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第二十一話:黄金の揺り籠、告げられた命


 秋の陽光は、もはや夏のような暴力的な熱を持たず、濾過された琥珀色のシロップのようにこの村を浸していた。


 はやくも一歳七ヶ月になった僕の身体は、この世界にようやく馴染み始めている。窓から流れ込む風は乾き、収穫を間近に控えた麦の香ばしさと、枯れ始めた草の匂いを運んでくる。


 母マリアが暖炉のそばで冬用の衣類を繕う針の音だけが、静かな午後の居間に響いていた。僕は絨毯の上で、積み木という名の「構造力学の基礎訓練」に興じているふりをしながら、意識の端で外の気配を探っていた。


 その静寂を、快活な足音と扉を叩く力強い音が打ち破った。


「マリア!入るわよ、いいわね!」


 返事を待たずして開かれた扉から、秋の冷気と共に、圧倒的な「生の熱量」が流れ込んできた。

 声の主は、母マリアの親友であり、隣村に住むリリアンだ。


 彼女が踏み込んできた瞬間、我が家の空気が一変した。


「リリアン!まあ、急なんだから」


 驚きつつも顔をほころばせるマリアのもとへ、リリアンは風のように近づき、そのまま床に座る僕へと視線を落とした。

 次の瞬間、僕は彼女の逞しくもしなやかな腕によって、宙へと抱き上げられていた。


 鼻腔を突いたのは、マリアの安心させるような清潔な石鹸の匂いではない。それは、少しスパイシーで野性的な、森の奥に咲く花の蜜を集めたような強烈な香りだった。


(……この匂い、たしか産まれてすぐに嗅いだことがある気がする)


 彼女の腕越しに触れる肌の質感は、驚くほど弾力に満ちていた。


 はだけた胸元から覗くその肌は、家事と育児に勤しむマリアの「柔らかな包容力」とは対照的に、荒野を駆け、自らの手で糧を掴み取る者の「しなやかな強靭さ」を予感させた。


 リリアンは僕の頬を自分の頬に寄せ、弾んだ声で笑った。


「マリア!この子、前にみた時よりずっと『男の子』の顔になってるじゃない!この綺麗な髪も、お日様に当たって眩しいくらいだわ」


「そうなのよ。最近は物心もついてきて…時々、なんでも分かってるかのような目をするのよ」


 マリアが苦笑しながら答える間、僕はリリアンの背後に立つ「山」のような存在を見上げていた。


 リリアンの夫、オーレンだ。


 彼は、村でも逞しい部類に入るバルカよりも、さらに一回り大きな体躯を誇っていた。

 その肌は、太陽の熱を限界まで吸い込み、そのまま定着させたかのような深い褐色をしている。露出した前腕に浮き出る血管と、分厚い胸板。


 彼はただそこに立っているだけで、居間の空間が狭まったかのような錯覚を抱かせるほどの質量感を持っていた。


「がはは!ダリウス、息子に追い抜かれないよう気をつけろよ!こいつはきっと将来凄ぇ子になるぜ!」


 オーレンが野太い声で笑い、僕の頭をその大きな掌で包み込むように撫でた。


 彼の掌は、数え切れないほどの労働で硬く、熱かった。

 その熱は、単なる体温ではない。この過酷な地で、妻を、家族という名の財産を守ろうとする家長の執念に近い熱量だった。


(毎日、この手で生きているんだな…凄い…)


 僕はオーレンの褐色の指を、幼児特有の無邪気さでぎゅっと握り返した。


「リリアン、オーレン。立ち話もなんだから、座って。今、とっておきの麦茶を淹れるわ」


 村の木から切り出された無垢材のテーブルは、長年の生活で磨かれ、秋の陽光を受けて鈍い光を放っている。そこに座る二人の男――ダリウスとオーレンの姿は、まるで古い大樹が二本並んでいるかのような、圧倒的な安定感を室内に作り出していた。


