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第二十二話:名残惜しき夕闇、次なる扉


 深夜、マリアとダリウスの規則正しい寝息が、薄い壁越しに心地よい拍動となって伝わってくる。


 僕の身体は秋の冷気を防ぐための重い綿の布団に包まれていた。だが、僕の意識だけは、その重力を振り払い、漆黒の闇が支配する思考の深淵へと沈んでいた。


 今、僕が直面しているのは、苛立たしいほどの「停滞」だ。


 まずは、未知のエネルギー――絵本で「魔力」と称されていたものの知覚練習だ。

 僕は布団の中で目を閉じ、自分の呼吸を極限まで細く、長く制御した。前世で学んだ知識を動員し、意識の走査線を神経系の末端から、血管の網目、さらには細胞の一つひとつへと這わせていく。


 僕が探しているのは、物理的な熱や電気信号の裏側に隠された、この世界独自の「動力源」だ。


(……勇者が使ったという力。血液みたいに全身を巡っているのか、あるいは特定のタイミングだけ効果を発揮するのかな…?)


 僕はイメージを幾重にも書き換えた。


 ときには、自分という肉体を透明なフラスコに見立て、そこに未知の液体が満ちていく様子を幻視する。ときには、細胞の隙間を埋める微細な振動を捉えようと全神経を集中させる。


 だが、そのすべては空振りに終わった。


 過度な集中によって脳が熱を持ち、耳の奥で脈動が激しくなる感覚はある。だが、それは「神秘の覚醒」などではなく、単なる幼児の身体への過負荷、あるいは酸素不足による眩暈めまいだと、僕の冷徹な理知が即座に判定を下してしまう。


(何も見えない。何も掴めない。そもそも、魔力というものが誰にでもあるものなのか、それとも才能が必要なのか…)


 次に、僕は意識を「外側」へと向けた。


 あの日、タナー老人が語った「泉の女神」、そして勇者の物語に登場する「精霊」への感応練習だ。


 こちらは内側を探る練習とは正反対の、極めて曖昧で「情緒的」な領域を扱う。

 あの日、一度だけ視界の端に散った、あの銀色の粒子。あの奇跡のような一瞬の残像だけが、今の僕にとって唯一の道標だった。


(そこに、誰かいるの? ……女神様とか、精霊って呼ばれる存在…とか……)


 僕は自分の意識を「針」のように尖らせるのをやめ、湖面に広がる波紋のように、淡く、優しく拡散させていった。


 言葉ではない。感謝、敬畏、あるいはこの村を包む秋の気配への同調。

 タナー老人が言ったように、もし「笑い声」や「清らかな心」が精霊との接点になるのなら、僕という「異邦の魂」が抱くこの村への愛着も、何らかの波長となって届くのではないかと考えたのだ。


 ……だが、返ってくるのは、冷酷なまでの沈黙だった。


 虚空に向かって手を伸ばし、目に見えない相手と対話しようとする試みは、ただの独りよがりな空想に終わる。


 かつて南の森の洞窟で見かけた、あの不思議な光を放つ黒い石――あれを手にしていれば、何らかの媒介(触媒)になったのかもしれないが、今の僕の手元には何もない。ただの幼い、白い手のひらがあるだけだ。


(どうしてだろう?こんな未発達な身体じゃ、まだ何もできないのかな……)


 焦燥が、冷たい汗となって額に滲む。

 一歳七ヶ月。周囲からは驚異的な成長だと言われるが、その実、世界の深淵に触れるにはあまりにも非力だ。


 もし今、ウィリアムたちが警戒している「不穏な影」がこの扉を破って現れたなら、僕は無力に泣き叫ぶだけの赤子として、誰かに守られることしかできないだろう。


 僕は重い溜息を吐き、意識を日常の眠りへと引き戻していった。


 その時だった。


 ――バァン!!


