第二十九話:白い檻と、石のいらない手
初雪のあの日、空から舞い降りてきたものが「白い羽毛」だったとすれば――いま、家の外で吼え続けているものは、飢えた「白い獣」の群れだった。
ゴウッ、と風の塊が壁へ体当たりするたび、板戸が軋んで悲鳴を上げ、太い梁が低く呻く。煙突は昼夜の別なく笛のような唸りを漏らし続け、屋根の上では、姿の見えない巨大な何かが、飽きもせず延々と転げ回っているような音がしていた。
初雪から数えて数日目の朝。村は、この冬最初の本格的な吹雪に、すっぽりと呑み込まれた。
夜明け前、僕は毛布の中で目を覚まし、しばらくのあいだ、ただその音の洪水に耳を澄ませていた。
不思議なものだ。あの初雪の朝、世界を満たしていたのは、あらゆる音を綿で包み込んだような、深い深い静寂だった。同じ「雪」でありながら、今日のそれは正反対――世界のすべてを掻き回し、揺さぶり、白一色に塗り潰そうとする、荒々しい咆哮の塊でしかない。
静寂と、咆哮。優しさと、暴威。同じものが持つ、ふたつの顔。
(……この世界は、いつだってそうなんだよな。恵みと脅威が、同じ籠の中に、無造作に放り込まれている)
豊かな森は獲物をくれるが、迷えば人を呑む。夏の陽は麦を実らせるが、日照りは畑を殺す。そして雪は、最高の遊び場であると同時に――人をたやすく凍えさせる、白い死そのものでもある。
前世の僕が暮らした世界では、自然はガラスと空調の向こう側へ、とうの昔に追いやられていた。台風は画面の中の渦であり、寒波は電気代の話だった。けれどここでは、壁一枚。たった板一枚を隔てた向こうで、剥き出しの世界が牙を鳴らしている。
その事実は、少し恐ろしくて――そして同じくらい、僕の背筋を静かに伸ばさせた。
夜が明けきる頃、ダリウスが一度だけ外へ出た。
扉が開いたほんの数秒間、白い奔流が土間へ雪崩れ込み、暖炉の炎が大きくのけぞった。戻ってきた父は、そのわずかな時間で全身を白の彫像に変えられていて、髭にまで細かな氷の粒を光らせていた。
「これは…しばらく居座るかもね」
外套の雪を払いながら、父はさして深刻でもない声で言った。彼はその短い外出のあいだに、扉の前の雪を掻き、家と薪小屋とのあいだへ太い縄を一本、ぴんと張り渡してきたのだという。
それから父は僕の前へ膝を折り、視線の高さを合わせた。いつもの蕩けるような甘さをきれいに引っ込めた、猟師の眼だった。
「アレン、いいか。ああいった縄を、『命綱』って言うんだ。吹雪の中じゃ、たった十歩先の小屋さえ見えなくなる。方向が分からなくなって、自分の家の庭で凍える奴だっているんだ」
上も下も、白に呑まれる。だから外仕事の時は、この縄だけを命の頼りに歩く。そして――。
「だから、何があっても、一人で扉を開けちゃいけない。……約束だよ、アレン」
「うん。アレン、おそと、いかない。やくそく」
こくり、と頷いたのは、演技ではない。魂からの、全面降伏だった。
板戸の隙間からほんの一瞬だけ覗いた外は、右も左も、空も地面もない、ただの白だった。距離という概念そのものが漂白された、遠近のない世界。あの中へ、この体積と熱容量しか持たない一歳児が踏み出せば、比喩でも誇張でもなく、十分と保たずに小さな氷像がひとつ出来上がるだけだろう。
そして、その白の向こう。庭の切り株の上に並んでいたはずの、あの小さな住人たち――僕の雪うさぎも、リアの雪の小鳥も、フィナの自称ドラゴンも、ミアの「丸い何か」も。あの午後の楽しさをそのまま形に残した合作の展示場は、もう、とっくに吹き飛ばされたか、深い白の底へ沈んだかしてしまったに違いなかった。
胸の奥が、すう、と薄ら寒くなる。分かりきっていたことだ。雪で出来たものは、いずれ雪に還る。それでも、もう一度くらいみんなで並んで眺めたかったという子供じみた未練が、僕の中の二十五歳を素通りして、じくりと疼いた。
……けれど、しょげてばかりもいられない。
視点を変えれば、この吹雪は僕にとって、願ってもない贈り物でもあったのだから。