「さあ、座ってくれ。オーレン、お前のような大男が立っていると、我が家が少しばかり狭く感じるんでな」


 ダリウスが冗談めかして笑うと、オーレンは「全くだ。お前の家は居心地が良すぎるんだよ」と、野太い声で応じ、椅子を鳴らして腰を下ろした。


 一年という月日は、成人した彼らにとっては、繰り返される農作業や狩猟のサイクルの一部に過ぎないのかもしれない。しかし、峻厳な荒野と足場の悪い峠によって隔てられた二つの村の間を往来するには、十分すぎるほどの時間の壁を築く。その壁を越えてやってきた友を、ダリウスは心底嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに迎え入れていた。


「道中はどうだった、オーレン。南の峠は、去年の大雨で少しばかり足場が悪くなっていると聞いたが。荷馬車を通すのは骨だっただろう」


 ダリウスが水差しから木杯に水を注ぎながら尋ねる。オーレンはそれを大きな手で受け取り、一口に飲み干すと、ふぅと満足げな吐息を漏らした。


「ああ、ダリウス。確かに峠の南側は酷いもんだった。岩崩れが道を半分塞いでいてな、妻の足に合わせなきゃならんこともあって、いつもの倍は時間がかかったよ。だが、入り口で見かけたあの麦の穂……あの景色を見れば、道中の疲れなんて一瞬で吹き飛ぶ。今年も、この辺りで一番の出来なんじゃないか?」


 オーレンの褐色に焼けた顔には、同じく土に生きる男としての深い敬意が滲んでいた。隣村もまた農業を主とするが、エレスの土地の豊かさと、ダリウスたちが注ぐ手間暇は周辺でも有名だった。


「本当に。こうしてまたリリアンの顔を見られるなんて、アレンの一歳の祝い以来ね」


 マリアが、僕を膝に乗せたリリアンの隣に腰を下ろした。


 二人の女性の対比は、この居間に美しい調和をもたらしている。

 マリアの纏う清潔な、太陽の香りがする石鹸の匂いと、リリアンから漂うスパイシーで野性的な花の蜜のような香り。それは「家庭という平穏」と「荒野という生命力」が混じり合う、不思議な芳香となっていた。


 リリアンは僕の小さな手を自分の頬に寄せ、愛おしそうに目を細めている。彼女の肌は、はだけた胸元から覗く質感まで含めて、非常にしなやかで強靭だ。


 マリアの持つ「母性」が柔らかな絹だとするなら、リリアンのそれは、過酷な風雨に耐え抜いた上質な革のような、独特の艶と力強さを持っていた。


「アレン、おばちゃんのこと覚えてる?前に少しだけ顔を見せに来た時は、まだ寝返りが精一杯だったのに。今じゃ、こんなにしっかりとした瞳で私を見つめるのね。マリア、この子の目は……時々、すべてを見透かしているみたいで、少しドキッとするわ」


「ふふ、そうでしょう?この子、言葉はまだ出ないけれど、大人の話を本当によく聞いているの。ダリウスが仕事の話を始めると、じっと耳を澄ませて、時々『ふむ』なんて顔をするのよ」


 リリアンとマリアが笑い合い、一年間の空白を埋めるように言葉を重ねる。

 隣村での生活、流行っている手仕事、去年の冬の厳しさ。

 女たちの会話は、生活の細部へと染み渡り、彩りを添えていく。対して、男たちの会話は、より実利的で重みのあるものへと変わっていった。


「オーレン、隣村の収穫はどうだ。峠の崩落で、塩の巡りが悪くなっていると聞いたが……。保存食の仕込みに影響は出ていないか?」


 ダリウスの問いに、オーレンの褐色の顔がわずかに引き締まった。彼は卓の上に置いた太い指を組み、少しだけ声を低くした。


「ああ、その件か。幸い、俺たちの村は北側の街道がまだ生きている。あちらの商隊を掴まえて、なんとか必要分は確保したよ。だが、問題は塩よりも『気配』だ。……最近、村の北側に不気味な獣の影が見えるようになってな。ただの狼じゃない。もっとこう、澱んだような、嫌な気配だ。皆、収穫を急ぎながら、夜通し交代で火を焚いて警戒している」


