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第三十二話:雪解けの水音、ふたつの温度


 世界の音が、また、変わった。


 目覚めの耳へ最初に届いたのは、風の咆哮でも、綿を詰めたような静寂でもなく――水の音だった。


 ぴちょん、と軒先で雫が落ちる。ひと呼吸おいて、ぴちょん。やがてそれは数えきれない連なりになり、屋根のどこかでは、緩んだ雪の塊がずるりと滑り落ちる、重たい音が響く。少し遠くからは、嵩を増した小川の、途切れることのない流れの音。


 初雪の朝、世界を満たしていたのは「音のない白」だった。吹雪の数日を支配していたのは「白い獣の咆哮」だった。そして今、村を包んでいるのは――雪という長い眠りが水へ還り、低いほうへ、低いほうへと流れ出していく、無数の小さな水音だ。


 冬が、解けはじめていた。


 熱の峠を越えてから、数日。僕の身体はすっかり平常へ戻り、食欲に至っては平常の二割増しという好調ぶりを見せていた。それでも母の「病み上がり管理」は鉄壁で、外出の許可が下りたのは、つい昨日のことである。それも、お日さまの高いあいだだけ、家の周りだけ、汗をかいたらすぐ戻る――という、三重の条件付きだ。


 僕はその限られた自由を、あの懐かしい日課――「領地の点検」に充てた。


 一年近く前、走れるようになったばかりの僕が、震えるような歓喜と共に踏破した、我が家の周回路。あの時は乾いた秋の土だった道は、いま、まるで別の国になっていた。


 日向の雪は姿を消し、その下から現れた地面は、ひと冬ぶんの水をたっぷりと吸って、黒く、深く、粘りつく「泥」と化していた。一歩ごとに、ぐぢゅ、と小さな靴が沈み、引き抜くたびに、みちゃ、と名残惜しげな音を立てる。日陰にはまだ頑固な雪が居座り、泥と、残雪と、水たまりとが、まだら模様の迷路を描いている。


(……なるほど。「雪解け」とは、聞こえこそ美しいが、その実態は「泥の時代」の開幕か)


 それでも僕は、この泥の感触が、嫌いではなかった。靴底を掴んで離さない、この執念深い粘り。これは、大地が目を覚まして、水を飲んでいる感触だ。凍りついて口を閉ざしていた土が、緩み、ほどけ、呼吸を再開した証なのだ。


 ……という僕の詩的な感慨は、その日の夕方、みごとに泥を吸った僕の服一式を前にした母の、深い、深い溜息によって、現実へと引き戻されることとなった。


「アレン。……お母さんね、雪はまだ許せるの。払えば、落ちるから。……でもね、泥は――泥は、落ちないのよ」


 洗濯桶を前にした母の背中には、幼児の謝罪ひとつで償える範囲を超えた哀愁が漂っていて、僕は素直に頭を下げるほかなかった。きっといま、村中の母親が、同じ溜息をついているのだろう。雪解けは、春の便りであると同時に、女衆にとっては洗濯戦争の開戦布告でもあるのだった。


 ウィリアム家の前庭の「せかいいち」も、日ごとに痩せているらしい。様子を見てきた父の報告によれば、四倍あった背丈はもう三倍を切り、赤い襟巻きはナタさんが回収し、足元の番竜も、自慢の背鰭がだいぶ丸くなってきたという。


 それを聞いても、僕の胸は、思ったほど痛まなかった。


(とけたら、また、つくる。……約束、したからな)


 夕日の中で僕の手をむんずと掴んだ、あの冷たくて力の強い手を思い出しながら、僕は泥の乾き待ちの日々を、静かに数えはじめていた。




 見舞い団の「本隊」が我が家へ押し寄せたのは、点検の翌日、よく晴れた昼下がりのことだった。


 先触れは、例によって、音だった。


 ちりん、ちりん、と、泥道に苦戦しながら近づいてくる、鉄の鈴の音。それに、姉妹の言い争うような賑やかな声と、母親たちの笑い声とが重なっている。板窓の外を覗くまでもない。役者が揃いも揃って、泥と格闘しながらこちらへ向かっているのだ。