外には出られない。来客も、当然ない。ダリウスは屋内の仕事に専念し、マリアは糸車と保存食の管理に忙しい。つまり――誰にも邪魔されず、怪しまれもせず、細切れの時間のすべてをあの「日課」へ注ぎ込める、天然の修行場が、ここに完成したということである。
(名付けて、「白い檻の強化合宿」。……開幕といこう)
それに――「閉じ込められている」という圧迫感は、この家には不思議なほど薄かった。
薪小屋には、秋のあいだダリウスが割り続けた薪が、壁のように積み上がっている。梁からは燻製肉が吊るされ、床下の甕には塩漬けの野菜が眠り、粉袋には麦が満ちている。あの冬支度の日々、家族が一手ずつ積み上げてきたものたちが、いま、白い獣の咆哮を素通りさせる静かな砦になっていた。
備えとは、こういうことか、と僕は妙なところで感じ入った。吹雪の只中で、誰も怯えることなく、湯気の立つ粥を啜れること。それが、どれほど贅沢な奇跡であることか。
僕の一日は、変わらず、家族の誰よりも早く始まる。
暖炉の熾火だけが微かに赤い、夜明け前の薄闇。両親の規則正しい寝息と、壁の外で吼え続ける風の声。それだけが世界のすべてになる、僕だけの時間だ。
毛布の中で身体を丸め、枕元の革巾着の紐をそっと解く。転がり出た藍色の石を右の掌に乗せると、ひやりとした鉱物の感触が、寝起きの意識の輪郭をきゅっと引き締めた。
目を閉じ、意識をその一点へ沈めて、「熱」を想起する。
――じわり。
皮膚の内側で、あの拍動が目を覚ます。石の色までは見えない暗さだが、掌にはたしかに、暖炉のそれとは別種の、内側から染み入るような熱が灯っている。
ここまでは、もう慣れたものだ。何百回と繰り返してきた、いわば準備運動である。
本番は、ここからだった。
息をひとつ、細く、長く吐く。
(……いくぞ。三、二、一――離す)
左手の指で、そっと石を掌の外へ転がす。
「支え」を失った途端、掌の内の熱は、栓を抜かれた湯のように、するすると輪郭を失っていく。一秒。二秒。三――……そこで、消えた。
あとに残るのは、いつも通りの、自分の体温だけの、なんの変哲もない小さな掌。
(……今朝も、三秒か)
暗闇の中で、音のない溜息をひとつ。
これが、ここ数日、僕の前に立ちはだかり続けている「壁」だった。
石を握っているあいだは、熱を灯せる。紅、藍、深緑、金――四つの色と感覚を呼び分けることも、もうできる。だが石を手放した瞬間、その感覚は、指の間から零れ落ちる砂のように失われてしまう。
要するに今の僕は、補助輪付きの自転車を得意げに乗り回しているだけの段階なのだ。
この石の正体について、僕にはひとつの仮説があった。
(……たぶん、こいつは「音叉」なんだ)
前世の記憶の隅、小学校の音楽室。埃っぽい戸棚の中に転がっていた、Uの字の金属棒。軽く叩けば澄んだ「基準の音」を長く鳴らし、楽器や歌声は、その一音を頼りに正しい高さへと調律されていく。
この石が、熱を生んでいるわけではない。それはもう検証済みだ。熱はいつだって、石の中ではなく、僕の皮膚の内側で拍動している。つまりこの石は、僕の鈍い知覚に向かって「魔力とは、この感覚だ」という基準音を鳴らし、僕の中に元からある何かを、外から揺り起こしてくれているに過ぎない。
なら、理屈は単純だ。基準音を、身体そのものに刻めばいい。音叉がなくとも正しい音程で歌い出せる歌い手のように――石がなくとも、この感覚を自力で起こせるようになればいい。
理屈は、単純明快。
実行は――地獄だった。
石で起こす。離す。三秒で消える。もう一度、起こす。離す。今度は二秒。集中の糸を張り詰めすぎて、こめかみの奥がずきりと痛む。目を開け、呼吸を数え、痛みが引くのを待って、また起こす。離す。……三秒。
進歩は、あるのかないのか分からないほど遅かった。昨日の三秒と今日の三秒のあいだに、いったい何の違いがあるのか。積み上げているのか、ただ同じ場所を延々と踏み固めているだけなのか。それすら判然としないまま、僕は反復を続けた。
