第11話 小さなテントを、村の真ん中へ
「全員で朝を迎える」
リディアがそう言った直後、森の奥から再び遠吠えが響いた。
1匹ではない。
低い声が重なり、少しずつ村へ近づいている。
見張りの男が柵の外へ目を向けた。
「副隊長、急いだ方がよさそうです」
「ああ。まず村長を呼べ。自警団も全員、村の中央へ集めろ」
「分かりました」
男は安全地帯から飛び出した。
境界を越えた瞬間、彼が村人へ叫ぶ言葉は、一夜には意味の分からない音へ戻る。
「やっぱり不便ですね」
「天幕を村の中央へ移せば、必要な者を順番に中へ入れればいい」
「話し合うたびに、全員ここへ集まるんですか?」
「ほかに方法はない」
「せめて、外でも話せるようになればいいんですけど」
「天幕に頼りすぎるな」
「言葉が通じないのは、努力でどうにかなる問題じゃないですよ」
「身振りで伝えろ」
「さっき親指を立てていた人に言われたくないですね」
「あなたが先にやったのだろう」
「意味は分かってたんですか?」
「肯定を表す合図だと思っている」
「だいたい合ってます」
村の奥から、白髪の老人が数人の村人を連れて歩いてきた。
見張りの男も一緒だ。
リディアが手招きし、老人を安全地帯へ招き入れる。
老人は境界を越えた瞬間、目を見開いた。
「これは……あなたの言葉が分かる」
「初めまして」
一夜が頭を下げる。
「泊一夜です」
「村長を務めている。名はエドガーだ」
村長は一夜の服装を見てから、背後のテントへ目を向けた。
「リディア副隊長から聞いた。この天幕が、宵喰い狼を防ぐというのは本当なのか?」
「はい。ただ、守れる範囲は半径2メートルだけです」
「2メートル?」
一夜は地面の境界を手で示した。
「このあたりまでです。入れる人数も、説明書では3人が推奨されています」
村長の顔から、期待が薄れていく。
「村には、子供と老人だけでも30人以上いる」
「全員をテントへ入れるのは無理です」
「では、これで村を守るという話は――」
「このテントだけで守るとは言ってません」
一夜はリディアを見る。
「外は、騎士と自警団の人たちに守ってもらいます」
「戦える者は村の外周を固める」
リディアが続けた。
「天幕は負傷者の治療と、最も危険な者の避難場所にする。村の中央へ設置し、そこを最後の防衛地点とする」
「最後の防衛地点……」
村長が小さく繰り返す。
「柵が破られた場合、村人をどこへ集めていますか?」
一夜が尋ねる。
「村の集会所だ。石壁ではあるが、入口は木製だ」
「広さは?」
「村人全員が入れる」
「窓は多いですか?」
「4つある」
「狼が入れる大きさです?」
「戸板で塞ぐことはできる」
「それなら、集会所を避難場所にしましょう」
一夜は村の中央を見渡した。
広場の横に、石造りの大きな建物がある。
正面には両開きの扉。
周囲には井戸と、小さな倉庫が並んでいた。
「テントは集会所の入口近くに建てます」
「建物の中ではないのか?」
「地面にペグを打たないと、安全地帯が使えません」
「ぺぐ?」
「この金属の杭です」
一夜は鍛造ペグを見せた。
「4本とも固定しないと、機能しないと思います」
「思います?」
「説明書が詳しく書いてくれないので」
村長がリディアへ顔を向ける。
「本当に、この男を信じてよいのですか?」
「少なくとも、私はこの天幕の中で朝を迎えた」
「副隊長が?」
「宵喰い狼に囲まれ、重傷を負っていた。天幕がなければ、今ここにはいない」
村長の表情が変わる。
リディアは一夜を指した。
「一夜は戦えない」
「最初にそこを言います?」
「事実だ」
「そうですけど」
「だが、傷を手当てし、食事を作り、安全に眠れる場所を用意できる」
リディアは村長へ向き直る。
「今夜、必要なのは剣だけではない」
一夜は少し驚いて、リディアを見た。
昨夜まで、休むことを戦いの放棄だと考えていた人の言葉とは思えなかった。
「何だ」
「いえ。成長したなと思いまして」
「あなたに言われたくない」
「褒めたんですけどね」
「話を進めろ」
「はい」
一夜は村長へ説明を続けた。
「水と食料を集会所へ運んでください。それから、毛布と明かり。けが人が出た時に横になれる場所も必要です」
「薬草や包帯は、治療師の家にある」
「治療師がいるんですね」
「老齢だが、村の傷はずっと彼女が診てきた」
「その人にも集会所へ来てもらいましょう。俺は簡単な手当てしかできないので」
「分かった」
「それと、火を使える場所が必要です」
「食事を作るのか?」
「温かい物を食べた方が、動けます」
