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第十九話:巨人の背中と、少女のパレード

 秋の収穫を目前に控えた、ある日の夕暮れ。


 広大な空は、燃えるような茜色から深い群青へと溶け始めていた。

 

 外からは、冷気を孕み始めた風が枯葉を踊らせる音が聞こえるが、家の中は暖炉の火が爆ぜる音と、男たちの太い笑い声で満たされている。


 僕は、おぼつかない足取りながらも自力で居間を歩き回り、自分の「特等席」――暖炉に近い厚手の絨毯の上へと腰を下ろした。


 今夜の我が家は、いつもより少しだけ賑やかだ。


 父ダリウスが、村の友人であるウィリアムとバルカを酒盛りに招いたからだ。


 居間に並んだ三人の男たちの姿は、一歳児の僕から見れば、まるで巨人の山脈のようだった。


「がははは!ダリウス、この麦酒は格別だな。去年のよりコクがあるぜ」


 豪快に笑いながら木杯を煽るのは、フィナの父、ウィリアムだ。


 燃えるような赤毛が、火光に照らされてさらに鮮やかに輝いている。

 精悍で快活な顔立ちを崩し、彼が膝を打つたびに、絨毯越しに僕の身体までその振動が伝わってくる。


「……ああ。発酵の加減が、今年は上手くいったんだ」


 そう言って、僕の父ダリウスが、自慢の酒を皆の杯に注ぎ足している。


 砂褐色の髪を短く揺らし、ヘーゼル色の瞳を細めて僕の様子を伺う姿は、いつもの「溺愛するパパ」そのものだ。


 しかし、酒瓶を持つその腕の筋肉は、土と共に生きる農夫としての逞しさに満ち溢れている。


 そして、その傍らで岩のように静かに座っているのが、双子の父バルカだ。


 村屈指の巨漢である彼は、短く刈り込んだ漆黒の髪に、深い黒色の瞳を宿している。


 多くを語らず、無骨な指先で器用に干し肉を摘み上げては、一口ずつ噛みしめるように酒を飲んでいる。


 この三人の背中こそが、エレスの村の平穏を肉体で支える「三本の柱」なのだと、僕は直感的に理解していた。


「そういやダリウス、南の峠の話は聞いたか? 岩崩れで街道が死んでる。塩のキャラバンが足止めを食らって、相場が三割は跳ね上がったらしいぜ」


 ウィリアムが、酔いの中に鋭い光を混ぜて切り出した。


「三割か……。冬の燻製作りには致命的だな。タナー様と掛け合って、北の狩人連中と物々交換の枠を広げるべきか。あっちにはまだ、去年の残りの岩塩があるはずだ」


 父の返答に、僕は内心で舌を巻いた。


 彼らが話しているのは、単なる世間話ではない。この世界における物流の脆弱性と、それに伴う生存戦略だ。


 冷蔵技術のないこの世界で、塩の不足は冬の間の食料難に直結する。


(経済学で言うところのサプライチェーンの寸断。それを、彼らは経験則と隣村とのネットワークだけで解決しようとしている)


 文字を知らなくとも、彼らは「生きるための知恵」を完全に掌握している。

 それは僕が本で得た知識よりも、遥かに血の通った、生々しい真理だった。


「……それだけじゃない」


これまで沈黙を守っていたバルカが、地底から響くような声を出した。黒い瞳が、暖炉の火を反射して冷たく光る。


「南の森の境界……柵の修繕に行った時だ。泥の上に、見たこともない獣の足跡があった。大きさは俺の手のひら二つ分。爪の跡が深く、まだ新しい。しかも、足跡の間隔が一定じゃない……獲物を仕留めるために、潜んでいた歩き方だ」


 その言葉に、室内の温度がスッと下がった。

 ウィリアムの顔から酔いが消え、猟師のそれへと変わる。


「爪痕が深いってことは、自重がある。牙熊か、あるいは迷い込んだ山犬の類か……。放っておけば家畜がやられるな。村の皆には、しばらく洗濯を家の裏手だけにさせるよう伝えておこう」


 父ダリウスの言葉には、迷いがない。


 僕が血眼になって探している「マナ」や「精霊」といった神秘など、ここには欠片もない。

 あるのは、泥の上の足跡から脅威を読み解き、先手を打つという、徹底した現実主義だ。


(……すごいな。これが『生きる』ということか)