合宿の時間割は、自然と、家の呼吸に沿って編まれていった。夜明け前の薄闇で、ひと勝負。朝餉のあと、マリアが竈へ立つ気配を確かめて、ひと勝負。昼下がり、糸車の音が途切れず続いているのを聴きながら、毛布の中でもうひと勝負。回数を数えるのは、途中でやめた。数えれば、伸びない日の数字が、心を齧るからだ。
こういう時間の過ごし方だけは、前世で嫌というほど鍛えられていた。
結果の出ないリハビリ。改善しない検査の数値。それでも毎日続けるほかにやることのない、白い天井の下の十五年。あの日々が僕に遺したものがあるとすれば、それは「報われる保証のない反復に、心を殺されないこと」――ただ、それだけだ。
(……皮肉なもんだよなあ。あの十五年の一番の収穫が、異世界の布団の中で役に立つなんてさ)
幸い、吹雪は最高の隠れ蓑だった。壁の外で獣が吼え続けてくれているおかげで、幼児が屋内で長々と静かにしていても、誰も不思議には思わない。
……はずだった。だが、その隠れ蓑には、思わぬ綻びがあった。
吹雪三日目の、昼下がりのことである。
毛布にくるまり、例の反復の只中にあった僕の視界へ、ふいに影が差した。薄目を開けると、いつの間にか糸車の前を離れたマリアが、すぐ目の前にしゃがみ込んで、僕の顔を心底心配そうに覗き込んでいた。
「アレン。さっきからずうっと難しいお顔で唸ってるけれど……もしかして、うんちが、出ないの?」
「…………ふぇ?」
極限まで研ぎ澄まされていた集中は、その一言で、粉々に砕け散った。
言われて初めて、僕は自分の姿を客観視した。眉間に皺を寄せ、頬を強張らせ、毛布の中で微動だにせず固まったまま、時折こらえるように低く唸る幼児。……なるほど。それはどこからどう見ても、便意と孤独に格闘する者の姿以外の、何物でもなかった。
「お腹が痛いなら、白湯をあっためましょうか。それとも……おまる、持ってくる?」
「ち、ちがう!アレン、へいき!……ねんね、してた、だけ!」
目を開けたまま、ねんね? ――と、母は小首をかしげ、それからくすくすと肩を揺らして僕の頭をひと撫でし、糸車へと戻っていった。
僕は毛布を頭まで引き上げ、その暗がりの中で、声もなく悶絶した。
(魔力修行が……便秘と、誤認された……)
神秘も威厳も、あったものではない。古今東西の転生者たちよ、笑わば笑え。以後、集中する時は毛布を頭まですっぽり被り、完全なる「お昼寝」の体裁を貫き通すことを、僕はこの日、固く固く心に誓ったのだった。
吹雪に閉ざされた家の中は、けれど、退屈な牢獄では決してなかった。
むしろそこには、外界から切り離されたぶんだけ、煮詰めた蜜のように濃縮された「冬の幸福」が満ちていた。
カラカラ、カラカラ……と、規則正しく回り続けるのは、窓際に据えられたマリアの糸車だ。彼女は板戸の隙間から入るわずかな明かりの下、洗い上げた羊毛の、雲のような束から、細く均一な糸を、まるで手品のように引き出していく。羊毛の脂と乾いた埃のまじった優しい匂いが、暖炉の熱にゆるく温められて、部屋のすみずみへ広がっていた。
その手元へ、時折、ふんふん、と小さな鼻歌が添えられる。
その旋律に、僕は聞き覚えがあった。当然だ。忘れるはずがない。収穫祭の夜、この居間で、父が母へ捧げた、あの不器用で真っ直ぐな愛の歌。あれ以来マリアは、家事の合間のふとした折々に、あの琥珀色の旋律を、本人もまるで気づかぬ様子で口ずさむようになっていた。
そして、そのたびに、だ。
部屋の反対側で薪の皮を剥いでいたダリウスの手が、ぴたりと止まる。うなじから耳の先へかけてが、じわじわと、篝火のように赤く染まっていく。
「……マ、マリア。その、歌……」
「あら、ごめんなさい。つい口から出ちゃって。……お嫌だった?」
「い、嫌なわけがないさ!ただ……その、嬉しくて、心臓が保たないだけで……」
歌の主に他意はない。完全なる無意識である。無意識であるがゆえに、聴かされる側の破壊力は倍増するらしく、父は剥きかけの薪を握りしめたまま俯き、母は「なあに、それ」と鈴を転がすように笑った。