 オーレンの言葉に、居間の温度がわずかに下がったような気がした。リリアンもまた、マリアの隣でわずかに肩を硬くする。


「獣か。ウィリアムの奴も、森で同じような違和感を覚えたと言ってた。今年の秋は、どうも空気が落ち着かないな。……だが、そんな暗い話は後にしよう」


 ダリウスは努めて明るい声を作り、オーレンの木杯を再び満たした。


「せっかく遠くから、大事な友人が来てくれたんだ。今日はゆっくりしていってくれ。」


 ダリウスの気遣いに、オーレンは太い眉を下げ、照れくさそうに笑った。その横顔は、ダリウスよりもさらに深く太陽に焼かれ、男としての武骨な色気を湛えている。


「ああ、恩に着るよ。マリアさんの料理なら、峠をもう三往復してもいいくらいだ。……実を言うとな、ダリウス。今日はただお前の顔を見に、麦の出来を確認しに来ただけじゃないんだ。お前さんたち夫婦に、真っ先に伝えたいことがあって、こうして峠を越えてきたんだよ」


 オーレンが、リリアンへと視線を送る。

 それまで僕をあやしていたリリアンの動きが止まり、彼女の瞳に、慈しむような、それでいて震えるほどに誇らしげな光が宿った。


 窓の外では、秋風が麦の海を揺らし、カサカサと乾いた音を立てている。

 黄金色の光が居間に差し込み、浮遊する埃の粒子をキラキラと輝かせた。

 マリアが立ち上がろうとしたその時、リリアンがその手をそっと、しかし確かな重みを持って制した。


 二人の女性がもう一度、鏡を見るように顔を見合わせた。


 一年という月日の重なりと、友情の深さを証明するかのような沈黙。

 そしてリリアンは、特別な、本当に特別な秘密を打ち明ける子供のような、それでいて一人の人間としての覚悟を決めた、輝かしい微笑みを浮かべた。


 僕は、リリアンの膝の上で、彼女の身体から発せられる花の蜜の香りが、一瞬にして「熱」へと変わったのを感じ取った。


「リリアン……?」


 マリアが、疑問を含んだ声で親友の名を呼ぶ。


 リリアンはマリアの手をそっと取り、自分の指を絡めるようにして強く握りしめる。


 その指先は、農作業や家事による微かな硬さを持ちながらも、内側から湧き上がる熱に浮かされているようだった。

 彼女の瞳は、窓から差し込む秋の陽光を反射して、まるで独自の光源を持っているかのように、純粋な歓喜の色で発光していた。


「あのね、マリア。……私、授かったの。このお腹の中に、新しい命を」


 その言葉が居間の空気に溶け出した瞬間、世界から音が消えた。


 暖炉の中で薪が爆ぜる音も、遠くで聞こえる麦の擦れる音も、すべてがリリアンの告白という巨大な引力に吸い込まれていく。


 マリアの動きが、完全に止まった。


 驚きで大きく見開かれた彼女の瞳は、数秒の間、リリアンの顔を射抜くように凝視していた。

 やがて、マリアの口元が微かに震え、その美しい碧眼に、みるみるうちに大粒の涙が溜まっていく。


「……っ、本当?本当なのね、リリアン!おめでとう……本当におめでとう……!」


 耐えきれなくなったマリアが、椅子から崩れ落ちるようにして親友の身体を抱きしめた。


 リリアンはそれを受け止め、マリアの柔らかな肩に顔を埋めて、共に涙を流している。それは、単なる再会の喜びを遥かに超えた、魂の深部で響き合うような祝福の儀式だった。


 一歳七ヶ月になった僕は、リリアンの膝の上で、その熱量を肌で感じ取っていた。


 僕の脳内では、一年前の記憶が驚くほど鮮明に再生されていた。


 僕がこの世界に生を受け、初めてリリアンに出会った時。

 彼女は僕を抱き上げ、その白銀の髪と月の光のような瞳を眺めながら、「綺麗ね」と言って笑ってくれた。けれど、その微笑みの裏側には、ひび割れた大地のような「渇き」があった。


 自分には手が届かない、生命という名の輝き。他人の幸福を祝福しながらも、同時に自分の内側の空虚を突きつけられる、残酷な羨望。厳しい自然の中で、子をなすことができないということが、どれほど彼女の心を摩耗させてきたか。一歳児の瞳でさえ、その陰りは捉えられるほどに濃密だった。


