第二十八話:初雪の歓声と、小さな共鳴
その朝、僕を目覚めさせたのは「音」ではなく、圧倒的な「静けさ」だった。
板戸の隙間を叩く風の唸りも、遠くの森でざわめく梢の声もない。まるで世界中のあらゆる雑音が、巨大な綿の中へ吸い込まれてしまったかのような、深く、柔らかな静寂。
そして、閉じた瞼の裏に感じる光の色が、いつもの夜明けとは決定的に違っていた。
(……白い。朝日の橙色じゃない。もっと均一で、乱反射しているような……)
二十五年分の記憶が、その静寂と光の正体を告げるより早く、僕の小さな心臓がトクンと跳ねた。
僕はいつもの日課である早朝の瞑想もそこそこに、そっと毛布から抜け出した。
床板の冷たさが、羊毛の靴下越しにもツンと足裏を刺す。両親を起こさないよう、爪先立ちのような慎重さで窓辺へ寄り、木窓の隙間に指をかけて、ほんの少しだけ押し開けた。
――白。
視界のすべてが、白かった。
畑も、あぜ道も、ウィリアムさんの家の屋根も、遠くの森の輪郭さえも。昨日まで霜に凍えて茶色く縮こまっていた世界が、一晩のうちに、まっさらな白絹を被せられていた。
空からは今も、鳥の羽毛のような大粒の雪が、音もなく、ゆっくりと舞い降り続けている。
「…………ゆき」
声が、勝手に漏れた。
それは計算された「幼児語」ではなく、僕の魂の芯から零れ落ちた、本物の呟きだった。
脳裏に、前世の記憶が鮮やかに蘇る。
病室の、開かない窓。
二重ガラスの向こうで降る雪を、僕はベッドの上から、ただ眺めることしかできなかった。点滴の管が腕を引き、消毒液の匂いが鼻を掠め、看護師さんが「今日は積もりそうですね」と笑いかけてくれる。それだけが、僕と雪との関わりのすべてだった。
雪は、いつだってガラス一枚向こうの世界の出来事だった。
触れられない美しさ。届かない冷たさ。
それが今、どうだ。
窓の隙間から忍び込んだ冷気が、僕の頬を直接撫でていく。舞い込んだ小さな雪片がひとつ、僕の鼻先に落ちて、体温で儚く溶けた。
その、ほんのわずかな冷たさと湿り気が。
僕がこの世界に「生きて」いて、雪と同じ空の下に「いる」ことの、何よりの証明だった。
「ゆき!ゆきだ!かあさん、とうさん、ゆき……!」
気がつけば僕は、一歳児の権利を全力で行使して、寝床の両親のもとへトテトテと駆け戻っていた。
精神年齢二十五歳の理性が「おいおい、はしゃぎすぎだぞ」と苦笑するが、止められない。止める気もなかった。
「……ん、んん……?アレン、どうしたの、こんなに朝早く……」
マリアが亜麻色の髪を揺らして身を起こし、寝ぼけ眼で僕を抱き留める。その隣でダリウスが「むぅ……敵襲か……?」と猟師の本能で寝言を呟くのがおかしかった。
「ゆき!おそと、まっしろ!」
「あら……あらあら、本当だわ。とうとう降ったのねぇ」
窓の外へ目をやったマリアが、ふわりと目を細める。
「ダリウス、起きてちょうだい。初雪よ。……アレンが、こんなに喜んでるわ」
「……ゆき?――そうか、雪か!」
跳ね起きたダリウスは僕をひょいと抱き上げ、窓辺まで運んでくれた。大きな腕の中から見下ろす銀世界は、床から見上げたそれよりもさらに広く、どこまでも続いているように見えた。
「見てごらん、アレン。今年の初雪だ。……ふふ、去年のお前は、雪を見ても『なんだこれは』って顔で固まってたのになぁ」
(固まっていたんじゃない。あの時は『転倒リスクと低体温症』の計算をしていたんだ)
内心で訂正しつつ、僕は素直に窓の外を指差した。
「あれん、おそといく!ゆき、さわる!」
「ええ、いいわよ。でもその前に、朝ごはんと……それから、完全防備、ね」
マリアの瞳が、悪戯っぽく、しかし断固として輝いた。
