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第十八話:文字の扉と、母の静かな眼差し


 双子の誕生会から数日が過ぎ、村を包んでいた熱狂は、穏やかな春の陽光に溶けるようにして引いていった。


 ミアとリアは、片時もあのペンダントを離さず、鏡の前で首を傾げたり、互いの輝きを確かめ合ったりするのに忙しそうだ。


 窓の外では、遠くで家畜の鳴き声と、薪を割る乾いた音が響いている。

 それさえも、厚い午後の空気に吸い込まれて、微かな異世界の鼓動のように聞こえた。


 僕は自室の窓際、一番陽当たりの良い場所に小さな椅子を引き寄せ、深々と腰を下ろした。膝の上には、ずしりとした重みが乗っている。


 以前、行商人から譲り受けた一冊の絵本――『女神と勇者の出会い』だ。

 

 大袈裟な使命感があるわけじゃない。

 ただ、この世界の「仕組み」が知りたくてたまらなかった。


 目の前にある未知の言語は、僕にとって解かれるのを待っている巨大なパズルのように見えた。


 僕は慎重に、最初の一ページを開いた。


 羊皮紙の上に躍るのは、蔦が絡まり合ったような、あるいは幾何学模様を崩したような奇妙な文字の羅列だ。


(……くっ、全く読めない)


 前世の記憶を総動員し、あらゆる言語体系と照らし合わせてみる。表音文字か、あるいは表意文字か。行商人が口にしていた単語の響きと、目の前の文様を頭の中で繋ぎ合わせようと試みる。


 だが、その手がかりはあまりにも細い。

 一文字一文字をじっと睨みつけ、指でなぞりながら、僕は「うーん、うーん」と無意識に声を漏らした。


 この身体はまだ一歳と数ヶ月。

 思考は大人でも、発声器官や脳の処理速度には幼児特有の「もどかしさ」が付き纏う。


 右から読むのか、左からなのか。それとも縦か。

 眉間に皺を寄せ、本を逆さにしてみたり、顔を極限まで近づけてインクの滲みまで観察したりする。


「あぅ……んぅ……」


 情熱だけが先走り、理解が追いつかない焦燥感。


 かつてこれほどまでに「知りたい」と強く願ったことがあっただろうか。

 僕はパズルの最後のピースが見つからない子供のように、ページをめくっては唸り、喉の奥で知的な葛藤の音を響かせ続けていた。


 その時、背後から柔らかな足音が近づいてきた。


「あらあら、アレン。そんなに難しい顔をして、どうしたの?」


 マリアが僕の様子に気づき、クスクスと笑いながら歩み寄ってきた。

 彼女の目には、一生懸命に本と格闘する我が子の姿が、たまらなく愛らしく映っているようだった。


「その本がそんなに気になるの?まだ文字は難しいかもしれないけれど……。いいわ、一緒にお勉強しましょうか」


 マリアが僕を抱き上げ、彼女の膝の上に座らせた。彼女の体温と、洗いたてのシーツのような香りが僕を包み込む。


 マリアは細くしなやかな指先で、最初の一行をなぞり始めた。


「いい、アレン。これは『ア』。始まりを意味する音よ。そして次が『ル』。流れる水の音。繋げると、この物語の舞台、アルヴェリアの地の名前になるの」


 彼女が紡ぐ音を、僕は一音も聞き漏らさないよう、唇の動きを注視した。


 マリアという「辞書」を得て、霧がかかっていた文字たちが、急速に意味を帯びて動き出す。


「……あ……る。ある……ゔぇ……」


「まあ、アレン。もう今の音を繋げられたの?」


 マリアが驚きに目を見開いた。その声には、我が子の成長に対する純粋な喜びが溢れている。


 僕は彼女の指が示す文字と音を紐付けながら、物語の深部へと没入していった。


 マリアが優しく読み上げる声に合わせて、羊皮紙に描かれた色彩豊かな物語が動き出す。


 ページを捲れば、そこには天を突くような巨濤が地上を飲み込む凄惨な「大いなる氾濫」の光景が描かれていた。


 かつてアルヴェリアの地が制御を失った「水」の力によって滅びの淵にあったとき、北の最果てにある凍てつく山々の奥深く、吸い込まれるような碧色をした「古き湖」――最果ての聖域から、一人の勇者が現れた。


