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第十一話:春の鼓動、水鏡に映る決意


 世界を白く塗り潰していた沈黙が、音を立てて崩れ始めていた。


 つい数週間前まで、窓ガラスを飾っていたあの「氷の花」——夜の間に冷気が丹念に彫り上げた、繊細で冷徹な白銀の芸術——は、今や春の陽光という名の静かな熱に侵食され、透明な雫へと姿を変えていた。

 

 ポタリ、ポタリ

 

 軒先から滴り落ちるその音は、かつての僕、木村陽平の耳を四六時中支配していた無機質なモニターの電子音とは対極にあるものだった。


 あの電子音は、僕の命が「波形」でしかないことを冷酷に告げる死へのカウントダウンだった。しかし、この雨垂れの音は違う。土の下で眠る生命を呼び覚まし、世界の歯車が再び回り始めたことを祝う、祝福の拍動メトロノームだった。


 僕は窓際のお気に入りの椅子に座り、肺の奥まで「春」を吸い込んだ。


 風に乗って運ばれてくるのは、湿り気を帯びた黒土の重厚な匂い、冬を越した乾いた薪が温められる香り、そしてどこか遠くで芽吹き始めた若草の、青く鋭い生命の芳香だ。


 かつての僕は、二十四時間体制で管理された「二十三・五度の無菌室」にいた。


 そこには季節の揺らぎも、土の力強さも、風の気まぐれも存在しなかった。ただ清潔という名の絶望が、僕の鼻腔を麻痺させていただけだ。

 

 けれど今、この場所には「匂い」がある。

 混沌として、力強く、ときに泥臭い、本物の「生」の匂いだ。

 僕はそれだけで、胸が熱くなるのを抑えきれなかった。


「アレン、準備はいい?今日はお外をお散歩しましょうか。地面もしっかり乾いてきたわ」


 マリアが弾むような声で僕に語りかけ、柔らかな春色の布で僕の身体を包んでくれた。

 彼女の指先が僕の頬をかすめるたび、そこから伝わる確かな「体温」に、僕は自分が幽霊ではないことを再確認する。


 冬の間、僕の世界は暖炉の火が届く範囲の、小さな「家」という名の小宇宙に限定されていた。けれど今日、僕はその境界線を越え、再び広い世界へと踏み出すことになる。

 それも、誰かの腕の中に抱かれるのではなく、自分の足で。


 玄関の扉が開くと、眩いばかりの光の洪水が僕の視界を真っ白に染め上げた。


 僕はマリアの手を借り、慎重に敷居を越える。


 一歩、外へ。


 僕の足が、初めて「家の外」の土を踏みしめた。


「あら、上手ね。ゆっくりでいいのよ、アレン。足元をよく見て」


 マリアは僕の手を握る力を加減しながら、僕の幼い歩調に合わせて腰を深く屈めて歩いてくれる。


 靴の底を通じて伝わってくるのは、人工的なタイルやリノリウムの平坦さではない。大地の不規則な凹凸、冷たさを残しながらも春の熱を孕んだ土の弾力、そして時折足裏を刺激する小石の確かな存在感。

 

