第14話 帰ってこられる場所を守る
リディアの剣が、宵喰い狼の背中へ振り下ろされた。
黒い毛が裂け、紫色の血が飛び散る。
安全地帯へ体当たりしていた宵喰い狼が、苦しげな声を上げて振り返った。
「一夜から離れろ!」
今度は、名前だけではない。
リディアが安全地帯の中へ踏み込んだことで、言葉がはっきりと聞こえた。
「離れてほしいのは、俺も同じです!」
「ならば、なぜ挑発した!」
「集会所へ行かせないためです!」
傷を負った宵喰い狼が、リディアへ飛びかかる。
彼女は半歩だけ横へずれ、牙をかわした。
すれ違いざまに剣を振り抜く。
刃が狼の首元を深く切り裂いた。
黒い巨体が地面へ倒れる。
もう1匹が、倒れた仲間を踏み越えてリディアへ襲いかかった。
「危ない!」
一夜は懐中電灯を向けた。
白い光が、宵喰い狼の目を正面から照らす。
魔物が顔を背けた。
「今です!」
「分かっている!」
リディアが地面を蹴る。
剣先が宵喰い狼の胸へ突き刺さった。
勢いのまま押し込み、魔物の体を安全地帯から遠ざける。
宵喰い狼は数歩よろめき、その場へ崩れ落ちた。
紫色の光が消える。
「……倒した」
一夜は懐中電灯を下ろした。
力が抜け、地面へ座り込みそうになる。
リディアが安全地帯へ戻ってきた。
「けがは」
「ありません」
「本当に?」
「壁の中にいましたから」
「結界が壊れない保証はないだろう!」
「それは、そうですけど」
「あなたは、自分の命を何だと思っている!」
一夜は思わず目を瞬いた。
「それ、俺が昨日言った言葉ですよね」
「今は私が言っている!」
「でも、集会所へ行かせたら、中の人たちが危なかったんです」
「だからといって、自分を餌にするな!」
「安全地帯の中なので、餌にはなってません」
「魔物から見れば同じだ!」
「食べられない餌です」
「言葉を選べ!」
リディアの声は怒っていた。
けれど、その手は一夜の肩や腕を確認している。
本当に傷がないか、確かめているのだろう。
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかを決めるのは、あなたではない」
「それも俺が言った気がします」
「今は黙っていろ」
「はい」
返事をした直後、村の東側から鐘が鳴った。
2回。
間を置いて、さらに2回。
リディアが顔を上げる。
「東側でも柵が破られた」
「鐘の回数で分かるんですか?」
「ああ。2回は東、3回は北だ」
「最初に教えておいてほしかったですね」
「あなたが村の鐘を使うとは思わなかった」
「俺も思いませんでした」
西側からも遠吠えが響く。
北門だけではない。
宵喰い狼は、村の周囲へ広がっている。
「リディアさん」
「何だ」
「ここへ残れますか?」
「無理だ」
「即答ですね」
「東側にも戦える者が必要だ」
リディアは倒した宵喰い狼から剣を引き抜いた。
刃についた血を振り払う。
「ですが、また傷が開いてます」
脇腹の包帯へ、赤い色が広がっていた。
「この程度なら動ける」
「禁止したはずです。その言い方」
「誰が許可した」
「俺です」
「あなたに私を指揮する権限はない」
「相棒でしょう」
リディアの動きが止まった。
一夜は彼女の包帯を指す。
「相棒なら、無茶を止めてもいいですよね」
「今は止まっている場合ではない」
「では、30秒だけ」
「短くなったな」
「傷の確認だけです」
「必要ない」
「リディアさん」
一夜は彼女の目を見た。
「ここは、帰ってこられる場所です」
「何?」
「外で戦う人が、けがをしたら戻ってくる場所です」
一夜はテントと、地面へ並べた治療道具を示す。
「あなたが戻ってこなかったら、ここを作った意味がありません」
リディアは何も答えなかった。
集会所の中から、子供の泣き声が聞こえる。
遠くでは、男たちの叫び声と魔物のうなり声が重なっていた。
「……30秒だ」
「はい」
「それ以上は待たない」
「分かりました」
一夜はリディアを安全地帯の中へ座らせた。
包帯の上から、出血している場所を押さえる。
「痛みは?」
「問題ない」
「禁止です」
「……少し痛む」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
新しい布を重ね、きつく固定する。
安全地帯の回復効果も働いているのか、出血はすぐに弱まった。
マルタが隣から傷を確認する。
「剣を振るたびに開く傷だ。深く動けば、今度こそ立てなくなる」
「まだ戦える」
「そう言うと思った」
マルタはため息をついた。
「せめて、体をひねりすぎるな。大振りも避けろ」
「分かった」
「本当に分かっている顔ではないな」
「俺もそう思います」
「一夜まで何を言う」
「相棒なので」
リディアは不満そうに立ち上がった。
「東側を確認する。自警団を集会所の周囲へ後退させる」
「柵を守らなくていいんですか?」
「すでに複数箇所を破られている。外周へ人員を分散させる方が危険だ」
「村の中央で守る?」
「ああ。建物の間を利用すれば、宵喰い狼は同時に襲いかかれない」
リディアは集会所を見た。
「戦える者を周囲へ配置する。負傷した者は、ここへ戻す」
「それなら、俺もできます」
「あなたは安全地帯から出るな」
「道の向こうにけが人がいたら?」
「村人に運ばせる」
