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第十話:春の予兆、少女の祝祭


 窓を覆い尽くしていた繊細な氷の花は、いつの間にかその輪郭を溶かし、透明な雫となって木枠を伝い落ちていた。


 軒先からは「ポタリ、ポタリ」と、一定のリズムを刻む雨垂れの音が聞こえてくる。

 それは、長く厳しい冬の沈黙を破る、春の訪れの第一拍だった。


 まだ外の世界は雪の白さが支配しているものの、その下では凍土が微かな熱を帯び、目覚めの準備を始めている。


 僕は、お気に入りの定位置である窓際の椅子に深く腰掛け、そこから差し込む陽光を全身で受け止めていた。


 冬の間の刺すような冷気を含んだ光とは違う。今の太陽が届けてくれるのは、まるで誰かが背中をそっと撫でてくれているような、柔らかく、それでいて芯のある温かさだった。


 僕は目を閉じ、その光を肌に浸透させる。


 かつて長い間、色彩のない場所でただ白すぎる天井の模様を数えて過ごしていた頃には想像もできなかった、本物の「体温」を持った光だ。

 この陽光の一筋さえもが、僕の新しい細胞一つひとつに「生きろ」と語りかけてくるような、確かなエネルギーとして感じられる。


 気がつけば、僕がアレンとしてこの地で産声を上げてから、もうすぐで一年の月日が流れようとしていた。


 この一年間、僕はただ生きたいと願い、不自由な肉体と戦い、そして多くの愛に触れてきた。まもなく訪れるであろう僕自身の「最初の一年」を前に、今日は村の仲間たちにとって大切な祝祭の日が訪れていた。


「アレン、準備はいい?今日はフィナの誕生日よ。みんなもう集まっているわ」


 マリアが僕を抱き上げ、新調した春らしい若草色の服を整えてくれた。


 そう、今日は僕の「自称・教育係」であるフィナが三歳になる日だった。僕たちは、ダリウスが雪を退けて作った道を辿り、少し離れたフィナの家へと向かった。


 フィナの家に入ると、そこには主役であるフィナと、その両親であるウィリアムさんとナタさん、そして親友一家であるバルカさん夫妻が既に顔を揃えていた。

 ここで僕は、改めてフィナの父親、ウィリアムさんを観察した。


 ウィリアムさんは、一目でフィナの親だと分かるほど特徴が似ている。

 何よりも目を引くのは、フィナと同じ燃えるような鮮やかな赤毛だ。短く整えられたその髪は、室内の明かりを反射して熱を帯びたように輝いている。日に焼けた精悍な顔立ちには快活な笑みが絶えず、笑うと目尻に深く刻まれる皺が、彼の豪放磊落な性格を物語っていた。


 一方で、双子の両親であるバルカさん一家も独特の色彩を放っていた。

 母親のグレシアさんは、腰まで届く見事な黄金色の髪を太い三つ編みにしており、その瞳は春の陽光を透かしたような輝く金色をしている。ミアのあの鮮やかな金髪と金色の瞳は、間違いなく母親であるグレシアさん譲りだ。


 対して、父親のバルカさんは、村でも指折りの体格を誇る屈強な男だった。短く刈り込まれた漆黒の髪と、すべてを吸い込むような深い黒色の瞳。

 双子の片割れ、リアの夜の帳のような黒髪と黒い瞳は、この父親の血を色濃く継いでいる。黄金の母グレシアさんと、漆黒の父バルカさん。その対極にある色彩が、ミアとリアという瓜二つの少女たちに鮮やかに受け継がれている様子は、何度見ても神秘的だった。


 主役のフィナは、いつもの元気いっぱいな姿とは打って変わって、少しだけ緊張した面持ちで椅子の端に腰掛けていた。


 彼女の燃えるような赤毛には、今日のためにマリアが贈った青い刺繍のリボンが結ばれている。

 父親のウィリアムさんが「おいおい、そんなに固まるなよフィナ。お前の大好きなアレンも来たぞ」と豪快に笑いながら彼女の肩を叩くと、彼女は顔を真っ赤にして、はにかむように微笑んだ。


「フィナ、おめでとう!これ、ミアがつくったんだよ!」


「……おめでとう。リアも、いっしょに、つくった。おはな」


 双子の姉妹が、冬の間に室内で育てていたのであろう数輪の野花を束ねてフィナに差し出した。


 グレシアさんが「ミア、リア、ゆっくり渡してあげなさい」と優しく促し、バルカさんが「フィナ、三人で仲良く遊ぶんだぞ」と低い声で笑いながら、大きな手で娘たちの頭を撫でる。


 そんな光景を見守りながら、僕はマリアの膝の上で、大人たちの会話から一つの事実を知ることになった。


 フィナは僕より二歳年上だが、どうやら僕の誕生月とは一、二ヶ月ほどの差しかないらしい。

 つまり、彼女が産まれたのは、僕がアレンとしてこの世に降り立った季節の、ほんの少し前だったということだ。


 二歳の差。それは幼児期においては途方もない隔たりだが、彼女がこの一年、未熟な僕を懸命に世話し、守ろうとしてくれていた姿を思い返すと、その「お姉ちゃん」としての健気さが、たまらなく愛おしく感じられた。


