饒舌・夏 第6話
暑い。とにかく暑い。廊下を歩く一歩一歩が重く粘るようだ。窓からの日差しがジリジリと頬を灼いてくる。それでも俺は歩いている。なぜだろう、という疑問はもう何度目になるかわからない。今は昼休み。いつものように昼はさっさと食べ終えて、そしていつものように教室を出た。そこまではいい。だがなぜ俺はこの暑い中、こんな思いをしながら、廊下を歩いているのだろうか。目的地は……ああ、だめだ、思考がまとまらない。
3階、空き教室の多いこの廊下では昼休みにわざわざここまで遊びに来るやつはおらず、ほかの階に比べて閑散としている。喧騒は遠い。日差しの中、喧騒を遠く聴きながら、汗をたらしながら歩く。そして2つ目の空き教室の前に来たとき、俺は見慣れたそのドアを開けた。
「やあ、トワ君。待っていたよ。私を待たせるとは、敬意がなっていないんじゃないかね? くっくっく」
教卓の上、いつもよりも高い位置に新荷冬芽はいた。いつもどおりのニヤニヤ笑いで、目線の通りの尊大なセリフだ。
「敬意? 呆れの間違いじゃないか。別に待っててくれなんて言ったことはないぞ」
クーラーでも入っているように、廊下とは全く違う涼しい室温に俺はほっと息をつきながら、軽口を叩く。一気に汗が引いていき、いっそ寒いくらいだった。
「くくく、ならば言わせてもらうが、私だって来てくれといったことはない。だがまあ、来たいという客を冷たく追い返すほど、私も冷徹ではないよ。茶はないが、だから、茶漬けも出さない。ま、ゆっくりしていくがいいさ」
新荷は、ぱたぱたと脚を交互に揺らしながら、気楽に肩をすくめた。
「ゆっくりったって、昼休みだけだけどな」
「謙遜することはない。学生にとっての昼休みは、貴重だぜ。5回ある休憩時間の中で最も長い、大事な時間だ。だから、それを消費するってのは一番の贅沢だよ。ある意味最も贅沢な時間の使い方だね、ふふふ」
新荷は言いながら、何が面白いのか、愉快げに肩を震わせる。
「そもそも贅沢というものは一体何なのか、一言で言えば『無駄なこと』だ。必要な事や物を『贅沢品』とは言わないだろう? 必要を超えたもの、不要なものを贅沢品とか嗜好品とかいうのさ。だが、かといってでは贅沢品は不要品と言い換えられるわけではない。考えてみればおかしなもので、贅沢品と不要品はやはり違うと感じる。贅沢品なら所有することが誉れとなるが、不要品はあまり所有していては自慢にならないだろう。そこのあたりの線引きは、個人によっても文化によっても大きく異なってくる。だから、誰かにとっての不要品が誰かにとっての贅沢品になることも当然ある」
「まあ、リサイクルショップが経営として成り立つんだから、そういうものなんじゃないのか」
「まさにそれだね、その論理をビジネスに取り入れたのがリサイクルビジネスだ。江戸時代は究極のエコ社会だとかなんとかいう本が出たりTVで言ったりしているのも、その時代の文化の違いがそう感じさせているだけかもしれない。江戸にとっては不用品が、私たちの時代にとっては贅沢品になったというわけだ。物質に限らない、昔なら当然だったことが今では貴重な習慣だったり、思想だったりすることも多い。全ては変わる。価値も、物も、生活も、何もかも。むしろ変わることこそが成長で、停滞は衰退だ、とも言えるね。成長することをやめた組織はその瞬間から崩壊するって言葉もある。昔は良かったなんてのは戯言に過ぎない、かといって今がいいというわけでもない。つまり変化それ自体はいいも悪いもないってことだね。それを人間が勝手に、進化だの退化だの言って変に意味をつけようとしているに過ぎないのさ。大事なのは古いからとむやみに貶したり、ましてや古さを理由に美化してはならないということだ。古典が時に馬鹿にされ、もしくは逆に神格化されるというのも、ある種このあたりの錯誤のせいだといえるね」
「さくご、ねえ」
俺は新荷の言葉に、しばし考え込む。
「といっても、結局、良いか悪いか、どっちかの判断はするしかないんじゃないか?」
「そうだね。だがたとえ結論がそうなったとしても、その判断経路で『空気に流される』とか『その逆を考慮に入れない』って状態を避ければいいのさ。短絡や視野狭窄は害悪でしかないからね」
「ふうん、そんなもんか」
「ふふ。そんなもんなのさ。単純なことだ」
「単純かね。戦争なんかはそれができなかったから起きるんじゃないのか」
「単純だから簡単というわけではないよ。理屈は簡単でも、実行はむつかしい、そういう事例はいくつでもある。たとえば、君は受験生だが、志望校に合格したければ勉強するしかない。実に単純だ。だけど、どうだい?」
くっくっく、と含み笑いでそう問われ、俺はふうむ、と重々しく頷いた。
「なるほど、簡単ではないな。俺の勉強への意欲はむしろ減っていると言っても過言ではない」
重々しく宣言する。
「くっくっく。どうだ、よくわかったろう」
「相変わらず、言いくるめられた気はしないでもないが、まあ、わかったよ。嫌というほどな」
「あは。素直でよろしい。あめちゃんやろうか?」
「遠慮するよ……」
ニヤニヤと笑っているこいつの、俺へのからかいに対する執着心はいっそ褒めてやりたくなる。
「ま、遠慮するない。こういう、食品の受け渡しや鍋を囲むといった行為は、仲間意識や親密性を上げる効果がある。相手へ敵意がないことを表したり、仲間とより強固な絆を育んだり、そして、相手に親愛感情をもたらしたい時なんかにね。……残念ながら、今はないようだ」
「いいよ、必要ない」
「ふふ、それもそうか。しかも、もし飴玉なんて持ってたら校則違反だ。受験生のトワ君が、よりによってこんな時期に無駄に内申を落とすようなことを誘発することもないか」
ポケットを探っていた手を止め、代わりに顔の前でひらひらと振る。
「そして余計なことを付け加えるけれども、そろそろ時間になった来たみたいだね」
「うん? ああ、もうそんな時間か」
「楽しい時間はすぐ過ぎるようだ。まあ、続きというわけでもないけれど、また明日おいで」
「……気が向いたらな」
「くっく、そうだね、気が向いてくれる事を祈るよ」
手を振る新荷に、適当に手を振り返し、俺は教室を後にした。
あと、2話……