「間に合わなかったら?」
「出るな」
「でも――」
「一夜」
リディアは強い声で名前を呼んだ。
「あなたが倒れれば、この安全地帯を維持できる者がいなくなる」
一夜は口を閉じる。
「あなたには、ここにいる役目がある」
「……分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「今、その言葉を使うな」
「努力します」
リディアは安全地帯から出た。
言葉が通じなくなる直前、一夜へ振り返る。
「必ず戻る」
「待っています」
リディアはうなずき、東側へ走っていった。
リディアが去った後、一夜は村長を安全地帯へ呼んだ。
「自警団を集会所の周りへ戻すそうです」
「外周を捨てるのか?」
「柵は、もう何箇所か破られています」
村長は唇をかんだ。
「畑も、家畜も守れん」
「今は、人を守りましょう」
「家を失えば、冬を越せない者もいる」
「家は建て直せます」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないです」
一夜は村長の目を見る。
「でも、死んだ人は戻せません」
村長は黙った。
遠くから、建物が壊れるような音が響く。
誰かの家かもしれない。
家畜小屋かもしれない。
一夜には、その価値を正しく理解できない。
それでも、優先する順番だけは間違えたくなかった。
「……分かった」
村長は静かにうなずいた。
「鐘を鳴らし、自警団を中央へ戻す」
「避難していない人はいませんか?」
「南側の家を、まだ確認できていない」
「誰かを向かわせてください。ただし、1人ではなく複数で」
「分かった」
「それと、道を塞げる物はありますか?」
「道を?」
「荷車や樽を置いて、宵喰い狼が集会所へ真っすぐ来られないようにします」
「障害物を作るのか」
「人が通れる隙間は残してください。けが人を運べなくなるので」
村長は安全地帯を出ると、村人たちへ指示を出した。
広場へ荷車が運ばれてくる。
空の樽。
薪の束。
壊れた柵。
それらを使い、集会所へ続く道を細く曲げていく。
魔物の勢いを落とし、槍を持つ村人が1匹ずつ相手にできる形を作る。
「これで合ってるのかな」
一夜に戦場の知識はない。
だが、会社で人や物の流れを調整した経験はある。
通路が狭ければ混雑する。
障害物があれば速度が落ちる。
魔物にも同じことが通じるはずだった。
「一夜殿!」
村人が、肩を負傷した女性を連れてくる。
一夜はすぐに安全地帯へ招き入れた。
「ここへ座ってください」
「南側の家に、まだニナがいる!」
女性は傷より先に叫んだ。
「ニナ?」
涙玉を切る一夜を笑っていた少女。
「母親を捜しに、家へ戻ったらしい。母親はすでに集会所にいるのに!」
「誰か迎えに行っていますか?」
「自警団の者が向かった。だが、南の道にも狼が――」
一夜は集会所の中を見る。
人々の間を捜す。
ニナの姿はない。
「どの家です?」
「南端の、赤い屋根だ」
一夜は広場の南側を見る。
建物の間から、赤い屋根の一部が見えた。
距離は遠い。
安全地帯を離れれば、何もできない。
それでも、ニナがそこにいる。
一夜は腰の懐中電灯へ手を伸ばした。
リディアの言葉が頭へ浮かぶ。
あなたには、ここにいる役目がある。
「……出られない」
小さくつぶやく。
見捨てるわけではない。
自警団が向かっている。
自分が行けば、助けるどころか足手まといになる。
分かっている。
それでも、胸の奥が落ち着かなかった。
その時、南側から少女の悲鳴が響いた。
「ニナ!」
集会所の中で、女性が叫ぶ。
建物の間から、小さな影が走り出てきた。
ニナだった。
その後ろを、宵喰い狼が追っている。
「走れ!」
一夜の声は届かない。
ニナが広場へ向かって走る。
だが、子供の足では逃げ切れない。
宵喰い狼との距離が縮まっていく。
迎えに向かった自警団の姿は見えない。
一夜は懐中電灯を構えた。
ここから光を向けても、距離がありすぎる。
警告音なら届くかもしれない。
「こっちを見ろ!」
一夜はボタンを長押しした。
激しい警告音が、村中へ響き渡る。
ニナが驚き、足をもつれさせた。
「まずい!」
少女が地面へ転ぶ。
宵喰い狼が飛びかかろうと身を沈める。
一夜は安全地帯の境界まで進んだ。
外へ出るな。
頭では分かっている。
それでも、足が1歩前へ出る。
その瞬間。
民家の屋根から、人影が飛び降りた。
銀色の剣が、宵喰い狼の背へ突き刺さる。
「リディアさん!」
女騎士は魔物を地面へ縫いつけると、ニナを抱き上げた。
さらに別の宵喰い狼が、路地から姿を現す。
リディアは少女を抱えたまま、一夜へ向かって走り出した。
「一夜!」
まだ遠い。
言葉は、本来なら通じないはずだった。
それでも、自分の名前だけは分かった。
一夜は境界の内側から手を伸ばす。
「ここです!」
リディアの背後へ、宵喰い狼が迫る。
安全地帯まで、あと10メートル。
7メートル。
5メートル。
リディアがニナを前へ押し出した。
「受け取れ!」
一夜は安全地帯から身を乗り出し、少女の腕をつかんだ。
ニナの体を引き寄せる。
少女が境界を越えた直後、宵喰い狼が飛びかかった。
リディアは、まだ外にいる。
「リディアさん!」
牙が、彼女の背中へ迫ってい




