第三十四話:ふたつめの刻みと、丘の上の世界
その朝、僕を起こしたのは、鳥の声だった。
板戸の隙間から差し込む光は、もう冬のそれではなかった。
白く硬質だった朝の光が、いつのまにか、蜂蜜を薄く溶いたような柔らかい金色に変わっている。軒下では名前を知らない小鳥たちが、忙しなく、けれどどこか浮かれた調子で鳴き交わしていた。
四月、初旬。
僕は毛布の中で、ゆっくりと瞬きをして、今日という日の名前を思い出した。
(……そうか。今日、なんだな)
僕の、誕生日。この世界に生まれ落ちて、まる二年。
魂の年齢で数えるなら、木村陽平の二十五年を足して、二十七回目の「生まれた日」ということになる。
我ながら、ずいぶんと奇妙な算術だった。
前世の誕生日を、僕はあまりよく覚えていない。 いや、正確に言えば思い出したい誕生日が、あまりない。
あの白い部屋で年をひとつ重ねるということは、砂時計の砂がまたひと目盛りぶん落ちたと確認する作業と、ほとんど同じ意味だったからだ。
主治医の「今年も頑張ろうね」という決まり文句。検査の谷間に慌ただしく歌われる歌。
祝われながら、僕はいつも、祝われている自分の「残り」のほうを数えていた。
だから――目が覚めた瞬間に、胸の奥が勝手にそわそわと浮き立っている今朝のこの感じを、僕はまだ、うまく扱えずにいる。
「……あら。起きたのね、アレン」
台所から顔を覗かせたマリアが、僕と目が合うなり、ふわりと笑った。
エプロンで手を拭きながら寝床まで来て、僕の前髪を優しく掻き上げ、額にひとつ、音を立てて口づけを落とす。
「お誕生日、おめでとう。アレン」
「……えへへ。ありがと、かあさん」
照れくささに首をすくめると、母はもう一度笑って、僕を抱き上げた。
朝の食卓には、小さな奇跡が待っていた。
いつもの麦粥の真ん中に、とろりと落とされた琥珀色のひと匙――蜂蜜だ。
この村で蜂蜜がどれほどの貴重品かは、リアの見舞いの一件以来、僕の身体に染みついている。
誕生日とは、粥に蜂蜜が落ちる日のことなのだ。素晴らしい定義だと思う。
畑の朝仕事をひと区切りつけて戻ってきたダリウスが、土の匂いをまとったまま、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「おめでとう、アレン。そっか…二歳かあ……ねえマリア、僕たちの息子は、どうしてこう、毎年こんなに可愛くなるんだろうね」
「あらあら。それは毎年じゃなくて、毎日でしょう?」
「それもそうだ。参ったなあ」
朝から糖度の高い両親である。
僕は蜂蜜の粥を匙で運びながら、この甘さの半分は食卓の空気のせいに違いないと思った。
朝餉が済むと、ダリウスが「さて」と立ち上がり、腰のナイフに手を掛けた。向かった先は、台所の脇の、太い柱の前だった。
「アレン、こっちへおいで。……今年から、我が家でも始めようと思ってね」
フィナの誕生日の日、ウィリアムさんの家で見た、あの柱の儀式。
娘の背丈を、年にひと刻みずつ、家の柱に残していく。
あれを見て以来、父さんはずっとやりたくて仕方がなかったんだよ、とマリアがくすくす笑う。
「はい、アレン。柱にぴったり、背中をつけて……そうそう、上手だよ」
僕が柱を背にまっすぐ立つと、ダリウスの大きな手が僕の頭にそっと乗り、その高さへ、ナイフの先が、すっ、と横一線の刻みを入れた。
そして父は、その刻みの少し下――僕の腰のあたりの高さで、柱の木肌に残る、うっすらと黒い線を指でなぞった。