 前世の僕は、ネットやニュースで「危機」を消費していた。

 けれど、ここでは危機は隣り合わせであり、自分の手で解決しなければならない対象なのだ。


 僕は彼らの背中に、理屈を超えた「強さ」の本質を見た気がした。


 やがて、重苦しい空気を振り払うようにウィリアムが大きく息を吐き、話題を家族へと戻した。


「ま、獣の話は明日だ。それよりバルカ、お前のとこのミアとリア。あのペンダント、まだ大事にしてるんだろ?」


 バルカの表情が、一瞬で「不器用な父」のそれに緩んだ。


「……ああ。寝る時も握りしめている。お陰で、俺が作った不器用な金具がもう壊れそうだ。農作業の合間に、あの小さな石を磨き直すのが日課になった……」


 村一番の巨漢が、自分の太い指を眺めて困ったように笑う。


 以前、僕が彼らに贈るよう仕向けた琥珀と黒曜石。バルカはその「鉄を打つような手」で、慣れない細工仕事に挑んだのだ。

 その指先に刻まれた無数の小さな切り傷は、彼がどれほどの時間をかけて、愛娘たちのために金属を叩き、石を固定しようと奮闘したかを雄弁に物語っていた。


「ははは! あの無口なバルカが、娘のためにちまちまと細工仕事か。傑作だな!」


 ウィリアムの豪快な笑い声が、再び居間を包み込む。


 僕はその笑い声を聞きながら、一つの答えに辿り着いた。


 僕が求めるマナの観測は、依然として暗闇の中だ。

 数式を捏ね回し、呼吸を整えても、世界の境界線には指先さえ触れられない。


 けれど、このバルカの不器用な手、ウィリアムの警戒心、そしてダリウスの決断。


 これらもまた、世界を動かす「力」の一種ではないだろうか。魔力ではない。けれど、確実に誰かの運命を動かし、幸せな日常を形作っている、強固な意志の顕現だ。


「おっと、アレン。そろそろ寝る時間だね」   


 父ダリウスが、目を慈しむように細めて、僕をひょいと抱き上げた。


 彼の胸板は硬く、土と汗と、そして少しだけ麦酒の匂いがした。


 前世の僕は、誰かに守られることを「弱さ」だと勘違いしていたかもしれない。あるいは、守られることが当然すぎて、そのためのコストに無自覚だった。


 けれど今、この巨大な腕の中に収まっている僕は、生まれて初めて「完璧な安全」の正体を理解していた。


 外側には飢えがあり、岩崩れがあり、鋭い爪を持つ獣がいる。けれど、この家を形作る木材の一本一本、暖炉で燃える薪の一片、そして僕を抱き上げるこの腕の筋肉が、それらすべての脅威を撥ね退けている。


(……この温もりが、僕の『聖域』なんだな)


 ダリウスの心臓が奏でる力強い鼓動。

 ウィリアムとバルカが交わす、去り際の低い挨拶。


「じゃあな、ダリウス。明日の朝、偵察の準備をしておくぜ」


「ああ、頼んだよ」


 玄関の扉が閉まり、冷たい風が遮断される。


 マナも精霊も、今はまだ見えない。

 けれど、僕の白銀の髪をなぞる父の大きな手のひらの熱だけは、どんな真理よりも確かな重みを持って、僕の魂に刻まれていく。


 僕は父の肩に顔を埋め、深い、深い安らぎの中へと意識を沈めていった。




 翌朝、僕が目を覚ました時には、昨夜の重厚な熱気は霧散する夢のように綺麗に洗い流されていた。

 

 窓から差し込む朝日は、昨日よりも一段と澄んで、鋭い。


 石造りの壁に守られた寝所には、冬の到来を予感させる霜の匂いと、キッチンから漂う焼きたてのパンの香ばしさが満ちていた。


 隣で眠っていたはずの父ダリウスの姿は、もうない。枕元に残された僅かな体温と、使い込まれた狩猟用ナイフが消えていることが、彼が早朝からウィリアムやバルカと共に語り合った「森の偵察」に向かったことを無言で告げていた。


(……大人の世界は、僕が思うよりもずっと早くから、そして静かに動き出しているらしい)


 僕は寝床から這い出し、拙い足取りで窓際へと向かった。


 窓ガラスの端には、繊細なシダの葉のような氷の紋様が刻まれている。

 その向こう側では、村が黄金色の朝日に包まれ、家々の煙突から細い煙が立ち上っていた。


 魔力や精霊を感知できない僕の目には、それはただの美しい風景にしか見えない。

 けれど、その平和を維持するために、今この瞬間も、父たちは冷たい森の泥を這い、獣の足跡を追っているのだ。


 そんな感傷に浸る僕の耳に、静寂を物理的に引き裂くような音が届いた。


――ドンドンドン!!


