第二十四話:静かな散歩道、確信の微笑み
朝の光が、まだ低い位置から鋭く差し込み、村を包む霧をゆっくりと溶かしていく。
僕は今、我が家の前の小さな庭で、幼いこの肉体が到達した「新たな領地」を確認していた。
これまでの歩行は、単に重心を前に倒し、倒れる前に足を出すという、綱渡りのような不安定な動作の連続だった。
しかし、ここ数日の「リハビリ」の成果か、僕の脳はついにこの未発達な筋肉との同調率を一段階引き上げることに成功したらしい。
――今、僕の身体には明確な「バランス感覚」の芯が通っている。
トテトテ、トテトテ。
地面を蹴るたびに、小さな靴が小気味よい音を立てる。
前世の僕からすれば、それはおぼつかない千鳥足にしか見えないだろう。
だが、今の僕にとっては、風を切って走るという行為そのものが、震えるような歓喜を伴うスポーツだった。
「う、うー……っ!」
僕はわざとスピードを上げ、庭の隅にある大きな石を目掛けて突進した。
直前で重心を右に預け、小さな円を描くようにして急旋回する。
視界がぐにゃりと歪み、冷たい秋の空気が頬を撫でていく。
この「思い通りに身体を操っている」という感覚は、不自由な赤ん坊時代を過ごした僕にとって、何物にも代えがたい自由の証明だった。
(……すごい。走れる。自分の意志で、この世界を駆け抜けている!)
扉を開け、僕を外へと送り出してくれたマリアが、軒下から温かな眼差しを向けている。
「アレン、あんまり遠くへ行っちゃダメよ。お家の周りだけよ」
それが母、マリアとの約束。
その「目の届く距離」という小さな檻の中でさえ、今の僕には無限の荒野を駆けているような高揚感があった。
家の外壁に手を触れ、その質感を確認しながら一周する。
段差を見つけては登り、また飛び降りる。
着地の衝撃が膝に伝わるたび、僕は自分の命がこの世界に確かに根付いていることを実感した。
村全体を包む、明日の収穫祭へのそわそわとした熱気。
それが、僕の小さな身体の隅々まで染み込み、細胞の一つひとつを活性化させているのかもしれない。
僕はただ、トテトテという愛らしい足音を響かせながら、来るべき「嵐」の前触れのようなこの疾走感を、全身で楽しんでいた。
家の外で僕が「疾走」の悦びに浸っている間、我が家の屋内からも、いつになく弾んだ生活の音が漏れ聞こえていた。
コン、コン、コン、と小気味よく響くのは、マリアが台所で祭りのための保存食を刻む音だ。
いつもより少しだけ速いそのテンポは、彼女の心が明日の祝祭に向けて、無意識のうちに高鳴っていることを物語っていた。
「よし、こっちは片付いた。マリア、次はあっちの重い荷物を運んでおこうか」
家の中から、父ダリウスの穏やかな声が聞こえてくる。
彼の口調は、まるで春の陽だまりのように柔らかい。
家族に向ける言葉のひとつひとつが、慈愛を凝縮したような温かみを帯びていた。
「あら、助かるわダリウス。お願いできるかしら」
「もちろん。マリアがそんなに一生懸命準備してくれているんだ。僕にできることなら、なんだって喜んでやるよ」
開け放たれた窓から漏れてくる会話に、僕は走りながらも思わず口元が緩む。
ダリウスはマリアの隣に立つと、岩のような太い腕を驚くほど繊細に動かし、彼女を支えるように家事に従事していた。
その様子は、猛々しい猟師というよりは、大切な宝物を守る守護騎士のようだ。
村全体が、一つの大きな家族のように機能し始めるのが収穫祭の前日だ。
バルカの家からは、祭りの山車を補強するための鉄を打つ音がリズムを刻み、ウィリアムの家からは、ナタたちが持ち寄った色とりどりの布を縫い合わせる賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「アレン、おいで。少し休憩しようか」
ダリウスがふらりと玄関先に現れ、僕を優しく呼び寄せた。
彼は僕の目線に合わせて腰を落とすと、大きな掌で僕の汗をそっと拭い、それから僕の頬を宝物に触れるような手つきで撫でた。