「見てごらん。これはね、去年の今日、母さんがつけた線だよ。炭でね」
「あら、気づいてたの」
「もちろん。消えないように、僕がこっそり上から蝋を塗っておいたくらいだからね」
マリアが目を丸くし、それから二人で顔を見合わせて笑った。
一歳の誕生日、まだ儀式も何も知らなかった頃、母がただの母親の習い性で、炭のかけらでつけたという印。
父はそれを一年間、黙って守っていたらしい。
ダリウスはその炭の線の高さにも、ナイフで浅く、確かな刻みを入れ直した。
柱に、二本の線が並んだ。
「……ほら。指を広げて、三本と半分。それだけ、アレンは大きくなったんだよ」
下の線と上の線の間に父の無骨な指が差し込まれるのを、僕はじっと見ていた。
指三本半。数字にすればそれだけの、木の柱の上のわずかな隙間。
けれどその隙間には、初雪も、吹雪も、熱を出した夜も、雪うさぎも、石のいらない手も、この一年のぜんぶが、みっちりと詰まっているのだった。
(……伸びること、育つことを、こんなふうに祝ってもらえるのか)
あの白い部屋で、僕の身体の数値は、いつも「悪くならないこと」だけを願われていた。伸びる余白なんて、最初からどこにもなかった。
柱の刻みは、これから毎年、上へ上へと増えていく。この柱は、そういう約束の形をしていた。
僕は小さな指で、真新しい二本目の刻みにそっと触れ、その約束の手触りを、掌に覚え込ませた。
昼が近づくと、我が家はにわかに賑やかになった。
先触れは例によって、ちりん、ちりん、という鉄の鈴の音である。
乾き始めた春の道を、赤毛の姉貴分が先頭を切って駆けてきて、その後ろから金と黒の双子と、母親ふたりが続いた。
今日は僕の誕生日の宴を、三家族合同で開いてくれるのだ。
母たちはそのまま台所へ吸い込まれ、賑やかな支度の音と笑い声が、家の奥から立ちのぼり始めた。
庭に整列した三人娘は、それぞれの流儀で、僕に「贈り物」を差し出した。
最初はリアだった。
彼女は両手を背中に隠したまま、少しもじもじと迷ってから、意を決したように、一輪の花を差し出した。
薄紫色の、小さな野の花。
「……はい。はる、いちばんの、おはな……まえにあげたのは、かれちゃったから……あたらしいの、みつけたの」
――前にあげたの。
その一言で、僕の記憶は一年半前の秋へ飛んだ。収穫祭の前の日、二人きりの散歩道で、彼女が初めて僕にくれた、あの薄紫の一輪。あの花のことを、贈った本人が、ずっと覚えていたのだ。枯れてしまったことまで、気にかけて。
「……ありがと、リア。だいじにする。こんどは、おみずにさして、ながもちさせる」
「……うん。……それがいい」
リアは満足そうに、花がほどけるように笑った。
二番手は、ミアだった。彼女は握りしめた拳を僕の眼前に突き出し、じゃーん、と自分で効果音をつけて、ぱっと開いた。
掌の上には――見覚えのある、灰色の丸い小石。
「げんきになるいし!……をね、きょうから、アレンに、あげる!」
「……かして、じゃなくて?」
「あげる!たんじょうびだから、とくべーつ!」
貸与から、贈与へ。
ミア経済における、最大級の待遇改定である。
あの石はもう革巾着の中で藍色の石と同居して久しいが、今日この瞬間から、正式に僕の物になったらしい。
僕は巾着の紐を解き、二つの石を彼女に見せてから、恭しく仕舞い直した。ミアは「なかよしね!」と、石たちの同棲生活に太鼓判を押した。
そして、最後。
フィナは腰に手を当てたまま、なぜかしばらく、もったいぶって咳払いなどしていたが、やがて背中に隠していたものを、僕の頭上に、ぽすん、と載せた。
