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第十二話:刻まれる年輪、最初の終着点


 その日は、世界が祝福の歌を奏でているような、清々しい朝で始まった。


 窓から差し込む光は昨日よりも一段と輝きを増し、枕元を優しく撫でる風には、生命が芽吹く力強い匂いが混ざっている。

 僕が「アレン」としてこの地で産声を上げてから、ちょうど一年の月日が流れたのだ。


「おはよう、アレン。……お誕生日おめでとう。今日で、一歳ね」


 目が覚めると同時に、マリアの温かな声が僕を包み込んだ。


 彼女は僕を抱き上げると、愛おしそうにその額に口づけを落とした。彼女の瞳には、慈愛と、この一年を無事に越せたことへの深い安堵が滲んでいる。


 ダリウスは既に農作業の準備で早出ししていたが、食卓には僕のために用意された、いつもより少しだけ贅沢なミルク粥が置かれていた。


 朝食を済ませると、マリアは僕を連れて外へと出た。


 向かったのは、以前も訪れた村の端に立つ、天を突くような巨大な古木——「長命の大樹」と呼ばれる大木の傍だった。

 春の陽光を浴びた大樹は、無数の若葉を輝かせ、まるで何世紀もの記憶を抱えながら、僕という新しい命を歓迎してくれているようだった。


 マリアは大木の根元にある柔らかな芝生に僕を座らせると、自らも隣に腰を下ろし、静かに語り始めた。 

 それは、この村に古くから伝わる「成り立ち」の物語だった。


「アレン、知っているかしら。この村が、どうしてここで始まったのか」


 彼女の指先が、大樹のゴツゴツとした、けれど温かな樹皮をなぞる。


「遥か昔……まだ世界が勇者様と魔王の恐ろしい戦争に震えていた頃のお話よ。この地は今でこそ穏やかだけれど、当時は戦火を逃れた人々が彷徨う、深い深い森だったの。勇者様はね、戦いの中で深い傷を負い、死の淵に立たされていたわ。けれど、この森の奥深く——今はもう消えてしまったけれど、女神様が棲んでいるという小さな、透き通った湖があったのよ」


 マリアの声は、風の音に溶け込むように穏やかだった。

 僕は彼女の語る言葉の端々から、前世で読んだファンタジー小説のような、けれど決定的なリアリティを伴う歴史の重みを感じ取っていた。


「勇者様はその湖で傷を癒し、女神様の祝福を受けて再び立ち上がったの。それが、勝利への大きな一助になったと言われているわ。そして、その時に勇者様に連れられていた避難民たちが、この恵み豊かな地に感謝し、腰を落ち着けて興したのが、私たちのこの村なのよ。この大木もね、勇者様が訪れた頃から、ずっとここでみんなを見守っているんですって」


 大樹を見上げる。


 この木が見つめてきた幾星霜。戦争の記憶、平和への祈り、そして連綿と続く命の営み。その末端に、今、僕がこうして座っている。


 勇者と魔王。女神の湖。


 かつての僕にとっては単なるお伽話に過ぎなかった概念が、今、この土の匂いや木の温もりを通じて、僕の血肉に溶け込んでいく。


 僕が今、こうして安全に一歳を迎えられたのは、遥か昔にこの地で誰かが命を繋ごうと足掻いた結果なのだ。


 マリアはその後も、村の古い習慣や、僕が生まれた日の空の色について、穏やかに話し続けた。日が傾き、西の空が燃えるような朱色に染まり始めるまで、僕たちは二人だけの静かな時間を共有した。


