第二十五話:琥珀色の祝祭と、夕暮れの目覚め
村の中央広場に設置された、年季の入った木造の壇上。
そこに村長であるタナーがゆっくりと登壇した。
去年の僕は、この光景をただの「賑やかな色の塊」として眺めていた。
けれど、今の僕には、彼がまとう厳かな空気の意味も、村人たちが固唾を呑んで見守るその視線の熱量も、はっきりと理解できる。
タナーは広場を埋め尽くした村人たちを一人ひとり慈しむように見渡し、深く、穏やかな声で話し始めた。
「皆の者、よく集まってくれた。……今年もこうして、無事に収穫を終えられたことを、まずは女神様に感謝しよう」
広場を包んでいたざわめきが、潮が引くように静まり返る。
タナーの白髭が秋風に揺れ、その隣では祈りを捧げるように胸の前で手を組むマリアたちの姿があった。
「喜ばしいことに、今年の収穫は十分だ。来たる厳しい冬を越え、春の芽吹きを待つための蓄えを、我らは得ることができた」
その言葉が発せられた瞬間、あちこちで安堵の溜息が漏れた。
バルカ夫妻が顔を見合わせて力強く頷き、ナタが小さく頷く。
この世界において、冬を越せるだけの食糧があるということは、死の恐怖から一時的に解き放たれることを意味しているのだ。
「……だが、世界の端々に目を向ければ、手放しに喜んでばかりもいられん。隣国では領地を巡る争いが絶えず、不穏な情勢が続いていると聞き及んでいる」
タナーの口調が、微かに、けれど明確に熱を帯びた。
僕はその言葉を逃さぬよう、耳を研ぎ澄ます。
隣国の争い。この平穏な村の外側には、僕がまだ知らない広大な、そして残酷な「社会」が存在しているのだ。
「森の奥深くに潜む魔物たちの動きも、例年に比べれば微かに落ち着きを欠いている。……我らがこうして笑い合える裏側で、常に影は忍び寄っているのだ」
広場に、一瞬だけ緊張の糸が走る。
だが、タナーはそこで言葉を切ると、今度は太陽のような晴れやかな笑みを浮かべて両腕を広げた。
「しかし!少なくともこの一年、我らの村に大きな災いはなく、誰一人欠けることなく今日を迎えられた。……これこそが、我らの団結と、女神様の加護による何よりの勝利ではないか!」
静寂を突き破るように、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
男衆が叫び、女衆が笑い、子供たちが跳ね回る。
「さあ、祝祭の始まりだ!今日は飲んで、食べて、この素晴らしい平穏を、共に分かち合おう!」
タナーが祝杯の木杯を高く掲げると、それを合図に音楽が鳴り響いた。
去年の僕が感じ取れなかった、この言葉の裏にある「重み」。
平和とは、決して自然にそこにあるものではなく、厳しい現実との境界線に踏み止まって勝ち取るものなのだと、僕はタナーの演説を通じて、改めてこの世界の輪郭をなぞった。
タナー村長の宣言が広場に響き渡るやいなや、堰を切ったような喧騒が村を飲み込んだ。
伝統的な弦楽器の陽気な調べが空気を震わせ、家々から持ち寄られた大樽からは、琥珀色の麦酒が並々と木杯に注がれていく。
「さあ、飲め!去年よりもずっと出来がいいぞ!」
「ガハハ!この肉の焼き加減、最高じゃないか。バルカ、お前のところの塩がいい仕事してるぜ!」
男衆は互いの肩を壊さんばかりに叩き合い、荒々しくも温かな祝杯を交わす。
彼らの手は節くれ立ち、爪の間にはまだ今朝までの労働の証である土が残っている。
その「働く手」が今は杯を握り、平穏を勝ち取った喜びを分かち合っていた。
「あら、ナタさん、そのパンの焼き色!素晴らしいわね」
「ふふ、マリアさんにそう言ってもらえると嬉しいわ。今年は小麦の質が本当に良かったから」
女衆の輪からは、より穏やかで、しかし確かな活気が漂ってくる。
