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第九話:氷花の窓辺、請い求めた日常


 世界を鮮やかに彩っていた黄金の残光は、いつの間にか厚い雲の向こうへと押し込められ、村の境界線はどこまでも続く純白の沈黙によって塗り潰されていた。


 窓の外に視線を向ければ、かつて風に戦いでいた麦の海は跡形もなく消え去り、代わりに風が作り出した複雑な雪の文様が、冷徹な静寂を物語っている。


 昨日の朝までは窓の隙間を抜ける風の鋭さに意識を奪われていたけれど、今朝、僕の瞳を捉えたのは、窓ガラスを飾る「氷の花」だった。

 繊細なシダの葉のように、あるいは誰かが夜の間に彫り上げた細工物のように、冷気が描いたその白銀の芸術は、外の世界がいかに峻烈な拒絶の色を強めているかを物語っている。


 アレンとしてこの地で産声を上げてから、十一ヶ月という節目がいよいよ目の前に迫っていた。


 前世、木村陽平として過ごした25年という歳月の中で、僕の「生」の輪郭が最も不透明だったのは、病に自由を奪われていた後半の15年間だ。

 その間、僕の世界は常に無機質な天井と、一定のリズムを刻むモニターの電子音に限定されていた。


 だからこそ、今の僕が享受している「11ヶ月」という時間は、かつての生涯を凝縮したよりもずっと濃密で、色彩に満ちている。

 自らの意志で立ち上がり、視界を能動的に変える。その単純な動作一つひとつが、かつての僕が失った時間を鮮やかに上書きしていく。11ヶ月。

 赤ん坊という仮面を被りながらも、僕の魂は、この冬の寒さを全身で受け止めることに、抗いがたい喜びを感じていた。


 昼前、静まり返った我が家の扉を、元気な衝撃が叩いた。


 重厚な木製の扉が押し開かれるとともに、冷たい冬の吐息を連れて居間へと転がり込んできたのは、三つの小さな生命の塊だ。

 フィナ、ミア、リアの三人組である。


 彼女たちは厚手の羊毛を纏い、吐き出す息を白く弾ませながら、まるで冬眠から覚めたばかりの小動物のように騒がしく、それでいて愛らしく室内を冬の色に変えていった。

 3歳に満たない彼女たちの存在は、この閉ざされた季節における、数少ない、そして最も力強い動的な光だった。


「アレン! アレン、来たよ! 雪、すごいの!」


 先頭を切るフィナが、雪のついた長靴を器用に脱ぎ捨てて僕の元へと駆け寄る。彼女の燃えるような赤毛は、外の湿り気を吸っていつもより深く重い色を呈し、その頬は熟した林檎のように赤く火照っていた。


 僕は支えにしていた椅子からそっと手を離し、覚えたての覚束ない、けれど確かな足取りで彼女たちの方へと向き直る。

 そして、肺にたっぷりと空気を溜め、昨日から喉の奥で転がしていた「言葉」を、かつての言語能力を呼び起こすようにして紡ぎ出した。


「ふぃ……フィナ。ミア……リア」


 その瞬間、部屋の中の時間が止まったかのような静寂が訪れた。

 目を見開き、驚きで丸くなった三人の少女の瞳。次の瞬間、室内を揺らしたのは、幼い子供特有の高らかな歓喜の絶叫だった。


「あ!言った!いま、フィナって言った!アレン、言った!マリア!聞いた!?」


 フィナは興奮のあまり僕の両脇に手を差し込み、そのまま抱きつかんばかりの勢いで顔を近づけた。


 視界が至近距離で塞がれる中、彼女の衣類から漂う冷たい冬の匂いと、暖炉の薪が爆ぜる熱が混ざり合う。

 25年分の記憶を抱える僕は、その幼い熱気に少々の気恥ずかしさを覚えたけれど、今の僕にとって、彼女たちの体温は世界の温もりそのものだった。


「違う!ミアだよ!アレン、ミアって言った!もう一回!ねえ、言って!」


 ミアが僕の顔を覗き込み、その輝かしい金髪を揺らしながら、僕の頬をぷにぷにと柔らかい指先で突いた。彼女の大きな瞳が、期待と愛情でキラキラと輝いている。


「……アレン、すごい。リアって言った。リアのこと、呼んだ」


 控えめなリアも、今日は我慢しきれないといった様子で歩み寄り、僕の白銀の髪にそっと指を通した。


 その指先は外気で冷えていたが、驚きで熱を帯びた彼女の瞳は潤んでいる。三人は僕を囲むようにして床にぺたりと座り込み、いつの間にか熱烈な「アレンの可愛さ討論会」を始めていた。


