第三十一話:小さな熱と、木の天井
異変は、夜明け前の、僕だけの時間の中で始まった。
いつものように、家族の誰よりも早く目を覚ます。暖炉の熾火の微かな赤。両親の規則正しい寝息。毛布の中で身体を丸め、胸の前で小さな掌を重ね、目を閉じる。
ここ十日ほどで、「素手の火」はすっかり手に馴染んでいた。十を数える間に灯り、二十秒あまり保つ。成功率は、十のうち九を超えている。朝のこの一勝負は、もはや修行というより、世界への目覚めの挨拶に近いものになりつつあった。
――そのはずだった。
(……あれ?)
灯らない。
正確には、一度だけ、灯りかけた。とくん、と微かな兆しが芽生え――けれどそれは、湿った薪に落ちた火花のように、根付く前にじゅっと掻き消えた。二度目は、兆しすら来なかった。
(……おかしいな。昨日まで、あんなに素直だったのに)
集中が浅いのか。僕は呼吸を整え直し、いつもより深く、丁寧に、記憶の底からあの拍動を手繰り寄せる。速さ。深さ。温度のきめ。手順に間違いはない。間違いはないはずなのに、意識そのものが、なぜだか水に溶いた絵の具のように薄く滲んで、像を結んでくれないのだ。
こめかみの奥が、鈍く重い。瞼の裏が、妙に熱い。
(……寝不足、かな。それとも、少し根を詰めすぎたか)
思えば、フィナの誕生日からこっち、僕は「熱の移動」という新しい課題に浮かれて、夜の勝負の回数を増やしすぎていたかもしれない。未発達な脳への負荷は慎重の上にも慎重に――自分で立てた戒めを、自分で緩めていた自覚は、ある。
僕はその朝、修行を早々に切り上げた。これも、いつもならしないことだ。負けたまま布団に戻るのは癪だが、感度の落ちた日に無理を重ねても、悪い癖を刻むだけだろう。
(今日は、休息日。……そういう日も、あるさ)
毛布を引き上げ、目を閉じる。身体が、いつになく重かった。まるで毛布そのものが、ひと晩のうちに水を吸ったように。
その重さの正体を、この時の僕は、まだ疑いもしていなかった。
二度寝から覚めた朝餉の席で、違和感は、輪郭を持ち始めた。
マリアのよそってくれた麦の粥が、進まないのだ。
湯気の立つ椀。いつもなら真っ先に匙が伸びる、豆と根菜の欠片。それが今朝は、匂いを嗅いだだけで、胃の入り口がそっと扉を閉めるのが分かった。二口、三口を義理のように運んで、匙が止まる。
「あら……アレン、今朝は小食さんね?」
「……おなか、いっぱい」
嘘ではなかった。本当に、空いていないのだ。あれほど信頼してきた僕の食欲が、今朝に限って、うんともすんとも言わない。
食後、僕は積み木の前に座った。座ったが、積む気が起きない。暖炉はいつも通り燃えているのに、背中のあたりが、すうすうと薄ら寒い。部屋の空気の、僕の周りにだけ、冷たい水が薄く張っているような感じがする。
(……寒気?いや、まさか)
二十五年分の知識が、頭の中で鑑別の表をめくり始める。食欲不振。倦怠感。悪寒。集中力の低下。そして、朝の「感度の鈍り」。……役者は、揃いすぎていた。
それでも僕は、認めたくなかった。立ち上がり、なんでもない顔で歩いてみせようとした。
三歩目で、床が、ぐらりと傾いだ。
「アレン!?」
倒れはしなかった。壁に手をついて、堪えた。けれど、洗い物の手を止めて飛んできた母の掌が額に触れた瞬間、その表情が、すっと変わった。
「……熱いわ。アレン、あなた、お熱がある」
ひやりとした手が、確かめるように額へ二度、置き直される。それから首筋、頬。手際は素早く、静かだった。いつから、しんどかったの、と問う声に、僕は「ちょっとだけ。……へいき、だよ?」と返してみたが、
「平気なお顔じゃ、ありませんよ」
と、ものの見事に一蹴された。母は僕をひょいと抱き上げ、有無を言わさず寝床へ運び、着るものを一枚調整して毛布を整えると、薪割りに出ていたダリウスを呼びに、足早に土間へ向かった。
その背中を目で追いながら、僕は毛布の中で、自分の鼓動を聴いていた。とく、とく、と、いつもより少しだけ速い、熱を帯びた鼓動。