 けれど、今。


 僕の頬をなぞる彼女の指先からは、あの日感じた「冷たさ」が完全に消え去っていた。

 代わりに溢れ出しているのは、大地が吸い込んだ太陽の熱を、そのまま結晶化させたかのような、強烈で瑞々しいエネルギーだ。


「ああ、本当なんだ、ダリウス。最近のリリアンときたら、朝から晩まで自分のお腹に話しかけていてね。隣の俺なんて、目に入ってないんじゃないかって心配になるくらいさ」


 オーレンが照れ隠しに太い頭を掻き、野太い声で笑った。


 彼の褐色に焼けた顔には、夫としての安堵と、これから未知の生命を守り抜くのだという「雄」としての誇り高い覚悟が、深い刻印となって現れていた。

 彼は隣に座るダリウスと無言で視線を交わし、力強く頷き合った。男たちの間には、言葉以上の、生存と継承への誓いが流れている。


 リリアンは、まだ膨らみの目立たない、しかし確かに生命の鼓動を予感させる自らの腹部を、両手で包み込むように撫でた。


「名前は、もうオーレンといっぱい話し合ってるの。男の子なら、オーレンみたいにどんな嵐にも負けない強い子。女の子なら……そうね、マリアみたいに、誰かの心を温められる、賢くて優しい子がいいわ」


 リリアンの声は、花の蜜が滴るように甘く、そして瑞々しい。

 彼女からは、以前感じたスパイシーで野性的な芳香に加えて、何か「麦」や「芽吹き」を想起させる、別のレイヤーの匂いが漂い始めていた。


(一年前の彼女は、僕を見て羨んでいた。けれど今は、彼女はついに母親になったんだ…)


 僕は、彼女の腹部にそっと手を添えてみた。


 厚手の生地越しに伝わってくるのは、母親という「個」の体温。そしてその深部にある、まだ形も定まらぬ小さな「全」の気配。


 精霊や魔力マナといった、僕が追い求めている神秘的なエネルギーとはまた別の、生物としての圧倒的な正解。それが行使する「魔法」よりも確かな奇跡が、そこにはあった。


「……妊娠が分かったのはつい最近だから、正直、まだ実感が湧かなくて。嬉しいのと同じくらい、何だか怖いの。この小さな身体で、本当に一人の人間を育てられるのかしら」


 リリアンがふと、祈るような手つきで腹部をさすりながら、不安の色を瞳に宿した。


 先ほどまでの弾けるような歓喜が、一瞬の静寂の間に、母となる者が抱く根源的な恐怖へと塗り替えられる。

 隣村の厳しい自然の中で、力強く生きてきた彼女であっても、自らの内に宿った「未知」に対しては、一人の震える少女に戻ってしまうようだった。


 それを受け止めたのは、母マリアの、揺るぎない慈しみに満ちた声だった。


「大丈夫よ、リリアン。私もアレンを授かった時は、毎日が驚きと不安の連続だったわ。特に最初の三ヶ月は、自分の身体が自分のものでなくなるような、不思議で、少し恐ろしい感覚だった」


 マリアはリリアンの手を優しく包み込み、自らの経験を紐解いていく。


 食べ物の匂いが突然耐え難くなったこと。理由もなく涙が止まらなくなった夜のこと。そして、お腹の中で初めて「動いた」瞬間に、世界がそれまでとは全く違う色に見え始めたこと。


「アレンはね、お腹の中にいた時から少し変わっていたのよ。暴れるわけじゃないけれど、時々、妙な落ち着きがあって……あの人なんて、私になにかある度に慌てふためいていたかしら」


 マリアがクスリと笑う。


 それは、幾世代にもわたって母親から母親へと受け継がれてきた、最も古く、最も確かな「生存の知恵」だった。医学的な知識ではない。ただ「あなたは一人ではない」という連帯の証明。


 リリアンはその言葉を、乾いた大地が雨を吸い込むように聞き入っており、居間には二人の女性だけが共有できる「命の聖域」が形成されていた。


 未だ幼い僕は、その会話の端々に、母という存在が払ってきた「犠牲」の正体を見出していた。

 前世の知識では理解していたつもりだったが、こうして目の前で語られる生々しい記憶は、僕の魂に重い衝撃を与える。


(……僕は、この人の命を削って生まれてきたんだな)


 マリアの柔らかい掌を見つめながら、僕は改めて、この日常を守る責任の重さを噛み締めていた。


 だが、その聖域を切り裂くように、力強い、快活な足音が近づいてきた。


――バァン!!