色とりどりの刺繍が施された祭りの正装。
彼女たちは互いの料理を褒め合い、子供たちの成長を喜び合いながら、祝祭の食卓を華やかに彩っていく。
そんな幸福の絶頂に沸く広場の中で、僕は一人、「戦術的警戒」を怠っていなかった。
「……いた。たーげっと、せっきんちゅう…!」
視界の端で、大きな木杯を片手に、頬を赤く染めたダリウスがこちらへ向かってくるのを捉えた。
その足取りは、普段の獲物を追う猟師のそれとは違い、どこかフワフワと浮ついている。
「ああ、アレン……僕の可愛い、愛しいアレン。どこにいたんだい?」
ダリウスの声は、蜂蜜を煮詰めたような甘さと優しさに満ちていた。
本当の彼は「優しさの塊」だ。
だが、その背後に隠された「親バカの暴走」を僕は知っている。
去年の記憶が、警告音を鳴らし続けていた。
酒が入り、気分が最高潮に達した父さんは、僕を「村の宝、いや、エレスの奇跡」などと称して高く掲げ、胴上げし、村中の人々に自慢して回るのだ。
「さあ、おいで。父さんと一緒に、みんなにその可愛い顔を見せてあげ……あれ?」
ダリウスが蕩けるような笑みを浮かべ、岩のような太い腕を僕の脇へ差し出そうと屈み込む。
その瞬間、僕は磨き上げた「トテトテ」の技術を全開にした。
(ごめんよ、父さん!『高い高い』は去年でお腹いっぱいなんだ!)
僕はダリウスの大きな掌を、まるで柳のようにしなやかに(客観的には千鳥足の幼児の動きで)かわした。
そして、酔っ払ったダリウスの反応速度が鈍っている隙に、人々の脚の間を縫うようにして一気に距離を取る。
「おや……?アレン、どこだい?……ああ、もう、かくれんぼかな…?」
背後から聞こえる独り言を振り切り、僕は戦略的撤退を完了させた。
広場の中央では、さらに盛り上がりが加速している。
大きな焚き火を囲んで踊り出す若者たち。
楽器の音色に合わせて歌い出す老人たち。
そのすべてが、一つの大きな「命の鼓動」となって村を揺らしていた。
去年の僕にはただの「騒音」だったものが、今は一人ひとりの「人生の喜び」として聴こえてくる。
そうして、父ダリウスの熱烈な自慢大会(未遂)から逃れ、村人たちの脚の間を縫うように歩いていた時のことだ。
「お、アレンじゃないか。一人でお散歩か?」
上機嫌な声に顔を上げると、そこにはフィナの父、ウィリアムが座っていた。
普段は冷静な彼も、今日は既にかなりの杯を重ねているらしい。
頬は林檎のように赤らみ、その目元はトロンと蕩けている。
彼が笑いながら僕を覗き込むたび、鼻の奥をツンと刺すような独特の酒気が漂ってきた。
(……うっ、これはかなりのヴィンテージ(熟成)具合だな)
思わず一歩後退りそうになるのを堪え、僕は精一杯「子供らしい」無垢な笑みを浮かべて見せた。
「うぃりあむおじちゃん。おまつり、たのしい?」
「ああ、楽しいとも!だがなアレン、おじさんは少しだけ困ってるんだぞ?」
ウィリアムはクスクスと笑いながら、僕の小さな肩を軽く叩いた。
その仕草は乱暴だが、酒に酔っていても僕を傷つけないよう、絶妙に力が加減されているのが分かる。
「うちのフィナがね、家じゃもう君の話ばかりなんだ。食卓を囲めば、まずは『ねえ聞いて! 今日もアレンがね!』から始まらない日はないんだから。父さんはもう、耳にタコができちゃいそうだよ!」
ウィリアムは「堪らないよ」と肩をすくめて見せるが、その顔は娘の熱弁を思い返してか、どこか誇らしげで、幸せそうだった。
(……フィナ、家ではそんなことになっていたのか)
いつも強気で僕をリードしようとする彼女の、家庭での微笑ましい——いや、僕にとっては少々気恥ずかしい——日常を突きつけられ、僕は言葉に詰まった。
だが、その会話を「聞き捨てならない」人物が、驚異的な聴覚で察知していた。