 祝いの席には、さらに村の人々が次々と顔を出した。


 杖を突いたタナー老人が「フィナ、健やかに育つんじゃぞ」と重厚な声をかけ、通りがかりの農夫や鍛冶屋の主人が、冬の備蓄から分けたばかりの干し肉や木の実を差し入れていく。「アレンも来てるのか、元気そうだな!」と立ち寄った村人たちは、フィナを祝い、そして僕の成長を驚きながら、次々と家の扉を開けては去っていく。


 食卓には、豪華なケーキなどはない。

 けれど、そこには冬の備蓄の中から選りすぐられた最高の食材たちが並んでいた。じっくりと時間をかけて煮込まれた塩漬け肉と根菜のスープ。香ばしく焼き上げられた、いつもより少しだけ白い小麦を使ったパン。

 そして、この日のためにグレシアさんが届けてくれたという、干し林檎の蜜和え。湯気が立ち上るたび、家の中は芳醇な香りに満たされ、人々の笑い声が壁を震わせる。


 やがて、会食が一段落した頃。僕はマリアの膝から降り、自らの足でしっかりと立ち上がると、フィナの正面へと歩み寄った。

 フィナは、少し不思議そうな顔で僕を見下ろしている。僕は大きく深呼吸をした。この日のために、喉を鍛え、発声を練習してきたのだ。


「フィナ……おめ、で……と」


 まだ舌足らずで、少しばかり濁った音。


 けれど、その一言が僕の口から零れ落ちた瞬間、部屋の中の空気は、春の旋風が吹き抜けたように一変した。


「……あ、アレン。いま……」


 フィナが目を見開き、固まった。彼女の大きな瞳がみるみるうちに潤み、次の瞬間、彼女は僕の身体をぎゅっと、壊れ物を扱うような優しさで抱きしめた。


「アレン……言った!アレンが、フィナにおめでとうって言った!」


 彼女の歓喜の声に、大人たちも拍手で応える。

 母親のナタさんは驚きのあまり口を抑え、ウィリアムさんは「ははは! 流石は俺の娘の舎弟だな!」と愉快そうに笑った。グレシアさんは黄金の瞳を細めてマリアと手を取り合い、バルカさんもその厳つい顔を崩して「アレン、たいしたもんだ」と頷く。

 ダリウスに至っては、自分のことのように鼻を高くして、ウィリアムさんと力強く杯を交わしていた。ミアとリアも僕の周りで跳ね回り、なんだか主役が入れ替わったような騒ぎになったけれど、フィナの顔に咲いた満開の笑顔が、僕には何よりも誇らしかった。


 だが、祝祭の熱狂は、次第に大人の時間へと移行していく。

 日が沈み、暖炉に新しい薪がくべられる頃には、食卓の主役は麦の酒へと変わっていた。


 ウィリアムさんとダリウス、バルカさんの三人は、去年の収穫祭を彷彿とさせる勢いで杯を重ね、自分たちの子供がいかに素晴らしいかを競い合う「親バカ談義」に花を咲かせ始めた。

 ナタさんとマリア、グレシアさんも、そんな男たちの姿に苦笑しながら、手元の編み物を進めつつ楽しげに歓談している。


 賑やかな笑い声と酒の香りが漂う室内。

 だが、それらは僕たち子供にとっては最高の子守唄となった。


 最初に眠りについたのはリアだった。バルカさんの大きな背中に凭れるようにして、いつの間にか静かな寝息を立てている。続いてミアも、グレシアさんの膝の上で金色の髪を揺らしながら深い眠りへと堕ちていった。

 フィナも、主役としての緊張と喜びで疲れ果てたのだろう。僕のすぐ隣で、赤い髪を僕の肩に預けるようにしてウトウトと船を漕ぎ始めた。


 僕は彼女の温もりを感じながら、ぼんやりと大人たちの輪を眺めていた。


 ウィリアムさんが身振り手振りを交えて武勇伝を語り、ダリウスがそれに豪快に笑い、バルカさんが静かに頷く。マリアたちがそれを見守る。そのあまりにも平和で、熱を帯びた「日常」の光景。


 かつての孤独な時間は、もうここにはない。僕は、フィナの規則正しい呼吸に合わせて瞼を閉じ、幸せな重力に身を任せて眠りの淵へと沈んでいった。


 翌朝。

 目が覚めると、僕は自分の家のベッドにいた。


 窓を開けると、外では昨夜よりもさらに雪解けが進み、黒々とした大地がそこかしこで顔を覗かせている。

 ダリウスは既に裏庭で農具の手入れを始めており、マリアは昨夜の余韻を楽しみながら、朝食の準備をしていた。


 ふと、自分の手のひらを見つめる。


 昨夜、フィナを抱きしめた時の感覚が、まだそこに残っているような気がした。

 一年前、この世界に生まれたとき、僕はただ「生きたい」という生存本能に突き動かされていた。

 けれど今は違う。誰かのために言葉を紡ぎ、誰かの笑顔を喜び、誰かと共に眠る。そんな豊かな感情が、僕という存在を支えている。


 雪が消え、村が新緑に包まれる頃。


 僕はアレンとしての最初の一年を完結させ、二歩目の春へと踏み出す。


 その一歩は、昨日よりもずっと力強く、確かなものになるだろう。

 僕は台所から漂ってくるパンの焼ける香りを胸いっぱいに吸い込み、新緑の予感を孕んだ風に向かって、小さく、けれど確かな決意を込めて微笑んだ。

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