 戸口では、母とグレシアさん、ナタさんの挨拶が交わされた。熱が下がって数日、うつる心配もなかろうと見極めての、満を持しての訪問であるらしい。


 子供たちは土間で母親たちに靴と裾を検分され、泥の付着量によって選別された。フィナは合格。リアも合格。ミアは――膝から下がみごとな泥色に染まっていて、水たまりは飛べば届くと思ったのだと胸を張り、思っただけで飛べるものですかと母親に抱えられ、土間で応急処置を受ける羽目になった。


 解き放たれた三人娘は、毛布の砦に鎮座する僕を、ぐるりと取り囲んだ。十日ぶりに間近で見る三つの顔は、それぞれの流儀で、僕の顔色を検分した。ミアは僕の頬を両手でむにっと挟み、弾力を確かめて「げんき」と即断した。リアは少し離れた位置から、静かに僕の目の奥を覗き込むようにして、それから、ほっとしたように小さく頷いた。


 フィナはといえば、腰に手を当てて僕の全身をじろじろと眺め回し、ふん、と鼻を鳴らして、心配などこれっぽっちもしていなかったが元気そうで何よりだ、という趣旨のことを、やたらと早口で言った。


 その瞬間だった。土間のほうから、ナタさんののんびりとした声が飛んできたのは。


「あらあ、フィナったら。アレンくんが寝込んでるあいだ、毎日毎日『まだ?まだなおらないの?』って、そわそわそわそわ。しまいには『あたしのせいかも』なんて、泣きそうなお顔で――」


「おかあさん!!」


 フィナの絶叫が、梁を揺らした。


「い、いってない!そんなこと、いってないもん!」


「あら、言ったわよう。ほら、雪合戦のとき、背中に雪を入れたから冷えちゃったのかも、って」


 真っ赤になった娘が母親の口を両手で塞ぎにかかり、母親は叩かれながら心底楽しそうに笑っている。


 この光景には、見覚えがあった。

 収穫祭のウィリアムさんだ。あの一家は父も母も、娘のいちばん柔らかいところを暴露しては笑う才能に、遺伝子の両側から恵まれているらしい。


(雪合戦のせい、って。……あれからひと月近く経ってるんだけどな。律儀なやつめ)


 僕は、あらぬ「責任」を抱え込んでいた姉貴分のために、真実を告げておくことにした。


「フィナ……ちがうよ。ゆき、たのしかった。ねつは、ゆきのせいじゃ、ないよ」


「……っ、あ、あたりまえでしょ!わかってるわよ、そんなこと!」


 まだ赤い顔のまま、フィナはぷいとそっぽを向いた。それから思い出したように懐から布包みを取り出し、僕の膝の上へ、ぽすん、と置いた。


 開くと、焼き菓子が数枚。縁のところどころが、正直に黒く焦げている。ほとんど自分ひとりで作ったのだと、彼女は「てつだって」の部分をわざわざ訂正して言い、焦げたところは食べなくていい、と付け加えた。


 僕は迷わず、いちばん焦げた一枚を選んで、齧った。ほろ苦さの向こうに、蜂蜜と干し木苺の甘さが、ちゃんといた。


「……おいしい。こげてるとこも、おいしいよ」


「……っ、と、とうぜんよ!」


 赤かった顔が、赤いまま、今度は得意げに輝いた。


 続いて進み出たのはミアだった。彼女は固く握りしめていた小さな拳を、僕の眼前で、ぱっと開いた。掌の上には――どこにでもある、灰色の、丸い小石がひとつ。


「はい!げんきになるいし!」


「ミアのたからものなの。これをもってると、げんきになるんだから。アレン、もうげんきだけど、もーっとげんきになるから……かしてあげる!」


 「あげる」ではなく「かしてあげる」のあたりに、ミアなりの厳密な財産管理の思想が窺えた。

 僕はその小石を、両手で恭しく受け取った。ただの小石である。川原にも道端にも、無限に転がっている類の。


 けれど彼女の世界では、これは僕の藍色の石と同格の「たからもの」なのだ。自分のいちばん良いものを、当たり前の顔で差し出してくる、この子供の経済のまぶしさに、僕は少しだけ、目を細めた。