 この地を守る女神が勇者に助けを乞うと、奇跡の力をもって、氾濫による滅びを回避したという。


 勇者は剣や盾ではなく、『精霊の歌』を武器に戦った。

 挿絵の中の「精霊」たちは、実体を持たぬ光の粒や、半透明の羽を持つ小さな影として描写され、勇者が口ずさむ旋律に合わせて激流を押し戻していく。


 その不思議な力の源泉として語られるのが、『魔力マナ』という言葉だった。


 マリアの指先がその単語をなぞる。


 それは呼吸するように大気に満ち、万物に宿る不可視のエネルギー。

 精霊はこのマナを媒介にして現象を操るのだと、絵本は淡々と、しかし神秘的に語りかけてくる。


 僕はそっと深呼吸をしてみたが、肺に届くのは春の柔らかな花の香りと土の匂いだけで、その「マナ」という力の気配を微塵も感じ取ることはできない。

 

 けれど、語られる伝説のなかで、氾濫を鎮めた勇者が去り際に残した「歌」の断片は、今も人々の言葉や祈りの中に息づいている。

 

 物語の最後に描かれていたのは、穏やかさを取り戻した大地で、ミアとリアが持っている琥珀や黒曜石に似た石を首から下げて笑う子供たちと、慈愛の表情をした女神の姿だった。


 それらは単なる装飾品ではなく、かつて勇者と共に戦った精霊たちとの「絆の証」――その加護を祈るための象徴として、古くから大切にされてきたものなのだと。


 マリアの声が止まり、僕は静かに最後の一ページを閉じた。

 

 そこで彼女は夕餉の準備を始めるべく、台所へ向かった。

 一方、僕は新しい興味の元を、深く考察し始めていた。


 この好奇心を満たす先には、一体何があるのだろうか。

 僕は挿絵に描かれたあの碧い湖を思い浮かべながら、胸の奥で静かな高鳴りを感じていた。

 

「精霊」に「マナ」。


 今はまだ、おとぎ話のなかの言葉に過ぎない。 

 僕にはそれを見ることも、感じることもできない。

 けれど、これらがこの世界を動かす確かな「法則」なのだとしたら。


 絵本の中に描かれた「アルヴェリア」は、あくまで遥か過去、あるいは遠い異郷の御伽話に過ぎないのかもしれない。

 しかし、そこに記された「精霊」と「マナ」という概念がこの世界の共通項なのだとしたら、話は変わってくる。


 絵本によれば、精霊は単なる自然現象ではない。

 勇者の「歌」に反応し、濁流を押し戻すほどの力を発揮する、いわば意思を持ったエネルギーの指向性だ。


(もし精霊が本当に存在するなら…それは物理法則そのものに「人格」や「対話の窓口」が備わっているということか...?)


 火が燃え、水が流れる。

 前世の知識ではそれらは熱力学や流体力学によって説明される「無機質な必然」だった。


 しかし、この世界ではそこに精霊という「隣人」が介在している可能性がある。


 勇者が「歌」を用いたという記述も興味深い。特定の旋律や言語の響きが、特定の事象を引き起こすスイッチになっているのだとしたら、この世界の言語体系を完璧に理解することは、そのまま世界の法則をハッキングすることと同義になる。


 そして、精霊が現象を引き起こすためのガソリンとも言えるのが『マナ(魔力)』だ。


 絵本は、マナを「大気に満ち、万物に宿るもの」と定義していた。しかし、僕は今、この身体でその欠片さえも感知できていない。


(深呼吸をしても、肺を満たすのはありふれた窒素や酸素の類にしか感じられない。僕にそのセンサーが備わっていないだけか、それとも感知するための「手続き」が不足しているのか……)


 例えば、電波は目に見えないが、受信機があれば情報として取り出せる。

 マナもそれと同じで、一歳児の未熟な神経系ではまだその周波数を受け止めきれないのかもしれない。


 あるいは、もっと能動的に自分の意識を内側、あるいは外側の深淵へと向ける訓練が必要なのだろうか。


 文字を知ったことで、僕の視界は劇的に塗り替えられた。


 窓の外に広がる森も、双子の胸元で光る石も、ただの風景や物体ではなく、何らかの法則――おそらくは「魔法的物理学」とでも呼ぶべきものによって編み上げられた「現象」なのだ。


 それを読み解く鍵は、今、確かに僕の小さな掌の中に握られている。


 僕は再び、自分の手のひらを見つめた。


 一歳児特有の、ふっくらとして、まだ皺のひとつも刻まれていない未熟な皮膚。

 しかし、この内側には前世から引き継いだ「仮説を立て、検証する」という思考回路が脈打っている。


 本を閉じた僕は、マリアが夕餉の支度を始めるまでの僅かな時間を利用し、この世界に満ちているはずの「マナ」を特定するための第一段階――「観測」へと移行することにした。