(……落ち着け。ただの発熱だ。幼児の発熱なんて日常茶飯事もいいところだろう。免疫の獲得過程。成長の通過儀礼。数日寝ていれば――)
理性は、正しく喋っていた。医学的に、統計的に、何ひとつ間違っていない診立てを、すらすらと。
なのに。
その理性の足元で、もっと古い、もっと深いところにある何かが、小さく震えていた。
白い天井。腕を引く管。規則正しい電子音。消毒液の匂い。熱が上がるたび、外出の許可が、廊下の散歩が、窓を開ける自由が、ひとつずつ回収されていった、あの十五年。十二の歳の発熱は、ひと月僕をベッドに縫い付けた。あの部屋で「熱が出た」という言葉は、いつだって、何かを失う合図だった。
――また、なのか。
声にならない声が、胸の底で、そう呟くのが聞こえた。
この身体も、いつか。せっかく授かったこの健康も、あの時のように、指の間から――。
(……やめろ)
僕は奥歯を噛んで、その声に蓋をした。違う。これはあれとは違う。ただの風邪だ。誰にでもある、なんでもない、ただの。
蓋の下で、声は、まだ小さく震えていた。
その日から数日、我が家は「小さな野戦病院」になった。
指揮官は、マリアだった。
彼女の看病は、静かで、無駄がなく、驚くほど的確だった。桶に汲んだ冷たい水で布を絞り、僕の額へ置く。温くなれば、取り替える。汗をかけば身体を拭い、乾いた肌着に替える。水気は白湯を匙で少しずつ。無理に食べさせず、けれど欠かさず、薄い麦湯やすり潰した豆の汁を、僕の食欲の扉がわずかに開く一瞬を見計らって差し出してくる。
夏の間に摘んで軒下に干してあった薬草――僕の知らない、乾いた草の束――を煎じた、苦くて青い匂いのする汁も、日に何度か匙で運ばれてきた。良薬は口に苦し。前世でも今世でも、その理不尽だけは万国共通であるらしい。
驚いたのは、その一連の手つきに、迷いがひとつもないことだった。布の絞り加減も、部屋の温めすぎを嫌う塩梅も、煎じ汁の濃さも。
訊けば、母もまた、その母から、そのまた母から、こうして看取られて育ったのだという。医術ではない。医術ではないが、何百人の子供の熱を見送ってきた、村の女たちの手の記憶が、母の指先には確かに宿っていた。
一方、我が家のもう一人の大人はといえば。
「マリア!アレンの毛布、足りてるか?俺の熊のやつ、掛けてやろう」
「ダリウス、それはもう三枚目です。アレンが潰れます」
父は、完全に、取り乱していた。
村一番の猟師。吹雪の中でも道を見失わず、獣の気配を半里先から読むという男が、息子の発熱ひとつで、右往左往の見本市を開いていた。五分おきに寝床を覗いては額へ手を当て(その大きな掌が冷たくて、実のところ少し気持ちよかった)、まだ熱いか、と眉を八の字にする。水を汲めば桶を溢れさせ、薪をくべれば入れすぎて、暑くなりすぎますと窘められる。夕餉の支度を代わろうとして、母の三倍の時間をかけて、二割ほど焦げた豆湯を完成させる。
極めつけは、二日目の夜だった。
熱がいちばん高くなった僕の唸り声に、父は、ついに外套を掴んで立ち上がったのだ。
「……タナーのじいさんとこへ行ってくる。ほかにも効く草を、知ってるかもしれないし…!」
「今は真夜中ですよ。それに、外は雪の上が凍っています。そんな夜道を……」
「アレンが苦しんでるんだよ…!」
押し殺した、けれど張り詰めた父の声。マリアは、怒らなかった。夫の外套の袖に、そっと手を添えただけだった。
「……ええ。だから、あなたが夜道で転んで動けなくなったら――この子は、誰が抱くの」
沈黙が、落ちた。
やがて父は、長く息を吐いて、外套を椅子の背へ戻した。夜が明けたら行く、夜明けと同時に行くからな、と、自分に言い聞かせるように二度繰り返して。
そして、宣言通り。三日目の朝、父は白み始めた空の下を村の東へ走り、乾いた別の草の束と、老人の言葉とを持ち帰ってきた。
――慌てるでない。子の熱は、身体が育とうとしておる証じゃ。水を切らさず、温めすぎず、待ってやれ。それでほとんどの熱は、向こうから暇乞いをして出ていく。
タナーの言葉を母から又聞きした父は、ようやく少しだけ、椅子に腰の落ち着く時間が長くなった。