「ちょっと!お父さん!!なに勝手なこと喋ってるの!」
広場を切り裂くような怒声と共に、赤い髪を振り乱したフィナが猛烈な勢いで駆け寄ってきた。
その顔は、祭りの篝火よりも赤く染まり、湯気が立ちそうなほどだ。
「や、やだ、アレン!今のはお父さんのデタラメなんだからね!酔っ払いの言うことなんて信じちゃダメよ!」
フィナは必死な形相で僕の耳を塞ごうとする勢いだが、当の父親はどこ吹く風だ。
「おやおや、図星を突かれて怒ったか?ほら、昨日も『アレンが笑ってくれたの!』ってあんなに喜んで……」
「わーーーっ!もう、お父さんのバカ!お酒飲んで寝てなさいよ!」
気恥ずかしさの限界に達したらしいフィナは、小さな拳を振り回して父親の肩をポカポカと叩き、必死に追及を逃れようとしている。
ウィリアムは「ガハハ、元気だなぁ」と、叱咤されていることさえ楽しそうに笑い飛ばしていた。
(……ここも、なかなかの『熱源』だな)
これ以上ここに留まっては、フィナの矛先がこちらに向きかねない。
僕は騒ぎの渦中にいる父娘から、バレないように静かに、そして素早く後退を始めた。
「あっ、アレン!待ちなさいよ!まだ話は——」
フィナの声が背後で響くが、僕はあえて振り返らない。
祭りの喧騒の中で「他人の家庭事情」という、知りたくもなかった情報を一つ手に入れてしまった。
僕は再び人混みの中に姿を隠し、冷や汗を拭いながら、次の安息の地を求めてトテトテと歩き出した。
ウィリアムさんの「親バカ弾幕」からどうにか逃げ出した僕の前に、今度はひときわ快活な笑い声が立ちはだかった。
「あら、アレンくんじゃない!今日も一段とかわいいわねぇ」
声をかけてきたのは、双子のミアとリアの母、グレシアさんだ。
彼女は僕を見つけるなり、その場に屈み込んで僕の頭を大きな掌でわしわしと撫で回した。
バルカさんの奥さんらしい、迷いのない、生命力に満ち溢れた手つきだ。
「いつもミアとリアと仲良くしてくれて、本当にありがとうね。あの子たち、アレンくんが大好きだからさ」
グレシアさんはそう言って、太陽のような眩しい笑顔を向けた。
彼女の瞳には、村の調整役を担う快活さと、母親としての深い愛情が混ざり合っている。
だが、その瞳の奥に、いたずらっ子のような光が宿るのを僕は見逃さなかった。
「それにしてもさ……」
彼女は僕の顔を覗き込み、ニヤリと口角を吊り上げた。
「ほんと、アレンくんはモテモテだねぇ。末恐ろしいわ、まったく」
「……あ、あぅ?」
僕は再び「無害な一歳児」の仮面を被り、小首をかしげて見せる。
だが、グレシアさんの観察眼は、そんな僕の演技を軽々と飛び越えて、さらに踏み込んだ話を切り出してきた。
「実はね、この間リアが『ねえ、お母さん…アレンくん…何が好きなのかな…?』なんて、すごく真剣な顔で聞いてきてね」
その名前が出た瞬間、僕の脳裏には昨日の夕暮れ、あの「すべてを見透かしたような微笑み」を浮かべたリアの姿が鮮明に蘇った。
「マリアさんからは絵本が好きだって聞いてたから、そう教えてあげたんだけど……あの子ったら、ずっと考え込んじゃってさ」
僕は昨日の彼女の大人びた態度と、今日明かされた「年相応の健気な相談」というギャップに、めまいを覚えた。
彼女の中で「アレンへの関心」は、僕が思っている以上に大きな比重を占めているらしい。
「だからね、『一番は、本人に聞いてみたらどう?』って、ちょっとからかってあげたのよ」
グレシアさんは思い出し笑いをするように、肩を愉快そうに揺らした。
「そうしたら、あの子!お顔を真っ赤にして、『そんなの……できないよ!』って叫んで、そのまま逃げていっちゃってさ。親の私が見てても、本当にかわいくって、ついアレンくんに教えたくなっちゃった」