リディアが一夜を見る。
「またスープか」
「不満でした?」
「味に不満はない」
「それならいいでしょう」
「だが、あの塊が湯で料理になるのは、今も納得していない」
「そこは受け入れてください」
村長は2人の会話を不思議そうに見ていた。
「一夜殿は、料理人なのか?」
「違います」
「治療師でもないのだろう?」
「はい」
「戦士でもない」
「そこは何度も確認しなくて大丈夫です」
「では、何者なのだ?」
一夜は少し考えた。
会社員。
営業事務。
異世界から来たキャンプ初心者。
どれも、今の状況を説明するには弱い。
「テントを建てる人ですかね」
「それは見れば分かる」
リディアが冷静に言った。
「自分でも、そう思いました」
村の中央へテントを移すには、1度すべて畳まなければならない。
安全地帯が消える前に、一夜は村長と見張りの男へ作業の流れを説明した。
「テントを畳んだら、言葉が通じなくなります」
「再び建てれば戻るのか?」
「前は戻りました」
「確実ではないのか」
「このテントに確実なことは、あまりないんです」
村長の顔に不安が浮かぶ。
「大丈夫だ」
リディアが言った。
「天幕が完成するまで、私が一夜を守る」
「副隊長の傷は」
「戦える」
「それ、禁止にしません?」
「何がだ」
「戦えると言えば、何でも許されると思ってますよね」
「事実を言っているだけだ」
「出血したら止めますからね」
「設営を優先しろ」
「両方やります」
「欲張るな」
リディアはそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。
一夜がペグを抜く。
最後の1本が地面から離れた瞬間、周囲を包んでいた感覚が消えた。
村長が何かを言う。
やはり意味は分からない。
一夜は親指を立て、収納作業を始めた。
村長も一瞬迷ってから、親指を立て返す。
「村長にまで広まりましたね」
リディアには通じていない。
彼女は周囲へ鋭い視線を向け、剣へ手を置いていた。
テント本体を丸め、村人たちが運ぶ荷車へ載せる。
リディアを先頭に、一夜たちは広場へ移動した。
村人たちが遠巻きに見守っている。
不安そうな顔。
疑うような顔。
中には、こんな小さな天幕で何ができるのかと笑っている者もいた。
一夜自身、そう思う。
30軒以上の家がある村。
そこへ襲いかかる宵喰い狼の群れ。
対するのは、1人用として売られていた緑色のテントだった。
「改めて見ると、小さいな」
リディアが何かを言う。
意味は分からないが、顔を見れば想像できる。
「今、小さいと思いましたよね」
リディアは答えず、設営場所を指した。
集会所の入口から少し離れた、井戸の横。
地面は平らで、周囲を見渡しやすい。
「ここならいけそうです」
一夜はテントを広げた。
村人たちの視線が集まる。
手が震えた。
魔物を前にした時とは違う緊張だった。
「失敗するなよ、俺」
ポールを組み立てる。
布へ通す。
テントを立ち上げる。
ロープを張る。
リディアが周囲を警戒しながらも、時折こちらを見ている。
一夜は鍛造ペグを手に取った。
1本目。
金属のハンマーを振り下ろす。
硬い音が広場へ響く。
2本目。
3本目。
森から、遠吠えが聞こえた。
村人たちがざわめく。
リディアが柵の方向へ顔を向けた。
最後のペグを打ち込む。
「これで――」
空気が揺れた。
テントを中心に、透明な波紋が半径2メートルへ広がっていく。
安全地帯が展開された。
リディアが境界へ入り、一夜へ声をかける。
「聞こえるか」
「はい。成功です」
村長も中へ入った。
「また言葉が分かる」
「設営完了です」
村長は見えない境界へ、恐る恐る手を伸ばした。
彼の手は何の抵抗もなく外へ出る。
「何もないように見えるが」
「敵意のあるものだけを防ぐみたいです」
「確かめる方法はあるのか?」
「魔物を連れてくるのは嫌ですね」
その時、広場の外から女性の悲鳴が聞こえた。
村人たちが道を開ける。
2人の男が、若い男性を担いで運んできた。
男性の右足は血に染まっている。
ふくらはぎに、深い噛み傷があった。
「何があった!」
村長が安全地帯を飛び出す。
外の言葉は分からない。
だが、村人たちが森を指し、宵喰い狼の牙を手で表している。
「襲われたんだ」
一夜は救急セットを持ち、安全地帯の外へ出た。
リディアも続く。
負傷した男性は意識がある。
しかし顔色が悪く、呼吸も速い。
一夜は男たちへ手招きし、負傷者をテントの近くへ運ぶよう示した。
「中へ入れてください!」