半分溶けた意識の中で、僕はそれらのやり取りを、遠い波音のように聞いていた。
そして、熱で緩んだ頭の隅で、ぼんやりと、ひとつのことを考えていた。
(……この村には、医者が、いないんだな)
当たり前の事実だった。知識としては、とうに知っていた。けれど、この立場で――熱の内側から見上げて初めて、その輪郭が肌で分かった。
薬屋もない。診療所もない。夜中に鳴らせば誰かが駆けつけてくれる鐘も、呼べば来てくれる番号もない。あるのは、母の手と、夏に干した草の束と、隣家の知恵と、夜明けを待って走る父の足。それだけだ。
それで、足りている。現に僕の熱は、母の看病と老人の知恵とで、ちゃんと峠へ向かっている。この村の二百年は、きっとずっと、こうやって回ってきたのだ。手と、草と、隣人。それで足りる程度のことしか、この村には、起きてこなかったから。
(……それで足りないほどのことは、起きなかったから、か)
熱の靄の中で、その考えは、それ以上どこへも進まずに、とろりと溶けた。代わりに浮かんだのは、額の布の冷たさと、部屋の隅で薬草を煎じる母の背中と、椅子の上で眠るまいと目を擦る、父の大きな影だった。
足りている。いまは、それで、十分だった。
――ちりん。
うつらうつらの狭間、遠くで、澄んだ音がした気がした。
凍った午後の空気を渡ってくる、聞き覚えのある鉄の鈴の音。それから、戸口で母と誰かの、短いやり取り。子供の声が精一杯ひそめられて、それでも隠しきれずに、隙間から漏れてくる。
「……じゃあ、アレンに、いっといて……はやく、なおしなさいよね、って」
足音が、雪を踏んで遠ざかっていく。ちりん、ちりん、と、律儀に鳴りながら。
(……見舞いに来て、追い返されたな、フィナ)
うつるといけないから、と母が優しく断ったのだろう。ドラゴンを見にいくと言っていたから、そのついでか。……いや、あの子のことだ。ついでの顔をした、本命かもしれない。
熱の中で、僕は少しだけ笑った。笑ったつもりだった。実際に口元が動いたかどうかは、分からない。
その晩、眠りに落ちる寸前。糸車の側で夜なべをする母が、ごく小さく、あの琥珀色の旋律を口ずさんでいるのが聞こえた。父の歌。この家の、子守唄。旋律は熱の靄の向こうで揺れて、僕を柔らかな眠りの入り口まで、手を引いて連れていってくれた。
その夜が、熱の峠だった。
夢と現の境目が、煮崩れた粥のように溶けていた。
瞼を閉じているのか開けているのかも定かでない視界の中で、見慣れた木の天井が、ふ、と白く塗り替わる。梁の影が、蛍光灯の枠に。暖炉の爆ぜる音が、規則正しい電子音に。乾いた薪の匂いの向こうから、つんと、消毒液の――。
(……ちがう。ここは、あの部屋じゃない)
分かっている。分かっているのに、熱に炙られた脳は、二つの部屋を勝手に重ね焼きにして、僕をあの白の中へ引き戻そうとする。心臓が嫌な速さで鳴る。息が浅い。指先が冷たい。身体のあちこちの関節が軋むように鈍く痛んで、その痛みの感じまでもが、あの頃の――。
怖い、と思った。
二十五歳の理屈も、転生の奇跡も、この瞬間には何の防壁にもならなかった。ただ、怖かった。この温かい世界が、瞬きひとつで白に戻ってしまいそうで。
だから僕は、縋ったのだと思う。
暗闇で溺れる者が浮木を掴むように――僕は、あの「音」へ手を伸ばした。何百回、何千回と聴き込んで、もう身体の一部になっている、あの拍動の記憶に。
――とくん。
熱は、拍子抜けするほど、あっさりと灯った。
いつもの手順も、数える呼吸もいらなかった。まるで、すぐそこで出番を待っていてくれたかのように。灯ったそれは、熱に浮かされた掌の中で、外側の高熱とはまるで別の――澄んだ、芯のあるぬくもりとして息づき始めた。
(……ああ。……いてくれたか)
安堵で、意識の強張りが、ほどけた。
そして――ほどけた、その瞬間だった。
熱が、動いた。
掌に灯っていた拍動が、するり、と手首へ。まるで、緩んだ僕の意識が漂うのに、ついてくるように。
(……え……?)