――ごちそうさまです。
僕は積み木――ダリウスが端材で拵えてくれた、不揃いな木片の山だ――を積む手を止めないまま、視線だけを全力で明後日の方向へ固定した。
収穫祭のあの夜以来。そして、僕が夕食の席で放ってしまった、例の「おとうと発言」以来。我が家の空気は、明らかに、日を追うごとに糖度を増していた。
マリアがシチューをよそう時、ダリウスの椀にだけ、こっそり肉がひと切れ多い。ダリウスが薪をくべる時、マリアの座る側の炎が、心なしかいつも少しだけ大きい。ふとした拍子に視線が絡んでは、結婚六年目とは思えぬ初々しさで、二人してはにかんで逸らす。塩壺を取ってもらった、ただそれだけのやり取りに、砂糖でも混ぜ込んであるのかと疑いたくなる「ありがとう」が添えられる。
(……眩しい。直視できない。誰だ、この夫婦に燃料を投下した愚か者は。……僕だ)
反省は、している。後悔は――まあ、半分くらいは、している。残りの半分は、暖炉の火よりあたたかいこの空気の中で、ぬくぬくと惰眠を貪っていた。
四日目の午後には、僕はマリアの「助手」に任命された。
紡ぎ上がった糸を、絡まぬよう毛糸玉へ巻き取っていく作業である。
「アレン、お手々、こうやって出せる? ……そうそう、上手。この糸をね、こうやって、くるくるって巻いていくの」
母は僕の両手首へゆるく糸の輪を掛け、そこから手繰った糸を、くるくると玉に育てていく。僕の仕事は、両手をぴんと立てて、その輪を支え続けること。ただ、それだけ。
ただそれだけの仕事が、存外の破壊力を秘めていた。
母と至近距離で向かい合い、伏せられた睫毛と、糸を繰る白い指先とを、正面から眺め続ける特等席。カラカラという糸車の余韻。母の膝の上で、くるくると太っていく毛糸玉。時折「上手ねえ」と降ってくる賛辞と、目が合うたびに向けられる、ふわりとした微笑み。暖炉の熱。羊毛の匂い。規則正しい、母の呼吸の音。
……三十分後。僕は両腕を律儀に立てた姿勢のまま、こっくり、こっくりと船を漕ぎ、気づいた時にはマリアの膝を枕とした昼寝へと、抵抗の余地なく移行させられていた。幼児の肉体は、幸福な単純作業の前に、あまりにも無防備すぎた。
そして――そんな穏やかな日々の中で、僕はひとつ、父の「秘密」に気づいていた。
夕食のあと、暖炉の前で猟具の手入れをするのが、冬のダリウスの日課だ。弓の弦の張りを確かめ、罠の金具に獣脂を差し、ナイフを丁寧に研ぐ。火影の中で黙々と道具へ向かう父の横顔は、昼間の親馬鹿ぶりが嘘のように引き締まっていて、僕はその横顔を盗み見るのが、密かに好きだった。
だが、ここ数日。彼はその日課の締めくくりに、決まって何か小さなものを物入れから取り出しては、僕へ大きな背を向けるようにして、こっそりとナイフを動かしているのだ。
シュッ……シュッ……と、木を薄く削ぐ、遠慮がちな音。時折それを明かりへ翳しては首を捻り、また削る。マリアと目が合うと、二人は意味ありげな、共犯者の微笑みを交わす。そして僕が近づく気配を見せた途端、ダリウスは猟師の反射神経をここぞとばかりに無駄遣いしてそれを腰の物入れへ滑り込ませ、
「な、なんでもないぞ?父さんはただ、ナイフの調子を見ていただけだからな?」
と、世界で一番分かりやすい隠し事の顔をするのだった。
(……何かを彫ってるな。僕に隠すってことは、十中八九、僕に関わる何かだ)
中身の想像は、あえてしないでおくことにした。詮索は野暮というものだ。僕は完璧な「気づいていない幼児」を演じながら、火影の中で少しずつ形を成していくその小さな秘密が完成する日を、密かに、楽しみに待った。
その夜のことだ。夕餉のあとの団欒の最中、外の風がひときわ強く咆え、家全体がぐらりと揺れたような錯覚が走った。板戸がびりびりと震え、針仕事の途中だったマリアの手が、不安げに止まる。
するとダリウスは、僕をひょいと膝へ抱き上げ、どっしりと構えて笑った。