 そして、最後に。


 リアが、小さな包みを、両手で捧げるように差し出した。木の葉を開くと、中には、とろりと琥珀色に光るものが、ほんのひと匙ぶん。


 蜂蜜だった。


「……はちみつ。……たべると、げんきになる、から」


 それだけ言って、彼女は俯いた。


 僕は、一瞬、言葉を失った。この村で、蜂蜜がどれほどの貴重品か。そして何より――それが彼女自身の、いちばんの好物であることを、僕は知っている。収穫祭前の散歩道で、ハチミツのパンが食べたいと語った横顔を。雪の日の午後、蜂蜜ミルクを一口ごとに噛みしめていた、あの小さな幸福の横顔を。


 いちばん好きなものを、切り分けて、持ってくる。三歳の、言葉にされない、まるごとの献身だった。


「……ありがと、リア。……すごく、すごく、うれしい」


 やり取りを見守っていた母が、ぱん、と柔らかく手を打った。それならせっかくだからと鍋にミルクが温められ、リアの蜂蜜が、みんなのぶんの木のカップへ、公平に、とろりと溶かされていく。


 暖炉の前に、五つの頭が並んだ。ふうふうと冷ます息。早速口の周りを白くするミア。大人ぶって、ゆっくりと傾けるフィナ。両手でカップを包み、一口ごとに目を細めるリア。あの雪の日の午後が、そっくりそのまま、そこに再現されていた。


(……前世の見舞いは、年を追うごとに、減っていったっけな)


 甘いミルクを舌に載せたまま、僕は、ぼんやりと思い出していた。


 十歳の入院当初は、教室の半分が来てくれた。


 十二歳では、数人になった。


 十五を過ぎる頃には、枕元に立つのは家族と、義理堅い担任くらいのもので、ベッドの周りは年々、静かに、清潔になっていった。


 誰も悪くない。子供の時間は流れが速くて、動けない一人の場所で、いつまでも足踏みしてはいられないのだ。ただ、静かになっていく枕元で、僕は仕切りカーテンの模様ばかり、詳しくなっていった。


 いまは、どうだ。


 病み上がりの僕の周りは、こんなにも、うるさい。焦げた菓子の弁明と、小石の効能の講釈と、ミルクを吹き冷ます息の音とで、こんなにも、うるさくて――あたたかい。


 僕は焦げ菓子のもう一枚へ手を伸ばしながら、目の奥がじわりと熱くなるのを、蜂蜜の甘さのせいに、しておいた。




 カップが空になった頃、フィナが、はたと膝を打った。


「そうよ、わすれるところだったわ!アレン――しょうぶよ、しょうぶ!まどごしに、やくそくしたでしょ!」


 来た。


 例の、窓越しの宣戦布告である。

 聞けば、元気になったかどうかは勝負をすれば分かる、負けたらまだ病み上がりとして引き続き面倒を見てやる、勝ったら完全復活と認めてやる――という、彼女なりの検診プログラムであるらしい。


 種目は未定。外は泥、家の中で、みんなでできて、病み上がりでもできるもの。

 三人娘が額を寄せ、にらめっこ、ゆびずもう、いきどめくらべ、と候補を挙げては潰していく。


 その協議を眺めながら――僕の頭の中では、ひとつの設計図が、音もなく起動していた。


(……この流れ。使えるんじゃないか)


 あの雪の日から、胸の隅に置き続けてきた宿題。リアと、石と、「あったかい」の謎。熱の夜にその答えの入り口へ触れてから、確かめたい欲は、もう十分に熟している。だが、三歳の女の子を呼び出して実験台に据えるなど論外だ――友達だろう、と自分に釘を刺したのは、ほかならぬ僕自身である。


 けれど。全員が笑って参加する、公平な「遊び」の形なら。誰の尊厳も損なわず、僕の帳面だけが静かに埋まる、その形なら。


 僕は協議の輪へ、小さな手を挙げた。


「あのね。……アレン、かんがえた。『あったかいの、どっち』って、しょうぶ」


 ここに、僕のたからものの石がある。これと、僕の手と、どっちがどれだけあったかいか、順番にさわって、いちばんちゃんと分かった人が勝ち――我ながら、勝敗基準の曖昧きわまる競技である。