「アレンー!朝だよ!教育係のフィナ様がお迎えに来たわよ!」


 激しいノックと共に響いたのは、鈴を転がすような、それでいて軍隊の進軍ラッパを思わせるほど快活で一方的な声だった。


 扉が勢いよく開くと同時に、朝の冷たい風と、それ以上の熱量を孕んだ少女が居間に飛び込んできた。


「あら、フィナちゃん。おはよう。今日も早いのね」


 キッチンで手を動かしていた母マリアが、困ったような、けれど愛おしそうな苦笑いで彼女を迎え入れる。


 そこに立っていたのは、三歳半になったフィナだ。

 彼女の象徴である燃えるような鮮やかな赤毛は、朝日に照らされてさらに光度を増し、まるで彼女の溢れんばかりの生命力がそのまま形を成したかのように踊っている。


「マリアおばさん、おはよう!さあアレン、ぼさっとしてちゃダメよ。今日は『見回りの日』なんだから!」


 フィナは迷いのない足取りで僕のもとへ歩み寄り、僕の白銀の髪を覗き込むようにして、その意志の強そうな瞳を爛々と輝かせた。


「ちょっと、アレン。まだ寝ぼけてるの?瞳がぼんやりしてるわよ。……まあいいわ。ほら、手を貸しなさい!」


 彼女の小さな、けれど労働に従事する家庭の子供らしい、硬くて力強い掌が僕の手をぎゅっと握りしめる。


(……侵入者、というよりはもはや嵐だな。だが、悪くない)


 僕は一歳児らしい、少し間の抜けた笑顔(を装った完璧なカモフラージュ)を浮かべながら、彼女の勢いに身を任せることにした。


 母が「アレンをよろしくね」と手渡した小さな外套を、フィナが甲斐甲斐しく着せ、ボタンを一つ掛け違えるのも、今の僕にとっては微笑ましい日常の一コマだった。


「いい、アレン。森の方はパパたちの仕事。でも、この村の中を守るのは、私たちの仕事なんだからね」


 フィナは僕の手を引き、村の小道を力強く踏みしめていく。

 彼女の「見回り」は、驚くほど詳細で、そして愛情に満ちていた。


「ここは水はねが強いから、足元に気をつけて」


「ここのお家の犬は、頭を撫でると喜ぶけど、尻尾は触っちゃダメ。……いい、アレン。挨拶は基本よ!」


 彼女は出会うすべての住民に、父ウィリアム譲りの快活な声で挨拶を投げかける。


 そのたびに村人たちは、僕の姿を見ては「本当にお利口さんだ」「マリアに似て綺麗になった」と口々に褒め、僕の頭を優しく撫でていく。


(……なるほど。これが父たちが昨夜語っていた、守るべきものの『実体』か)


 供給網の寸断や獣の脅威といった過酷な現実。その対極にある、この平和な細部。


 僕が異質な容姿を持ちながらこの村に溶け込めているのは、この赤毛の少女が僕の手を引き、村中に「アレンは私たちの仲間だ」と宣言して回ってくれたお陰なのだ。


 広場に出ると、そこには見慣れた二人の姿があった。


「あ、アレン!フィナちゃんも!」


 駆け寄ってきたのは、バルカの娘、双子のミアとリアだ。


 三歳になったばかりの彼女たちは、今日もその胸元に琥珀と黒曜石を誇らしげに下げていた。


「見てアレン、とってもキラキラでしょ!パパがね、もっと光るようにって磨いてくれたの!」


 天真爛漫に笑う、黄金の髪と瞳を持つ姉のミア。

 その隣で少し照れくさそうに、しかし大切そうに漆黒の石を握りしめているのは、父譲りの漆黒の髪と瞳を持つ妹のリアだ。


(……バルカさん、本当に磨き直したんだな。昨日の今日で)


 昨夜、酒の席でバルカが「俺の太い指じゃ、小さな金具を扱うのは一苦労だ」とこぼしていたのを思い出す。


 彼女たちの胸元で揺れるそれは、あの巨漢の農夫が、一日中振るい続けた重い鍬を置き、疲れ果てたその手で、愛娘たちのために細かな作業を繰り返した愛の結晶そのものだった。