「大丈夫さ。この家の梁はな、じいさんの代に、森で一番硬い樫を選んで組んだもんだ。この程度の風で参るような、柔な造りじゃない」
「……じいさん?とうさんの、とうさん?」
「そうだ。アレンの、じいちゃんだな。……父さんがアレンより少し大きいくらいの頃にもな、こんな吹雪があったんだよ」
父はそのまま、昔語りの柔らかな低声で、幼い日の思い出をひとつ、聞かせてくれた。
幼いダリウス少年は、扉のすぐ外へ薪を取りに出ただけのつもりで、白の中、ものの三歩で方向を見失いかけたのだという。
あの時の白は、ただ白いのではない。
上も下も、音も距離も、まるごと呑み込まれる。凍りつくような心細さの中、腰の縄をむんずと掴んで引き戻してくれたのが、祖父だった。
以来、祖父は吹雪のたびに必ず、家と小屋のあいだへ縄を張った。今朝ダリウスが張ったあの命綱は、そうして手から手へ渡されてきた、冬を生き延びるための知恵だった。
「じいさんは、いつも言ってたよ。――冬と森を、絶対に舐めるな。だが、正しく怖がれば、ちゃんと越えられる、ってな」
大きな掌が、僕の頭をゆっくりと撫でる。いつかアレンにも全部教えてやる、縄の張り方も、雪の読み方も、風の匂いの嗅ぎ分け方も、全部だ――と、父は、当たり前に訪れる未来の約束として、こともなげに言った。
マリアが針を置き、亡き義父の思い出をひとつふたつ、懐かしそうに語り添える。口は悪いが、情の深い人だったこと。ダリウスの「優しさ」は、あの父親と、早くに逝った心根の柔らかな母親から、半分ずつ受け継いだものに違いないこと。
僕はダリウスの膝の上で、背中に伝わる低い声の振動に身を委ねながら、静かに聞き入っていた。
(……こうやって、渡っていくんだな)
縄の張り方が。歌が。梁に使う木の選び方が。「正しく怖がれ」という言葉が。手から手へ、膝から膝へ、火の側の夜語りを介して、確かに渡っていく。
前世の僕の枕元には、最新の医療機器と、清潔な白と、決まった時間の検温があった。
あれらは間違いなく僕を生かしてくれた。
けれど、あの部屋で僕に「手渡された」ものが何かあったかと問われれば――思い出せるのは、消毒液の匂いくらいのものだ。
暖炉の炎が、ぱちり、と優しく爆ぜた。外では相変わらず白い獣が吼えていたが、その咆哮すら、いまは夜語りの背景に流れる、遠い音楽のように聞こえた。
吹雪、五日目。
風はいくらか勢いを落としたものの、空は依然として厚い雲に塞がれ、村はまだ白い喧騒の底にあった。
僕の記録は、三秒から、五秒に伸びていた。
たった二秒。されど二秒――と、胸を張りたいところだが、正直に言えば、僕は焦れ始めていた。
反復の量は裏切っていないはずだ。集中の深さも、日に日に増している自覚がある。それでも伸びは遅々として、この調子であと何百回、何千回繰り返せば「石のいらない手」へ届くのか、道の長さがまるで見通せない。
そして、目を閉じるたび、ふと、あの日の光景がちらつくのだ。
暖炉の前。小さな両手で石を包み、こてんと小首をかしげた、漆黒の瞳の少女。
――あったかい。おなかのなかに、ちいさいおひさまが、いるみたい。
(……リアは、これを、何の訓練もなしに感じ取ったっていうのか)
僕が石という音叉に頼り、何ヶ月も暗闇を這いずり、何百回の反復の果てにようやく指先へ引っ掛けたものを。もし彼女が、生まれ持った「耳」だけで聴いているのだとしたら。
(……才能って、残酷だなあ)
僻みがちくりと胸をかすめ、僕は小さく頭を振ってそれを払った。他人の耳の良さを羨んだところで、僕の記録は一秒も伸びない。凡人には凡人の、地道な階段を上るしか道はないのだ。
――転機は、その夜に訪れた。
いつものように石で熱を起こし、離し、零れ落ちていく感覚へ必死に追いすがり……その何十回目かで、ふと、僕はあることに気づいた。
熱が消える時。それは「冷める」というより、「逃げる」に近い。
掴もうとすればするほど。握り込もうとすればするほど。それは指の間の砂のように、むしろ速く、するりと抜けていく。
(……掴もうと、すればするほど……?)