 だが「たからものの石に触れる」という特別感と、「さわって当てる」という手軽さが、幼児たちの琴線には触れたらしい。ミアが真っ先に挙手し、フィナも受けて立つと腕を組んだ。


 僕は革巾着から藍色の石を取り出し、板の間へ置いた。朝から巾着で眠っていた石は、部屋の空気より少し冷たいくらいの、ただの鉱物の温度をしている。


 そして――僕は、胸の内側で、静かに「素手の火」を灯した。


 外へは、何も出さない。

 掌の内で、ごくごく薄く、あの拍動を息づかせておくだけ。物理的な体温は、何ひとつ変わらない。変わらないはずのものを、彼女が「読む」のかどうか。それが、今日の検証の芯だった。


 一番手は、ミアだった。右手で石を握り、左手で僕の手を握り、目をぎゅっとつぶって唸ること数秒。


「わかった!いしは、つめたい!アレンのては……ふつう!ふつうの、あったかさ!」


 物理的に、百点満点の解答である。対照群その一、異常なし。


 二番手のフィナは、勝負師の顔で長考の末、石は冷たい、アレンの手は普通より少し温かい、と妥当な判定を下した。

 そしてその後、勝負の趣旨を斜め上へ発展させ、全員の手の温かさを比べるべきだと主張して、その場の五人の手を残らず握って回った。結果、自称・最も温かい手の持ち主となった彼女は、高らかに宣言した。


「やっぱりね。いちばんあったかいのは、あたし。……つまり、いちばんつよいのも、あたしってことよ」


 温度と強さの因果が彼女の中でどう繋がっているのかは、誰にも分からなかった。分からなかったが、誰も反論しなかった。世界はときどき、フィナの理屈で回ることを許すのである。


 ついでに、と話の流れで、ミアの「げんきになるいし」も判定の俎上に載せられた。


 ミアは自信満々だったが、判定は全員一致で「つめたい」。

 当のリアも、両手で包んでから、こちらは普通の冷たさ、と首を振った。ミアは一瞬しょんぼりし、すぐに「ミアのいしは、いま、おひるねしてるの」という新学説で自尊心を回収した。


(……対照、取れたな。「石なら何でも温かい」わけじゃない。彼女が拾うのは、あの石と――)


 そして、三番手。


 リアが、膝を揃えて、僕の正面に座った。


 彼女は、他の二人のように勢いよく掴んだりはしなかった。まず藍色の石を、両の掌で、そっと包む。あの雪の日と、同じ仕草で。卵か、眠っている小さな生き物を包むように。


 数秒の、静けさ。


「……あったかい」


 ぽつり、と。


 ミアが「えー」と笑い、フィナが「またそれ?」と首を捻る。


 あの日と同じ反応、あの日と同じ証言。石は、物理的には冷たいままだ。

 僕の指が、それを知っている。けれどリアは少しも揺らがず、ただ不思議そうに、掌の中の石を見つめていた。


 それから彼女は、僕の差し出した右手を――薄い火の息づく、その手を――小さな両手で包んだ。


 漆黒の瞳が、ゆっくりと、大きくなった。こてん、と、いつもの角度に小首がかしぐ。


「……アレンのての、ほうが……もっと、あったかい」


 一拍おいて、彼女は言葉を探した。三歳の語彙の棚から、いちばん近いものを、一生懸命に選び出すようにして。


「……あのね。いしとね……おんなじ、あったかさ、なの。……おんなじあったかさの……おっきい、ほう」


 ――どく、と、心臓が大きくひとつ跳ねた。


 同じ、温かさ。冷たい石と、温い手が。


 物理の温度なら、あり得ない表現だ。


 ミアとフィナは正しく言い分けた。冷たい石、普通の手、と。なのにリアは、二つを「同じ」の物差しの上へ載せた。

 冷たい鉱物と温い皮膚とを貫いて流れる、同じ種類の「何か」を、彼女は読んでいる。そして僕を、その「おっきいほう」――源のほうだと、言い当てている。


(……仮説、強化どころじゃない。これは、もう――)