その「完全防備」という単語に込められた不穏な熱量に、僕は気づくべきだった。
朝食の豆粥を胃に収めたあと、僕はマリアの手によって、着せ替え人形と化した。
肌着の上に羊毛の上着。その上にさらに厚手の羊毛の胴着。首には毛糸の襟巻きをぐるぐると三周。頭には耳まで覆う毛糸の帽子。手には親指だけが分かれた手袋。極めつけに、ダリウスの古い外套を裁ち直した子供用の外套を羽織らされ、腰紐でぎゅっと固定される。
「はい、できあがり。ふふ、あったかそうねぇ」
「うごけない」
僕は率直な感想を述べた。
両腕は着膨れのせいで身体の横にぴったりとはつかず、斜め下に浮いたまま。歩こうとすれば、左右にゆらゆらと揺れる。水桶の水面に映ったその姿は、手足の生えた白い樽、あるいは直立する雪だるまのそれだった。
(……酷い。機動力が完全に死んでいる。これでは歩兵ではなく攻城兵器だ)
「ははは!アレン、まんまるだなぁ!可愛いなぁ!」
ダリウスが腹を抱えて笑い、マリアまで口元を押さえて肩を震わせている。
解せない。だが、冬の寒さがこの世界において「死」と隣り合わせであることを、僕は知識として理解している。この過剰包装は、母の愛情の物量表現なのだ。
僕は樽としての尊厳を保ちつつ、よたよたと玄関へ向かった。
その途中、ふと思い立って寝床へ戻り、枕元の小さな革の巾着を手に取る。中身は、もちろんあの「藍色の石」だ。肌身離さず持ち歩く僕を見かねて、先日マリアが端切れの革で作ってくれた専用の袋である。
僕はそれを外套の内側、胸元の紐にしっかりと結びつけた。
(お前も一緒だ、相棒。……初雪の魔素とやらが、もしお前に何か影響するなら、それも観測しておきたいしね)
探究心という名の言い訳をしつつ、本音は単純だった。
この石と一緒にいると、なんだか安心するのだ。
扉を開けた瞬間、世界の匂いが変わった。
土と枯れ草の匂いが消え、代わりに、冷たく澄んだ、ほんの微かに甘いような「雪の匂い」が肺いっぱいに流れ込んでくる。
一歩、雪原と化した庭へ足を踏み出す。
――ギュッ。
小さな靴の下で、新雪が鳴いた。
ギュッ、ギュッ、と一歩ごとに響く、この世界で初めて聞く音。足裏に返ってくる、硬いような柔らかいような不思議な反発。
僕は手袋を片方だけ外し、素手をそっと空へ差し出した。
ひらり、と。
六角形の結晶が、僕の小さな掌に舞い降りる。
それは体温に触れた瞬間、ふわりと形を失い、一粒の水滴になった。
(……ああ)
冷たい。濡れている。感じる。
ガラス越しじゃない。管に繋がれてもいない。僕は今、自分の足で雪の上に立ち、自分の掌で、空から落ちてきたものを受け止めた。
たったそれだけのことが。
前世の僕が十五年間、ただの一度も叶えられなかった、それだけのことが。
視界がじわりと滲みそうになり、僕は慌てて空を仰いだ。泣き顔なんて見せたら、マリアが心配して屋内へ強制送還しかねない。
「ゆき、つめたい!つめたいね、とうさん!」
「ああ、冷たいなぁ。ほら、あんまり素手で触ると、指が痛くなるよ」
薪小屋の前の雪を掻いていたダリウスが、目を細めて笑う。
僕は手袋をはめ直し、樽のような身体でよたよたと雪原を進みながら、心の中で高らかに宣言した。
(さあ、始めよう。……あの日、暖炉の前で夢想した『冬の計画』を!)
――雪像制作である。
結論から言うと、雪像制作は、想像の三倍難しかった。
まず、一歳児の手が小さすぎる。雪玉を転がして大きくしようにも、着膨れした腕では地面まで手が届きにくく、屈めば樽のような身体が前へ転がりそうになる。
次に、握力が足りない。雪を固めるという基本動作の時点で、僕の小さな手はぷるぷると震えた。
(くっ……設計図は完璧なのに、施工部隊のスペックが……!)
