第二十話:泉の女神と、白銀の沈思
未だ幼い僕の視界は、地上からわずか数十センチメートルの高さにある。
その低い視点から見上げる世界は、驚くほど広大で、色彩に満ちていた。
僕の手を引くのは、三歳半のフィナだ。
彼女の燃えるような赤毛が、朝露を含んだ空気の中で鮮やかな軌跡を描いて踊る。
その後ろを、三歳になったばかりの双子、ミアとリアが追いかけてくる。
黄金の髪を弾ませるミアと、漆黒の髪を揺らすリア。
僕を含めた四人の子供たちは、まるで色とりどりの小鳥が並んで跳ねているような、微笑ましい光景を村の小道に作り出していた。
「ほら、アレン!しっかり歩いて。もうすぐ、村の広場につくからね!」
フィナの声は快活で、未来への希望に満ち溢れている。
彼女の掌は、農家の娘らしく少しばかり硬く、けれど驚くほどの熱量を持って僕の小さな手を包み込んでいた。
僕は「あぅ、あー」と幼児らしい声を漏らしながら、彼女の歩調に必死に合わせる。
今の身体能力では、三歳児の無邪気な突進に付き合うのは、前世のフルマラソンにも匹敵する重労働だ。
しかし、僕はその苦労を楽しみさえしていた。
村の中心部に差し掛かると、一際大きな場所に出た。
この村の象徴とも言える広場。
いつもここで収穫祭や、村の重要な決め事など、大事なイベントの時は皆がここに集まる。
そこの隅には、いつも決まったように一人の老人が座っていた。
村長であり、長老でもあるタナーだ。
彼は杖を膝に置き、深い皺の刻まれた目元を和らげて、僕たちを見つめていた。
その眼差しは、単に孫を見守る祖父のそれではない。この村のすべてを、そして目に見えない時の流れさえも静かに観測し続けてきた者だけが持つ、不思議な深淵を宿していた。
「おやおや、村の宝物たちが勢揃いじゃな。今日も村中が賑やかで良い」
タナーの声は、風に揺れる木の葉の音のように枯れていて、けれど確かな温もりがあった。フィナが僕の手を離し、タナーの足元へトトトと駆け寄る。
「タナーおじいちゃん、おはよう!アレンとミアとリアも一緒だよ!」
「ふむ、アレンも随分と足取りがしっかりしてきたのう。……どうかな、お前さんたち。今日も元気かな? 何か困ったことや、怖いことはなかったかな?」
タナーは一人ひとりの顔を覗き込むようにして問いかける。
その問いは形式的なものではなく、本気で僕たちの小さな世界の安寧を案じているようだった。
昨夜、父たちが話していた「獣の気配」を、この老人もまた敏感に察知しているのかもしれない。
しかし、フィナはそんな大人の懸念など露知らず、満面の笑みで答えた。
「毎日、とっても楽しいよ!昨日はダリウスおじさんの家でパパたちが笑ってたし、今日はアレンと見回りしてるんだもん!」
その言葉に、ミアとリアも「楽しい!」「お花、綺麗だった」と口々に賛成する。
子供たちの純粋な幸福感こそが、この過酷な世界における唯一の正解であるかのように。
タナーは満足げに何度も頷き、それから空を見上げるようにして微笑んだ。
「そうか、そうか。良かったのう……。それはきっと、泉の女神様のおかげじゃな」
「泉の女神様?」
フィナが不思議そうに小首を傾げる。ミアとリアも、聞き慣れない言葉に瞳を丸くした。
その瞬間、僕の脳内にある「前世のデータベース」が、猛烈な勢いで火花を散らした。
女神。この世界において、それは単なる宗教的な象徴なのか。それとも――。
僕はタナー老人の表情を一瞬たりとも見逃さないよう、瞳の奥に鋭い知性を宿して耳を澄ませた。
幼児特有の「じっと見つめる」という動作を装いながら、僕は老人の発する言葉の端々から、この世界の理を抽出試みようとする。
「そうじゃよ。この村のどこかで静かに佇む泉には、この土地を見守る女神様がおいでになる。女神様は、清らかな心を持つ子供たちの笑い声を何よりも好まれる。お前さんたちが仲良く笑っておれば、女神様はその見えない力で、村を災いから守ってくださるのじゃ」
子供たちは「へぇー!」「女神様、見てるかな?」と無邪気に聞き入っている。
しかし、僕の思考はもっと現実的で、かつ技術的な領域へと突き進んでいた。
(女神の見えない力……。それは比喩か、あるいは実在するエネルギーの概念か? 絵本に出てくる『精霊』と、その『女神』に相関関係はあるのか?)