 絵本に記された「マナ」が実在するエネルギーならば、それは熱や光、あるいは電磁波のように、何らかの物理的干渉として現れるはずだ。

 もしそれが酸素や窒素のように大気に溶け込んでいる物質ならば、肺から取り込み、血液を循環して脳や神経に何らかのシグナルを送っている可能性が高い。


 僕はまず、自身の感覚を鋭敏に研ぎ澄ますことから始めた。


 寝台の上で背筋を伸ばし(といっても、一歳児のそれはまだ心許ないものだが)、深く目を閉じる。


 前世で学んだマインドフルネスの技法を応用し、まずは自己の鼓動と呼吸に意識を集中させた。


 肺胞のひとつひとつに空気が入り込む感覚、そこから血液へと酸素が受け渡され、全身を巡る拍動。僕はその「流れ」の中に、通常の生命活動とは異なる「異質な振動」や「微かな熱源」が混ざっていないかを探った。


(……何も、感じられない。聞こえるのは自分の心音だけだ)


 血液の巡りに異質なエネルギーが混ざっている気配はない。僕の身体は、どこまでも純粋な生物学的なことわりのみで動いているように思えた。


 次に僕は、視覚的な検知を試みた。


 瞼を僅かに開き、水晶体の厚みを調節して、ピントを「物質」ではなく「空間」に合わせる。


 空気中の塵の後ろ側に潜むであろう「空間の歪み」や、波長の外側にあるはずの「色彩」を探ったのだ。

 暗闇の中で眼球を圧迫した際に見える光の残像――光視症のような現象が、マナの残滓ではないかという仮説を立て、僕は眼球が痛くなるほど一点を凝視した。


(瞳孔を開き、網膜に届く情報を限界まで引き上げる。光の回折、空気の密度の差……。そこに『何か』が揺らいでいないか?)


 眉間に深い皺を寄せ、文字通り「血眼」になって虚空を睨みつける。視界の端で虹色の輪が明滅し始めるが、それはただの眼精疲労による物理的な限界だった。


 さらに、皮膚感覚による検知を試みた。


 掌を広げ、指先の感覚を極限まで鋭敏にする。

 静電気のようなピリピリとした刺激、あるいは磁場のような反発が、特定の空間に停滞していないか。


 僕は掌を勢いよくこすり合わせ、摩擦熱を起こしてみた。この熱の発生プロセスに、マナが触媒として関与していないかを確認するためだ。


 あるいは自室の壁を指先でなぞり、物質の境界線に停滞する「力の澱み」を探る。指先に全神経を集中し、微かな振動さえ逃さないように、僕は亀のようにゆっくりと手を動かし続けた。


「…………むぅぅぅぅぅ」


 必死の形相で虚空を掴もうとし、掌を突き出しては「んーっ!」と喉の奥で知的な葛藤の音を漏らす。


 本来ならば、マナとは意識の深層や「核」となる部位で感じるべきものであり、五感という物理的なインターフェースを酷使して捉えるようなものではないのかもしれない。しかし、今の僕にはその「正しい手続き」がわからないのだ。


(完全に、無だ。僕にそのセンサーが備わっていないのか、それともこの世界には、絵本のような力は存在しないのか……?)


 僕が顔を真っ赤にし、奇妙なポーズで固まりながら渾身の力で空間を捻じ伏せようとしていると、様子を見に来たマリアと目が合った。


「……あら、アレン?どうしたの、またそんなに顔を赤くして。もしかして……お腹が痛いの?」


マリアが心配そうに駆け寄り、僕のお腹を優しくさすり始めた。


 違うんだ、母さん。


 僕は今、この世界の根幹を成すエネルギー理論を解明しようと、未知の素粒子を観測しようとしているのであって、決して排泄に苦労しているわけではない。


 しかし、言葉を持たない僕には説明する術がない。

 知的好奇心は真理を求めて跳躍しているのに、肉体はおむつの心配をされるレベルに留まっている。この凄まじいギャップに、僕は深い溜息を吐いた。


「ふふ、大丈夫よ。お夕飯の後に、ちゃんとすっきりしましょうね」


 マリアは僕をひょいと抱き上げた。

 

 マナは、まだ僕の手には届かない。

 暗闇の中で針の穴に糸を通そうとするような、絶望的な暗中模索。


 けれど、絵本に記されたあの勇者が実在し、歌によって奇跡を起こしたというのなら。その「法則」は必ずこの地にも眠っているはずだ。


(焦ることはない。今はまだ、鍵を手に入れたばかりだ)


 僕はマリアの肩越しに、沈みゆく夕日を眺めた。


 文字という武器を得た僕は、もはやただの無力な赤ん坊ではない。次に本を開くとき、あるいは森の風に触れるとき。僕は今日の失敗を糧に、さらに洗練された実験を繰り返すだろう。


 世界の真理は、まだ遠い。


 しかし、僕の瞳に宿る知的好奇心の火は、決して消えることはなかった。

異世界らしくなってきましたね。

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