それでも僕は諦めなかった。三十分ほどの試行錯誤の末、僕はついに、掌に収まるサイズの「何か」を完成させた。
丸い胴体に、丸い頭。頭にちょこんと乗せた、細長い雪の耳がふたつ。
雪うさぎ、である。
葉っぱの耳や木の実の目という前世の様式は再現できなかったが、シルエットだけなら、辛うじてうさぎに見える……はずだ。
「おや、アレン。それは……うさぎかい?」
雪掻きを終えたダリウスが覗き込み、ヘーゼル色の瞳をまん丸に見開いた。
「うん!うさぎさん!」
「へえ……すごいなぁ、器用なもんだ。父さんが子供の頃なんて、雪はただ投げるだけだったのに…」
雪像作成を楽しみながらも、僕は内心で自分に言い聞かせる。
(このくらいで留めておこう。リアルな造形のうさぎなんて作ったら、それこそ「不気味な子」まっしぐらだ。あくまで『ちょっと器用な子』のラインを死守する)
僕が雪うさぎを庭の切り株の上へ丁重に安置していた、その時だった。
「アレーーーーン!!ゆきよ!ゆきが降ったわよーーー!!」
白銀の静寂を粉々に打ち砕く、聞き慣れた高音が村道の方から響き渡った。
振り返るまでもない。
燃えるような赤毛を帽子からはみ出させたフィナが、雪を蹴散らしながら弾丸のように駆けてくる。そのすぐ後ろから、「まってー!フィナちゃん、はやいー!」と黄金色の髪を揺らすミアが続き、さらにその後ろを、黒髪のリアが、雪に足を取られないよう一歩一歩確かめるように歩いてくるのが見えた。
そして最後尾には、腰まで届く黄金色の髪の上に雪を乗せた、双子の母グレシアさんの姿。
「おっはよー、アレンくん!うちの娘たちが『アレンと雪で遊ぶ!』って聞かなくてね。マリアさんに借りてた籠も返したかったし、連れてきちゃったわ」
「あら、グレシアさん、いらっしゃい。寒かったでしょう、どうぞ中へ」
玄関から顔を出したマリアと、グレシアさんが挨拶を交わす。大人たちが屋内へ消えていくのと入れ替わりに、僕の眼前には、頬を紅潮させた三人娘が整列していた。
「さあアレン!今日という今日は、あんたに『ゆきがっせん』というものを教えてあげるわ!」
フィナが腰に手を当て、姉貴分としての威厳を全開にして宣言する。
「ゆきがっせん!ミア、しってる!えいってなげるの!」
「……ゆき、なげるの?いたくない……?」
目を輝かせるミアの隣で、リアが心配そうに小首をかしげる。
「ふふん、痛くないように、ふわっと投げるのがコツなのよ。いい?まずはこうやって雪を丸めて――」
フィナが実演を始めた、まさにその瞬間。
――ボスッ。
彼女の赤毛の後頭部に、白い塊が炸裂した。
「ふぎゃっ!?」
「えへへー!ミア、いちばーん!」
教官の講義を待たずに開戦の狼煙を上げたのは、天真爛漫の権化、ミアだった。
「ミ、ミアーーー!!あんたって子は、先生を撃つやつがあるー!?」
「ゆきがっせん、はじまったのー!」
「上等よ!泣いても知らないんだから!」
こうして、講義は三秒で実戦へと移行した。
僕はといえば、開戦と同時に切り株の陰へ「戦略的に」転がり込み、状況を観察していた。
(いいか、落ち着け。僕の武器は知恵だ。射線を管理し、弾薬――雪玉を備蓄し、敵の消耗を待って……)
「みーつけた!アレンも、さんかー!」
ボスッ。
樽のような僕の胴体に、ミアの雪玉が直撃した。着膨れの鎧のおかげで衝撃はゼロだが、戦術も何もあったものではない。
(無差別砲撃……!この戦場に安全地帯はないのか!)
僕は覚悟を決め、小さな手で雪玉を握った。よたよたと立ち上がり、渾身の力で投擲する。
雪玉は美しい放物線――を描くことなく、僕の足元一メートル先にぽすんと落ちた。
「あははは!アレン、ぜんぜんとどいてないわよ!」
フィナの容赦ない哄笑が突き刺さる。一歳児の肩の可動域と筋力では、これが限界だった。
(くっ……肉体年齢の壁……!)