「今日も一生懸命運動していたね。ほら、お水をお飲み。マリアが冷やしておいてくれたんだ」
差し出された木杯の冷たい水が、運動後の乾いた喉に心地よく染み渡る。
ダリウスの眼差しは、どこまでも澄んでいて、温かい。その優しさは、厳しい冬を前にしたこの村において、何よりも強固な壁となって僕たちを守ってくれているようだった。
「さあ、お仕事の続きだ。アレン、君は君の『冒険』を続けておいで。お父さんも頑張ってくるね」
ダリウスは僕に優しくウィンクをして、再び軽快な足取りで家の中へと戻っていった。
家の中に満ちる、幸福な「準備」の音。
それは、ただの家事の音ではない。明日という佳き日を、家族揃って、笑顔で迎えようとする「祈り」に似たリズムだった。
家の外壁を指先でなぞりながら、自分なりの「高速旋回」に挑んでいた時のことだ。
背後から、パタパタという、僕のものよりは少しだけ歩幅の広い、けれど軽やかな足音が近づいてきた。
「……アレン。みつけた」
聞き慣れた、けれどいつもよりずっと穏やかな声。
振り返ると、そこには三歳になったばかりのリアが立っていた。
彼女が一人きりで僕の元を訪れるのは、実に珍しいことだった。
いつもなら燃えるような赤毛のフィナが大風のように先陣を切り、そのすぐ後ろを片割れのミアが賑やかに追いかけ、リアはさらにその後ろを、二人の影に隠れるようにして歩いているのが常だからだ。
「あ……リア。ひとり?」
僕がたどたどしく問いかけると、リアは僕の歩調に合わせるようにゆっくりと近づき、ふふっと小さく、けれど花が開くような鮮やかな笑みを零した。
その表情を見た瞬間、僕の胸の奥で、前世から持ち越した「観察者」としての意識が静かに揺れた。
(……ああ。この一年で、本当に笑顔が増えたな)
出会ったばかりの頃の彼女は、どこか自分を抑え、ミアの陰に同化しようとするような、消え入りそうな雰囲気を持っていた。
だが、今目の前にいる少女の瞳には、確かな意志と、世界を慈しむような柔らかな光が宿っている。
その変化がなんだか無性に嬉しくて、僕はつい、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
すると、リアは不思議そうに首を小さく傾げ、小首をかしげて僕の瞳を覗き込んできた。
「アレン……?どうしたの?お顔に、なにか、ついてる?」
透き通った瞳に見つめられ、僕は慌てて思考の海から浮上した。
幼児の器に二十五年の精神を詰め込んでいる弊害だ。時折、こうして意識が「内側」へ深く潜りすぎてしまう。
「な、なんでもない。リア、きれいだなって」
「えへへ、ありがと」
リアは少し照れくさそうに頬を林檎のように赤く染めると、手に持っていた一輪の薄紫色の野花を差し出してきた。
「これ、あげる。……ミアとフィナちゃんは、あっちで、つかまっちゃったの」
彼女の拙い説明を脳内で補完すると、村の広場での惨状(?)が容易に想像できた。
明日の収穫祭に向けて、大人たちは猫の手も借りたいほど忙しい。
体力を持て余して広場を全力疾走していたフィナとミアは、バルカやナタという最強の「捕縛官」たちによって、そのまま貴重な労働力として徴用されたのだろう。
「ふたり……たいへん、だね」
「うん。ミア、えー! って言ってた。フィナちゃんも、いそがしい、いそがしい、って」
リアだけは、大人の手伝いを静かに、かつ手際よくこなしていたのだろう。「貴女はもういいわよ、アレンくんの様子でも見てきてあげて」と、一足先に解放されたに違いない。
リアは僕の服の袖をちょこんと掴み、誘うように歩き出した。
「アレン、いっしょに……おさんぽ、しよ?おうちの、まわり、ぐるぐる」
祭りの喧騒が遠くに響く中、もう1歳半になった僕と、三歳のリア。
二人の小さな、けれど確かな時間が、我が家の軒下でゆっくりと動き出した。
トテトテという僕の足音と、パタパタという彼女の足音。不揃いなリズムが重なり合い、秋の空気を優しく、どこまでも穏やかに揺らしている。
