第三十話:雪の竜と、小さな守護者の誓い
吹雪が去ってからの村は、晴天と小雪とを気まぐれに織り交ぜながら、少しずつ、しかし確かに、冬の底を通り過ぎつつあった。
変化は、まず光に現れた。
昼のいちばん高いところにある太陽が、ほんの指一本ぶんだけ、高くなった。軒の氷柱から落ちる雫の数が、日ごとに増えた。夕餉の支度が始まる頃、窓の外にまだ薄青い明るさが残っているのに気づいて、マリアが「あら、日が伸びたわねえ」と嬉しそうに呟く。そんな些細な兆しのひとつひとつが、この白い季節にもちゃんと出口があるのだと、村中へそっと知らせて回っているようだった。
もっとも、春はまだ遠い。積もった雪は解けるどころか、晴れた夜の冷え込みで表面をかちかちに固め、大人が乗っても沈まない、白い大地そのものへと姿を変えていた。
そして――あの「約束」は、思わぬ形で延期されていた。
吹雪明けの翌々日。雪掻きの済んだ道を、案の定というべきか、フィナたちが元気よく押しかけてきた。さあ約束の雪だるまだと、僕が庭の雪原を指差した、まさにその時である。
「まって!まだ、つくっちゃだめ!」
フィナが両腕を大きく広げ、雪原の前へ立ちはだかったのだ。
燃えるような赤毛の下で、緑がかった瞳が、これ以上ないほど真剣に輝いていた。
「あたしの、たんじょうびに、つくるの。むらで……ううん、せかいでいちばんおっきいのを!それが、あたしの、おたんじょうかいなんだから!」
ミアが「えー、いまつくろうよぉ」と唇を尖らせたが、言い出したら聞かないのがフィナである。姉貴分の号令一下、「せかいいち」の建設は、二月末――彼女が四歳になるその日まで、厳かに封印されることと相成った。
もっとも、封印されたのは「せかいいち」だけだ。
子供たちの雪遊びそのものは、「れんしゅう」という大義名分を得て、むしろ熱を増した。僕たちは連日、切り株の周りの雪を踏み固めて展示場を再建し、うさぎの二号、小鳥の二号、丸い何かの二号を並べ直した。フィナは大玉転がしの「とっくん」と称して庭中を転げ回り、その練習玉の残骸が、あちこちに小山となって放置された。
そして、僕はといえば――その「れんしゅう」の輪の片隅で、密かに、ある造形の試作を重ねていた。
誰にも中身は明かさない。訊かれたら「ながい、へび」と答える。粘り強く、雪を摘み、固め、崩し、また固める。
贈り物の完成予定日は、もちろん、二月の末である。
夜の「日課」のほうも、着実に前へ進んでいた。
石を使わない点火――僕はそれを、心の中で「素手の火」と呼ぶことにしていた――は、あの最初の夜からの反復で、見違えるほど安定した。
初めは百を数えるほどかかっていた点火までの時間が、いまは十を数える間まで縮んだ。灯した熱を保てる時間も、二十秒に届こうかというところだ。石はもう、日々の訓練の主役ではない。週にいちどの「調律」――基準の音を確かめ直すためだけに、静かに出番を待つ、大切な脇役になっていた。
補助輪は、外れた。そう言っていい段階まで、来たのだと思う。
だから僕は、欲を出した。次の階段に、足をかけてみたのだ。
(灯せるなら――「動かせ」ないか?)