悔しさに歯噛みしていた僕の袖を、ちょんちょん、と誰かが引いた。
振り向くと、リアが立っていた。彼女は雪玉をひとつ、僕の手袋の上にそっと乗せると、フィナに聞こえないよう、内緒話の距離で囁いた。
「……アレン。あのね、なげるんじゃなくて……ちかくにきたときに、ぽん、てするの」
(……接近戦への戦術転換。なるほど、賢い)
僕とリアは顔を見合わせ、小さく頷き合った。言葉にしない「同盟」の成立だった。
それから僕たちは、切り株の要塞に隠れて息を潜め、ミアを追いかけて無防備に接近してきたフィナの背中へ、二人同時に「ぽん」と雪玉を押し付けることに成功した。
「ひゃあっ!?ちょ、リアまで!あんたたち、いつの間に手を組んで……!」
「えへへ……」
「ふふ、ぽん」
背中に雪を入れられたフィナが、雪原をぴょんぴょん跳ね回る。その様子がおかしくて、ミアが転げ回って笑い、リアが口元を押さえて肩を震わせ、僕もつられて、腹の底から声を上げて笑った。
白い息が四つ、冬の青空へ昇っていく。
(……ああ、楽しいな)
戦術も、演技も、年齢詐称も、この瞬間だけはどこかへ溶けて消えていた。
そして戦いは、最終局面を迎える。
「よーし、みんな、そのくらいにして……うわっ!?」
雪掻きを終えて様子を見に来たダリウスの顔面に、ミアの流れ弾が直撃したのだ。
一瞬の静寂。
ダリウスは顔の雪をゆっくりと拭うと、ニヤリと不敵に笑った。
「……ほほう。この村一番の猟師に、戦いを挑むとは、いい度胸だね…」
「「「きゃーーー!!」」」
「わー!」
こうして戦場には「巨大魔物ダリウス」が降臨し、僕たち四人は即席の共同戦線を張って総攻撃を開始した。
ダリウスは大袈裟に雪玉を受けてはよろめき、「ぐわあ、やられたぁ」と棒読みで倒れ、子供たちに雪をわしわしと積まれて雪像にされかけ、最後は「まいった、まいった」と笑いながら白旗を上げた。
全身雪まみれで大の字になった父の腹の上に、僕たち四人がぼふぼふと乗っかる。
冬の低い太陽が、笑い転げる僕たちの影を、白い雪原に長く、あたたかく伸ばしていた。
「はいはい、みんな、そのくらいにしましょうね。ほっぺが真っ赤よ。中で温まりましょう」
マリアの号令で、雪まみれの兵士たちは順番に屋内へ収容された。
濡れた外套と手袋が暖炉の側へ並べて干され、僕たちは毛布を配給されて、暖炉の前へ団子のように座らされる。
そして、マリアが盆に載せて運んできたものを見て、リアの漆黒の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「今日は特別よ。あったかいミルクに――蜂蜜を、とろり」
「……!はちみつ……!」
木のカップの中で、黄金色の蜜が白いミルクにゆっくりと溶けていく。収穫祭の日、「ハチミツのパン、たべたいの」と語っていたリアにとって、それは何よりのご馳走らしい。両手でカップを包み、一口飲むごとに「……おいしい」「……あまい」と噛みしめるように呟く姿は、小動物めいた尊さがあった。
ミアは早くも口の周りをミルクで白くし、フィナは「ふー、ふー」と大人ぶって冷ましながら飲んでいる。
暖炉の火がパチリと爆ぜ、窓の外では再び雪が舞い始めていた。台所の方からは、マリアとグレシアさんの楽しげなお喋り――「リリアンさん、お腹だいぶ目立ってきたって」「あら、春が楽しみねぇ」――が、遠い音楽のように聞こえてくる。
完璧な、冬の午後だった。
――その完璧な午後に、小さな「異変」が紛れ込んだのは、直後のことだ。
「あ!ねえねえ、これなあにー?」
ミアが、暖炉の側に干された僕の外套の胸元から、あの革の巾着を見つけ出したのだ。好奇心の塊である彼女は、返事を待たずに紐を解き、中身を小さな掌にころんと転がした。
くすんだ藍色の、歪な石。
(あっ……!)