 乾いた喉で、僕は、最後の一手を指した。


「……リア。もういっかい、いい?……こんどは、めを、つぶってて」


 こくり、と素直な頷き。瞼が閉じられる。小さな両手は、僕の右手を包んだまま。


 僕は――内側の火を、消した。


 それだけではない。灯した火を消し、さらに、いつも呼吸のように続いているらしい薄い巡りまでも、意識の底へ、静かに、静かに沈めていく。水面の波をひとつ残らず凪がせるように。石も握らず、火も灯さず、巡りも潜めた――ただの一歳児の、ただの右手に、僕は、なった。


 三つ数えるほどの、間。


 閉じられていたリアの瞼が、ふ、と開いた。彼女は繋いだままの手を見下ろし、それから僕の顔を見た。漆黒の瞳が、戸惑うように二度、瞬く。


「……あれ?」


 小さな、小さな声だった。


「……いま……ちょっと、とおく、なった……?」


 背筋を、氷の指がすうっと撫でた。


 遠く、なった。手は繋いだままだ。物理的な距離は一分いちぶも動いていない。体温も変わらない。変わったのは、ただひとつ。僕が内側で沈めた、あの巡りだけ。


 それを、この子は――「とおくなった」と、言った。


(……確定だ。偶然でも、思い込みでもない。感じている。この子は、はっきりと、感じ取っている)


 僕の何を、とまでは、彼女自身も分かっていない。それは続く様子で知れた。リアは自分の掌と僕の手とを見比べ、ふるふると小さく首を振って、それから困ったように眉を下げて、笑ったのだ。


「……へんなの。リア、へんなこと、いってるよね。……あったかさが、とおくなるわけ、ないのに」


 自分の感じたものに、名前がない。物差しがない。

 だから彼女は、世界のほうではなく、自分の知覚のほうを「へんなの」と笑って、棚の上へ置いてしまう。アンテナだけが、生まれつき、まっすぐに立っている。何を受信しているのかは、誰も――本人すらも、知らないままに。


「なーに?とおくって、なあに?リア、まけたの?」


 ミアが身を乗り出し、フィナも判定を求めて詰め寄ってきて、張り詰めていた空気は、日常の色へと引き戻された。


 僕は慌てて内側の巡りを元へ戻し――戻した瞬間、リアが、あ、という顔で繋いだ手を見下ろしたのを、僕は、見逃さなかった――精一杯の無邪気な声で、場を畳みにかかった。


「……リアの、かち!いちばん、いーっぱい、あったかいの、みつけたから!」


「ええーっ!?なんでよ!」


 フィナの猛抗議と、ミアの順位確認要求とで、勝負の後始末はしばらく紛糾した。

 最終的に、フィナが「てのあったかさ部門」優勝、ミアが「はやおし部門」優勝、リアが総合優勝という全員表彰の大団円で決着し、表彰式と称して白湯がもう一杯ずつ振る舞われた。


 その喧騒の中心で笑いながら、僕はひとり、胸の内の帳面へ、今日の記録を刻んでいた。


(検証、二回目。藍色の石――残滓か共鳴か、いずれにせよ「僕と同種の何か」を保持。ただの小石――反応なし。リア――石のそれと、僕自身のそれとを、同系のものとして知覚。巡りの停止を、接触したまま「遠くなった」と表現。対照群二名、いずれも知覚なし。……結論。彼女の感覚は、実在する)


 そして、帳面の余白に、記録ではない何かが、ぽつりと滲むのも感じていた。


(……この子は、これから先も、時々ああやって、「へんなの」って自分の感覚を笑うんだろうか。誰にも、名前を教えてもらえないまま)


 僕は、知っている側だ。彼女の感じているものが気のせいではないと知っている、たぶんこの村でただ一人の人間。

 その僕が、知らんぷりの仮面の内側から、彼女の戸惑いを観察している。検証の手続きとしては、正しい。正しいが――この、胸の底の座りの悪さは、いったい何なのだろうな。


 答えの出ない問いは、いつもの頭の棚の、しかし今度は、少し取り出しやすい段へ載せておくことにした。




 帰り支度の頃、小さな儀式が、ひとつ執り行われた。


 僕が藍色の石を革巾着へ仕舞うのを、ミアが横から、じっと見ていたのだ。そして彼女は、僕の掌に残っていた「げんきになるいし」を、びしりと指差した。


「あ!それも、いっしょに、いれるの!たからものはね、いっしょにいれとくと――なかよしに、なるんだから!」


 たからものは、一緒に入れておくと、なかよしになる。ミア理論である。反論の余地はなく、反論する気も、僕にはなかった。


 言われるがまま、灰色の小石を、藍色の石の隣へ、ころんと落とす。巾着の中で、こつ、と小さな音がして、二つの石が肩を並べた。


 藍色の石。ミアの小石。そして枕元には、木のうさぎ。


(……なんだか、増えてきたな。僕の「たからもの」も)