驚きは、熱の靄に半分濁って、鋭さを持たなかった。持たなかったことが、幸いした。もし万全の頭で驚いていたら、僕はきっと反射的にそれを「掴もう」として、逃がしていただろう。
朦朧の底で、僕はただ、漂う意識の置き場所を、ゆっくり、ゆっくりと滑らせていった。手首から、前腕へ。肘の内側へ。二の腕へ。肩へ。
熱は、ついてきた。
意識という灯り手の掲げる蝋燭のように、僕の注意が留まる場所で灯り、移ろえば、伴って流れる。そしてその通り道――軋んでいた関節、強張っていた筋のひとつひとつが、温い湯に浸したように、ふ、と緩んでいくのが分かった。痛みが消えるのではない。固く絡まっていた糸が、ひと結びぶんだけ、ほどける。そういう緩み方だった。
肩から、胸へ。
胸の真ん中に、熱が、とん、と灯った時。
僕は、ふいに、思い出していた。暖炉の前で石を包み、こてんと小首をかしげた、あの漆黒の瞳の少女の言葉を。
――おなかのなかに、ちいさいおひさまが、いるみたい。
(……そうか。……これ、か)
これのことだったのか、リア。
胸の内側で息づく、小さな小さな太陽。外側の高熱とはちがう、澄んだ、確かな、僕自身のぬくもり。白い部屋の幻は、いつの間にか、遠くへ引いていた。この小さな太陽のある場所は、あの部屋ではない。ここだ。樫の梁の下、家族の寝息の届く、ここだ。
僕は、その灯りを胸に抱いたまま、今度こそ、深い眠りへ落ちていった。
……夜半、一度だけ、浅く目が覚めた。
額の布を替える、母の気配だった。それから母は、汗で乱れた寝床の隅へ押しやられていた革巾着を手に取り、僕の枕のすぐ側へ、そっと置き直した。お守りにね、と囁くような声がして、乾いた唇に白湯の匙が触れる。
朦朧と伸ばした指先が、巾着越しに、石の輪郭へ触れた。
――ほのかに、温かい、気がした。
命じても、念じてもいないのに。母の掌のぬくもりが移っただけか。それとも、眠りの中の僕から、何かが漏れていたのか。
確かめる力は、もう残っていなかった。温かい気のする石と、胸の小さな太陽と、母の手の気配。三つのぬくもりに埋もれて、僕の意識は、再び柔らかな闇へ沈んだ。
目が覚めた時、世界は、軽かった。
まず、それが分かった。毛布の重さが、ただの毛布の重さに戻っている。瞼の裏の熱が、引いている。身体のあちこちに散っていた鈍い軋みが嘘のように消えて、代わりに、汗をたっぷり吸った肌着の、ひんやりとした感触があった。
峠は、越えたのだ。
僕はゆっくりと、目を開けた。
――木の、天井だった。
太い樫の梁。長年の煙に燻されて飴色になった木肌。うねる木目。節の渦。祖父の代からこの家を支えてきた、頑固で、温かい、木の天井。
白では、なかった。
視線を横へ滑らせて、僕は、動けなくなった。
寝床のすぐ脇。マリアが、床の敷物の上に座り込んだまま、僕の左手を両の掌で包んで、眠っていた。座ったままの、無理な姿勢で。亜麻色の髪が数筋、疲れの滲む頬に貼りついている。その向こう、壁際ではダリウスが腕を組んで座り込み、こちらも深く眠っていた。膝の上には、僕に掛けようとして没収された熊の毛皮が、くしゃりと丸まって載っている。
夜通し、ここにいたのだ。二人とも。
(…………)
あの白い部屋では、消灯の鐘が鳴れば、誰もがいなくなった。夜は、巡回の足音と、電子音と、自分の呼吸の音だけのものだった。熱で眠れない夜に握るものといえば、ナースコールの冷たい釦だけで、それを押すことすら、僕は途中から、しなくなった。