「見て、おめめ。青いの。きれい!」


 フィナが顔をさらに近づけ、僕の瞳を指差した。

 鼻先が触れそうな距離で、彼女の温かな吐息が僕の顔にかかる。


「きれい、きれい!お星さまみたい!」


 彼女が手を叩いて喜ぶと、隣でじっとしていられなくなったミアが、僕の髪をふわりと掬い上げた。

 暖炉の火に照らされた銀糸が、彼女の小さな手のひらの上で不思議な光を放つ。


「髪の毛、ふわふわ。白いの。雪みたい。あったかいね」


 ミアは自分の金髪の束を僕の銀髪に並べ、窓から差し込む冬の淡い光に透かしてみせた。

 金と銀の糸が交差する様子は、まるで陽だまりの中で揺れる絹糸のようだった。


「ミア、これ好き。ずっと触るの」


 ミアが僕の髪に顔を埋めるようにして笑うと、リアが僕の小さな手をそっと握った。

 彼女の指はまだ小さく、けれど確かな体温が伝わってくる。


「……アレン、ぴかぴか。きれいな石みたい。きれい、きれい」


 リアの拙い、けれど一所懸命な言葉に、他の二人が元気よく「きれい!」と声を合わせた。室内には薪が爆ぜる音だけが規則正しく響き、三人の幼い少女たちの無垢な眼差しが一点に集まった。


「アレン、笑った! あったかーい!」


 リアが僕の口元を見て嬉しそうに声を上げると、三人は一瞬だけ顔を見合わせた。そして、何かに納得したようにミアがにへらと笑った。


「アレン、しょーらいミアのだんなさま!ミアのなの!」


 ミアが僕の腕をぎゅっと抱きしめると、フィナが即座に割り込んできた。

 彼女の赤い髪が勢いよく揺れる。


「だめ!フィナの!フィナがお姉ちゃんだもん!アレン、フィナね!?」


 フィナが僕の顔を両手で挟んで固定すると、今度はリアが僕の手を握る力を強めた。彼女の小さな肩が、負けじと震える。


「……リアも。アレン、一緒。リア、アレンにお勉強する」


 リアの小さな、けれど譲らないという意志に、三人は一瞬だけ固まり、それからまた楽しそうに「きゃあきゃあ」と笑い転げた。

少女たちの無邪気な声が、凍りついた窓ガラスを微かに震わせ、部屋の空気を春のように塗り替えていく。


 三方向から飛んでくる猛烈な愛情の礫に、僕は困ったような笑みを浮かべるしかなかった。

 けれど、その純粋な羨望と慈しみは、僕の魂にじわりと温かな栄養を注いでくれる。

 

 前世の僕にとって、名前を呼ばれることは、薬の投与や検査の合図、あるいは医師が死期を告げるための形式的な呼びかけでしかなかった。


 けれど今は違う。僕の名前は、彼女たちの笑顔とセットで世界に響いているのだ。


 やがて、少し遅れてやってきたナタさんが、マリアと連れ立って居間へと入ってきた。二人もまた、娘たちの騒ぎっぷりを見て顔を見合わせ、楽しげに笑い声を上げている。


「本当に、フィナたちはアレンが大好きね。これじゃあ、アレンが将来、綺麗な女の子に追いかけ回されて困る姿が目に浮かぶわ。ナタ、あなたのところの双子も、今日は朝からアレンのところに行くって聞かなかったでしょう?」


 ナタさんが肩を揺らす。


 マリアは彼女たちを歓迎するように、暖炉の上の鍋から立ち上る湯気を手で払い、香ばしいスープの香りを部屋中に広げた。


「そうなのよ。ミアもリアも、自分たちの服を選ぶより先に、アレンにあげるためのお菓子があるか聞いてくるんだから。本当に、弟ができたみたいで嬉しいんでしょうね」


「ふふ、いいのよ。アレンも、こうしてお姉ちゃんたちに囲まれて幸せそうだし。一人っ子だから、賑やかなのは大歓迎だわ」


 マリアは暖炉に吊るした鍋をかき混ぜながら、穏やかに答えた。


 二人はテーブルに腰を下ろし、冬越しの保存食の具合や、最近の編み物の新しい図案について、和やかに言葉を交わし始める。

 その光景は、何気ない村の日常そのものだったが、前世で孤独な天井を見続けていた僕にとっては、どんな名画よりも価値のある至宝に見えた。


 僕は彼女たちの会話を心地よい子守唄のように聞き流しながら、自らの足で、この室内という名の「小宇宙」の探索を再開した。


 歩行を覚えてからというもの、僕の世界は加速度的に解像度を上げている。

 僕は暖炉のそばに積み上げられた薪の山に近づき、そのゴツゴツとした樹皮の感触を指先で確かめる。微かに漂う、乾燥した松のヤニの匂い。

 