そうして、家の周囲を囲む生垣に沿って、僕とリアの小さな散歩が始まった。
秋の陽光は、収穫を終えた地面を琥珀色に染め、頭上の木々からは時折、乾燥した葉がひらひらと舞い落ちてくる。
リアは僕の歩調を乱さないよう、時折立ち止まっては僕の顔を覗き込み、他愛もない話をぽつり、ぽつりと紡ぎ出した。
「あしたね、おまつり。……おかし、いっぱいかな?リアはね、ハチミツのパン、たべたいの」
「うん、きっとあるよ。あまいの、おいしいよね」
「あとね、最近、朝がとっても寒くなったよね。……アレンくんのところも、寒くない?リアはね、お布団から出るの、えいってしないとダメなの。ミアが、お布団をぎゅーってしちゃうから」
「ふふ、わかる。おふとん、あったかいもんね。ミアちゃんに取られちゃうのは、大変だね」
僕は、幼児として完璧に「無難」な返答を繰り返していた。
リアが語る、双子の片割れ・ミアの最近の奔放ぶり——「お人形で遊んでたのに、急に外に走り出しちゃうんだよ」といった日常の愚痴に、僕は「それは大変だね」「ミアちゃんは元気だね」と、穏やかな相槌を打つ。
平和だ。
この、何の意味も生産性もない、ただ時間が流れていくだけのようなひととき。
前世の僕なら「無駄」と切り捨てていたかもしれないこの静寂が、今の僕にはどんな魔法の修練よりも心地よく感じられた。
穏やかな歩調が、唐突に途絶えた。
僕の手を引いていたリアの小さな掌から、熱がふっと遠のく。
立ち止まった彼女の背後で、乾いた秋風がカサリと落ち葉を弄んだ。
「……ねえ。アレンくんって、すごいね」
その呟きは、羽毛が地面に落ちるような静かな響きだった。
僕は反射的に「えぅ?」と首を傾げてみせる。一歳児特有の、意味を解さないふり。
無垢な幼児の皮面を被り直すのは、僕にとって既に呼吸と同じくらい自然な動作になっていた。
だが、リアは動かなかった。
彼女はゆっくりと身体をこちらへ向け、その漆黒の瞳を真っ直ぐに僕の瞳——コバルトブルーの奥底へと突き立ててきた。
その視線は、表面的な可愛らしさを素通りして、僕の中に隠れ潜む「何か」を鋭く探り当てようとしているようだった。
「なんだか、ミアやフィナちゃんとは違うの。私よりも、ずっと、ずっと小さいのに……」
リアは一歩、また一歩と距離を詰め、僕の顔を覗き込む。
その瞳に映る僕は、確かに小さな赤ん坊だ。
けれど、彼女が感じ取っているのは肉体のサイズではなく、その内側に澱む、決して幼児のものではない「気配」。
「とっても、大人みたいに感じるの。お話ししてても……なんだか、すごく物知りな、優しいおじいちゃんみたい」
僕は一瞬、息をすることを忘れた。
この村の大人たち——深い愛情で僕を包むダリウスやマリアでさえ、「少しばかり賢い子だ」と笑って済ませている。
なのに、わずか三歳の少女の直感は、僕が二十五年かけて築き、今また必死に守ろうとしている「嘘」の境界線を、いとも容易く踏み越えてきた。
(……すごい。この子の瞳は、あまりに透き通りすぎている)
胸の奥で、じりじりと焼けるような罪悪感が広がっていく。
一点の曇りもない純粋な疑問。
そこに含まれるのは、悪意ではなく、ただ「貴方を知りたい」という切実な羨望と信頼だ。
そんな彼女に対し、僕は今日も前世の記憶という分厚い鎧を着込み、偽りの仕草で欺き続けている。
それは、僕を慕ってくれるこの小さな隣人に対する、最も残酷で卑怯な裏切りではないか。
そんな自責の念に駆られていたとき、不意に別の動揺が僕の理性を揺さぶった。
至近距離で対峙して、改めて思い知らされる。
秋の陽光を透かし、漆黒の瞳を縁取る長く整った睫毛。
幼いながらも凛とした知性を湛えたその顔立ち。
リアは、前世の僕が知るどんな「造形」よりも、言葉を失うほどに「綺麗な女の子」だった。
(……落ち着け。冷静になれ。相手は三歳だ。一歳児の身体で何を狼狽えているんだ、二十五歳の僕!)