 勢いよく扉が開かれ、秋の冷たい風と共に、燃えるような赤毛の男が飛び込んできた。

 フィナの父、ウィリアムだ。


「おい、ダリウス!隣村の野郎が来てるってのは本当か!庭まで笑い声が聞こえてきたぜ!」


 ウィリアムの声は、いつも通りの豪快さだった。

 彼はリリアンとマリアに向かってひらひらと手を振ると、すぐにテーブルに座るオーレンの肩を叩いた。


「よお、オーレン!久しぶりじゃねぇか。相変わらず太陽に愛されすぎて、炭みたいに黒いな!」


「ウィリアムか。お前のその騒がしさも、相変わらず森の獣を気絶させるレベルだな」


 二人の巨漢が笑い合い、ガシリと力強い握手を交わす。それは親しい友人同士の、どこにでもある再会の情景だった。


「……で、どうだダリウス。せっかくオーレンも来てるんだ。女たちの『お喋りタイム』を邪魔するのも野暮だろ?ちょっと外に出て、男同士の話でもしようぜ。今年の収穫の出来や、隣村の景気についてもじっくり聞きたいしな」


 ウィリアムはニカッと笑い、首を傾けて外を指し示した。


 その言葉は「気を利かせた友人」のそれだった。マリアやリリアンが、自分たちの深い話(妊娠の相談)に没頭できるように、男たちは席を外そうという、至極真っ当な提案だ。


「そうだな。リリアンも、マリアに色々と聞きたいことがあるだろうし。……オーレン、いいか?」


 ダリウスが穏やかに問いかける。オーレンもまた、リリアンの肩を一度だけ優しく叩き、腰を浮かせた。


「ああ、構わん。久々にウィリアムの自慢話に付き合ってやるのも悪くない」


 三人の男たちは、談笑しながら扉の方へと歩き出した。


「すぐに戻るよ。マリア、リリアンを頼むな。……おいアレン、お前はレディたちの護衛を任せたぞ」

 ダリウスが僕の頭をポンと叩き、茶目っ気たっぷりにウインクをして見せる。


 バタン。


 扉が閉まり、室内には再び女たちの穏やかな時間が戻ってきた。


「もう、男の人たちって。ああやって集まると、すぐ子供みたいになるんだから」


 マリアが呆れたように、けれど幸せそうに笑う。リリアンもまた、緊張が解けたのか、再び「名前はどうしようかしら」とマリアに寄り添った。


 けれど。


 僕の耳は、扉が閉まる直前、ウィリアムの笑い声がふっと消えた瞬間を逃さなかった。


 そして、ダリウスが僕の頭を叩いた時の、あの指先の微かな冷たさ。それは、愛情ではなく、無意識の緊張からくる血の気の引きだった。


(……『男同士の話』、か。嘘ではないだろうが、半分は嘘かな)


 僕は、絨毯の上で積み木をいじりながら、扉の向こう側に意識を向けた。


 ウィリアムは、リリアンの妊娠というこの上ない祝祭の場を、不吉な知らせで汚さないように配慮したのだ。マリアたちの「聖域」を守るために、彼は道化を演じて男たちを外へ連れ出した。


 あのウィリアムが、リリアンへの挨拶もそこそこに話を切り上げるなど、通常では考えられない。

 

 外から聞こえる秋風の音。

 その中に混じる、男たちの低く、重い、真剣な囁き声。


 僕は窓の外を見上げた。

 収穫を待つ黄金色の麦畑は、静かに、しかし確実に深まる夕闇に飲み込まれようとしている。

 

(ダリウス、オーレン、ウィリアム……。三人が揃って外に出なければならないほどの『話』。それが、ただの収穫の相談であるはずがない)


 僕はマリアの膝元に這い寄り、彼女の温かさを確かめるようにその服を掴んだ。


 リリアンのお腹の中に宿ったばかりの、か細い光。

 それを守り抜くために、扉の向こう側で男たちは今、エレスの森の「毒」と対峙している。


 今年の収穫祭まで、あとわずか。

 この平穏が、嵐の前の静けさでないことを、僕は祈るだけだ。

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