たちが崩している場所から離れた、まだ硬い土。
安全地帯の中心寄りなら、地盤は緩んでいない。
「このあたりに新しいペグを打って、ロープを張り直します」
「杭が増えても問題ないのか?」
「分かりません」
「またか」
「でも、抜くよりは安全です」
一夜は予備のペグを地面へ当てた。
ハンマーを振り上げる。
「一夜殿!」
村長が安全地帯へ入ってきた。
「何をしている!」
「テントを補強します!」
「正面の魔物が動き始めた!」
一夜は顔を上げる。
群れ長の遠吠えに合わせ、正面の宵喰い狼たちが細い通路へ近づいていた。
地面を掘る。
正面から攻撃する。
同時に続け、一夜たちを焦らせるつもりらしい。
「村長、正面をお願いします!」
「ここは大丈夫なのか?」
「大丈夫にします!」
一夜はハンマーを振り下ろした。
金属が土へ食い込む。
1回。
2回。
3回。
鍛造ペグは、硬い地面へ少しずつ沈んでいった。
正面から、槍と牙がぶつかる音がする。
集会所の裏側でも衝撃音が始まった。
群れ長は、すべてを同時に動かしている。
「もう少し……!」
一夜はペグを深く打ち込む。
次に予備のロープを取り出した。
元のロープを外すわけにはいかない。
テントの骨組みにある補助用の輪へ、新しいロープを通す。
「これを、どう結ぶんだ」
店員に習った結び方。
動画で確認したロープワーク。
家で何度か練習した。
だが、手が震えてうまく輪を作れない。
「落ち着け」
ロープを交差させる。
輪へ通す。
引く。
間違えた。
「何で、こういう時に」
群れ長が地面へ体当たりする。
亀裂が広がる。
右側のペグが、目に見えて傾いた。
説明書の文字が変化する。
【設営状態:不安定】
【保護領域出力:低下開始】
見えない壁が、一瞬だけ薄く光った。
正面で宵喰い狼が体当たりする。
ごんっ。
透明な波紋が、先ほどよりも大きく揺れた。
「一夜!」
マルタの声。
「分かってます!」
一夜はロープをほどき、もう1度結び直す。
輪を作る。
端を通す。
今度は間違えない。
強く引くと、結び目が締まった。
「できた!」
新しいロープを、追加したペグへかける。
張りを調整する。
緩んでいたテントの右側が、元の形へ戻った。
だが、元のペグはまだ傾いている。
群れ長がさらに土を削れば、抜ける。
「もう1本」
一夜は予備のペグを手に取った。
「一夜殿、正面が持たない!」
村長の声が飛ぶ。
細い通路へ、4匹の宵喰い狼が重なって押し寄せている。
槍を構える男たちが、少しずつ後退していた。
一夜は懐中電灯へ手を伸ばした。
警告音を鳴らせば、群れの動きを乱せる。
だが、ペグを打つ手が止まる。
「マルタさん!」
「何だ!」
「このボタンを長く押してください!」
一夜は懐中電灯を差し出した。
「どれだ!」
「後ろの大きい方です!」
「こうか!」
鋭い警告音が響く。
正面の宵喰い狼たちがひるんだ。
自警団が槍で押し返す。
地面を掘っていた個体も、一瞬だけ動きを止めた。
「そのまま押してください!」
「耳が痛い!」
「俺もです!」
一夜は2本目のペグを地面へ置いた。
ハンマーを振り下ろす。
さらに補助ロープを張る。
左右からテントを引っ張り、元のペグへかかる負担を分散させる。
地面の亀裂は残っている。
だが、テントの傾きは止まった。
説明書に新しい表示が出る。
【追加固定を確認】
【設営状態:安定】
【保護領域出力:正常化】
「戻った!」
透明な壁が強く光る。
正面から飛びかかった宵喰い狼が、見えない壁へ弾き返された。
群れ長が動きを止める。
一夜と、新たに打ち込まれたペグを交互に見る。
「残念でした」
一夜は荒い息を整えながら、群れ長を見る。
「予備は多めに買ってあるんですよ」
「聞こえていないぞ」
マルタが警告音を止めた。
「分かってます。言ってみたかっただけです」
「それより、この杭をもっと用意しろ」
「あと4本あります」
「全部打て」
「全部ですか?」
「また別の地面を崩されたらどうする」
「それはそうですね」
一夜は3本目の予備ペグを取り出した。
群れ長は、もう地面を掘らせなかった。
失敗したと理解したのだろう。
短く吠える。
宵喰い狼たちが、安全地帯の周囲から離れていく。
「退いた……?」
「違う」
マルタが暗闇を見つめる。
「考えている顔だ」
「狼の顔が分かるんですか?」
「年寄りを甘く見るな」
「関係あります?」
群れ長は集会所の屋根へ飛び乗った。
白く濁った左目を一夜へ向ける。
見えない壁。
地面。
追加されたペグ。
懐中電灯。
安全地帯へ出入りする村人たち。
今度は、何を見ているのか分からない。
「次は、何を狙う気だ」
群れ長が空を見上げた。
雲の間に、月が浮かんでいる。
夜明けまでは、まだ遠い。
低い遠吠えが、村全体へ響き渡る。
その声へ応じるように、森のさらに奥から、いくつもの遠吠えが返ってきた。
今まで聞こえていた数よりも、はるかに多い。
一夜の顔から血の気が引く。
「まだ、仲間がいるのか」
群れ長は安全地帯を壊すことを諦めたのではない。
自分たちだけでは壊せないと判断した。
だから、さらに多くの群れを呼んだのだ。
暗い森の中で、無数の紫色の光が動き始めていた。