 前世の十五年間、僕にとって「重力」とは敵だった。


 それは僕の細い手足をベッドに縫い付け、自由を奪い、魂を沈殿させるための重しでしかなかった。

 けれど、今の僕にとって、重力は頼もしい友人のように感じられた。


 自分の体重を自らの骨で支え、地球という名の巨大な岩石と対話する。

 一歩踏み出すごとに生じる微かな反動が、僕に「歩いている」という究極の自由を実感させてくれるのだ。


「……んっ、あぅ」


「ふふ、土の感触が珍しいのかしら?ほら、アレン。あっちの石垣の隙間を見て。小さなお花が咲いているわよ」


 マリアが指差した先には、雪解けの隙間から顔を出した小さな黄色い花が揺れていた。


 それは、誰に教わらなくても自らの力で凍土を突き破り、光を求めて背を伸ばした「生の戦士」のように見えた。

 僕はその健気な姿に、自分自身の姿を重ねずにはいられなかった。


 村の広場へと続く小道を、僕はふらつきながらも着実に進んでいく。


 道の両脇には、冬の間室内に閉じ込められていた洗濯物たちが、春風に踊りながら誇らしげに翻っていた。その色彩の鮮やかささえ、僕には特別な贈り物のように感じられる。


 広場近くの家の前で、黄金色の長い髪を揺らした女性が、籠を片手にこちらに気づいて足を止めた。双子の母、グレシアさんだ。


「あら、マリアにアレンじゃない。ふふ。ついに自分の足で冒険の旅に出発かしら?」


 グレシアさんはその場に屈み込み、僕の目線に合わせて優しく微笑んだ。


 彼女の瞳は、春の陽光をそのまま透かしたような、鮮やかな「金色」を湛えている。マリアの亜麻色の温かさとはまた違う、眩いばかりの生命力がその瞳から溢れていた。


「昨日もね、うちの子たちが『アレンに会いたい』って大騒ぎだったのよ。フィナちゃんもそうだけど、アレンは本当に女の子たちにモテモテね。将来が楽しみだわ、頑張りなさいね、小さな紳士さん?」


 彼女は茶目っ気たっぷりに僕を激励し、僕の頭を軽く撫でた。

 その手のひらは少し荒れていたが、それは彼女が家族のために働き、大地と共に生きている証だった。


 マリアは少し困ったように、けれど隠しきれない誇らしさを滲ませて笑いながら答える。


「もう、グレシアったら。アレンが変な勘違いをして、女泣かせになっちゃったらどうするのよ」


 そう言いながら、マリアは僕の顔を覗き込み、いたずらっぽく片目を細めてみせた。


「どうかしら、アレン? お父さんみたいに、真っ直ぐで誠実な男の子になってね」


「……ん、あぅ!」


 僕は精一杯の返事をした。


 前世の二十五年、女性と親密に会話する機会など、病室を訪れる数少ない親戚や看護師を除けば皆無だった僕にとって、彼女たちの軽妙なやり取りは、まるで未知の、けれど温かい物語のワンシーンのようだった。


 グレシアさんと別れてさらに広場の中心へと進むと、古びた大樹の根元に置かれたベンチに、杖を突いた老人が座っていた。


 村長であるタナー老人だ。彼は、僕たちの覚束ない足音に気づくと、深い皺に刻まれた瞼をゆっくりと持ち上げ、僕を見つめた。


 その視線は、ただの「赤ん坊を見る目」ではなかった。


「……おお、アレンか。ずいぶんと大きくなったものじゃな」


 タナー老人の声は、まるで使い込まれた革のように重厚で、かつ深い慈愛に満ちていた。


 彼は僕の傍らに立ち、その枯れ木のように節立った指で、僕の白銀の髪をそっと撫でた。


「生まれたばかりの、あの手のひらに収まるほど小さかった命が……。今やこうして、自らの足で大地を選び、歩いておる。命の歩みというのは、実に見事なものよな」


タナー老人は僕の青い瞳をじっと見つめ、静かに、深く頷いた。

 その瞬間、僕は背筋にピリッとした緊張感を感じた。


 彼の瞳には、僕がかつて「別の場所」で多くの星を見、多くの虚無を過ごしてきたことを、言葉を介さずに察しているかのような、予言的な鋭さがあったからだ。


「ありがとうございます、村長。この子がここまで元気に歩けるようになったのも、村の皆さんの見守りがあったからですわ」


マリアが恭しく礼を述べると、タナー老人は満足げに笑い、再び空を仰いだ。


「よい、よい。この子は村の宝じゃ。……アレンよ、その瞳で世界をよく見るがよい。お主が進む道は、きっとこの村よりもずっと広く、険しく、そして輝かしいものになるじゃろう」


 その言葉は、僕の魂に深く刻まれた。


 村長は、僕がこの小さな村に留まる器ではないことを、本能的に見抜いているのかもしれない。僕は無言で彼の眼差しを受け止め、一人の「人間」として、その期待に応える決意を新たに踏み出した。


 村の端まで来ると、雪解け水が集まって小さな小川となっている場所に行き当たった。


 せせらぎの音は清冽で、冬の間の澱んだ空気をすべて洗い流してくれるかのようだった。


 マリアがふと足を止め、水辺の平らな石の上へと僕を誘導した。


「見て、アレン。お水がとっても綺麗よ。あなたのお目めと同じ色をしてるわ」


 僕は吸い寄せられるように、足元の澄んだ水面を覗き込んだ。

 

 ……そこには、一人の少年の顔があった。

 

(……これが、僕か)


 初めて見る、アレンとしての真実の姿。


 マリアの柔和な面影や、ダリウスの精悍な骨格を受け継ぎつつも、そこには明らかに彼らとは異なる、神秘的な色彩が宿っていた。

 