引っ掛かりを覚えた僕は、次の一回で、これまでとは真逆のことを試した。
石で熱を起こす。離す。そして――追わない。
消えるなら消えてみろと半ば開き直って、全身から力という力を抜く。呼吸を深く、長く。熱を「所有物」として握り締めるのではなく、すぐ隣で鳴り続けている「音」として、ただ、耳を澄ませる。
――五秒。六秒。……七。八。九……。
(……え?)
熱は、消えなかった。
薄く、淡く、吐息ひとつで途切れそうな灯のまま。けれど確かに、僕の掌の内側で、拍動を続けていた。十を数え、十二を数えたあたりで、それはようやく、名残を引くようにして静かに解けていった。
毛布の中の暗闇で、僕はしばらく、開いたままの自分の掌を見つめていた。見えるはずもないのに、見つめずにはいられなかった。
(そうか。……「握る」んじゃない。「聴く」んだ)
目から鱗が、盛大な音を立てて落ちていた。
前世の僕は、何であれ「制御」で考える人間だった。数値を測り、手順を固め、力ずくで再現性を上げていく。ベッドの上の十五年で僕に許された唯一の戦い方が、それだったからだ。
管理し、把握し、掌握する。そうやって自分の病状を「攻略対象」に置き換えでもしなければ、あの白い部屋の中では、心のかたちを保つことすらできなかった。
けれど、この力は、どうやら根本から流儀が違う。
これは制御ではなく――同調だ。首根っこを掴んで従わせるものではなく、呼吸を合わせ、隣に座り、寄り添うもの。力めば逃げ、委ねれば留まる。
(……肩の力を抜いた途端に、世界の解像度が上がる、ときたか。理屈で世界を殴り続けてきた僕への、ずいぶん皮肉の効いた説教じゃないか)
不思議と、悔しさはなかった。あるのはただ、深い場所で何かがひとつ繋がったような、静かな納得だけだった。
その夜、僕の記録は一気に十秒を超えた。目の前に聳え続けていた壁へ、確かな罅の入る音を、聞いた気がした。
六日目の朝は、「音のなさ」で始まった。
五日間、途切れることなく世界を揺らし続けた獣の咆哮が、嘘のように消えている。目を開けるより先に耳がそれを教え、次いで、板戸の隙間から差し込む光が、久しぶりの、まっすぐな太陽の色をしているのが分かった。
「おお……こりゃあ、積もったなあ」
雪掻きに出たダリウスが、扉の外で感嘆とも溜息ともつかぬ声を上げる。その肩越しに覗いた世界は、記憶よりもさらに嵩を増した、まばゆい白銀だった。
朝日を浴びた雪原は、無数の光の粒を撒き散らしたようにきらめいて、目の奥が痛いほどだった。軒先には僕の腕ほどもある氷柱が牙のように連なり、その切っ先から、ぽたり、ぽたりと、晴天の最初の雫が落ち始めている。空気は刃物のように冷たく澄み、深く吸い込むと、自分の肺の形が内側から分かるようだった。遠くからは、村のあちこちで雪を掻く音や、久しぶりに外へ出た誰かの明るい笑い声が、澄んだ空気を渡って、きれぎれに届く。五日ぶりに、村が呼吸を再開した音だった。
そして――庭の切り株は、影も形もなく、白の下に消えていた。
当然、あの上に並んでいた小さな住人たちも、だ。うさぎも、小鳥も、ドラゴンも、丸い何かも。みんな、深い深い、白の底。
「……うさぎさん、いなくなっちゃった」
ぽつりと零れたのは、演技ではない、素のままの呟きだった。分かりきっていたことなのに、まっさらに均された切り株のあった辺りを実際に目にすると、胸の奥の薄ら寒さは、思ったよりも素直に、言葉になって落ちた。
すると、背後で、ダリウスとマリアが目配せを交わす気配がした。振り向くと、二人は堪えきれないという顔で、ふふ、と笑い合っている。
「アレン。……ちょっと、こっちへおいで」
暖炉の前へちょこんと座らされた僕の前で、ダリウスが、腰の物入れから小さな布包みを取り出した。ここ数日、火影の中で削られ続けてきた、あの「秘密」だ。
「ほら。……父さんから、アレンに」
ごつごつとした大きな指が、布を、そっと開いていく。
中にいたのは――木彫りの、うさぎだった。
僕の掌にすっぽり収まるほどの、小さな小さなうさぎ。丸い胴に、丸い頭。ぴんと立った、ふたつの耳。ナイフの跡がところどころに浅く残り、それでいて隅々まで滑らかに磨き上げられた、木のうさぎ。