ふわり、と草と花の匂いが降ってくる。
頭に手をやると、指先に触れたのは、細い草の茎で丁寧に編まれた輪だった。ところどころに、春一番の小さな花が編み込まれている。
――花冠、だった。
「王さまには、かんむりが、いるでしょ」
フィナは、つん、と顎を上げて言った。
王さま。木剣の武闘会で、僕がいつも座らされる、あの切り株の玉座の役どころだ。
勲章を授けるばかりだった王に、今日、初めて冠が届いたのである。
「フィナちゃんね、いーっぱい、しっぱいしてたよ!おはな、ぐちゃぐちゃーって、なって……」
「ミアっ!!い、いいのよそんなことは!」
無邪気な密告者の暴露により、この冠が一朝一夕の品ではないことが、あっさりと白日の下に晒された。
真っ赤になった職人が密告者を追いかけ回すのを眺めながら、僕は頭の上の冠に、もう一度そっと触れた。
不器用な編み目。
ところどころ、茎の折れた跡。
何度もほどいて、編み直した手つきが、そのまま残っている冠だった。
「……ありがと、フィナ。せかいで、いちばんの、かんむりだよ」
「と、とうぜんでしょ!あたしが作ったんだから!」
午後は、冠を戴いた王の御前で、恒例の武闘大会が執り行われた。
戦績は言うまでもない。ちりんちりんと鈴を鳴らして駆け回る赤毛の剣士が三連覇を果たし、王は本日三個目の小枝の勲章を授与した。
台所からは時折、グレシアさんの「あらあら、今日も王さまはモテモテだこと」という定例の砲撃が飛んできたが、王は聞こえなかったことにした。
ひとしきり遊び疲れた頃、井戸端で水を飲みながら、ナタさんとグレシアさんの立ち話が耳に届いた。
「リリアンさん、いよいよですってね。オーレンさんたら、鍬を持ったまま気もそぞろで、畝がぐにゃぐにゃだって」
「ふふ、あの大男が……ほんとうに、いつ産まれてもおかしくないそうよ。春の子は、育てやすくていいわねえ」
いよいよ、なのだ。
隣村の、まだ見ぬ小さな命。マリアが冬のあいだ縫っていた小さな産着は、とっくに仕上がって、祝いの品の包みの中で出番を待っている。
(……僕の誕生日のすぐ後に、あの子の「はじまりの日」が来るのか)
春という季節は、どうやら、めでたいことを続けて運んでくるらしい。
僕は口の中で、まだ名前のないその子に、小さく「もうすぐだね」と挨拶をした。
日が西に傾き始めた頃、ダリウスが、そっと僕を手招きした。
台所は宴の支度で戦場と化しており、男衆は卓や薪の設営に駆り出されている。その喧騒の隙間で、父は僕の耳元に、内緒話の声で囁いた。
「アレン……父さんからの贈り物はね、物じゃないんだ。ちょっとだけ、父さんと二人で、出かけよう」
「ずるいわよ!あたしも行く!」
地獄耳の姉貴分が即座に参戦を表明したが、ダリウスは慌てず、彼女の前にしゃがんで、目の高さを合わせた。
「ごめんね、フィナちゃん。今日だけは、父さんとアレンの、二人きりにしてくれると嬉しいな……そのかわり!帰ってきたら、ご馳走はフィナちゃんの隣の席で食べるように言っておくから、ね?」
「……む、……むむむ、……し、しかたないわね!とくべつよ!」
交渉成立である。
父の外交手腕に内心で拍手を送りつつ、僕は差し出された大きな手に、自分の手を預けた。
向かった先は、村の北だった。
麦畑のあいだのあぜ道を抜け、緩やかな草の斜面を、ダリウスは僕を肩車に乗せて、ゆっくりと登っていく。
冬のあいだ枯れ色だった斜面には、もう若草が萌え始めていて、一歩ごとに、青い匂いが立った。