僕の心臓が跳ねる。だが、慌てるな。あれは「ただの綺麗な石」だ。色が変わるところさえ見られなければ、何の問題もない。僕は毛布の中で拳を握り、平静を装った。
「それ、あれんの、たからもの!とうさんが、みつけたの」
「へー!たからもの!」
ミアは石を目の高さに掲げ、くるくると眺め回し――そして、ぶるりと肩を震わせた。
「つめたーい!このいし、ゆきみたいにつめたいのー!」
まあ、そうだろう。ついさっきまで、雪の中に持ち出していた石だ。革袋越しとはいえ、芯まで冷え切っているはずである。
「どれどれ……ふうん、変な形の石ねえ」
次に受け取ったフィナは、三秒ほど眺めて、あっさりと興味を失った。
「きれいだけど、ただの石じゃない。あたし、もっとキラキラのが好きだわ」
(正常な反応その二。よし、この流れなら大丈夫だ)
僕が胸を撫で下ろしかけた、その時。
「……リアも、みていい?」
フィナの手から、リアの小さな両手へ、石が渡った。
彼女は他の二人とは違い、石を光に翳すでもなく、ただ両の掌でそっと、卵を包むように石を覆った。まるで、小さな生き物の体温を確かめるかのような仕草で。
そして、数秒の後。
リアは、こてん、と小首をかしげて言った。
「……あったかい」
――どくん、と。
僕の心臓が、嫌な音を立てた。
「ふふ、リアってば、へんなのー。つめたいよ、それ!」
「そうよ、さっきまで雪の中にあったんだから」
ミアとフィナが笑う。リアは「そう、かな……?」と不思議そうに石を見つめ、もう一度、確かめるように掌を閉じた。
「……でも、あったかいの。おなかのなかに、ちいさいおひさまが、いるみたい」
(――――は?)
僕は、毛布の下で完全に硬直していた。
冷静になれ。観測データを整理しろ。
一、ミアは石を「雪のように冷たい」と証言した。物理的に正しい。
二、フィナも異常を感知していない。
三、リアだけが「温かい」と、しかも「お腹の中に小さなお日様がいるみたい」という、あまりに具体的な表現で証言した。
あの熱。皮膚を透過して、内側からじんわりと染み込んでくる、あの実体のない熱の感覚。
それは、僕があの夜、死に物狂いの集中の果てにようやく掴んだ、「魔力の拍動」の感触と――酷似していないか?
(偶然か?子供特有の、感覚の混線?それとも……リアには、生まれつき「視えて」いるのか?僕が暗闇を何ヶ月も這いずり回って、石という補助輪を使ってやっと触れたものに、この子は、素手で……?)
思考の渦に呑まれかけた僕の視界の端で、石が、微かに――本当に微かに、藍の色を深くしたように見えた。
暖炉の火影の悪戯か。それとも。
確かめる術はなかった。次の瞬間にはリアが顔を上げ、石を両手で捧げ持つようにして、僕へと差し出してきたからだ。
「はい、アレン……たいせつな、たからもの、でしょ?」
漆黒の瞳が、まっすぐに僕を見つめる。
その瞳の奥に、あの日――散歩道で僕の「中身」を覗き込んできた時と同じ、透き通った光が揺れている気がして、僕は反射的に幼児の仮面を被り直した。
「う、うん!ありがと、リア!」
石を受け取る。革袋越しではない、素の掌に触れた石は――ただの、冷たい鉱物だった。
温かくなど、ない。
(……僕が触っても、冷たい。命じなければ、この石は熱を返さない。なのに、リアには……)
「ねーねー、それよりみんな!ゆきだるま!おっきいゆきだるま、つくろ!」
「あ、いいわね!アレンのうさぎさんの、おっきい版よ!」
ミアとフィナの声が、僕の思考を強制的に日常へと引き戻す。
僕は「うん、つくる!」と満面の笑みで応じながら、巾着の紐を、いつもより固く結び直した。
夕暮れが近づき、グレシアさんが娘たちを回収する時間になった。
庭の切り株の上には、僕の雪うさぎを筆頭に、ミアの「なんだかわからない丸いもの」、フィナの「とんがった何か(本人曰くドラゴン)」、そしてリアの、驚くほど形の整った小さな雪の小鳥が、仲良く並んでいる。
「また明日もあそぼうね! ゆきだるま、こんどこそおっきいのよ!」
「アレン、ばいばーい!」
「……ばいばい、アレン。うさぎさん、じょうずだったね」
手を振る三人娘の向こうで、グレシアさんが僕にだけ見えるようにニヤリと笑い、声を落とした。
「ふふ、今日も両手に花……いえ、三輪かしらね?隅に置けないわぁ、アレンくんは」