精神の成熟を自負する理性が、身体の奥から湧き上がる説明のつかない高鳴りを必死に抑え込もうとする。
けれど、至近距離で見つめ合う視線の熱、逃げ場のない静寂、そして彼女から漂う日向のような甘い匂いが、僕の思考を白く塗り潰していく。
風さえも止まったような錯覚の中、僕たちは言葉を失い、ただ互いの瞳の奥にあるものを探り合うように、じっと見つめ合っていた。
僕の頬が、秋の寒さとは無関係に、カッと熱を帯びていく。その拍動は、きっと彼女が掴んでいる袖の先まで伝わっていたに違いない。
静寂が、二人を包み込む。
見つめ合う視線が絡み合い、気まずいほどの沈黙が流れた、その時——。
だが、その張り詰めた糸は、あまりにも暴力的なまでの「日常」によって叩き切られた。
「アレーン!リアー!見つけたわよー!」
鼓膜を震わせる突き抜けた高音。
生垣の向こうから、燃えるような赤毛を振り乱したフィナが、弾丸のような勢いで飛び出してきた。
続いて、顔中に泥の線を何本も描き、服を茶色く染めたミアが、肩で息をしながらも満面の笑みで追いついてくる。
「はぁぁぁ……やっと、おわったぁ……。アレン、あそぼ!あそぼー!」
汗と泥にまみれ、収穫祭の準備という「戦場」から帰還した二人の熱量が、僕たちの周りに漂っていた繊細な空気を一瞬で霧散させた。
――ガタッ、と。
僕とリアは、磁石の同極が反発し合うような速さで距離を取った。
「あ、あぅ……」
僕は思わず視線を泳がせ、自分の頬がまだ熱いことを自覚して絶望的な気分になる。
隣のリアも、繋いでいた手を慌てて背中に隠し、パタパタと瞬きを繰り返していた。
彼女の耳たぶが、ほんのりと赤く染まっているのが見えて、僕はさらに狼狽した。
(……落ち着け。何をやっているんだ僕は。相手は三歳だぞ。幼い女の子に核心を突かれ、あまつさえ見惚れてドキドキするなんて、情けなさすぎる…!)
僕は自分自身の「耐性のなさ」を深く、深く恥じ入った。
このままここにいて、フィナやミアの「嵐」に巻き込まれれば、何かが決定的におかしくなってしまう。
そう直感した僕は、反射的に逃げ場を探した。
「マ、ママ……。ママ、よんでる。……僕、いかなきゃ」
僕は皆を誤魔化すように、精一杯の幼児語を絞り出した。
実際にはマリアに呼ばれた事実などない。
だが、今はその「聖域」に逃げ込む以外の選択肢が思いつかなかった。
「ええーっ!そんなのずるいわよアレン!」
「ミアも、これから一緒に遊びたいなって思ってたのにー!」
フィナとミアが声を揃えて残念がり、僕の袖を掴もうと手を伸ばしてくる。
僕はそれをひらりと(一歳児としては驚異的な身のこなしで)かわし、背中を向けて玄関へと走り出した。
(逃げろ。今はとにかく、この場から!)
トテトテと、全力の「疾走」で家の中に駆け込もうとしたその間際。
僕は吸い寄せられるように、一度だけ後ろを振り返ってしまった。
そこには、騒がしく文句を垂れるフィナとミアを宥めるように立つ、リアの姿があった。
彼女は、不満を爆発させている二人には決して気づかれないような、本当に小さな、けれど「すべてを理解した」と言わんばかりの、確信に満ちた微笑みを浮かべていた。
その瞳が、再び僕の視線を捉える。
慈しむような、それでいてどこか「秘密を共有した」同盟者のようなその笑み。
(……っ!)
僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、大慌てで家の重い扉を潜り抜けた。
ひんやりとした薄暗い玄関。
マリアが奥から「お帰りなさい、アレン。早かったわね」と優しく声をかけてくる。だが、僕はそれに答える余裕さえなかった。
秋の冷涼な空気の中にいるはずなのに。
僕の背中には、冷や汗がじっとりと浮かび、心臓の鼓動はいまだに激しい警鐘を鳴らし続けていた。
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