僕は、顔がカッと熱くなるのを感じた。
あのアレンの正体を疑うような鋭い視線を持った少女が、裏ではそんな風に、一人の女の子として赤面し、逃げ出すような真似をしていたなんて。
(……参った。リアの底が、全く見えない)
幼い僕の身体には、あまりに処理しきれない情報の濁流。
僕はグレシアさんの楽しげな暴露に、冷や汗を拭うことさえ忘れ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
ひとしきり笑い転げたあと、グレシアさんは不意に表情を引き締め、真面目な顔(を装った雰囲気)で僕の両肩をガシッと掴んだ。
「いい、アレンくん。私はね、あんたがうちの娘たちと仲良くしてくれるのは、すっごく嬉しいのよ」
彼女の指先に、先ほどまでとは違う、確かな力がこもる。
「これからも、ぜひそうして欲しいと思ってる。……でもね」
グレシアさんの瞳が、至近距離で僕を射抜いた。
その奥には、村の女性としての強さと、母親としての「逃がさない」という執念のようなものが、冗談めかしつつも微かに滲んでいた。
「……責任はちゃんと取るんだぞ。あんなにかわいい子たちを、その気にさせちゃってるんだからね?」
おい、ちょっと待て。
(どう考えてもそれは一歳児にかける言葉じゃない!そんな重い人生の契約を結ばされた記憶はないぞ!?)
じっとりと、背中に本物の冷や汗が浮かぶ。
彼女の言葉は、祝祭の浮かれた空気の中では笑い話かもしれないが、僕にとっては魔物と対峙するよりも神経を削る、究極のプレッシャーだった。
「あ、アレン……あそんでくる! ぱぱ、どこー?」
僕は精一杯、言葉もおぼつかない幼児のふりをして、彼女の腕からスルリと抜け出した。
そのまま振り返らず、小走りで人混みの向こうへと「撤退」を開始する。
背後で「あはは!照れちゃって、やっぱり将来が楽しみだわ!」というグレシアさんの豪快な笑い声が響く。
ウィリアムさんの家では「家庭の話題」にされ、グレシアさんには「将来の責任」を問われる。
この村の平穏は、僕にとって、時として世界の理を解き明かすよりも困難な「試練」の場と化していた。
僕は今度こそ、誰の視界にも入らないことを祈りつつ、秋の風で火照った顔を冷やしながら、広場の奥へと消えていった。
秋の夜気は冷ややかで、広場の中央で燃え盛っていた巨大な篝火も、今は静かな朱色の炭火へと姿を変えていた。
あれほど喧騒に満ちていた村は、祭りの終わりを惜しむような、穏やかで気怠い空気に包まれている。
去年の僕は、この時間帯には既に五感の限界を迎え、マリアの背中で深い眠りについていたはずだ。だが、一歳七ヶ月になった今の僕は、意識をはっきりと保っていた。
村人たちは、重い腰を上げて片付けを始めていた。
僕はトテトテと歩き回り、風に飛ばされた紙屑を拾ったり、転がった木杯を大人の元へ運んだりと、微力ながらも「清掃活動」に参加した。
(……一年前はただ流されるだけだったけど、今はこうして、この村の一部として動けている。それだけで、なんだか誇らしい気分だ)
片付けの最中、目が合った村人たちと「お疲れ様」「おやすみなさい」と一言二言だけ言葉を交わす。
バルカさんやウィリアムさんも、名残惜しそうにしながらも、それぞれの家族を連れて家路へと就き始めた。
だが、僕が今日寝られない理由は、決して「祭りの余韻」などではない。
この後、我が家に帰ってから行われる「重大ミッション」が、僕の神経を鋭く尖らせていた。
「さあ、アレン。僕たちも帰ろうか。……マリア、足元に気をつけてね」
僕を抱き上げたダリウスの声には、先程までの酔いによる浮ついた響きは一切なかった。
