第二十三話:琥珀の旋律、父の告白
「ん…しょ……っと」
最近の僕は、朝の目覚めと共に布団の上で手足を伸ばし、ゆっくりと関節を回す「朝の体操」を日課にしている。
幼児の身体を、一刻も早く前世のイメージ通りに動かすための機能回復訓練だ。
ひとしきり筋肉を解した後、僕は窓際にあるお気に入りの椅子へと這い登り、村の広場を見下ろした。
視線の先、村の中央広場では、赤毛の姉御ことフィナと、双子のミア、リアの三人が、まるで一つの生き物のように戯れていた。
秋の陽光は、収穫を終えた地面に琥珀色の影を落とし、彼女たちの頭上を柔らかく照らしている。
三人は互いの手を繋いで輪になると、誰からともなく膝を折って、ぴょんぴょんと不揃いなリズムで跳ね始めた。
「おひさま ぽかぽか むぎのなかー」
「おなかが すいたら パンたべよー」
「あしたも あさっても あそぼうねー」
風に乗って届く彼女たちの歌声は、音程が外れ、語尾が裏返るような危ういものだった。
語彙の少なさゆえに、歌詞は同じフレーズを何度も繰り返すだけ。
おそらく、追いかけっこや石拾いの合間に、彼女たちがその場の気分で繋ぎ合わせた即興の歌なのだろう。
だが、その拙い歌詞と不揃いなハーモニーが、今の僕にはどんな洗練されたオーケストラの旋律よりも「尊い」ものに感じられた。
(……ああ、すごい…なんていうか……いいな、こういう景色)
前世の僕は、常に「効率」と「成果」という物差しで世界を測っていた。意味のない言葉に価値はなく、生産性のない時間はただの損失だと切り捨ててきた。
けれど、今の僕にはわかる。
彼女たちがこうして、何の不安もなく空に向かって声を張り上げ、汚れない瞳で明日を信じていること――それこそが、この過酷な世界において、最も守るべき「正解」なのだ。
村の男たちが武器を研ぎ、森の異変に眉を顰める裏側で、この小さな歌声だけは「純粋な生」の肯定として響いている。
彼女たちが成長し、いつかこの世界の残酷な理に触れる日が来るとしても、今この瞬間に降り注ぐ黄金色の光だけは、決して誰にも汚させたくない。
僕は窓ガラスに小さな額を押し当てるようにして、その光景を魂の奥底に焼き付けていた。
三人の少女が繋いだ手の温もりや、風に舞うフィナの赤毛。それらすべてが、僕の中に「力を得なければならない」という冷徹な決意とは別の、もっと温かくて切実な動機を芽生えさせていた。
「パンたべよー、あそぼうねー!」
無邪気に繰り返されるそのリフレインが、静かな室内にまで微かに染み込んでくる。
僕は窓越しに、彼女たちの「未来」を勝手に背負い込むような、そんな心地よい重みを感じながら、いつまでもその光景を見つめ続けていた。
三人の少女たちが紡ぐ、拙くも純粋な旋律。
それは僕の凍りついた理知を溶かし、記憶の底に沈殿していた「ある感情」を揺さぶり起こした。
――気づけば、僕の唇は無意識のうちに動いていた。
それは、この世界に存在するどの童謡とも、どの民俗音楽とも似ていない。
前世の僕が、独りで夜を越すときに、あるいは雨の日の窓辺で、好んで聴いていた一曲のバラード。
複雑なコード進行と、静かに胸を締め付けるような転調。
そして、長い時間を経た者だけが理解できる「喪失」と「祈り」が織りなす、繊細なメロディラインだった。
「――♪ ――……」
この未発達な喉では、前世の歌手が表現した豊潤な倍音を再現することなど到底できない。
声は細く、震え、ときおりかすれてしまう。
けれど、僕の脳内に鳴り響く完璧なオーケストレーションに導かれるように、旋律の糸は紡がれていった。
広場から聞こえる三人の歌声が、この地に根ざした「生」の謳歌だとしたら、僕の口ずさむそれは、ここではないどこか、今ではないいつかの空気を運んでくる「異界の残響」だった。
一歳児が発するにはあまりに湿り気を帯びた、そしてあまりに洗練されたその音楽は、秋の陽光が差し込む静かな居間の空気を、一瞬にして別の色彩へと塗り替えていく。
僕は窓の外を見つめたまま、自分でも制御できないノスタルジーの奔流に身を任せていた。
記憶の中のネオンサイン、雨に濡れたアスファルト、忙しなく過ぎ去る群衆の足音。それらすべてが、今、目の前にある平和な広場の光景と重なり、奇妙な二重露光となって僕の視界を揺らす。