 紐を結び直しながら、ふと気づく。この小さな革袋は、いつのまにか、ただの石入れではなくなっている。父が森で見つけた石と、友達が貸してくれた石。この村の、誰かの手から僕の手へ渡ってきたものたちの、小さな小さな器。


 掌に載せると、ずしり、とした。悪くない。むしろ、とても、いい重さだった。


 帰り際、グレシアさんは例によって、僕にだけ聞こえる声量でひと言多い餞別――今日も総合優勝をかっさらわれて、罪な男だこと、云々――を寄越し、僕は精一杯の無垢な笑顔でそれを受け流した。その顔よその顔、と豪快に笑う声が、ちりん、ちりん、という鈴の音と一緒に、泥道の向こうへ遠ざかっていった。




 子供たちが表彰式の余韻で騒いでいたあいだ、台所のほうでは、母親たちの「窓」が開いていた。女三人の話は湯気のように次々と立ちのぼり、僕は毛布の砦から、聞くともなしにその断片を拾っていた。


 最初に立ちのぼったのは、春いちばんの明るい話題だった。リリアンさんの産み月が、いよいよ近いらしい。お腹はもう抱えるようにして歩くほどで、オーレンさんは仕事がまるで手につかない有様だという。母が針仕事の籠から、縫いかけの小さな肌着――産着だ――を取り出してみせると、女たちの声が、いっせいに柔らかくほどけた。


「ほんとうに、いい季節に生まれてくるわねえ。……ふふ、アレンのときの型紙、まだ取ってあったのよ」


 母の声は、さっきの蜂蜜ミルクよりも、甘かった。長く待たれた子。雪解けと一緒にやってくる、新しい命。台所の窓のあたりだけ、ひと足早く春が来ているようだった。


 次に立ちのぼった湯気は、少しだけ色が違った。塩壺の話である。ナタさんの家も、グレシアさんの家も、底が見え始めているらしい。


 例年なら雪解けと前後して顔を見せる行商が、今年はまだ峠を越えてこない。

 秋の爺さんの言っていた関所とやらのせいかしらね、と誰かが言い、ま、慌てるほどの残りじゃなし、と誰かが受けて、湯気は次の話題へと流れていった。


(……行商、まだ来ないのか)


 僕は頭の隅の棚から、二月の宴の夜に仕舞った札を、指先でひと撫でした。峠の、関所。遅れる、荷。札は、まだ、ただの札だ。裏返る気配はない。……棚へ、戻す。


 そして、三つ目。明後日に迫った、男衆の森の初見回りの段取りだった。


 雪解けの初回――冬のあいだに傷んだ罠の確認と、獣道の様子見――を、今年は各自ばらばらではなく、村の男衆全員が揃って行くことに決まったのだという。


 言い出したのはウィリアムさんで、理由は、みんなで行けば早く済むし、ついでに雪で倒れた木の始末もできるから。


 あの人にしてはまともな提案よねえ、とナタさんが笑い、うちのも道具の手入れを始めてたわ、とグレシアさんが応じる。母たちの声色に、翳りはひとつもない。合理的で働き者の、いつもの村の、いつもの段取り話だ。


 だから――それに気づいたのは、たぶん、僕だけだった。


 土間の隅で、明後日に使う縄を検めていた父の手が、話題が見回りに触れた一拍のあいだだけ、止まったのを。その視線が、すっ、と窓の外へ――東の森の方角へ流れて、また何事もなかったかのように縄へ戻ったのを。