鼻を突いていた酒の匂いも、夜風にさらされたせいか、あるいは「決意」の力か、すっかり消え失せている。
帰路に着く三人の足音だけが、静かな村の夜道に響く。
隣を歩くマリアは、「今年の祭りは本当に楽しかったわね」と、穏やかな表情で今日一日の出来事を振り返っていた。
「ねえ、ダリウス。あそこのナタさんのパイ、召し上がった? 本当に美味しかったのよ」
「え?……ああ、うん。そうだね、美味しかった……と思うよ」
ダリウスの返答は、どこか心ここにあらずといった風だ。
いつもなら「マリアの作ったパイの方が何倍も美味しいよ」と蕩ろけるような甘い言葉を返す彼が、今は視線を前方の一点に固定し、強張った面持ちで歩いている。
(……父さん、ガチガチじゃないか)
抱き上げられている僕には、彼の腕から伝わってくる緊張が痛いほど分かった。
これからマリアに捧げる、愛の歌。
メロディは僕が伝えたが、歌詞に関しては一切触れていないし、僕も聞いていない。
それはダリウスが独力で、この五年の想いを込めて紡ぎ出した、世界でたった一つの詩だ。
家が近づくにつれ、ダリウスの呼吸は微かに浅くなっていった。
マリアが楽しそうに話しかけるたび、彼は短い、要領を得ない返事をするのが精一杯のようだ。
マリアも「あら、疲れちゃったのかしら?」と不思議そうに首を傾げているが、その正体が自分への「告白」の準備だとは夢にも思っていないだろう。
(歌詞、大丈夫かな。あまりに照れくさい内容だったら、僕まで耐えきれなくなるかもしれない……)
一歳児の僕は、父の緊張を分かち合うように、そっと彼の肩に小さな手を置いた。
ダリウスは一瞬だけ僕を見て、覚悟を決めたような、けれどどこか悲壮感漂う笑みを浮かべた。
今宵、最後の戦場が、すぐ目の前に迫っていた。
家の重い扉を閉めると、それまで背中を追いかけてきていた祝祭の熱気が、遮断された闇の向こうへと遠のいていった。
家中を満たしているのは、使い込まれた木家具の匂いと、竈に残った灰の微かな香り。行灯の小さな火が、壁に三人の長い影を落としている。
「さあ、アレン。今日はたっぷり歩いたものね。もうお休みしましょう」
マリアが柔らかな手つきで僕を抱き上げ、寝床へと運んでくれる。
僕は大人しくその温もりに身を預け、毛布にくるまると同時に「完璧な幼児の寝顔」を作り上げた。
細く規則正しい呼吸を刻み、意識の九割を居間へと向ける。
(……ここからは、僕の出る幕じゃない。二人のための、五年目の夜だ)
パチッ、と。
乾燥した薪が爆ぜる音が、静まり返った家の中に響く。
「……マリア。少し、いいかな」
ダリウスの声だった。
先程までの上機嫌な酔いは跡形もなく消え去り、そこには獲物を前にした猟師のような、研ぎ澄まされた緊張が宿っている。
「どうしたの、ダリウス?そんなに改まって。……お水でも持ってくるわね」
「いや、いいんだ。座っていてくれ。……どうしても、今日、伝えておきたいことがあるんだ」
椅子が床を擦る鈍い音が響き、マリアが戸惑いながらも腰を下ろした気配が伝わってくる。
ダリウスは何度か深く息を吸い込み、覚悟を決めるように力強く床を踏みしめた。
「今年で、僕たちが一緒になってから五回目の収穫祭だ。……五年前、こんな頼りない僕を君が受け入れてくれたあの日から、僕の人生は変わった」
「ダリウス……」
「君はこの五年間、ずっと隣で笑ってくれた。厳しい冬も、獲物が獲れなかった日も……君がいたから、僕は僕でいられたんだ。……今日はその節目の日に、僕なりに君に贈り物をしたい」
ダリウスは、僕が授けたあの琥珀色の旋律を、小さなハミングでなぞり始めた。
初めは微かな震えを含んでいたその声は、一節ごとに確かな熱を帯び、やがて不器用な「言葉」を伴って溢れ出した。