 停滞した思考を、強引に引き裂くような衝撃が走った。


 我が家の年季の入った木製の扉が、爆発音に近い音を立てて跳ね上がった。蝶番が悲鳴を上げ、戸枠に溜まっていた微かな埃が黄金色の陽光に照らされて舞い上がる。

 同時に、外の乾いた秋の空気が、眩しい光の奔流と共に一気に室内に流れ込んできた。


「アレン!いつまでもお昼寝してる時間じゃないわよ!今日はとってもいいお天気なんだから!」


 逆光を背負い、燃えるような赤毛を秋風に逆立たせて立っていたのは、村の「最強の姉御肌」ことフィナだった。

 三歳半を過ぎたばかりの彼女の生命力は、文字通り「小嵐」のような質量を持って僕の視界を支配する。


 彼女は僕の返事を待つことなく、ドカドカと元気な足音を響かせて居間へと踏み込んできた。僕の脇に、迷いのない小さな掌が差し込まれる。


「ほら、立って!私が手を引いてあげるから。今日はお外に遊びに行こっ!」


 有無を言わさぬ力強さで、僕の身体が宙に浮く。


 この幼い身体は、三歳児の腕力の前でもあまりに無力だ。

 浮遊感と共に、僕の視界はぐるりと回り、思考の海に沈んでいた意識は強制的に現実へと引き戻される。前世で二十五年生きた男としての矜持は、彼女の無邪気な「お世話」によって、今日も心地よいほど粉々に粉砕されていった。


「もう、アレンはいつも考え事ばっかりしてるんだから。ほら、お靴!右足はこっち、左足はこっちよ」


 フィナは僕を椅子に座らせると、僕の小さな足を無造作に掴み、冬用の厚手の靴を履かせ始めた。彼女の指先は冷たい秋風に晒されていたせいでひんやりとしている。


 そこへ、開いたままの扉から、もう一つの穏やかな気配が近づいてきた。


「もう、フィナ。アレンくんをそんなに急かさないの。……ごめんなさいね、マリア。今日もこの子が騒がしくして」


 現れたのは、フィナの母親であり、ウィリアムの妻であるナタだった。


 彼女はフィナの激しい赤毛を少し落ち着かせたような、しっとりとした茶髪を揺らし、苦笑いしながらマリアに会釈をした。その佇まいは、荒っぽい夫や娘を影で支える、大地のような安定感に満ちている。


「いいのよ、ナタ。アレンもフィナちゃんが来てくれると、なんだか目がシャキッとするみたいだし」


 母マリアが手にしていた針仕事を籠に片付け、椅子から立ち上がる。


 二人の母親は、居間のテーブルへと腰を下ろすと、まるで台本があるかのように、ごく自然に村の女たち特有の「情報の交換」を始めた。木製のテーブルに陽光が反射し、二人の横顔を温かく照らし出している。


「リリアンさんのこと、聞いたわよ。隣村からわざわざ報告に来てくれたんですってね。本当におめでたいわ。あの子、ずっと望んでいたから……」


 ナタが声を弾ませると、マリアもまた「ええ、そうなの」と深い慈しみを込めて頷いた。


「昨夜はダリウスもオーレンさんと遅くまでお祝いの酒を飲んでいたみたいよ。……ただ、あまり飲み過ぎないように釘を刺すのが大変だったけれど」


 マリアは冗談めかして笑ったが、その直後、ナタの表情にふっと微かな翳りが差した。彼女はテーブルの上に置かれたマリアの手に自分の手を重ね、少しだけ声を潜めた。その仕草一つで、室内の空気が「祝祭」から「警戒」へと、わずかに色を変えたのを僕は敏感に察知する。


「お祝いはいいけれど……夫たちの様子、どうかしら。最近、収穫祭の準備にかこつけて、男たちが武器の手入ればかりしているのが気になって。家でも、ウィリアムが夜中に何度も外を確認しに行っているのよ」