(この人は、どうして毎回一言多いんだ)
僕が精一杯の無垢な笑顔で受け流すと、グレシアさんは「あはは!その顔よ、その顔!」と豪快に笑い、夕焼けに染まり始めた雪道を、娘たちの手を引いて帰っていった。
白い世界に、小さな足跡が四人分と大人一人分、点々と続いていく。
僕はその足跡が見えなくなるまで、軒下から見送っていた。
夕食は、マリア特製の、根菜と燻製肉の熱々のシチューだった。
「いやあ、今日は賑やかだったなぁ。アレンもいっぱい遊んでもらって、よかったな」
「ふふ、フィナちゃんたち、すっかり雪まみれで。……あなたもでしょう、ダリウス。『巨大魔物』さん?」
「うっ……み、見ていたのかい」
「ええ、窓から全部。とっても強そうな魔物だったわ」
マリアがくすくすと笑い、ダリウスが照れくさそうに髭を掻く。
僕が木匙でシチューの豆を追いかけていると、ダリウスがふと、思い出したように呟いた。
「……そういえば、なあマリア。今朝、薪割りの前に罠を見回ってきたんだが」
「あら、何か罠にかかってた?」
「いや、それがな。……空っぽなんだ。それも、ここ数日ずっとだ」
ダリウスの声音は、深刻というほどではない。だが、そこには猟師特有の、微かな引っ掛かりが滲んでいた。
「兎の足跡も、驚くほど少ない。雪が降る前ってのは、獣たちも食い溜めに動き回るもんなんだが……今年は妙に、森が静かでね」
「まあ……大丈夫なの?」
「はは、心配いらないさ。大方、冬が早いのを察して、みんな早めに巣に篭ったんだろう。獣ってのは、人間よりずっと鼻が利くからな。……まあ、蓄えは十分ある。何の問題もないさ」
ダリウスは笑って、シチューを豪快に頬張った。マリアも「それならいいけれど」と表情を緩め、話題は明日の薪の段取りへと流れていく。
僕も、木匙を口に運びながら、その情報を頭の隅の棚へ、そっと仕舞った。
(森が、静か。獣が、早めに隠れた。……ふうん)
合理的な説明だ。何もおかしくはない。おかしくは、ないのだが。
(……獣たちは、何を「察して」隠れたんだろうな)
一瞬だけ浮かんだその問いは、しかし、シチューの湯気と暖炉のぬくもりの前に、あっけなく溶けて消えた。今日の僕は、幸せすぎたのだ。
「そういえばね、ダリウス。グレシアさんから聞いたのだけど、リリアンさん、お腹の子がとっても元気に蹴るんですって」
「おお、そうかそうか!オーレンのやつ、春が待ちきれないだろうなぁ。雪が解けたら、祝いの品を持って顔を出さないとな」
「ええ、ぜひ。……ふふ、赤ちゃん、楽しみねぇ。小さいって、それだけで宝物だもの」
マリアがうっとりと目を細め、ダリウスが「ああ、本当に」と深く頷き、二人の視線が僕の上でぴたりと重なって、それから互いへと移り、なにやら甘やかな空気が食卓に漂い始めた。
――来たな、この流れ。
収穫祭の夜以来、我が家の両親は、輪をかけて仲睦まじい。それ自体は喜ばしい。喜ばしいのだが、薄い壁一枚を隔てて暮らす同居人としては、思うところがないでもない。
僕の中の、二十五歳の悪戯心が、ふと囁いた。
(……試してみるか。あの日、想像だけで終わらせた、あの一言を)
僕は木匙を置き、あどけなさを限界まで搭載した上目遣いで、二人を交互に見た。
「あのね。あれんね……おとうと、ほしいなぁ」
――時が、止まった。
ダリウスの木匙から、豆がころりと転げ落ちる。マリアの頬が、暖炉の火よりも赤く染まっていく。
「ぶっ……!?ア、アアア、アレン!?い、いきなり何を……!」
「あらあら、あらあらあら……まあ、まあまあ……」
狼狽して咳き込む父と、両頬を押さえて「まあ」しか言えなくなった母。予想を遥かに超える大質量の動揺に、僕は内心でしてやったりの笑みを浮かべた。
(ふっ……収穫祭の夜、僕の安眠を生贄に捧げた罪、その利子の一部を返してもらったぞ)
だが、僕はすぐに、自らの過ちを悟ることになる。
ダリウスとマリアは、真っ赤な顔のまま、そっと視線を交わした。そして、どちらからともなく、はにかむように、幸せそうに、微笑み合ったのだ。
「……そう、アレンは、弟が欲しいのねえ」
「そ、そうかそうか……うん、そうか……」
(……あれ?待て。この空気は何だ。おい、まさか、燃料を投下しただけなのでは……?)