言葉は通じない。
それでも、リディアが同じ指示を出したらしく、男たちは負傷者を安全地帯へ運び込んだ。
境界を越えた瞬間、男性の苦しそうな声が日本語へ変わる。
「痛い……足が、焼けるみたいに……」
「今、見ます」
一夜は傷口の近くへ膝をついた。
噛み傷は深い。
だが、骨までは届いていないように見える。
「いつ襲われました?」
「少し前だ。北の畑を見に行ったら、茂みから……」
「宵喰い狼は?」
「槍で追い払った。だが、ほかにもいた」
リディアの表情が険しくなる。
「すでに、村のすぐ近くまで来ている」
一夜は男性の傷を水で洗い、清潔な布を当てた。
「少し痛みます」
「この程度、平気だ」
「さっきまで痛いって言ってましたよね」
「それは……」
「我慢しなくて大丈夫です」
一夜は包帯を巻く。
作業を続けているうちに、男性の荒かった呼吸が落ち着き始めた。
「どうですか?」
「痛みが……少し引いてきた」
「薬はまだ使ってませんけど」
一夜は傷を見る。
流れ続けていた血が、明らかに減っている。
傷口の周囲から、ゆっくりと赤みが引いていた。
リディアも気づいたらしい。
「軽傷回復」
「レベル2の機能ですね」
「これが、天幕の力……」
負傷した男性は、自分の足を見つめた。
「さっきまで、立てないほど痛かったのに」
「完全に治ったわけではありません。今日は歩かないでください」
「だが、今夜は戦える者が必要だ」
「その足で戦ったら、また開きます」
「村を守らなければ」
一夜は男性の目を見る。
リディアと同じ目だった。
自分の体より、役目を優先する人の目。
「あなたの役目は、ほかにもあります」
「何?」
「集会所の中で、子供や老人を落ち着かせてください」
「俺が?」
「外で戦うだけが、村を守る方法じゃありません」
男性は戸惑っている。
「歩けない人が無理に外へ出たら、助けに行く人まで危険になります」
「しかし――」
「中でできることをしてください」
男性はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「……分かった」
一夜は立ち上がった。
安全地帯の外には、多くの村人が集まっている。
何が起きたのか分からず、不安そうにこちらを見ていた。
負傷者が運び込まれた時より、顔色が戻っていることには気づいている。
村長が境界へ入り、男性の足を確認した。
「血が止まっている」
「軽い傷なら、この中で回復するみたいです」
「本当に、奇跡の天幕なのだな」
「奇跡というには、狭すぎますけどね」
「それでも、何もないよりははるかにいい」
村長は安全地帯の外へ出ると、集まった村人たちへ声を張り上げた。
言葉は分からない。
だが、彼がテントを指し、負傷した男性の足を示すと、村人たちの表情が変わっていった。
疑いが消えたわけではない。
それでも、小さなテントがただの布ではないと伝わった。
「一夜」
リディアが呼ぶ。
「はい」
「森の近くで宵喰い狼が確認された。日没を待たずに襲ってくる可能性がある」
一夜は空を見る。
日はまだ高い。
準備できる時間は、思っていたより短いかもしれない。
「何から始めます?」
「私は自警団を配置する。あなたは避難場所を整えろ」
「分かりました」
「食事も用意できるか」
「人数分の保存食は持ってません」
「村の食料を使えばいい」
「俺が作っても?」
「あなたが作ることに意味があるのだろう」
一夜は少し驚いた。
「信じてくれるんですね」
「私が実際に効果を受けた」
「では、村にある食材を見せてもらいます」
「無理はするな」
「リディアさんに言われる日が来るとは」
「私は必要な時には休む」
「昨日、眠らせるのにどれだけ苦労したと思ってるんですか」
「過ぎた話だ」
「まだ1日も経ってませんよ」
リディアは返事をせず、安全地帯の外へ歩き出した。
境界を越える直前、一夜へ振り返る。
「一夜」
「何です?」
「ここを頼む」
一夜は緑色の小さなテントを見る。
外で戦う力はない。
村人全員を安全地帯へ入れることもできない。
それでも、傷ついた者を休ませることはできる。
温かい食事を作ることもできる。
恐怖に震える人へ、ここなら少しは安全だと伝えることもできる。
「任せてください」
リディアが安全地帯を出る。
すぐに言葉は通じなくなった。
それでも彼女は、一夜へ親指を立てた。
「完全に覚えましたね」
一夜も親指を立て返す。
ハルト村の中央で、小さな安全地帯が動き始めた。
長い夜を、全員で越えるために。