 家路につくと、我が家は既にいつになく賑やかな活気に包まれていた。


 扉を開けた瞬間、暖炉の熱気と共に、複数の家族の笑い声が飛び込んでくる。


「アレン、おめでとう!待ってたよ!」


 真っ先に駆け寄ってきたのは、もちろんフィナだった。


 彼女は今日のために特別に編み込まれた赤い髪を揺らし、僕の目の前でぴょんぴょんと跳ねる。

 背後には、ウィリアムさんとナタさん。


 そして黄金の髪を輝かせるグレシアさんと、漆黒の瞳を持つバルカさん、その足元にはミアとリアの双子もいた。


「さあ、主役の登場だ!今夜は朝まで飲むぞ、ダリウス!」


 バルカさんの低い声が響き、ダリウスが「ああ、もちろんだ!」と豪快に笑いながら木製のジョッキを掲げる。

 室内には、この日のために用意された肉の焼ける香ばしい匂いと、新鮮な野菜のスープ、そしてグレシアさんが持参した甘い果実の香りが充満していた。


 宴はすぐに始まった。

 狭い家の中は、大人たちの談笑と子供たちの歓声で溢れかえっている。


「アレン、ほら、あーんして!今日はおいしいのがいっぱいだよ!」


 ミアが僕の口元に、柔らかく煮込まれた野菜を運んでくる。


「アレンは、お肉のほうが、すき。ね、アレン?」


 リアが静かに、けれど独占欲を滲ませて、僕の隣をキープする。


「こらこら、二人とも。アレンが困っているじゃない。まずは私がお祝いを渡すんだから!」


 フィナが二人の間に割って入り、背中に隠していた小さな包みを取り出した。


 室内がわずかに静かになり、視線がフィナと僕に集まる。


 フィナは少し緊張したように、けれど誇らしげな笑みを浮かべて、その包みを僕の小さな手に握らせた。


「これね、お父さんと一緒に選んだんだよ。アレンは銀色の髪だから、きっと似合うと思って」


 包みを開けると、中から出てきたのは、丁寧に磨かれた青い魔石のペンダントだった。


 高価な魔道具ではないかもしれない。けれど、その石の色は、先ほど水鏡で見た僕の瞳の色と同じ、深いコバルトブルーをしていた。


 それを手にした瞬間、僕の中で何かが決壊した。


 前世の、あの二十五年間。


 誕生日は常に、機械的な「おめでとう」という医師の言葉と、申し訳なさそうに微笑む両親の、沈痛な表情と共にあった。

 そこには未来への希望はなく、ただ「また一年、死を先延ばしにした」という虚しい安堵しかなかった。


 誰かに自分のことを想われ、選ばれ、心から祝福される。

 ただそこに存在しているだけで、こんなにも多くの人々が、こんなにも温かな顔で自分を見てくれる。


「…………っ、ぅ……あ……ん、うぁあぁぁぁん!」


 抑えようとしても、声が溢れた。


 精神年齢は二十五歳。けれど、今この肉体が、魂が受けている情報の洪水は、大人の理性で制御できるものではなかった。

 僕はペンダントを握りしめたまま、その場に泣き崩れた。


 これまでの一年。そして前世の十五年の沈黙。

 すべての虚無が、この温かな涙と共に洗い流されていくようだった。


「ひゃっ!? ア、アレン!? なんで泣くの!? 嫌だった!? 痛かった!?」


 フィナがパニックになり、手をバタつかせながら僕の周りをオロオロと回り始める。


「アレン、ごめんね! 泣かないで! 私が悪かったから!」


 必死に僕をなだめようとするフィナの姿に、周囲の大人たちは一瞬驚いた顔をしたが、やがて優しく目を細めた。


「ふふ、フィナ、違うわよ。アレンはね、とっても嬉しいのよ」


 マリアが僕を抱き上げ、背中を優しく叩く。


「……そうか、アレン。嬉しいか。お前は本当に、感受性の豊かな子だな」


 ダリウスも少し鼻声を混じらせながら、僕の小さな頭を大きな手で包み込んだ。


 アレンの涙の理由。それが単なる赤ん坊の気まぐれではなく、深い感謝から来るものだと、言葉はなくても伝わっていた。


 ウィリアムさんやバルカさんも、どこか神妙な、それでいて晴れやかな表情で頷き合っている。

 泣きじゃくる僕を、フィナはまだ心配そうに見守りつつも、「よかった……」と胸を撫でおろしていた。




 祭りの後の静寂が、家の中を満たしていた。


 泣き疲れて、誰よりも先に深い眠りに堕ちた僕だったが、深夜、ふとした拍子に意識が浮上した。

 

 暖炉の火は既に消え、僅かな熾火が赤く脈打っている。

 隣ではダリウスとマリアが、一日の疲れを癒すように穏やかな寝息を立てている。

 僕は暗闇の中、胸元で冷たく、けれど確かに存在感を主張する青いペンダントに触れた。


(……なぜ、僕はここにいるんだろう)


 静寂の中で、問いが湧き上がる。


 なぜ、木村陽平としての記憶を持ったまま、この異世界の赤ん坊として生まれ変わったのか。


 転生の謎。記憶保持の理由。

 それは前世で読んだフィクションの中ではお決まりの設定だったが、いざ当事者となってみれば、そこには神の意志なのか、確率の悪戯なのか、あるいは何かの代償なのか、全くの手がかりがない。


 もし僕に「使命」があるのだとすれば、それは何なのか。

 勇者と魔王の伝説があるこの世界で、僕もまた何かの戦いに身を投じる運命にあるのか。


 それとも、あの白銀の髪と青い瞳には、まだ見ぬ魔力や秘密が隠されているのか。


 数時間、僕は天井の闇を見つめながら、答えのない思索の海を漂った。


 自分の存在意義。この世界の真理。

 考えれば考えるほど、宇宙の広大さと自分の矮小さに、吐き気のような目眩を覚える。


 けれど。

 ふと、隣で眠るマリアの寝返りの音と、ダリウスの微かな鼾が耳に届いた。

 

 ——その瞬間、重苦しい思考は霧散した。

 

(……考えても、仕方ないな)


 理由なんて、あってもなくてもいい。

 女神様が気まぐれで僕をここに放り込んだのだとしても、あるいは前世の僕の渇望が奇跡を起こしたのだとしても、今、僕の心臓が打っているこの鼓動以上に確かな真実などない。


 僕は「木村陽平」としての二十五年を糧に、「アレン」としての人生を歩む。


 あの大樹のように、誰かの歴史を、誰かの想いを受け継ぎながら、ただ懸命に、一日一日を丁寧に生きていく。それだけで、十分すぎるほどの理由になるはずだ。


(……明日も、いい日になるといいな)


 僕はペンダントを握りしめ、再び目を閉じた。


 次に目が覚める時、僕は本当の意味での「二歳」への第一歩を踏み出す。

 夜の帳に包まれた小さな村の片隅で、新米の一歳児は、満ち足りた静寂と共に深い眠りへと誘われていった。

ついに新しい自分を受け入れたね、よかった

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