掌に灯る熱を、指先へ。指先から、手首へ。そんなふうに、この拍動を身体の中で移動させられたなら、それは「感じる」から「操る」への、決定的な一歩になるはずだった。
結果から言えば――惨敗だった。
熱というやつは、掌という「部屋」に居着いた、ひどく気難しい客のようだった。部屋の中でくつろいでいる分には機嫌よく灯り続けるのに、隣の部屋へどうぞと扉を開けた途端、ふっと霧のように消えてしまう。押しても駄目、誘っても駄目。「聴く」だけでは、どうやら客は席を立ってくれないらしい。
(……同調の先に、もう一段、何かがある。それが何なのかが、まだ見えない)
焦りは、しない、と決めていた。期待値は低く、歩幅は小さく。それが僕の流儀だ。移動の課題はいったん棚の上へ置き、僕は点火と保持の精度を磨く日々へ戻った。
ちなみに、修行の偽装工作――「完全なる昼寝の体裁」は、完璧に機能していた。あまりに完璧すぎて、マリアから「アレンは最近、本当によく眠るわねえ。ふふ、寝る子は育つっていうものね」と、健康優良児のお墨付きを頂戴したほどである。……魔力修行が睡眠と誤認されるのは、便秘と誤認されるのに比べれば、百倍ましだった。
フィナの誕生日は、冬の尻尾の先――春がまだ遠い、二月の末にある。
その朝、我が家は夜明け前から、いつもと違う気配で満ちていた。
暖炉の側の椅子で、マリアが最後の仕上げに針を動かしていたのだ。彼女の膝の上にあるのは、若草色の毛糸で編まれた、小さな小さな手袋――ミトンが、ひと組。
その毛糸の色に、僕は見覚えがあった。当たり前だ。あの吹雪の午後、僕が両手を糸巻きの支柱にして、こっくりこっくり船を漕ぎながら支えた、あの毛糸玉なのだから。
「それ……フィナちゃんの?」
「ええ、そうよ。ほら、アレンが巻くのを手伝ってくれた毛糸。……あの子、いつも素手で雪を握って、指を真っ赤にしているでしょう。だから、ね。――内緒よ?」
マリアは口の前に人差し指を立て、悪戯っぽく片目をつぶった。
毛糸玉の行き先は、ここだったのか。僕は自分の労働の成果が、あの赤毛の姉貴分の指先を守る形になることが、なんだか無性に嬉しかった。
朝餉を済ませ、完全防備の樽と化した僕は、両親と連れ立って家を出た。
空は、誂えたような冬晴れだった。凍った雪面が朝日を弾いて、村中がきらきらと光っている。同じ光の中を、向こうの道からはバルカさんの巨躯と、その周りを跳ね回る金と黒のふたつの小さな頭が、こちらへ近づいてくるのが見えた。
目的地は、ウィリアムさんの家。今日の村は、あの赤毛の一家を中心に回る。
ウィリアム家の前庭は、すでに祭りの気配だった。
主役のフィナは、朝から興奮が振り切れているらしく、真新しい足跡で庭中に円を描きながら、来る人来る人へ「きょう、あたしのたんじょうびなの!」と宣言して回っている。ナタさんが「はいはい、村中みんな知ってますよ」と笑いながら、家の中と外とを忙しく行き来していた。
そして、男衆が揃ったところで――「せかいいち」の建設が、ついに始まった。
最初の工程は、土台の大玉転がしである。
ここで、誰も予想していなかった――いや、薄々予想はしていた――事態が発生した。父親たちが、張り合い始めたのだ。
口火を切ったのはウィリアムさんだった。娘の誕生日だ、土台は俺が転がすと腕まくりをした彼の隣で、ダリウスが「手伝うよ」と言いつつ、明らかに自分の玉を転がし始めた。二人の玉がみるみる育ち、互いの大きさを横目で測り合い、掛け声に妙な力がこもり始める。
その横を、バルカさんが、無言で通り過ぎた。
そして数分後。男二人が張り合っていた玉のゆうに二回りは大きい、白い巨塊が、庭の中央にごろりと鎮座していた。
「……おい、バルカ。それはもう『玉』じゃなくて『岩』だろう」