いま、僕の左手は、母の両手の中にある。
温かかった。汗ばんで、少し湿って、水仕事と看病とで荒れた、母の手。
涙は、断りもなく零れた。声は、立てなかった。ただ、飴色の梁を見上げたまま、目尻から耳へ、熱いものが伝い落ちていくのに任せた。悲しさなど、ひとかけらもなかった。ただ――目覚めて最初に見る世界が木の天井で、手が誰かの手の中にある。それだけのことが、どうしようもなく、過分だった。
やがて、僕の指のかすかな動きに、母が目を覚ました。
「……アレン?」
覗き込んだ手が、額に触れる。一拍。その顔が、朝日が差すように、ほどけた。
「……下がってる。ああ、よかった……!ダリウス、起きて!アレンの熱、下がったわ!」
「な、なにっ、熱!?上がった!?」
「下がったの!」
「……下がった!?」
跳ね起きた父は、寝癖と髭の乱れた顔で僕を覗き込み、額に手を当て、頬に手を当て、それからくしゃりと顔を歪めて、僕とマリアをまとめて大きな腕の中へ抱え込んだ。熊の毛皮ごと。……暑い。暑いが、今だけは、文句を言わないでおいてやることにした。
快復した身体が最初に要求したのは、当然のごとく、食事だった。
母の炊いた粥を、僕は一杯、二杯と平らげ、三杯目を差し出す母の手つきが、嬉しさと呆れの半々になった。病み上がりの胃に穴でも空いたような食欲だった。調子に乗った父が、精をつけろと燻製肉の塊を皿へ載せようとして、
「病み上がりに、そんな物を食べさせる人がありますか」
と、すかさず没収されていた。父の食養生の知識は、どうやら猟師仕込みの豪快一辺倒であるらしい。
昼には、煎じ草の礼にと父がタナーの家へ出かけていき、入れ替わるように、戸口へ小さな来客の気配が二度あった。
一度目はナタさんで、滋養にと卵をふたつ、届けてくれた。
二度目は――言うまでもない。
ちりん、という音と共に現れた三人組の見舞い団は、しかし「もう二、三日は念のため」という母の判断で戸口までとされ、僕は板窓の隙間越しに、赤と金と黒の三つの頭へ手を振ることになった。
数日後の再会を約束する身振り手振りの応酬は、なかなかの難事業で、最後はフィナが焦れて、窓の外から精一杯の小声で「げんきになったら、しょうぶだからね!」と、よく分からない宣戦布告を残して帰っていった。何の勝負かは、次に会う時まで、楽しみに取っておくことにする。
そうして、夜。
すっかり平熱へ戻った身体で寝床に入り、家中が寝静まるのを待ってから――僕は、確かめずにはいられなかった。
あの夜の、熱の移動を。
胸の前で掌を重ね、いつもの手順で「素手の火」を灯す。これは、すぐに点いた。感度は戻っている。むしろ病み上がりの分、研ぎ直した刃物のように、いつもより冴えてすらいる気がした。
問題は、ここからだ。
掌の熱を、手首へ。あの夜と同じように、意識の置き場所を滑らせて――。
――消えた。
(……やっぱり、か)
二度、三度と試して、結果は同じだった。掌から手首へ意識を「移そう」とした瞬間、熱はふつりと途切れる。あの夜、あれほど滑らかに流れたものが、万全の頭では、まるで再現できない。
僕は暗闇の中で、あの夜の感覚を、丁寧に解剖し直した。
違いは、何だ。あの夜の僕と、今夜の僕の。