(ああ……どうして、今、この曲なんだろう)
自分でも説明のつかない感情に瞳を潤ませ、最後のフレーズを静かに着地させようとしたそのとき。
「……アレン?」
背後から、凍りついたような声がした。
その瞬間、僕の全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。
忘れていた。
この家には、僕という「異邦人」の僅かな違和感さえも敏感に感じ取る、一人の母親がいるということを。
お玉を手にしたまま、夕餉の支度を完全に止めて立ち尽くすマリア。
その瞳には、今まで見せたことのないような、深い驚愕の光が宿っていた。
「……アレン、今の歌。どこで覚えたの?」
彫像のように硬直していたマリアが、震える声で問いかけてきた。
僕は心臓が喉から飛び出しそうなほどの衝撃を受け、全身の血の気が引いていくのを感じた。
一歳七ヶ月の幼児が、この世界の音階を逸脱した、切なくも完成されたバラードを口ずさむ。
それがどれほど「異常」なことか、前世の理性が警報を鳴らし続けている。
「あ、あぅ……」
僕は咄嗟に、窓の外でまだ無邪気に跳ね回っているフィナたちの姿を指差した。
「う、うた……フィナ。おんなじ。かぜ、ふー、って」
精一杯の舌足らずな声で、僕は必死に「広場の歌を聴いていたら、風の音と一緒に頭の中に流れてきたんだ」というニュアンスを込めた。
首を傾げ、いかにも「自分でもよく分からないけれど、なんだか口から出ちゃった」という風を装い、無垢な子供の仮面を必死に被り直す。
だが、その努力は、かえってマリアの「誤解」に拍車をかける結果となった。
マリアはお玉を調理台に置くと、吸い寄せられるような足取りで僕の元へ歩み寄り、僕の小さな両肩を震える手で包み込んだ。
「風の音から……? あの子たちの歌を聞いて、あんなにも綺麗な音色にしちゃったの…?」
「あう、うー……(いや、お母さん、そんなんじゃなくて、ただの既成曲なんだ)」
「なんてこと…私、今まであんなに胸を締め付けられるような曲、聴いたことがないわ。」
彼女は僕を壊れ物のように優しく抱きしめると、その頬を僕の頭に寄せ、感極まったように深く息を吐いた。
「アレン。あなたは、ただ賢いだけじゃないのね。この世界の美しさを、音に変える力を持っているんだわ。……あんなに悲しくて、でも温かい旋律を……。この小さな胸のどこに、そんな音楽が眠っていたのかしら」
彼女の胸の中から漂う、夕食のスープの香りと、母としての純粋な愛情。
それが、僕の抱く罪悪感をさらに重く沈めていく。
これは僕の才能ではない。
前世の、名前も知らない誰かが生涯をかけて作り上げた芸術の遺産だ。
それを自分の手柄のように扱われることは、かつてクリエイティブな仕事に憧れたこともある僕にとって、何よりも「いたたまれない」ことだった。
その後の我が家は、さながら熱狂の渦中にあった。
僕が口ずさんだ前世の断片が、マリアとダリウスという二人の親馬鹿フィルターを通ることで、「女神の祝福を受けた神童」という大仰な物語へとすり替わってしまったのだ。
いたたまれない気持ちでスープを啜りながら、僕は深い反省に沈んでいた。
一歳七ヶ月という器に対して、あまりに異質な「質」を晒しすぎた。
前世の知識や技術は、この世界の平穏を守るための「切り札」であって、無闇に披露して周囲の期待を煽るための道具ではない。
(……猛省だ。これからは、もっと慎重にならなきゃ。前世の『当たり前』は、この世界では『異常』なんだから)
そう心に誓い、僕は「ごく普通の幼児」として生きる決意を新たにした。
次の日、東の空がようやく白み始めた頃、村は薄い霧に包まれていた。
いつもなら鋭い眼光で狩猟の準備を整えるはずのダリウスが、今朝はどこか、ふわりとした柔らかな空気を纏って僕の寝所へやってきた。
「アレン、おはよう。まだ眠いかな?」
その声は、耳を撫でる春風のように優しかった。
これまでの逞しく快活な口調とは打って変わり、言葉の端々に僕を慈しむような、とろけるような甘さが含まれている。
「もしよかったら、父さんと少しお散歩に行かないかい?」
マリアには「男同士の絆を深めるための、静かな語らいの時間だよ」と穏やかに微笑んで告げ、彼は僕をそっと抱き上げた。