ダリウスが独力で書き上げた歌詞は、お世辞にも洗練されているとは言えなかった。
吟遊詩人のような洒落た比喩もなく、ただ等身大の彼が、日々の生活の中で感じてきた想いが、泥臭いほど真っ直ぐに並べられていた。
凍てつく森を 独り行く僕を
呼び止めたのは 君が灯した窓の火だった
弓を引く手は 獲物を屠るためでなく
今はただ 君とあの子を守るためにある
五年が過ぎ 季節が巡っても
僕が帰る場所は 君の笑顔のすぐ隣だ
愛している マリア。
この命が尽きるまで 君の隣にいさせてくれ
歌声は、決して上手いとは言えない。高音は掠れ、リズムも時折つっかえる。
だが、その声には、五年間欠かさず薪を割り、家族のために獲物を追い、妻を慈しんできた男の「真実」が乗っていた。
飾らない言葉が、行灯の火に照らされた居間の空気を、一瞬ごとに熱く塗り替えていく。
「……マリア。これが、今の僕のすべてだ」
歌い終えたダリウスは、大きな肩を上下させ、審判を待つ罪人のような面持ちで俯いていた。
家の中を、濃密な沈黙が支配する。
あまりの静寂に、寝たふりをしている僕の心臓までが、早鐘を打ち始めていた。
やがて。
静かな、雨垂れのような音が床に落ちた。
「……マリア?ああ、ごめん。やっぱり、僕には向いていなかったかな。変な歌で、困らせてしまったね……」
慌てて顔を上げたダリウスの視線の先で、マリアは両手で顔を覆い、肩を震わせていた。
「違うの……違うわ、ダリウス……」
マリアは顔を上げ、涙で濡れた瞳を彼に向けた。その瞳の中には、琥珀色の火影と、愛しい夫への限りない情愛が渦巻いている。
「そんな風に……あなたが、私のことを大切に思ってくれていたなんて。……私こそ、あなたに何も返せていないのに。……ああ、どうしよう。嬉しくて、涙が止まらないわ……」
「マリア……っ!」
ダリウスは弾かれたように椅子から立ち上がり、マリアをその大きな腕の中に力一杯抱き寄せた。マリアもまた、彼の逞しい胸板に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「喜んで……くれたんだね。よかった。……本当に、よかった……」
安堵のあまり、ダリウスの声までが微かに潤んでいる。
二人の間に流れるのは、祝祭の狂騒とは無縁の、しかしそれよりもずっと深く、確かな「愛」の奔流だった。
(……最高だよ、父さん。格好悪くて、不器用で……世界で一番、格好いい歌だった)
僕は布団の中で、溢れそうになる笑みを必死に堪えていた。
収穫祭。それは、厳しい冬を前にした「生」の祝祭だ。
今、この小さな家で結び直された絆こそが、どんな魔法よりも、どんな蓄えよりも強く、僕たち家族を支えていくに違いない。
外では秋の月が、静かに家々を照らしている。
ダリウスとマリア。二人の低い囁き声と、穏やかなすすり泣きを子守唄に、僕は今度こそ本当の、深い眠りへと落ちていった。
と、ここで後日談だが。
僕の渾身のプロデュースが、まさか物理的な振動となって一晩中寝床を揺らすことになるとは思わなかった。
未だ働き盛りである夫婦である二人の体力を完全に見誤った結果、僕は翌日の夕日まで泥のように眠る羽目になった。
お熱いのは結構だが、薄い壁の向こうに二十五年の魂を持つ幼児がいることを、来年はその「野生の活力」の片隅にでも置いてほしいものだ。
おめでとう、お二人さん。
僕の安眠を盛大に生贄に捧げた甲斐あって、君たちの愛はこれ以上なく強固に結ばれたようだね。
(…『僕は弟が欲しいな、お父さん』なんて言ったら、どんな顔するんだろう)
恨みのこもった想像をしながら、再び眠りについた。
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