……力の、抜け方だ。あの夜、熱に浮かされた僕の意識は輪郭が溶けて、部屋から部屋へ「移る」のではなく、水のように「滲んで」広がっていた。掌と手首を、別々の部屋として区切っていなかった。区切りがないから、熱は、扉を通る必要がなかったのだ。
対して今夜の僕は、健康で、明晰で――明晰であるがゆえに、身体の地図をきっちりと区画で塗り分けてしまっている。掌、という部屋。手首、という部屋。その間の扉を開けようとするから、あの気難しい客は、席を立つ。
(……区切るんじゃない。滲むように…掌と手首を、ひと続きの、ひとつの岸辺だと思え)
聴く場所を、跳ばすのではなく――ずらす。指の幅の半分ずつ。気の遠くなるような細かさで、なだらかに、なだらかに。
何度目かの試みで。
熱が、掌の縁を、ほんのわずかに越えた。
手首の付け根、脈の打つあたりに、じわ、と滲んで――そこで力尽きるように、消えた。時間にして二秒か三秒。距離にして、指二本分。
それだけだった。それだけの成果に、僕は汗だくになっていた。こめかみが脈打ち、疲労が砂袋のように瞼へ載る。あの夜の滑らかさは、偶然の女神が病床の僕へ気まぐれに貸してくれた、一夜限りの魔法の絨毯だったらしい。
けれど――道は、見えた。
(できる。「できる」ことは、もう証明されている。あとは、この健康な頭に、あの「滲み方」を教え込むだけだ)
僕は掌を解き、汗が引いていくのを待ちながら、今回の一件で得たものを、頭の中の帳面へ書きつけていった。
一つ。熱は、動かせる。意識の置き場所に、伴って流れる。
一つ。通り道の強張りが、緩む。ただし――これは治療ではない。熱が下がったのは母の看病と老人の草と時間の仕事であって、僕の火の仕事ではない。あれは湯に浸かって巡りが良くなるのと同じ、「流れが整う」というだけのこと。効能を見誤って万能の杖と思い込めば、いつか必ず足をすくわれる。ここには、太い線を引いておく。
そして、最後に、一つ。
(……魔力の感度は、体調に左右される)
あの朝、火が点かなかったこと。あれは偶然ではなく、兆候だった。身体が万全でない時、この力は鈍る。あてにならない。
(覚えておこう。……いちばん助けが欲しい時ほど、この力は、遠くなるかもしれない、ってことを)
帳面の最後のその一行は、書きつけながら、なぜだか少しだけ、指先が冷えた。けれど今の僕には、それを深く恐れる理由が、まだ何もなかった。研究者の覚え書き。ただの、正直な観察記録。……そういうことに、しておいた。
僕は枕元へ手を伸ばし、木のうさぎの丸い背中を撫で、革巾着の上から石の輪郭にそっと触れた。石は、いつも通りの、ただの冷たい石だった。あの夜のほのかなぬくもりは、やはり母の手の名残だったのか。それとも。……検証項目が、また一つ増えた。冬の夜は長い。宿題は、多いほうが楽しい。
見上げれば、飴色の、木の天井。
梁の木目を目でなぞりながら、僕は、胸の内で小さく誓った。
この身体を、損なわない。この健康を、二度と、指の間から零さない。そのために、強くする。流れを整え、いつか、筋を、骨を、この身の全部を。守られるだけの小ささから、少しずつ、抜け出していくために。
母の寝息。父の寝息。熾火の爆ぜる、小さな音。
世界でいちばん安全な音に包まれて、僕は、木の天井の下で目を閉じた。
もし楽しんでお読みいただけましたら、よろしければ高評価&ブックマークお願いいたします(励みになります(^^♪)。