「……うちもそうよ。ダリウスは『用心のためだ』って笑っているけれど…収穫祭の前に、何か悪いものが村に近づいていなければいいのだけれど」


 母親たちの日常的な会話の中に、毒のように混じり、よどみを作る「男たちの沈黙」。


 僕はフィナに手を引かれ、玄関先へと引きずり出されながらも、その言葉の一つひとつを脳内の記録帳に深く刻み込んだ。


「さあ、準備できたわね!アレン、行くわよ!」


 フィナは、大人たちの深刻な空気などどこ吹く風で、僕の手をグイと引いた。


 外に出ると、突き抜けるように高い青空と、収穫を終えて剥き出しになった大地が果てしなく広がっていた。冷たい風が僕の頬を叩き、昨夜の鬱屈とした瞑想の残滓を鮮やかに吹き飛ばしていく。


(……分からないことをずっと考えても仕方ない、今はこの日々を嚙み締めよう)


 魔力の回路も、精霊の感応も、依然として僕の前で固く門を閉ざしたままだ。けれど、この赤毛の少女が放つ「今を生きる熱量」は、僕に一つの確信を与えた。


 僕はフィナの歩幅に合わせ、たどたどしい、けれど確かな足取りで村の石畳を踏みしめた。赤毛の小嵐に導かれ、双子の待つ家へ向かう。




 フィナに力強く手を引かれ、僕は村の少し奥まった場所にあるバルカとグレシア夫妻の家へとやってきた。


 石造りの壁からは、併設された鍛冶場の熱気が微かに漏れ出し、秋の冷えた空気と混ざり合って独特の揺らぎを作っている。鉄を打つ硬質な音の余韻と、炭の匂い。それがこの家の「呼吸」だった。


扉を開けると、土間では双子のミリとリアが、母親のグレシアと一緒に家事の手伝いに精を出していた。

三歳になったばかりの彼女たちは、小さな手で一生懸命にカブのような根菜の泥を落とし、冬の保存食にするための籠へと移している。その表情は真剣そのもので、幼いながらも「家族の糧を支える」というこの世界の規律の中にいた。


「あ、アレン! フィナちゃんも!」


「ちょっと待っててね、今これ終わらせちゃうから」


 僕たちの突然の訪問に、二人はパッと頬を林檎のように赤くして喜んだが、その手元の仕事は投げ出さない。だが、そこに背後の鍛冶場から、地響きのような重厚な足音が近づいてきた。


「ははは、そんなに気張らなくていい。後は父ちゃんがやっておくから、遊んでおいで」


 現れたのは、煤で汚れた大きな掌をグレシアの肩に置いたバルカだった。

 筋骨隆々とした体躯、丸太のような腕。まさに鉄をねじ伏せる男の姿だが、娘たちを見つめる瞳は、炉の火よりも温かく穏やかだ。


「あら、いいの? あなた」


「ああ。仕事は一段落した。子供たちの時間は、何よりも貴重だからな」


 バルカのその一言は、僕の胸にすとんと落ちた。

 厳しい自然の中で生きる彼らにとって、子供の遊びは単なる暇つぶしではなく、健やかな成長を願う親の祈りそのものなのだ。バルカは僕の視線に気づくと、ニカッと白い歯を見せて笑い、大きな手で僕の頭を軽く撫でた。その手は驚くほど厚く、信頼に値する重みがあった。


「行こう、アレン!」


 ミアとリアに促され、四人は家の中にある木製の階段へと向かった。僕にとっては一段一段が膝の高さほどもある階段を登るのは、垂直の崖に挑むような大冒険だ。


「アレン、お尻押してあげるからね!」


後ろからフィナにグイグイと強引に押し上げられ、僕は四足歩行に近い格好で必死に一段ずつをクリアしていく。ようやく辿り着いた二階は、双子の少女たちのための、質素だが光に満ちた聖域だった。


二階の部屋は、前世の基準からすれば驚くほど何もない空間だった。


量産されたプラスチックの玩具も、派手なポスターも、電動で動く娯楽も存在しない。だが、そこにはエレスという土地の恵みを精一杯に集めた、子供たちの瑞々しい感性が息づいていた。