丘の頂には、大樹が立っていた。
見上げるほどの、長命の大樹。
大人が何人で手を繋いでも囲みきれないほど太い幹に、深い皺のような裂け目が、幾筋も走っている。
一歳の誕生日、僕は母に抱かれて、この木の下へ来た。
母はあの日、この木に触れながら、村の始まりの話——傷ついた勇者様と、女神様の湖の話をしてくれた。
「ふふ。母さんと来た日のことを、覚えているかい?ここはね、実は父さんの一等席でもあるんだよ。狩りの行き帰りに、時々寄るんだ」
肩車から下ろされ、父の隣に立って、僕は――息をすることを、少しのあいだ忘れた。
眼下に、村の、ぜんぶがあった。
西に傾いた太陽が、世界をまるごと、深い琥珀色に染めている。
整然と畝の走る麦畑。銀色にきらめきながら蛇行する小川。
寄り添うように立ち並ぶ家々の屋根と、そのひとつひとつから立ちのぼる、夕餉の支度の白い煙。
中央の広場、井戸、切り株のある我が家の庭。
豆粒のような人影が、宴の卓を運んでいるのまで見えた。
僕の世界の、すべてが、ひと目の中に収まっていた。
「父さんはね、狩りの行き帰りに、時々ここへ寄るんだ。ここから村を見下ろすとね……ああ、今日も、みんなの煙が上がってるなあって。それだけで、なんだか、ほっとするんだよ」
ダリウスは僕の隣に腰を下ろし、村を眺めたまま、ぽつり、ぽつりと話した。
それから彼は、大きな腕をゆっくりと巡らせて、僕に世界の輪郭を教えてくれた。
「いいかい、アレン。あっちが、南だ」
父の指の先。
村の向こうで森が深くなり、その先に、夕日を受けて紫色に沈む山並みが連なっている。
「ほら、目を凝らしてごらん。峠の切れ目の、ずうっと向こう。……よく晴れた日にはね、地平線のあたりに、ちかりと光るものが見えることがあるんだよ。あれが、ヴェルデンの塔の頭だそうだ。父さんも、光しか見たことがないけどね」
指が、少し西へ振れる。
「それで、あっちの空の下が、隣村。オーレンおじさんと、リリアンおばさんの村だ。歩いて、そうだなあ……アレンのお昼寝、二回ぶんくらいかな。ほら、目を凝らしてごらん……見えるかい? 夕餉の煙が、ぽつん、ぽつんと」
言われて目を細めると、南西の、暮れ始めた空の裾に、本当に――細い煙の筋が、二本、三本、まっすぐに立ちのぼっているのが見えた。
あの煙の下にも、竈があり、食卓があり、もうすぐ生まれる赤ん坊を待つ家がある。
「煙が見えるっていうのはね、いいことなんだよ。あっちの村も、今日もつつがなく夕餉の支度をしてるっていう、合図みたいなものだからね」
最後に、父は身体ごと、北へ向き直った。
そちらには、村も、畑も、煙もなかった。ただ、折り重なる山々の影が、群青に沈む空の下へ、どこまでも、どこまでも続いているだけだった。
「北はね、ずうっと、山だ。人は住んでいない。ずっとずっと向こうには、別の国があるって話だけど……あそこを越えて行った人を、父さんは知らないなあ」
人の世界の温かさと、人のいない世界の静けさとが、この丘の上では、くっきりと二つに分かれて見えた。僕の村は、その境目の、小さな小さな灯りの群れだった。
しばらく、二人で黙って、暮れていく村を眺めた。
広場の隅に、ぽ、と小さなオレンジ色の光が灯る。今夜の火の番の、焚き付けだった。あの小さな火は、雪解けからこっち、一晩も欠かさず灯り続けている。
やがて、ダリウスが、思い出したように口を開いた。
「……なあ、アレン。この村にはね、決まりごとがあるんだよ」
「きまりごと?」