ウィリアムさんの抗議に、寡黙な鍛冶師は表情ひとつ変えず、巨塊の形をぽんぽんと整えている。グレシアさんとナタさんが顔を見合わせ、心底呆れたように、けれど幸せそうに笑った。
結局、土台はバルカさんの「岩」に決まり、胴体はダリウスとウィリアムさんの玉を三人がかりで積み上げ、頭はフィナが「あたしがつくるの!」と自ら転がした、少し歪な玉が載せられた。
仕上げは子供たちの仕事だ。ミアが炭のかけらで目を入れ、リアが小枝を口の形に並べ、フィナが両腕になる太い枝を突き立てる。最後に、ナタさんが持ってきた古い赤の襟巻きが、その太い首元へぐるりと巻かれた。
完成した雪だるまは、僕の背丈の三倍――いや、四倍はあった。ダリウスに肩車をしてもらって、ようやく顔と目が合う高さだ。赤い襟巻きを風になびかせ、冬晴れの空を背負って立つその姿は、なるほど確かに、「せかいでいちばん」を名乗るに恥じない威容だった。
歓声を上げて雪だるまの周りを走り回る三人娘。その様子を横目で確かめてから、僕は、そっと輪を離れた。
向かう先は、庭の隅の、例の切り株である。
数日分の「れんしゅう」で、手順は身体に入っていた。踏み固めた雪の台の上に、まず、とぐろを巻く太い胴を据える。湿り気を帯び始めた昼の雪は、幸い、よく固まってくれた。
背中には、指で摘み上げた三角の突起を、尾の先まで一列。首をもたげさせ、頭には口と、小さな二本の角。仕上げに、木の実をふたつ、目として埋め込む。
途中、雪を運ぶ小さな助手が、音もなく隣へ膝をついた。リアだった。彼女は何も訊かず、僕の手元が求めるより半呼吸だけ早く、ちょうどいい固さの雪を差し出してくる。あの雪合戦の日の「同盟」は、どうやらまだ有効期限内らしい。
一度だけ、ミアが「なにつくってるのー!」と突撃してきかけたが、リアがすっと立ち上がり、双子の姉の手を引いて「……あっちで、だるまさんの、おめめなおそ?」と見事に誘導していった。……有能すぎる。僕の同盟者は、有能すぎた。
そうして、太陽がわずかに西へ傾き始めた頃。
僕は、完成したそれの前へ、主役を呼んだ。
「フィナ。……こっち」
雪だるまの周回を切り上げて駆けてきたフィナは、切り株の上のそれを見て――ぴたり、と止まった。
全長は、僕の腕ほど。とぐろを巻いた蛇身に、鋸の刃のような背鰭。もたげた首。二本の角。木の実の目。左右の角の長さは、わざと少し、違えてある。あんまり整いすぎた造形は、「ちょっと器用な子」の看板から、はみ出してしまうから。
それでも――それが何であるかは、誰の目にも明らかなはずだった。
「……おたんじょうび、おめでと。……はい。フィナの、ドラゴン」
フィナは、動かなかった。
まん丸に見開かれた瞳が、雪の竜と、僕の顔とを、二度、三度と往復する。
「……ドラゴン」
掠れた声で、彼女は言った。
「あたしの……ドラゴン」
それから、堰を切ったように、言葉が溢れ出した。あのね、あのときのあたしのドラゴンね、みんな「とかげ」って言ったのよ、ミアなんて「おいも」って言ったのよ、でもこれは、これはだれがどうみたって――。
「――ドラゴンだわ……!あたしの、ドラゴンだわ!」
フィナは両の拳を握りしめ、雪の竜の周りを、壊れた独楽のようにぐるぐると三周した。それから急に立ち止まり、ごしごしと目元を擦った。
「べ、べつに、ないてないわよ!ゆきが、めにはいっただけなんだから!」
誰も何も言っていない。言っていないが、駆けつけた大人たちは皆、笑いを噛み殺すのに必死だった。
竜の安置場所については、ひと悶着あった。フィナがどうしても「せかいいちの、かた」に乗せたいと言い張ったのだ。だが四倍の背丈の肩は、小さな竜には吹きさらしが過ぎる。結局、竜は雪だるまの足元、正面に鎮座することで落着した。世界一の巨人を守る、小さな番竜という構図である。
「フィナちゃん、よかったわねえ。アレンくんから、特別製ですって」