 窓辺の小さな土瓶には、野に咲く名もなき紫の花が秋の陽光に透けて揺れている。壁には、形を崩さないように丁寧に押し潰された「押し花」が、まるで標本のように飾られていた。


「これ、見て。アレン」


 リアが部屋の隅から大切そうに抱えてきたのは、バルカが余った端材で作ったであろう、小さな木箱だった。蓋を開けると、そこには彼女たちが世界から見つけ出してきた「宝物」がぎっしりと詰まっていた。


 僕はその箱の中に、単なる物質以上の「価値」を感じ取った。

 魔力や精霊といった神秘を知らなくとも、子供たちは本能的に、自然が放つ「特別な気配」を感じ取り、それを愛でている。彼女たちが琥珀を指先でなぞる時の真剣な横顔は、僕が深夜に行っている瞑想の姿勢にどこか似ていた。


 本棚には、表紙の擦り切れた絵本が数冊並んでいた。


「私が読んであげる!」


 フィナがその中の一冊――『森を駆ける風』という古い物語の本を器用に開き、読み聞かせを始めた。彼女はまだ文字を完璧には読めないはずだが、親から繰り返し聞いた物語を完全に暗記しているようで、身振り手振りを交えながら情感たっぷりに物語を紡いでいく。


 ミアとリアは僕を挟むようにして座り、時折「ここは精霊さんが助けてくれるんだよ」と、挿絵にある半透明の影を指差して教えてくれた。

 

 僕もまた、幼児の仮面を被りながら、その穏やかな時間に身を任せた。


(……不思議だな。ただ石を見せ合い、絵本の物語を聞いているだけなのに。前世のどんな娯楽よりも、ずっと心が満たされているのがわかる)

 

 村での日常は想像以上に厳しい。だが、その厳しさの隙間にあるこうした安らぎこそが、この世界を動かす本当の原動力なのかもしれない。




楽しい時間は、黄金色の陽光がオレンジ色へと溶けていくのと共に、終わりを告げた。

一階からマリアとナタの笑い声が聞こえてくる。それは、それぞれの「家庭」へと帰還する合図だった。


「アレン、そろそろ帰りましょ。お父さんも帰ってくるわよ」


 グレシアと談笑していたマリアが、階段の下まで迎えに来る。マリアの顔は少し赤らんでいて、大人たちもまた、良い休息の時間を過ごせたことが伺えた。


「アレン、また明日…もっと綺麗な石、拾っておくから」


「フィナー!次は新しいお歌、教えるねーっ!」


ミアとリアが身を乗り出すようにして手を振り、フィナも負けじと「またねー!」と、トレードマークの赤毛を弾ませて大きく腕を振る。ナタに手を引かれながら、彼女は最後まで賑やかに笑っていた。


マリアの柔らかい掌に導かれ、僕はバルカの家を後にした。

家路につく道すがら、背中には夕闇に溶けゆく鍛冶場の火の色が残っていた。


初めて訪れた、自分以外の家。


そこには、バルカの無骨な優しさ、グレシアの細やかな愛情、そして双子たちが大切に守っている「世界の断片」が詰まっていた。我が家の暖かさとはまた違う、もう一つの「絆」の形。その発見は、僕の孤独な魂に、新しい色彩を与えてくれた。


僕はマリアの手をぎゅっと握り返した。

名残惜しさはある。けれど、それ以上に「知りたい」という好奇心が僕を突き動かしていた。


(次は、フィナの家に行ってみたいな。あの嵐のようなエネルギーが、どんな場所で育まれているのか……)


黄金色の余韻を残す村の小道を、たどたどしい足取りで進んでいく。

背後で揺れる収穫後の麦の切り株が、カサカサと乾いた音を立て、目前に迫った「収穫祭」の鼓動を、静かに、しかし力強く刻んでいた。


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