「うん。男の子はね、六つになったら、初めて村のお手伝いをさせてもらえるんだ。『村回り』っていってね。朝、大人と一緒に、畑と、水路と、森の縁をぐるっと見て回る。……それが、半人前の、はじまり。それで十五になったら、一人前だ」
六つ。十五。
父の口から語られる数字は、掛け値なしの、ただの未来の予定だった。
「アレンが六つになったらね、最初の村回りは、父さんと一緒に行こう。あの畑の水路の癖も、森のどこから風が変わるかも、ぜんぶ、父さんが教えてあげるからね。……ふふ。四年も先の話なのに、父さんはもう、今から楽しみで仕方がないんだよ」
僕は、隣に座る父の横顔を見上げた。
夕日を受けたその顔は、四年後の朝の光景を、本当にもう見えているかのような、柔らかな目をしていた。
(……四年後の、約束)
胸の奥が、じん、と痺れた。
前世の僕に、四年後の約束をしてくれた人は、ひとりもいなかった。
誰もが優しく、誰もが慎重で、僕の前で語られる未来は、いつだって「来週の検査」までだった。
四年後なんて、あの部屋では、口にするのも憚られる遠さだった。
いま、僕の隣で、父は当たり前の顔をして、四年後の朝の段取りを話している。楽しみで仕方がない、とまで言って。
年をひとつ重ねるということは、砂が落ちることじゃない。
約束が、増えることだ。
柱の刻みが増えて、花冠が増えて、四年先の朝の約束が増える。それが、この世界の、誕生日だった。
「……うん。やくそく。むらまわり、とうさんと、いく」
「ああ、約束だ……よし、指切りをしようか」
大きな小指と、小さな小指が、夕日の中で絡んだ。
丘を下りる頃には、村のあちこちに、灯りが点り始めていた。肩車の上から振り返ると、僕の家の窓が、ひときわ明るく、あたたかな橙色に光っているのが見えた。あの灯りの下で、みんなが、僕を待っている。
「さ、帰ろう。王さまのお帰りだ……今夜はご馳走だよ」
宴は、灯りと湯気と笑い声で満ちていた。
卓の上には、ナタさん自慢の焼き菓子と、グレシアさんの持ち寄った腸詰め、そしてマリアの、根菜と燻製肉がごろごろ入った特製の煮込みが並んだ。
約束通り、僕の席はフィナの隣に用意されていて、彼女は「とくべつなんだからね」と念を押しながら、自分の皿の腸詰めを一本、僕の皿へ移してくれた。
宴のなかばには、タナー村長が、杖の音と共にふらりと立ち寄った。老人は僕の頭に皺だらけの手を乗せ、深い目でしばらく僕を見下ろしてから、静かに言った。
「二つか……よき二年であった。次の一年にも、よき風の吹くことじゃろう」
それだけを言って、老人は勧められた杯を一杯だけ受け、また杖の音と共に、春の宵へ帰っていった。
ウィリアムさんは、すっかり出来上がった赤ら顔で、僕の丘の話を聞きたがった。
「ほほう、大樹の丘か!いい場所を教わったなあ、アレン……しっかし、二歳かあ。ってことは、あと四年で村回りだろう?早いもんだよなあ。ダリウス、初回は譲らんぞ、俺も付いていくからな」
「はは、順番は守ってくれよ、ウィリアム。最初の朝だけは、父さんの特等席なんだから」
男たちの笑いに、女たちの笑いが重なる。
四年後の朝の同行者は、その場でどんどん増えていき、しまいにはフィナが「あたしも行くに決まってるでしょ!」と参戦して、大人たちを妙な沈黙と笑いの渦に叩き込んだ。
そして、宴の締めくくりに、マリアが奥から、柔らかな布の包みを持ってきた。
「アレン。母さんからの贈り物は、これ」
包みを開くと、中から現れたのは、真新しい春の上着だった。