あの日、僕が雪で作ったうさぎと――同じ、形をしていた。
「雪のうさぎはね、春が来れば、どうしたって解けてしまう。吹雪が来たら、埋もれてしまう。……でもね、これは解けない。アレンの作ったあれが、父さん、なかなかどうして大したもんだと思ったからさ。ずっと残るやつを、ひとつ、こしらえてあげたくなったんだ」
それから父は、照れくささを誤魔化すように髭の浮いた頬をぼりぼりと掻いた。
「ただ……その、耳のところでしくじってね。左右で長さが違うんだ…ははは、父さんはどうも、彫刻家にはなれそうもないや」
僕は、両手で、そのうさぎを受け取った。
木の、乾いた、あたたかな手触り。削り跡のかすかな凹凸が、指の腹へ優しく引っ掛かる。鼻先を寄せると、ふわりと、森の匂いがした。父が毎日通う、あの深い森の匂いだ。左右の長さが違う耳は、なるほど確かに不格好で――だからこそ、この世界にひとつしかない形を、していた。
喉の奥が、きゅう、と音もなく詰まった。
消えていくものを惜しむ子供のために、消えないものを彫って渡す。ただそれだけの、きっとどこの家の炉端にも転がっているような、なんてことのない親心。
前世の僕の枕元に並んでいたのは、清潔な機械と、決まった時間の検温と、消毒液の匂いだった。あれらは間違いなく、僕を生かしてくれた。けれどあの十五年のどこを探しても、「誰かの手の跡が残るもの」は、ひとつも見つからないのだ。
いまの僕の掌の上には、父のナイフの跡が残る、木のうさぎがいる。
「……とうさん」
「ん?」
「……だいすき。うさぎさんも、だいすき。……アレンの、たからもの、にする」
精一杯の、ありったけの語彙で、それだけを伝えた。
ダリウスは数瞬、ぽかんと固まり――それから、堤防が音を立てて決壊したような顔になって、僕を天井すれすれまで抱え上げようとし、
「はいはい、朝ごはんが先ですよ」
と、マリアに首根っこを押さえられていた。
その日から、僕の枕元の住人は、二人になった。
革の巾着の中で眠る、藍色の石。その隣にちょこんと座る、耳の不揃いな、木のうさぎ。夜、寝床へ入るたびに、うさぎの丸い背中をひと撫でするのが、僕の新しい習慣になった。
そして、その夜。
家中が寝静まり、暖炉の熾火だけが微かに息づく、いつもの時間が来た。
毛布を頭まで被った僕は、いつものように革巾着の紐へ指を掛けて――その手を、途中で、止めた。
(……今夜は。最初から、石なしで、いってみようか)
ただの気まぐれでは、なかった。
「聴く」ことを覚えてからの二晩で、石に起こしてもらった熱を保てる時間は、十秒を優に超えるところまで来ていた。基準の音は、もう何百回、何千回と、この身体に響かせてきた。だったら、そろそろだ。音叉なしの最初の一音を、自分の喉で。
僕は巾着へ触れないまま、小さな両の掌を、胸の前でゆるく重ねた。
目を閉じる。呼吸を、深く、長く。吹雪の去った夜は恐ろしいほどに静かで、聞こえるのは両親の寝息と、とく、とく、と鳴る自分の心音だけだ。
記憶の底から、あの感覚を、丁寧に、丁寧に手繰り寄せる。
石が最初に教えてくれた日の、あの熱。皮膚を透過し、血管を遡り、神経の束へじかに融け込んでくる、実体のない、濃厚な熱。何百回の反復でこの身体に刻みつけてきた、拍動の速さ。深さ。温度の、きめ。
掴まない。追わない。力まない。
ただ、正確に思い出して――そっと、隣の席へ、呼ぶ。
……。
…………。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。掌は、冷たいままだ。
じわり、と額に汗が滲む。こめかみの奥が鈍く脈を打ち始め、焦りが砂粒のように、集中の隙間へ潜り込もうとしてくる。無理もない、と自分に言い聞かせる。石の助けがあってさえ、灯すまでには一呼吸かかるのだ。何の支えもない虚空から呼ぼうというのだから、これしきで音を上げてどうする。
(力むな。……思い出せ。もっと正確に、もっと深く。……あの音を、聴くんだ)
どれほどの時間が、経っただろう。
張り詰め続けた集中の糸が、ついに限界を迎えて、ふっ――と緩んだ。その、力の抜け落ちた一瞬の、狭間だった。
――とくん。
掌の奥で、何かが、小さく鳴った。
(……!)