僕は、自分の浅はかな復讐が、盛大に裏目に出たことを理解した。
(……今夜は早く寝よう。深く、深く、何も聞こえないくらい、深くだ)
一歳児は、シチューの残りを黙々と片付けることに全神経を集中させた。
夜。
予告通り毛布を頭まで被って早々に「就寝」した僕は、しかし、しばらくの間、眠らずに掌の中の石と対話していた。
暖炉の残り火が届かない、毛布の中の小さな暗闇。
僕は何も念じず、ただ石を握る。――冷たい。
「熱」を想起する。――じわり、と、あの拍動が応える。
想起をやめる。――再び、ただの冷たい石。
何度繰り返しても、結果は同じだった。この石は、僕の「意志」にしか応えない。握っただけで温かくなったことなど、ただの一度もない。
(なのに、リアは握っただけで「あったかい」と言った。「お腹の中に小さなお日様」とまで)
仮説その一、体感の個人差。子供の感覚は曖昧だ。あり得る。
仮説その二、偶然。僕が直前まで革袋の中で無意識に魔力の残滓を……いや、それなら僕自身が触れた時に感じるはずだ。
仮説その三。
(……リアには、生まれつき、この「熱」を感じ取る力が備わっている)
思い返せば、あの子は最初から、どこか「視えすぎて」いた。
僕の中身に潜む「大人」の気配を、村の誰よりも早く、正確に射抜いたのはリアだ。大人たちの誰もが「賢い子」で済ませる違和感の、その芯を、彼女だけが素手で掴んでみせた。
あれが、単なる直感ではなく――「感じる力」そのものの差、だとしたら。
(この村には、僕の知らない「才能」が、まだ眠っているのかもしれない。……面白くなってきたじゃないか)
焦る必要はない。検証の機会は、この長い冬の間に、いくらでも作れるはずだ。次に会う時は、石の温度を条件を変えて……いや、待て、幼女相手に実験を企てるな、僕。友達だろう。
自分で自分に突っ込みを入れ、僕は小さく吹き出した。
毛布から顔を出すと、窓の外では、雪がまだ静かに降り続いていた。
今日一日の出来事が、暖かな走馬灯のように巡る。
掌で溶けた、初雪のひとひら。雪うさぎを見た父の驚いた顔。フィナの背中に雪玉を「ぽん」とした時の、リアとの秘密の頷き。ミアの無差別砲撃。蜂蜜ミルクを噛みしめるリアの横顔。真っ赤になった両親。
(……前世の僕が聞いたら、鼻で笑うだろうな。「そんな一日の、何がそんなに大事なんだ」って)
大事なんだよ。
窓越しじゃない雪も。届く距離にいる友達も。うるさいくらいの家族の声も。その全部が、あの白い病室には、ひとつもなかったんだから。
僕はこの世界の冬が、もう好きになり始めていた。
明日はフィナと約束した、大きな雪だるまを作る。ダリウスに頼んで、土台の玉だけ転がしてもらおう。リアの雪の小鳥の隣には、何を並べようか。
そんな幸せな算段を、ひとつ、ふたつと数えているうちに、瞼が重くなっていく。
しんしんと降り積もる雪が、村を、森を、世界のすべてを、白く、静かに覆い隠していく。
――雪は、あらゆる音を、隠してしまう。
梢のざわめきも、獣たちの息遣いも。
……近づいてくる何かの、足音さえも。
けれどその夜の僕は、そんなことを知る由もなく、掌の中の小さな石のぬくもり――僕だけの秘密の熱に包まれて、どこまでも深く、幸福な眠りへと落ちていった。
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