饒舌・夏 第5話
蝉の声が響いている。外はひどい日差しだった。真夏である。少し歩いただけで下着に汗がしみ込んでしまう。そして今、この空き教室は外の気温から隔離されていっそ涼しいくらいで、さっきかいた汗が今は不快な冷たさを伝えている。ぶるっ、と一瞬体が震えた。
「おや、風邪かい、トワ君。この教室、そんなに寒いか。それとも嫌な予感でもしたのかな?」
机の上に行儀悪く足を立てて座った新荷が声をかけてきた。
「汗がひいたんでちょっと冷えただけだ。気にするな」
「ふむん、わざわざ走ってここまで来たとは感心だね。なにに急いてそう走ったかは私の知るところではないけれど。若さとは走り去るものであり、つまり若者は走るものであると言ったところかな。まあ、落ち付いて水でも一杯、と言えないのが教育施設の設備の無さよ。代わりに私の饒舌を、いつも通りにあげようじゃないか。湯水のごとく湧き出る言葉をもってその渇きを慰めてあげよう」
言って両手を広げて見せる新荷。俺はため息をつく。手近な机に腰掛け、
「気持ちだけで十分だ、新荷。あんまり言葉が多くちゃ水どころか、機関銃だろ」
尊大な態度を見せる新荷にそう返した。
「くっくっく。湯水のごとく奔流となってその勢いはマシンガンのごとし、といったところかな。とはいえトワ君、この饒舌が繰り出す言葉は本物の弾丸とは違う。砂糖菓子の弾丸だ。何の力もない、にせものの弾丸だ。だから世界に影響を与えることもない。当然、トワ君を傷つけることもないのさ。安心して聞いているがいいよ。我が愛しの聞き手トワソン君」
立てた足の膝上に手を置いてその上に顎を載せるというますます行儀の悪い姿勢で、にやにやと、新荷は言う。俺は聞きなれない単語に思わず首を傾げた。
「とわそん?」
「なんだい君、シャーロックホームズも読まないのか。本当、呆れた無知っぷりだね。今までどうして生きてきたというのか不思議なほどだぞ。さすがに、世界一の名探偵シャーロックホームズその人のことは知っているだろう。その助手さ。正しくはワトソンだが」
いや名前変えちゃ分からんに決まってるだろ。
「不満そうだな。だが、初歩的な知識だよ、トワソン君? くっくっく。いいかい。世に名だたるあらゆる探偵の祖は、シャーロックホームズと決まっているのだ。本来の祖はモルグ街の殺人という向きもあるようだが、大勢では鹿撃ち帽にパイプのシルエットの方が探偵然としたイメージで、ロンドンにはそのシルエットがモチーフになった地下鉄の駅もあるくらいの有名さだ。テストに出るよ、覚えておきたまえ」
「どこのどういう教科のテストに出るって言うんだ」
「決まっている、次に会った時に私が聞くのさ。抜き打ちでね」
抜き打ちを予告しちゃ抜き打てないだろ。
「せっかくだから出題範囲も提示してあげようか? この間のテストでは芳しい成績が出せなかったようだけど、私のテストは優しい問題にしてあげるよ。きっと高得点だ、おめでとう」
にやにやと意地悪く笑う新荷に俺は思わず、「俺の点数なんか見てるのかよ」と思いきり突っ込んだ。一級個人情報だろそれ。
「くくく、なんだ図星か。トワ君の事だからそうだろうとは思っていたけど、本当だったとはね。ほんと、君、嘘がつけない性格なんだな」
カマをかけられていた。やられた。なんとか抵抗を試みる。
「……別に図星だなんて言ってないだろ、決めつけるなよ」
「目が泳いでいるぜ。語るに落ちたとはこのことだ。目は口ほどに物を言う、の実証をしていただいた様だね。まさにザマないな。くっくっく……」
心底愉快そうに肩を震わせる新荷。おれは反論できないで黙りこんでしまった。そんな俺を前に、新荷は愉快そうな表情のまま、姿勢を変えた。机の上に片膝を立てていた脚を下ろし、両足をぶらぶらさせながら、饒舌に言葉を紡ぎ始めた。
「実際、人間の思考は視線に現れるという説もある。思い出すときは左上、想像するときは右上を見る、とかいうのは一時テレビで流行った説だ。つまり嘘をつくのは想像だから、右上を見ているっていうあれさ。当然反論もあるが、なかなかどうして面白い説だと思わないかい。例えるなら血液型占いだね。ある地域では多くの人がそれを信じているがゆえに一般的常識だと思われているが、科学的には否定されている。ただ、この否定というのも、これがどうして意外に難しい。なにしろ科学的にというのは「同条件下における再現可能」が最低条件だ。性格という不確定なものに「再現可能」もないもんだよ。科学的に言えば一つでも反証があればその説は否定されるが、「多くの場合は」という但し書きがついた途端にその科学的否定手法は意味をなさなくなる。ま、難しく言ったが要するに、人がどういう性格かなんてのは科学的に証明なんかできないことで、だから性格診断を科学的かどうかを問うのはそもそもナンセンスだ、ってことだ。それとおなじで、右上左上の視線説もまた、「多くの場合は」という但し書きをつけた途端に意味をなさなくなるというわけさ。案外こういったえせ科学的知識というのは日常溢れかえっていて、しかも普通はそれを意識しない。正しい知識は重要だが、必ずしもすべての知識が正しい必要はない。なぜならば、それだけ脳の処理能力には限りがあるからだ。民族ジョークっていうものを知っているかい。日本人は勤勉である。ドイツ人は規律を守る。アメリカ人は大食いだ。といった国民性のレッテル的偏見、と言い変えた方が分かるかな。あれなんかもそうだ。「Aは多くの場合Bであるが例外もある」と覚えるより「AはBだ」と覚えた方が脳としては処理が楽で済む。それによって何らかの損害が生じない限り、その偏見は偏見という意識さえもたれない。必要を感じない限り、脳はさぼるのさ。そう、君のようにね」
「なぜ最後さりげなく俺をけなした」
「くっくっく、続きはちゃんと聞きなよ。『そして、私のように』と続くのさ。決して君だけをけなしたわけではない。被害妄想だよ」
「そいつはすまなかったな。普段の新荷の言動のおかげで、俺をけなすという偏見を持ったようだ」
たっぷりの皮肉を込めた返したが、新荷は全くこたえた様子もなく、平然と、
「これから気をつけてくれたらいいさ」
と余裕の表情である。
「さてさて、閑話休題、終幕開始。そろそろ時間のようだよ、トワ君」
「もうそんな時間か」
この教室にあるはずの時計はしかし見渡しても無い。時間がわからず、なんとなくきょろきょろとしてしまう。
「もうそんな時間だよ。光陰矢のごとし、手を熱したストーブの上に置いた時と逆さ。さ、トワ君、そろそろ走らないと電車の時間が迫っているぜ。じゃあね。次回は予告通りに抜き打ってやるから家に帰ったら忘れずに今回の範囲覚えておきなよ」
教師の様な事を言ってにやにやと俺に手を振る新荷。俺はそれに「応」と適当に返事をして教室を出た。』
夏の盛りに書き始め、もう秋になりましたが、作中は当然ですが夏のままです。