 次に、マリアが編んでいる途中のウールの毛糸玉に手を伸ばした。

 柔らかく、少しだけ油分を含んだ羊の毛の匂い。鼻を近づけて深く吸い込むと、大地の鼓動と、それを育んだ生命の逞しさが伝わってくるような気がした。

 椅子、机、壁を構成する粗削りの石材、床の使い込まれた木目。僕はそれら一つひとつに触れ、匂いを嗅ぎ、その質感を脳内の白地図に克明に書き込んでいく。


 かつての僕は、無機質なシーツの感触と、鼻を突く消毒液の匂いしか知らなかった。


 指先が触れるものはすべて冷たく、清潔で、けれど「生」の匂いがしなかった。けれど今は違う。

 一歩歩くごとに、一回触れるごとに、世界は僕に新しい「驚き」と「手触り」を提示してくれる。

 不自由な一生を経てようやく手に入れた、自分の肉体という道具を使って世界の正体を暴いていくこの作業は、何物にも代えがたい「自由」の象徴だった。


 陽が傾き、窓の外の雪原が淡い紫に染まり始める頃。


 フィナたち家族が満足げな顔で去り、家の中には再び静かな時間が戻ってきた。外では雪がさらに勢いを増し、風が窓枠をガタガタと叩く音が低く響いている。けれど、その冷たさは、家の中の温かさを際立たせるためのスパイスでしかなかった。


 暖炉の前。マリアが大きな揺り椅子に深く腰掛け、僕をその豊かな胸の中に包み込んでいた。


 彼女の衣服からは、夕食の根菜スープの優しい香りと、一日中僕を慈しんでくれた温かな肌の匂いがした。背中から伝わる心音。規則正しく、力強いそのリズムに身を委ねていると、外の吹雪さえも、僕たちを祝福するために用意された舞台装置のように思えてくる。


「アレン、今日もたくさん遊んだわね。お外はとっても寒いけれど、お家の中はこんなに温かいわ。あなたは、ずっとここにいていいのよ」


 マリアが僕の額にそっと口づけを落とし、僕を抱く腕にさらなる力を込めた。少し離れた場所では、仕事を終えたダリウスが、その大きな身体を丸めて暖炉を見つめている。

 彼の砂褐色の髪は火の色に照らされて赤く輝き、ヘーゼル色の瞳には揺れる炎が万華鏡のように反射していた。彼は時折、僕とマリアの方へ視線を向け、何も言わずに満足げに目を細めている。


 不器用だが真っ直ぐな愛を注ぐ父と、慈愛の塊のような母。

 そして、その中心にいる、かつての死を乗り越えた僕。ただそれだけの、ありふれた光景。


 けれど、この「何でもない日常感」こそが、かつての僕が、どれほどの富を積み、どれほど神に祈っても手に入れることができなかった、この世で最も贅沢な宝物だった。


 機械の規則的な駆動音に守られるのではなく、誰かの不規則で温かな心音に守られて眠りにつく。消毒された空気ではなく、薪が燃える匂いと、誰かが自分を愛おしむ吐息の中で呼吸する。


(……ああ。これが、僕が死の際でずっと焦がれていた『生』の形なんだ)


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような充足感に満たされる。前世の中で一度も触れることのなかった、本当の意味での「日常」。


 それは、贅沢な食事や派手な冒険、あるいは魔法のような非日常にあるのではなく、この暖炉の火が爆ぜる音や、家族が交わす何気ない視線の中にこそ宿るのだ。

 僕は今、この幼い肉体を通じて、ようやくその真理に触れることができた。


 雪が世界を白く沈黙させ、すべての生命を眠りにつかせようとしても、僕の心の中には決して消えることのない熱い灯火が灯っていた。


 明日になれば、また新しい発見が僕を待っている。フィナたちがまた元気よく扉を叩き、僕の名前を呼んで笑い合ってくれるだろう。ダリウスが雪を払って冷たい空気を連れて家に入り、マリアがそれを温かなスープで迎えるだろう。


 僕は重くなった瞼を閉じ、マリアの心音のリズムに合わせて、ゆっくりと深い、深い眠りの淵へと堕ちていった。


 窓の外の吹雪は、僕たちの小さな幸せをより一層際立たせるための、優しい冬の調べのように聞こえていた。アレンとしての11ヶ月目の冬は、氷の花が咲く窓辺で、命の熱量をかつてないほど鮮やかに描き出していた。

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