グレシアさんがにやにやと囃し、フィナが「と、とくべつ……」と赤くなったところへ、当然のように別方向から手が挙がった。
「ミアも!ミアも、ドラゴンほしい!」
「……リアは。……ことりが、いい」
僕は少し考えて、それから、胸を張った。
「つくる。……ぜんぶ、つくる。じゅんばん、だからね」
わっと沸く子供たちと、微笑ましげな大人たちの輪。その外側から、こつ、こつ、と杖の音が近づいてきたのは、その時だった。
村長のタナーだった。誕生日の祝いをひと言、と立ち寄ったらしい老人は、フィナの頭を皺だらけの手で撫で、「四つか。早いものよのう。……良い風に、育っとる」と目を細めた。
それから、その眼差しが、ふと、切り株の上へ流れた。
雪の竜を、老人は、しばらく黙って眺めていた。
「……ほっほ。ようできとる」
やがて、白髭の奥で、静かな声がした。
「よう……視て、作っとるのう」
みて。
その一語の響きが、なぜだか僕の耳の奥に、小さな引っ掛かりを残した。見て、ではなく、視て――そう聞こえたのは、僕の考えすぎだろうか。老人の深い瞳は、竜を見ているようで、その少し奥を覗いているようで。
だがタナーはそれきり何も言わず、「ではの、よい祝いを」と杖の音を残して、夕方の光の中へゆっくりと去っていった。
(……考えすぎ、だな。うん、考えすぎだ)
僕は小さく頭を振って、引っ掛かりを冬の空へ放した。今日は、そういう日ではない。
日が傾き、宴のために屋内へ移る間際。フィナが最後にもう一度だけ、と竜の前へしゃがみ込んだ。
夕日を受けた雪の竜は、ほんのり橙に染まって、それはそれで悪くない眺めだった。けれどフィナの横顔には、ふいに、年相応でない翳りがよぎった。
「……ねえ、アレン。これも……はるになったら、とけちゃうのよね」
うさぎも、小鳥も、埋もれた。雪でできたものの行く末を、彼女はもう、ちゃんと知っている。
だから僕は、用意していた答えを、まっすぐに渡した。
「とける。……でも、とけたら、またつくる。なんかいでも、つくってあげる」
フィナは、はじかれたように僕を見た。
夕日の中で、緑の瞳が大きく揺れて――それから彼女は、僕の右手を、両手でむんずと掴んだ。小さな、けれど驚くほど力の強い、雪遊びで冷え切った手だった。
「……やくそくよ!ぜったい、ぜーったいの、やくそくなんだから!」
「うん。やくそく」
約束は、成立した。
なんかいでも。僕は胸の内で、その言葉をもう一度なぞる。溶けるたびに、作り直せばいい。この村の冬は、これから何度でも巡ってくるのだから。
ウィリアム家の中は、赤毛の一家の住処にふさわしく、暖炉の火がひときわ大きく、明るく燃えていた。
三家族が卓を囲めば、家は満員だった。ナタさんの支度した祝いの膳が並ぶ。燻製肉と根菜の煮込み、焼きたてのパン、そして今日の主役級――蜂蜜と干した木苺を練り込んだ、ナタさん自慢の焼き菓子が、甘く香ばしい匂いを部屋いっぱいに漂わせていた。
宴に先立って、この家の小さな儀式が執り行われた。
ウィリアムさんがフィナを台所の柱の前に立たせ、小刀で、彼女の頭のてっぺんの高さへ、すっと横一線の刻みを入れるのだ。
柱には、すでに三本の古い刻みがあった。一番下のそれは、僕の膝ほどの高さしかない。
「よし、と。……去年より、指二本ぶんだな」
「一つ目のときは、まだあたしの膝までもなかったのにねえ。……早いわあ、ほんとうに」
ナタさんがしみじみと呟き、フィナは四本目の刻みの下で、これ以上ないほど得意げに胸を反らしている。
僕は、その柱を見上げた。
木の肌に刻まれた、四本の線。それは背丈の記録であると同時に、この家そのものが書き綴ってきた、家族の日記のようなものだった。梁が吹雪を防ぎ、柱が成長を記す。この村の家は、ただの入れ物ではなく、暮らしの証人なのだ。
膳が整い、木杯が掲げられ、宴が始まった。
贈り物の披露は、宴のなかばで始まった。