村の小道には、秋の朝特有の、冷ややかで澄んだ空気が満ちている。
ダリウスは僕を抱え、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
だが、その背中はどこか落ち着かない。
数歩歩いては立ち止まり、朝日に透ける枯れ草を眺めては、重く、けれど温かな溜息を吐く。
「……アレン。あそこの朝露、とても綺麗だね」
足元の草花に視線を落とし、彼は困ったように笑った。
「あぅ?」
「……うん、そうだね。綺麗だ。……ああ、でも、僕が言いたいのはそんなことじゃなくて……その、困ったな」
彼は何度も口を開きかけては、情けなそうに眉を下げて黙り込んでしまう。
村外れの伐採場、巨大な切り株が並ぶ場所に辿り着くと、ダリウスはようやく僕を平らな切り株の上に座らせた。
「アレン。……父さんはね、今、とても恥ずかしいことを考えているんだ」
彼は僕の前に膝をつき、目線を僕に合わせて、大きな掌で僕の小さな手を包み込んだ。
「一歳の君に、こんなことを頼むなんて。……父親失格かもしれないけれど、聞いてくれるかな」
視線は泳ぎ、逞しい指先が照れくさそうに僕の頬をなでる。その眼差しは、壊れ物を扱うような優しさに満ちていた。
父のあまりの迷走ぶりに、僕は内心で苦笑した。
このままでは、朝日が昇りきっても話は進まないだろう。
僕は切り株の上で姿勢を正し、ダリウスの少し湿った眉間に、小さな指をそっと置いた。
「……おとうたん、どうしたの?なかない、なかないよ?」
心配そうに首を傾げて覗き込む。
その純粋な(フリをした)問いかけが、ダリウスの最後の堤防を決壊させたようだった。
「……ありがとう、アレン。君は本当に優しい子だね。……実はね、あと数日で、お母さんと結婚して五年になるんだ」
ダリウスはふっと力を抜き、僕の膝に頭を預けるようにして、静かに、けれど熱を帯びた声で語り始めた。
「大切な、節目の日なんだよ。僕は、マリアに何か特別な贈り物をしたいんだ」
彼は顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、マリアへの深い愛情が琥珀色に輝いていた。
「この五年間、僕を支えてくれた彼女の心に、ずっと残るようなものを贈りたい。……昨夜、君が歌を口ずさんだ話を聞いてね、僕は決めたんだよ」
ダリウスは僕の手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
「僕からマリアへ、世界でたった一つの歌を贈りたい、って。アレン、お願いできるかな。僕と一緒に、マリアが笑顔になれるような、温かな歌を作ってくれないだろうか」
情けない父さんを、助けてほしいんだ。そう結んだ彼の声は、切実な響きを持っていた。
僕は絶句した。
1歳児にして、実の父親の「愛の告白」をプロデュースすることになるとは。
僕は一瞬、前世の有名なラブソングの旋律をそのまま教えようかと迷った。だが、すぐにそれを打ち消した。
(それではダメだ。これは、父さんが自分で紡ぐ言葉でなければ意味がないんだ)
僕は一歳児らしい言葉を選び、自分の意図を伝える。
「ぱぱ、うた、つくる。……アレン、ふー、って。おと、アレンね」
僕は自分の胸を小さく叩いた。
「でも、おはなし、ぱぱ。……ぱぱ、マリア、しゅき、でしょ?」
僕の問いかけに、ダリウスは一瞬目を見開いた。
「……その、きもち。おはなし、して?」
僕が伝えようとしたこと――「既存の歌を教えるのではなく、ダリウスの想いに僕が音を乗せる」という提案を、彼は正しく理解したようだった。
「……僕の気持ちを、言葉にする。……そうだね、それが本当の贈り物だ。借り物の言葉じゃ、マリアの心には届かないものね」
ダリウスは感動したように何度も頷き、僕をそっと抱き上げた。
「ありがとう、アレン。君は僕の小さな師匠だね。……よし、頑張るよ。最高に格好悪くて、最高に温かい、僕たちだけの歌を作ろう」
朝日が霧を払い、村を黄金色に染め上げていく。
ダリウスの腕の中で、僕は静かに、この優しい父親にふさわしい旋律を練り始めていた。
収穫祭を前に、村にはもう一つの、小さな、けれど決して消えることのない温かな「火」が灯ろうとしていた。