 冬のあいだじゅう、静かすぎた森。空のままだった罠。あの晩、シチューの湯気の向こうで父が口にした、小さな引っ掛かり。


(……父さん。あなたのその一瞬は、「早く済むから」じゃ、ないでしょう)


 男たちはきっと、言葉で申し合わせてなどいない。

 ただ、なんとなく、今年は揃って行くか――という空気だけが、冬のあいだに、それぞれの家の炉端で、静かに醸されたのだ。


 理由を言葉にしないまま、備えの形だけを、先に整えておく。大人の、そして森と生きる者たちの、流儀なのだろう。


 不安、と呼ぶには、まだあまりに淡い。ただ、雪の下から現れた泥のように、冬のあいだ見えなかったものの輪郭が、少しずつ地表へ滲み出してきている――そんな感触だけが、蜂蜜の甘さの残る舌の奥に、ほんのわずか、苦味のように残った。




 夜。夕餉が済んで、家に夜の気配が満ちる頃。


 ダリウスは、暖炉の前で、弓の手入れをしていた。


 いつもの、冬からの日課の続き。そのはずだった。けれど今夜の父の手つきは、いつもより、ほんの少しだけ丁寧だった。弦を外し、張りを確かめ、弓幹へ脂を薄く延ばし、木目に沿って布で磨き上げる。研ぎ直された矢尻がひとつずつ検められ、矢筒へ、こと、こと、と納められていく。


 火影に照らされた父の横顔は、昼間の親馬鹿の面影をきれいに畳んだ、静かな猟師の顔をしていた。僕の好きな、あの横顔だ。


 好きな横顔の、はずだった。なのに今夜に限って、僕はそこから目が離せなかった。磨かれる弓。検められる矢。明後日、森へ持っていかれる道具たち。母たちの明るい声と、父の止まった一拍と、静かすぎた冬の森とが、頭の中で、ゆるく、意味も結ばないまま、繋がっては、ほどける。


 理由なんて、なかった。理屈も、立たなかった。ただ、口が、勝手に動いた。


「……とうさん。おもり、いくとき……きをつけて、ね」


 父は、きょとんと目を丸くした。それから、ふ、と相好を崩し、弓を置いた大きな手で、僕の頭をくしゃりと撫でた。


「はは、なんだなんだ。見回りは明後日だぞ?気の早いやつだなあ」


 大丈夫さ、と父は続けた。父さんは、じいちゃん仕込みの「正しく怖がる」猟師だからな。それに今年はみんな一緒だ。ウィリアムもバルカもいる。あんな頼もしい面子で行く見回りなんて、もう遠足みたいなもんさ――と、笑いながら。


 その笑顔はいつも通り太陽のようで、僕の口をついて出た小さな不安は、その光の中で、あっけなく輪郭を失った。


「……うん。……えんそくなら、おみやげは?」


「はは、欲張り屋さんめ。よし――何か、いい木の枝でも見繕ってきてあげるよ。剣ごっこができるような、真っ直ぐなやつをね」


 僕は頷いて、母に促されるまま寝床へ潜り込んだ。木のうさぎの丸い背中を撫で、ふたつの石が入って少しだけ重くなった巾着の感触を、掌で確かめる。


 板戸の向こうでは、夜になっても、水音が絶えなかった。ぴちょん、ぴちょん、と軒の雫。とうとうと流れる小川。世界中の雪が水になって、低いほうへ、低いほうへと急いでいる。


(……雪解けの水音は、春の足音だ)


 眠りへ落ちていく意識の縁で、僕はぼんやりと思った。


 新しい命が、生まれてくる。行商が、峠を越えてくる。泥は乾いて道になり、溶けた竜は、また作ればいい。水音の向こうには、そういう明るいものばかりが並んでいる、はずだった。


(……けれど。雪が解けるということは)


 まどろみの底で、思考の最後のひと欠片が、ぽつりと呟いた。


(雪の下に隠れていたものが――ぜんぶ、姿を現すということでも、あるんだよな)


 泥も。落ち葉も。折れた枝も。冬のあいだに森の奥へ積もった、僕たちのまだ知らない、何もかもも。


 その呟きがどこへ落ちたのかを見届ける前に、僕の意識は、絶え間ない水音に運ばれて、春へ向かう夜の深いところへと、沈んでいった。


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