そこで、タナーの口調は、どこか遠い昔を懐かしむような、寂寥感を帯びたものへと変わっていった。
「……もっとも、その泉も今ではすっかり枯れ果ててしもうてな。儂が知っておるのは、その跡地だけじゃよ」
「枯れちゃったの?女神様、いなくなっちゃったのかな?」
リアが不安そうに小さな声を出す。タナーは杖を握る手に力を込め、森の深淵を指し示すように空を仰いだ。
「いや、形を変えておられるだけかもしれん。その跡地はな、この村から少し離れた、南の森のさらに奥にある洞窟の中じゃ。昔は清らかな水が溢れておったが、今は静寂だけがそこを守っておる」
洞窟。
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、僕の背筋に電気が走った。
そこは、僕が以前、双子たちのために黒曜石を手に入れた場所だった。あのみずみずしい光を放つ漆黒の石が転がっていた、あの暗く、静かな空間。
偶然だろうか。いや、この世界において、これほどの「点と点」が繋がる状況が、単なる偶然であるはずがない。
(あの洞窟が、泉の跡地……。つまり、女神がいた場所……)
タナー老人は、ふと僕と視線を合わせた。
その瞬間、彼の細められた瞳の奥で、何かがキラリと光ったような気がした。
僕がただの子供としてではなく、彼の言葉を「解析」しようとしていることに、彼は気づいているのではないか。
そんな錯覚を抱かせるほど、老人の視線は鋭く、そして慈愛に満ちていた。
「女神様は、形がなくなっても、いつもお前さんたちのすぐ側にいらっしゃる。風が頬を撫でる時、花の香りが鼻をくすぐる時……。それは女神様が、お前さんたちを愛でている合図なんじゃよ。だから、明日も、その次も、仲良く笑って過ごすのじゃぞ」
「「「はーい!」」」
三人の少女たちの元気な返事が、大樹の枝葉に吸い込まれていく。
僕は返事の代わりに、小さくコクリと頷いた。タナー老人の言葉は、子供たちへの教訓としては完璧だったが、僕にとっては「多重構造を持つ謎解き」のように聞こえていた。
広場での穏やかな時間は、やがて傾き始めた太陽によって終わりを告げられた。
空は薄い紫から濃い橙色へと溶け始め、エレスの村を長い影が支配していく。
「それじゃあ、また明日ね!」と元気よく手を振るミアとリア。
彼女たちは、両親が待つ自宅へとトコトコと駆けていった。
夕闇の中で、彼女たちの胸元にある琥珀と黒曜石が、残り少ない陽光を反射して最後の一輝きを放つ。
「さあ、アレン。私たちも帰りましょう。暗くなると、悪い獣が出るかもしれないからね」
フィナが、少しだけ「お姉さん」の顔をして僕の手を引く。
村の家々からは、再び夕餉の煙が立ち上り、どこか懐かしい香りが漂ってくる。
偵察から戻ったのか、広場の隅ではダリウスやウィリアムたちの姿が見えた。
彼らの顔には隠しきれない疲労があったが、子供たちの姿を見つけると、瞬時に「優しい父親」の顔へと戻る。
「アレン!フィナちゃんに送ってもらったのか。偉かったな」
我が家の前で、ダリウスが僕を軽々と抱き上げた。
彼の腕は昨夜と同じように硬く、冷たい風に晒されていたせいか少し冷えていたが、そこから伝わってくる拍動は、何よりも僕を安心させた。
「フィナちゃん、ありがとうね。ナタによろしく伝えてね〜」
母マリアの優しい声に見送られ、フィナは赤毛を翻して自分の家へと帰っていく。
家の中は、暖炉の火によってオレンジ色に染まっていた。
僕はダリウスの肩越しに、遠ざかるフィナの背中を見つめ、それから先ほどまで座っていた大樹の方向を振り返った。
闇に沈みつつある大樹は、まるで世界そのものを支える巨大な柱のように見えた。
その夜。
マリアに身体を拭いてもらい、清潔な布の匂いがする布団の中に潜り込むと、一日の心地よい疲れが波のように押し寄せてきた。
隣の部屋からは、ダリウスとマリアが声を潜めて、明日の農作業や冬の蓄えについて相談する声が聞こえてくる。
その穏やかな旋律を背景に、僕は今日、タナー老人が語った言葉を脳内の作業机に並べた。
(枯れた泉の跡地……あの洞窟……)
天井の闇を見つめながら、僕は思考の海に深く沈んでいく。
これまで僕は、絵本『古き湖の勇者』の記述をベースに、この世界に遍在するエネルギーを「マナ(魔力)」と定義し、それを観測しようとしてきた。
だが、何度瞑想を繰り返しても、その実体は掴めなかった。
(なぜ観測できない?以前の僕は、自分の力不足や、幼児の身体という制限を疑っていた。だが、もし前提が違っていたら?)