 まず目を引いたのは、その「白銀の髪」だ。


 ダリウスの砂褐色とも、マリアの亜麻色とも違う、まるで冬の最初の雪を紡ぎ、月の光で染め上げたような、透き通るような白。


 それは単なる色素の欠落ではない。

 春の光を反射して、内側から発光しているかのような、神聖な輝きを放っていた。

 

 そして何より、僕を戦慄させたのはその「瞳」だった。

 深い、深い、どこまでも澄み渡ったコバルトブルー。


 それはこの村の誰も持っていない色だった。晴れ渡った春の空の青と、最果ての海の底の青を混ぜ合わせ、純度の高い宝石へと結晶化させたような、鮮烈な青色。


 その瞳の中には、二十五年の虚無を燃料にして燃え上がる、烈烈とした「知性」と「生への執着」が、静かな炎となって宿っていた。


 水面に映るその少年は、木村陽平の面影をどこにも持っていなかった。


 あの白い病室で、青白く衰えていった死を待つだけの青年の姿は、もはや影も形もなかった。

 

 僕は震える小さな手で、自分の頬を触れてみた。


 水の中の少年も、同じように頬に手を当てる。

 指先の感触と、視覚情報が一致する。

 

(僕は……生まれ変わったんだ。本当に、僕はアレンになったんだ)


 その瞬間、僕の中で何かが決定的に音を立てて外れた。


 これまでの十一ヶ月は、どこか現実味のない、幸せな「余興」のような気分だった。


 けれど、この自分の瞳を初めて網膜に焼き付けた瞬間、僕は「木村陽平」という物語のページを静かに閉じ、それを過去という名の書庫へ深く封じ込めた。

 

 僕はもう、天井を見つめるだけの観測者ではない。


 この銀の髪をなびかせ、この青い瞳で世界を捉え、この二本の足で大地を切り拓いていく、「アレン」という名の、一人の生きている人間なのだ。

 

「どうしたの、アレン? お水がそんなに珍しいかしら。ふふ、それとも自分の顔に見惚れちゃった?」


マリアが僕を後ろから抱き上げ、頬を寄せてくる。


 彼女の柔らかな肌の温もり、揺れる亜麻色の髪。それらすべてが、僕がこの世界に「在る」ことを許されている証拠だった。


 僕は水面に映る自分の瞳に、心の中で小さく誓った。

 

(ありがとう、陽平。君が諦めずにいてくれたから、僕は今、ここに立っている。君の見たかった景色は、僕がすべて見てくるよ)


 ふと視線を上げると、遠くの麦畑のあたりで、見慣れた逞しい体格の男たちがこちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。


「――アレン! マリアー!」


 ダリウスの声だ。


 その声は春の湿った空気を震わせ、山々に反響して戻ってくるほど力強かった。

 隣にはフィナの父ウィリアムさんと、双子の父バルカさんの姿も見える。


 彼らは春の農作業で泥にまみれながらも、こちらへ向かって大きく腕を振り、僕たちが外へ出てきたことを、まるで世界で一番の大事件のように喜んでくれている。


「あ、お父さんたちだわ!ほらアレン、お父さんに手を振ってあげて!」


 マリアが僕の腕を優しく持ち上げ、空へと導く。

 かつての孤独な時間は、もうどこにもない。


 あそこには、僕を呼ぶ家族がいる。


 あそこには、僕を認める仲間がいる。


 僕が「アレン」として生きるための、輝かしい居場所がそこにある。


 僕はマリアの首にしっかりと手を回し、遠くにいる父たちに向かって、精一杯の力で小さな手を振り返した。

 

 夕闇が迫り、空が淡い紫に染まり始める頃、僕たちはダリウスと合流し、賑やかな笑い声と共に家路についた。

 

 明日は、僕がこの世界に生を受けてからちょうど一歳になる日。


 最初の一年という、あまりにも濃密で、あまりにも尊い、僕にとっての「真実の人生」の第一章が終わろうとしている。

 

 雪は解け、大地は萌え、風は歌う。


 水鏡に映った自分の青い瞳と、ダリウスの逞しい背中、そしてマリアの温かな腕。

 それらすべてを魂に刻み込み、僕は明日、二歩目の春へと踏み出す。

 

 春の夜風は、僕の最初の一年への祝福と、これから始まる果てしない冒険への誘いを含んで、優しく僕の頬を撫でていった。


 その風の中に、僕は確かな「新緑の予感」を感じ取っていた。

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