「いい、アレン。ミアとリアは私の『助手』なんだからね。……さあ、見回りを続けるわよ!」


 フィナが腰に手を当てて威張る。


 赤毛、黄金、漆黒。そして、僕の白銀。

 秋の冷たい空気が、肺の奥まで心地よく染み渡る。


 ふと周りを見渡す。石造りの家々が並ぶ村の小道は、朝の湿り気を帯びてしっとりと落ち着いていた。


 僕の手を引くフィナの歩調に合わせてトコトコと歩きながら、僕は視線を巡らせる。


 昨夜、父たちが話していた南の森へと続く道の入り口には、すでに数人の男たちが集まり、猟犬の様子を確認していた。


「ねえねえ、フィナちゃん!見て見て、ミアの石、お日様に当てるともっとキラキラするの!」


 ミアが、黄金色の髪を弾ませながら自分の胸元を指さした。


 僕は彼女の足元にある泥濘ぬかるみをそっと避けながら、広場の中央にある大きな井戸の構造を観察する。


 手押しポンプはなく、滑車でバケツを吊るすタイプだ。水源の確保はこの村の生命線だが、今のところ枯れる気配はないらしい。


「本当だ、すごいわね!私のパパも言ってたわよ。バルカおじさんが、昨日の夜遅くまでちっちゃなハンマーでトントンしてたって!」


 フィナが自分のことのように胸を張って、燃えるような赤毛を揺らす。


 彼女の快活な声が響く中、僕は村の広場に面した貯蔵庫の屋根を見上げた。


 一部の石材が剥がれ落ちている。冬が来る前に修繕が必要だろう。

 昨夜の塩の話と言い、この村の備蓄管理はタナー老人が一手に引き受けているのだろうか。


「……私の石は、暗い色だけど。でもね、ずっと握ってると、お日様みたいに温かくなるの。不思議」


 漆黒の髪を揺らしながら、リアが大切そうに黒曜石を両手で包み込んだ。


 控えめだが確かな知性を感じさせる彼女の言葉に、僕はふと足を止めて、村の外周を囲む木の柵に目を向ける。

 

 バルカさんが直したという柵の近くには、確かに新しい補強の跡があった。昨夜の「獣の足跡」を思い出し、僕は本能的に周囲の物音に神経を尖らせる。


「リアの石は『夜』の色だもんね!ミアのと合わせたら、『お昼と夜』が一緒になっちゃうね。ねえ、フィナちゃん!」


 ミアがケラケラと笑いながら、フィナの服の裾を引っ張った。


 三人の少女たちの無邪気な笑い声が、冷たい秋の朝気を和らげていく。


 僕は彼女たちの背後、村の外れにある鍛冶場から聞こえる「カン、カン」という規則正しい音に耳を傾ける。

 バルカさんはもう仕事を始めているようだ。農具の修理か、それともまた、娘たちのための細工だろうか。


「ふふん、それは『秘密の宝物』ってことね!アレンが石を見つけて、バルカおじさんが形にしたんだから……アレンはこの宝物の王様ね!」


 フィナが僕を振り返り、誇らしげに宣言する。


 一歳児に向かって「王様」とは大層な呼び名だが、僕は「あぅ、あー」と幼児らしい声を出しながら、村の広場に集まり始めた主婦たちの会話を盗み聞きしようと耳を澄ませる。


 ナタさんとグレシアさんが、冬用の干し肉の仕込みについて打ち合わせをしているのが聞こえた。


「王様は……まだ、とっても小さいけど。でも、髪の毛も宝物みたい。キラキラして、綺麗」


 リアが僕の白銀の髪をじっと見つめ、そっと指先で触れた。


 僕は彼女の真っ直ぐな黒い瞳を見つめ返しながら、この村の平穏を守るための「情報」をさらに収集する。


 広場の隅でタナー老人が杖を突いて立っているのが見えた。

 彼は、僕たち子供の集団を、深い皺の刻まれた目元を和らげてじっと見守っている。


「次は、フィナちゃんのも探そうよ!フィナちゃんの髪の毛みたいに、真っ赤で、ピカピカした石!」


 ミアがぴょんぴょんと跳ねながら提案し、三人は再び楽しげなパレードを再開した。


 赤毛、黄金、漆黒。色とりどりの色彩が僕の視界を彩り、日常というキャンバスに鮮やかな色を置いていく。


(……うん、この村は今日も、驚くほど平和で、そして生きるエネルギーに満ちている)


 僕はフィナの温かな掌の感触を確かめながら、自分たちが生きるこの小さな、けれど確かな世界の姿をしっかりと両の目に焼き付けていた。


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