タナー老人が口にした「泉の女神」。
それは単なる迷信や擬人化ではないのではないか。
隠された理として、僕の知識には「魔力」と「精霊達の及ぼす力」は別物であるという仮説が浮上している。
魔力とは別に、勇者が使っていたとされる力――これからは精霊力とでも言おうか…は、特定の「精霊」に働きかける「感応の力」だ。
(タナー老人が言った『女神様』。それは、この土地、あるいは泉に定着していた『精霊』を指しているのではないか?)
そして何より重要なのは、その泉が「枯れている」という事実だ。
もし水という物理的な媒体がなくなったことで、精霊としての活動も「休止」あるいは「変質」しているのだとしたら?
僕があの洞窟で手に入れた黒曜石。あれは、かつて女神の泉だった場所に残された、マナの結晶体か、あるいは精霊力の「残響」が形を成したものではないか。
(勇者の物語が『精霊力』を描いているのであれば、これまでの模索が、何の成果も見せなかったのも頷ける。)
タナー老人は、あえて「枯れた泉」の話をすることで、僕にこの世界の重要なレイヤーを教えようとしたのか。
あるいは、僕があの洞窟で何かを見つけたことさえ見越しているのだろうか。
(......いや、まさかね。どこからどうみても、ただの幼児にしか見えない...筈)
ここまでの仮説で、結論としては「魔力は誰にでもある」。だが、「精霊力は選ばれた者にしかない」と考えた方がいいかもしれない。
僕にその素質があるかどうかは分からない。
けれど、あのみずみずしい黒曜石を見つけ出したという事実は、僕がその「場所」に引き寄せられた何らかの証左ではないのか。
僕は布団の中で、自分の小さな、白い掌をじっと見つめた。
窓の外では、夜の風が静かに枝葉を揺らしている。
その風の中に、あるいはあの静まり返った洞窟の奥底に。タナー老人が言ったように、「女神」という名の精霊たちの余韻が息づいている。
僕はゆっくりと目を閉じ、意識を自分の外側へと、これまで以上に広く、淡く、優しく拡散させていった。
力むのではない。
昨夜の父たちの逞しい背中を思い出し、今日の手を引くフィナの熱を思い出し、双子たちの無邪気な笑い声を思い出す。
この村を満たす「善意」と「日常」という波長に、自分の意識を同調させていく。
(枯れた泉の女神様。……もし貴女の残した『音』がまだあの場所に響いているのなら。僕にも、その旋律の端っこだけでも掴ませてくれないか)
意識の深淵で、僕はそう願った。
瞳を閉じた瞼の裏で、一筋の銀色の光が走ったような気がした。
それが僕の脳が作り出した幻覚なのか、それともエレスという世界が初めて僕に返した「応答」なのかは、まだ分からない。
けれど。
一歳三ヶ月のアレンは、この夜、確かに一つ上の階梯へと足を踏み出した。
あの洞窟に眠る、目に見えない「何か」の輪郭を捉え始めるために。
遠くで、夜鳥が一度だけ鳴いた。
夜は、どこまでも深く、そして可能性に満ちていた。
わくわくどきどき