マリアの若草色のミトンに、フィナは歓声を上げてその場で両手を突っ込み、以後、食事の間も頑として外そうとしなかった(ナタさんに「食べる時は脱ぎなさい」と没収されるまで)。
リアが差し出したのは、赤い冬の木の実を糸に通した、小さな腕輪だった。フィナちゃんの、かみのいろ、にあうとおもって――と消え入りそうな声で添えられたそれは、なるほど、燃える赤毛の手首で鮮やかに映えた。
ミアの贈り物は「そらのはね!」――どこかで拾った、光沢のある鳥の羽根が一枚。ミアのたからものだけど、あげる、という言葉に、フィナは案外真剣な顔で「……たいせつにするわ」と受け取っていた。
そして、最後に。
バルカさんが、のそりと立ち上がり、無言で小さな布包みをフィナの前へ置いた。
一同が見守る中、フィナが包みを開く。転がり出たのは――小さな、鉄の鈴だった。磨き上げられた鈍色の表面に、暖炉の火が映り込んでいる。
「……鳴らせ」
バルカさんが、短く言った。
フィナが摘み上げ、振る。
――ちりん。
鉄とは思えない、澄んだ、涼やかな音が、宴のざわめきをすっと貫いて響いた。誰からともなく、ほう、と感嘆の息が漏れる。
「……鳴らしていれば」
寡黙な鍛冶師は、視線を火のほうへ逃がしたまま、ぼそりと続けた。
「……どこにいても、分かる。……嵐が、どこで暴れとるか」
一拍おいて、家中が爆笑に包まれた。あらやだこの人ったら、とグレシアさんが夫の背中をばしばし叩く。この鈴のために、彼が三日も炉の前にこもっていたこと、音が濁ると言っては何度も鋳直していたことが、妻の口から容赦なく暴露され、バルカさんの耳が、火影のせいだけではなく赤くなった。
フィナは鈴を高々と掲げ、ちりん、ちりん、と鳴らしては、その音に自分で聞き惚れていた。
宴もたけなわ、男衆の杯が進んだ頃。ウィリアムさんの「親バカ砲」が、案の定、火を噴いた。
「いやなあ、フィナが生まれた晩のことは、忘れもしないよ。この村の冬で、いっちばんでかい産声でなあ。ナタと二人、こりゃとんでもない嵐が来たぞって……」
「おとうさん!そのはなし、きんし!きーんーしー!」
ぽかぽかと父の肩を叩く娘と、叩かれて上機嫌に笑う父。一年前の収穫祭と寸分違わぬ光景に、卓の大人たちがどっと沸く。
その笑いの波が引いた合間だった。ナタさんが「そういえば」と、塩壺を覗き込みながら言った。塩の残りが心許ない、春の行商はいつ頃かしら、と。
「ん、それがなあ」
ウィリアムさんが杯を置いた。
「秋の終わりに来た行商の爺さんが言ってたろう。南の峠に、関所ができたとかで。春の荷は、少し遅れるかもしれんな」
「関所ねえ。……ま、多少遅れたところで、慌てるほど蓄えが薄いわけでなし」
ダリウスがのんびりと受け、ナタさんが「はいはい、難しい話はそこまで!お菓子が冷めますよ」と手を叩いて、話題はあっさり焼き菓子の争奪戦へと流れていった。
(……関所、か)
僕は蜂蜜の甘い欠片を口に運びながら、その単語だけを、頭の隅の棚へそっと載せた。峠に関所。荷が遅れる。それは、地図に載らないこの村にとって、遠い遠い、対岸の出来事のはずで――。
考えは、そこで打ち切った。祭りの夜に広げる地図ではない。
そして、宴の締めくくりに、その瞬間は訪れた。
焼き菓子を食べ終えたフィナが、突然、椅子の上にすっくと立ち上がったのだ。ミトンを再装備し、手首に木の実の腕輪、帯には鉄の鈴という完全装備で、彼女は宴の一同をぐるりと見渡した。
「きいて!私、今日で、よんさいになりました!」
ちりん、と腰の鈴が鳴る。
「それでね、私、きめたの。私は――村でいちばん、つよくなります!」
おお、と大人たちが囃す。フィナは怯まない。
「とうさんよりも、ダリウスおじさんよりも……バルカおじさんよりも、よ!」
名指しされた男衆三人が、なんとも言えない顔を見合わせ、母親たちが吹き出した。だがフィナの緑の瞳は、笑っていなかった。四歳の子供の目にしては、それは驚くほど、まっすぐで、本気の色をしていた。