冬のあいだ紡がれた糸で織られた、若葉のような淡い色。袖を通すと、驚くほど軽くて、あたたかい。
そして、胸元。
心臓の真上のあたりに、小さな小さな刺繍が、ひと針ひと針、丁寧に縫い取られていた。
――耳の長さが、左右で少しだけ違う、一羽のうさぎ。
「ふふ。お父さんの彫ったうさぎさん、母さんも大好きだから。……アレンの胸で、いつも一緒にいられるように、ね」
僕は、胸元のうさぎを、指の腹でそっと撫でた。
枕元の木のうさぎと、胸元の糸のうさぎ。父の刃の跡と、母の針の跡。
ふたつのうさぎに挟まれて、僕はこれから、春を歩いていくのだ。
「……とうさん、かあさん……あのね、アレン……うまれてきて、よかった」
精一杯の語彙で、それだけを言った。
言った瞬間、卓の向こうでウィリアムさんが「ぐっ」と妙な声を漏らし、ナタさんとグレシアさんが同時に目頭を押さえ、ダリウスに至っては顔面の全部が決壊して、僕は父と母の四本の腕に、上着ごと、ぎゅうぎゅうに抱きすくめられた。
少し苦しくて、とてもあたたかい、二歳の夜だった。
宴が果て、客が帰り、家がいつもの静けさを取り戻した夜更け。
僕は寝床の中で、今日一日の戦利品の点呼を取っていた。
枕元には、木のうさぎ。
その隣に、水を張った小さな木杯に挿された、薄紫の野の花。
壁の釘には、乾かすために掛けられた草の花冠。
革巾着の中では、藍色の石と、今日から正式に僕のものになった灰色の小石が、仲良く眠っている。
そして僕の身体は、胸にうさぎの棲む新しい上着に――は、さすがに寝間着に着替えさせられたが、上着は畳まれて、枕のすぐ横で出番を待っていた。
台所からは、後片付けの水音と、母の小さな鼻歌が聞こえてくる。琥珀色の、あの歌だ。
僕は毛布を頭まで被り、胸の前で、小さな両の掌をゆるく重ねた。
(……最後に、ひとつだけ)
目を閉じ、呼吸を深く。聴くように、隣の席へ、そっと呼ぶ。
――とくん。
掌の内側に、小さな熱が、ひとつ灯った。
誰にも見えない。僕にしか感じられない。蝋燭とも呼べないような、ささやかな、僕だけの灯。
(……二歳、おめでとう、僕)
これが、僕の誕生日の蝋燭だった。
二十七年目にして初めて、自分の力で灯した、一本きりの見えない蝋燭。
吹き消す代わりに、僕はその熱を、胸のほうへ、ゆっくりと手繰り寄せて――お腹の真ん中あたりで、静かに、解いた。
じんわりと広がる温もりの中で、今日一日が巡る。
柱に並んだ、二本の刻み。三本半の、指の幅。薄紫の花と、石の贈与と、失敗の跡の残る冠。
丘の上から見た、煙の立ちのぼる僕の世界。南の峠、南西の隣村の細い煙、北の静かな山なみ。そして、夕日の中の指切り。
――六つになったら、父さんと、村回り。
(四年後の約束が、あるんだ。僕には)
来年の誕生日には、柱に三本目の刻みが増える。
その次の年には、四本目。刻みが六本になった年の朝、僕は父と並んで、朝靄の村を歩き出す。
畑の水路の癖と、森の風の変わり目を、教わりながら。
未来の予定を数えることが、こんなにも甘いなんて、僕は今日まで知らなかった。
台所の鼻歌が、遠くなる。
春の夜気は、冬のそれよりずっと丸くて、毛布の中の僕の小さな熱と、よく馴染んだ。
僕は胸元に掌を当てた。
一歳の日にフィナがかけてくれた青い石が、今夜も肌の上で静かに眠っている。
明日からはその隣に、母さんのうさぎも棲みつくのだ。
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