じわり、と。
熱が――灯る。
石は、ない。掌の上には、何ひとつ乗っていない。それなのに、あの拍動が――薄く、淡く、両手で囲った蝋燭の火のような頼りなさで――確かに、僕の内側で息づいていた。
僕が。僕の意志だけで。何の支えもなしに、起こした熱だった。
声は、出さなかった。出せなかった。喉元まで迫り上がった歓声を奥歯で噛み殺し、その代わりに、固く閉じた目尻からひとすじだけ、熱いものが零れるのを許した。
初雪の朝と、同じだった。掌の上で溶けていく雪のひとひらに、泣きそうになった、あの朝と。
誰かに与えられたのでも、道具に助けられたのでも、もう、ない。この小さくて、頼りなくて、けれどどこまでも健康な身体が、自分の力だけで、世界の見えない扉を、こつんとひとつ、叩いたのだ。
指一本動かすにも誰かの手を借りるしかなかった、あの十五年の果ての、この僕が。
(……見てるか、木村陽平。お前の二十五年は、無駄なんかじゃなかったぞ。諦めの悪さと、報われない反復に耐える心臓だけは……ちゃんと、こっちへ届いてる)
熱は、十秒あまりで、静かに消えていった。
消えていくその瞬間まで、僕はそれを「聴いて」いた。逃げられたのではない。最後まで見届けて、見送ったのだ。その違いが、たまらなく誇らしかった。
もう一度。
二度目は、一度目より少しだけ早く灯った。三度目は、さらに早く。四度目に挑もうとしたところで、こめかみへ釘を刺すような鈍痛が走り、僕は素直に両手を解いた。未発達な脳への負荷は、慎重の上にも慎重を重ねて管理しなければならない。焦って器そのものを壊してしまえば、元も子もないのだから。
(今夜は、ここまで。……でも、掴んだ。今度こそ、この手で)
石を使えば、四つの色と感覚を呼び分けられる。石がなくとも、基準の「熱」を自力で灯せる。補助輪が完全に外れたわけではない。それでも今夜、片方の車輪は、確かに地面から浮いたのだ。
達成感の、心地よい余韻に浸りながら、僕は毛布の中で小さな手足を伸ばし、ほう、と長く深い息を吐いた。
……そこで、ふと、気づいた。
(……あれ?)
何かが、おかしい。
僕はかれこれ一刻近く、毛布を頭からすっぽり被ったまま、ほとんど身動きせずにいた。普通なら、中の空気はとっくに自分の吐いた息で蒸れ、湿り、淀んでいる頃合いだ。現にこの合宿の初日には、途中で何度か毛布から顔を出しては、こもった空気を入れ替えていたのだから。
なのに――今夜の毛布の中の空気は、妙に、澄んでいた。
淀むどころか、深く吸い込めば、微かに甘いような、ひやりと清々しいような。そう、たとえるなら、雪の朝の森で吸い込む空気に似た、透明な味さえする気がする。
僕は試しに毛布の端をわずかにめくり、外の空気と吸い比べてみた。……大差、ない。どちらも同じくらい澄んでいる。強いて言えば、毛布の中のほうが、ほんのわずかに「美味しい」くらいだ。僕自身の吐いた息が一刻ぶん溜まっているはずの、この狭い空間のほうが、だ。
(…………変なの)
首を捻ってはみたものの、考えたところで答えを出せる材料が、いまの僕には何ひとつなかった。大方、成功の高揚で感覚が浮かれているのだろう。人間、嬉しい時には、飯も空気も美味くなるものだ。
僕はその小さな小さな違和感を、今夜の大戦果が放つ眩い輝きの隅へと追いやり、枕元の木のうさぎの、丸い背中をひと撫でした。
明日は、何をしよう。
この晴れ間が続けば、雪掻きの済んだ道を通って、フィナたちがまた押しかけてくるに違いない。約束していた「おっきいゆきだるま」も、この記録的な積雪なら、過去最大級のものが建てられるはずだ。土台の玉は、あの「巨大魔物ダリウス」に転がしてもらうとしよう。切り株の上の展示場だって、また一から作り直せばいい。リアの雪の小鳥の隣には、今度は、何を並べようか。
石のいらない手に、灯したばかりの、小さな火種。
それを胸の奥で大切に囲いながら、僕は、妙に美味しい冬の夜気を胸いっぱいに吸い込んで――どこまでも深く、幸福な眠りの底へと、沈んでいった。
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