そして、その本気の目が、真正面から、僕を捉えた。
「だから、アレン!」
びし、とミトンの指が僕を差す。
「あんたは、私が、まもってあげる。ぜったい、ぜーったいに、まもってあげるんだから!……かんしゃしなさいよね!」
一瞬の間のあと、家中が今夜いちばんの笑いと拍手に包まれた。ウィリアムさんが「言うようになったなあ!」と娘を抱え上げ、ちりんちりんと鈴が鳴り、ミアが「ミアもまもるー!」と便乗し、リアがくすくすと肩を揺らす。
その温かな喧騒の中心で、僕は、笑いながら――胸の奥に、小さな熱がひとつ、灯るのを感じていた。
「……うん。ありがと、フィナ」
口にしたのは、それだけだ。一歳児の語彙としては、それが精一杯で、それで十分だった。
(守って、あげる、か)
四歳の誓いだ。微笑ましい、と流してしまうのは簡単だった。けれど、この世界で「強さ」は、冗談の言葉ではない。冬が死と隣り合わせであるように、強さは、そのまま生存の言葉だ。彼女は本能で、それを知っている。
(……僕は、どうなんだろうな)
守られる側。この小さな身体は、いまはまだ、どうしようもなくそちら側だ。両親に、村の大人たちに、そして今日、この赤毛の姉貴分にまで、守る対象として名指しされる側。
それが嫌なわけではない。ありがたくて、あたたかくて、涙が出るほどだ。
ただ――守られるだけの側で、いたくはない。
いつか。この掌に灯せるようになった小さな火が、もっと確かな何かに育ったなら。その時は、僕も。
言葉にするにはまだ早すぎるその想いを、僕は蜂蜜の甘さと一緒に、そっと呑み込んだ。
帰り道は、月夜だった。
昼の宴で燃え尽きたミアはバルカさんの肩で熟睡し、リアはグレシアさんに手を引かれ、こくりこくりと船を漕ぎながら歩いていた。別れ際、フィナは玄関先で腰の鈴をちりんと鳴らし、「ドラゴン、あしたもみにいくから!」と手を振った。
ダリウスの腕に抱かれて揺られながら、僕は、ウィリアム家の前庭を振り返る。
月光の下、雪原は青白く光っていた。その真ん中に、赤い襟巻きの「せかいいち」が、悠然と立っている。そして、その足元。世界一の巨人の前に、小さな竜が一頭、とぐろを巻いて蹲っている。
巨人を守る、番竜。……いや、あるいは、巨人に守られる、小さな竜か。
どちらでもいい気がした。守り、守られ、それが円になっている眺めは、月の下で、妙に頼もしく、そして少しだけ可笑しかった。
前世の僕の誕生日は、いつも白い部屋の中にあった。検査値の都合で削られたケーキと、面会時間の切れ目に慌ただしく歌われる歌。年を重ねることは、残り時間の目盛りがひとつ進むことと、ほとんど同じ意味だった。
今日、僕は生まれて初めて――どちらの生でも初めて――誰かの誕生日を、朝から晩まで、全力で祝った。玉を転がし、竜を建て、約束を結び、腹の底から笑った。誰かの「生まれてきた日」を、こんなにも大量の幸福で塗り潰せるのだということを、僕は今日、初めて知ったのだ。
家に帰り着き、寝床へ潜り込む。枕元では、藍色の石と、耳の不揃いな木のうさぎが、いつも通り僕を待っていた。うさぎの丸い背中をひと撫でして、僕は目を閉じる。
瞼の裏に、今日一日が巡る。バルカさんの「岩」。四本目の刻み。ちりん、と鳴る澄んだ音。ミトンの指に差されたこと。ぜーったいに、まもってあげるんだから、という声。
(……フィナが村一番に強くなる、その前に)
眠りに落ちる寸前、僕は月明かりの雪原の、小さな番竜のことを思った。
(僕も、誰かを守れる僕に――なっていたいな)
なんかいでも、つくってあげる。
夕暮れに結んだ約束が、胸の奥で、小さな火のようにあたたかかった。
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